可愛い人
次の日の朝、目覚めてもわたしは五体満足だった。ただ宿儺さまの湯たんぽとしては役に立てたようで、「オマエのおかげで熟睡できたわ」と言ってもらえた。
でも、何となく顔が引きつってたのは気のせい…?
とりあえず宿儺さまが「腹が減った」と仰られてたので、「わたしを召しあがりますか?」とつかさず聞いておく。案の定、呆れた顔をされたので、仕方ないと諦め、すぐに裏梅さまの元へ走った。
ただ一つ不思議だったのは、わたしが夜半過ぎに抜け出したことを気づいたはずの裏梅さまが、宿儺さまの元へ来なかったことだ。
わたしに与えられた部屋は裏梅さまの部屋であり、それは四六時中わたしを見張る為らしい。逃げる気などさらさらないというのに。
だから隣で寝てたわたしがいないことくらい、裏梅さまはすぐに気づいたはずなのに、今朝も探しに来ないところをみると――。
「遅い!オマエは今の今までぬくぬくと宿儺さまの部屋で寝てたようだな」
「……はあ…すみません(ものすごーく怒ってらっしゃるみたい)」
やはりしっかりとバレていたようだ。ただ裏梅さまは口元を引きつらせながらも、すでに朝餉の用意をしていたらしい。まずは宿儺さまの朝餉が先だと、お膳の上に作りたての料理を並べていた。
どれもこれも裏梅さまが捕えてきた獣だったり、裏の畑でとれた野菜だったりする。
ここへ来て驚いたのは、宿儺さまが普通の食事もされる、ということだった。姉さまや兄さまに聞いていた話と随分違う。
――両面宿儺は人を喰らう化け物だ。
そんな話を常々聞かされ、生贄としてわたしが選ばれた時も、「しっかり宿儺さまの栄養となって彼の飢えを抑えろよ」とまで言われてたのに、痩せすぎだと言われて手も付けられなかった。何でも宿儺さまの中で人間は「珍味」に分類されるようで、しょっちゅう食べるものでもないらしい。
あれから一年。わたしは自分の役目を終えることも出来ず、未だにのうのうと生きて無駄飯を食らう厄介者みたいになっている。
「では私は宿儺さまに朝餉をお出ししてくる。は罰としてそこを片付けておけ」
「はい。あの…そのあとは…」
「私が戻ったら尻叩きの刑だ。覚悟しておけ」
「……はーい」
やっぱりか、と若干項垂れる。裏梅さまのそれは物凄く痛いのだ。お尻が猿ほど真っ赤になってしまうくらい。
いっそアッサリ殺してくれたらいいのに、と思うのだけど、裏梅さまは「オマエは宿儺さまのもの。勝手に殺すことは出来ない」と言われてしまった。
たとえ食料でも宿儺さまの許可なしには勝手に処分できないらしい。
「…ハア。いつになったら使命を全うできるのかしら」
少々ボヤきながら台所の片付けをしていると、裏梅さまが戻ってきた。やはり綺麗なお顔はむすっとしたまま機嫌はよろしくないらしい。
「、こちらへ」
「…はーい…」
「語尾を伸ばすな。きちんと返事をしろ」
「…はい」
「口も尖らせるな。オマエは幼子か」
口元をぴくりと引きつらせた裏梅さまは、わたしの手を掴んで台所の框の部分に両手を尽かせた。仕方なく尻を突き出せば、そこへ裏梅さまの手のひらがベシベシと振り下ろされる。そのたび、わたしの「ひぁ」とか「ひゃぅ」などと情けない声が響くのだから、目も当てられない。
大人になってまで尻叩きの刑に合うとは思ってもいなかった。しかも世の民が恐れている両面宿儺さまのお屋敷で。
「これに懲りたら、もう二度と勝手に部屋を抜け出すな。宿儺さまの寝所にも忍び込むな。次にやれば今の倍は尻を叩くからな」
「…えー…」
「だから口を尖らせるな!」
くわっと目を吊り上げた裏梅さまは、それでもしゅんとしたわたしを見て、手招きをした。そこには宿儺さまと同じお膳が用意されている。
「これはオマエの朝餉だ。しっかり食べて肉を蓄えろ」
「はい!ありがとう御座います」
「……そこだけ返事がいいのは何なんだ」
わたしが笑顔で返事をすると、裏梅さまは怪訝そうに眉根を寄せてブツブツ言っている。それはきっと、その一点だけ、わたしに何の迷いもないからだ。
「頂きます」
両手を合わせて言うと、向かいに座った裏梅さまも同じようにして朝餉をとる。これがいつもの朝の風景だ。
こうしていると、最近は自分が生贄という立場を忘れてしまいそうになる。まるで家族のような扱いを受けてる錯覚を起こしてしまうから。
そんな勘違いをするなんて図々しいにもほどがある。だからこそ、早く宿儺さまに食べて欲しくて、夕べは無茶な夜這いというものを決行してみたのだ。まあ、それも空振りに終わったのだけど。
しばし黙々と食事をしていると、徐々に叩かれたお尻がじくじく痛みだした。正座をしている為、どうしてもモジモジと腰が動いて落ち着かない。
「あのう…裏梅さま」
「…食事中に話しかけるな」
「す、すみません。でも…お尻が痛くて…お薬とかあります?」
「……っ食事中に尻の話をするなっ」
「…ごめんなさい」
しゅん、として再び食事を続けていると、先に食べ終えた裏梅さまがすっと立ち上がった。そしてどこかへ行ってしまわれたけど、すぐに何かを手に戻ってくる。
「これを塗っておけ」
「…え?」
「塗り薬だ。痛みが取れる」
裏梅さまはそう言いながら、わたしの手に小さな器を乗せてくれた。何とも可愛らしい陶器の器だ。思わず笑みが零れてお礼を言うと、裏梅さまの白い頬が薄っすら赤くなった。
「フン…それを塗ったら茶碗を洗っておけ。私は宿儺さまに着替えをお出しせねばいけないので――」
「はい!あ、裏梅さま!」
離れから出て行こうとする裏梅さまを慌てて呼び止めると、「何だ」と面倒そうに振り返る。わたしは薬を手に裏梅さまの方へ歩いて行くと、その薬を彼の方へ差し出した。それを見た裏梅さまの眉間に深い皺が刻まれていく。
「あのう…これを塗って頂けませんか。自分だと上手く塗れない気がして――」
と、言いながら着物の裾をめくってお尻を見せる。でも何の返答も貰えず、不思議に思って振り返ると――裏梅さまのお顔が真っ赤に染まっていた。
「オ、オ、オマエは恥じらいというものはないのか!私にそんなものを見せ…見せる…」
「う、裏梅さま…?だ、大丈夫ですか?」
怒り過ぎて眩暈がしたらしい。裏梅さまがふらりと足をよろめかせるのを見たわたしは、慌てて彼の腕を掴んで自分の方へ引っ張ると、一気に距離が近くなった。互いの顔が触れるほどに。途端に冷んやりとした空気がわたしを包んだのは、裏梅さまの特異な術式のせいだ。
彼が本気を出せば、わたしなど見事な氷の像にしてくれるだろうに、やはりそこは力を抑えてくれているらしい。少し身震いするだけで済んだ。
「な、な、何をする…!放せっ!凍りたいのか、貴様!」
「え、あ…すみません…倒れてはいけないと思ったので…」
「私がオマエの尻を見たくらいで倒れるはずがないだろう。自惚れるなっ」
「…はあ。(自惚れ、とは?)」
またしても顔を真っ赤にして怒鳴ると、裏梅さまはぷんすか怒りながら宿儺さまの元へ行ってしまった。いつもはあまり表情をお顔に出さないからか、今の裏梅さまは何か可愛い、と思ってしまったのは内緒の話だ。
こんなことを言えば、きっとまた尻叩きの刑に処されてしまう。これ以上お尻が腫れたら座ることも出来ない。
「あ…薬塗ってもらうの忘れた」
離れに置いて行かれたわたしは、裏梅さまに渡された薬を手に、ちょっとだけ途方に暮れてしまった。

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