嫉妬の情は理屈ではなく①
「…え、これ、は?」
宿儺さまの元へ来てから一年と二カ月ほどが過ぎた頃。宿儺さまから「部屋に来い」とお呼びがかかり、遂に食して頂けるのかとウキウキしながらお部屋へ向かった。でも部屋へ引き入れられ、座らされた途端、目の前にそれはそれは美しい織物数枚を差し出された。帯や羽織り、足袋、草履なども揃っている。それも高価なものなのは一目で分かった。きっとまた貴族の誰かから献上されたものに違いない。呪術師だけじゃなく、この都の金持ちたちも、普段から何かと宿儺さまへ品物を運んでくるからだ。
それはひとえに「我々を脅かさないで下さい」という遠回しのお願いに過ぎない。
「見て分からんのか。新しい着物だ」
「え、えっと…それは分かるんですけど…あ、着付けを手伝えということですか?」
屋敷にいる間、宿儺さまは時々女性物の着物をお召しになられることもある。男性用の着物の柄は地味なものが多く、女性物の方が圧倒的にガラが華やかで見栄えも良いからだ。
今回もてっきり新しい着物を調達したから着せろ、と仰ってるんだろうと思った。なのにわたしの言葉を受けて、宿儺さまはいつもの呆れ顔で溜息を吐いた。
「俺がこんな桜色の、しかも大きな花をあしらった着物を着ると思うのか、オマエは」
「…う…お、お似合いになる…かも?」
「ほう…疑問形で勧められても嬉しくもないのだがな」
「……う、申し訳ございません…失言でした」
皮肉たっぷりの笑みを浮かべるので、わたしも口元を引きつらせながら謝罪を口にすると、宿儺さまはその淡い色の着物を広げ、わたしの方へ放ってきた。
「え…あの?」
「うだうだ言ってないで着てみろ。それは、オマエの着物だ」
「…………えっ!!」
「驚きすぎだ」
たっぷり数秒後、脳内で今の言葉を理解した時、思わず素で驚いてしまった。わたしの着物っていうことは……わたしの着物ということだ。ん?だめだ。完全に混乱してるかもしれない。
「オマエは当初、俺に喰われにここへ来たと言ったな。そのせいで着替えすら持って来ていない。故に今着ているものしか持っていない」
「…はあ、まあ」
そう、そうなのだ。わたしは生贄として来たのだから、当然着替えなど持って来ていない。当たり前だ。すぐに食べて頂けると思っていたのだから。
なのに手を付けて頂けないせいで、わたしは手持ちの着物がここへ来た時に着ていた一着しかなかった。
ただ、その時は家の者がえらい気合を入れてわたしを着飾ったせいで、襦袢を抜かすと三枚も着こまされた。なので、今はそれを順に着まわしている状態だった。
別に都へ出かけるわけでもなく、いつ食べられるかも分からないので、おかしな格好でも特に気にしたことはない。寝る時は襦袢で事足りるので困るということがなかった。
なのに今、宿儺さまがわたしの為に美しい着物を用意して下さっている、と知って、少なからず驚かされている。餌にこんな高価な着物を着せてどうする気なのだろう、という疑問が脳内をぐるぐると回っていた。
「オマエが来た時は春先だったが、もう冬だ。そんな薄手の着物一枚じゃ風邪を引く」
「え…それで着物を用意して下さったんですか…?」
「前にも言っただろう。オマエの体に菌を入れるのは許さんと。いいから早く着てみせろ」
「は、はい…あ、あの…ありがとう御座います」
深々と頭を下げてお礼を言うと、宿儺さまは「礼などいらんわ」と笑ったようだった。それより早くしろ、とせっつかれ、わたしは顔を上げて「はい」と応えると、今着てる着物をしゅるしゅると脱いでいく。
その瞬間「ここで脱ぐな!」と怒鳴られてしまった。
「え、でも宿儺さま、早く着て見せろ、と…」
「ハァ?オマエは耳も悪いのか……俺は着てみろという意味で言ったのだがな」
「す、すみません…」
もう一度頭を下げると、かすかに風が動いた気がして顔を上げる。その時、ふわりと裸の肩に肌触りのいい着物をかけられた。気づけば宿儺さまがわたしの前にしゃがんでいる。
「だから体を冷やすなと言っている」
「は…はい…ありがとう御座います…」
ほんの一瞬、宿儺さまのわたしを見る眼差しが柔らかさを含んだものに見えて、心臓がきゅっと縮んだ気がした。こんな目で見られたことも、まして優しく体を労わられたことも生まれて初めてで、何とも言えない気恥ずかしさを感じてしまう。
わたしはただの生贄で、宿儺さまはただ自分の餌が病にかからないよう配慮しただけ。そんなことは分かっているのに、とくんとくんと鼓動が速くなるのは、まるで自分が一人の人間として扱われた気がしてしまったからだ。そんなはずはないのに。
「あ、有難く着させて頂きます…」
上座へ座られた宿儺さまに声をかけてから、肩にかけられた着物へ袖を通し、素早く身に着けて帯を締めていく。用意された足袋も履くと、冷えた足に体温が戻ってきた。そう言えば久しぶりに足袋を履いた気がする。
「…ど、どう、ですか?」
着物を着ている間、宿儺さまはそっぽを向いてらしたけど、わたしが声をかけると視線だけをこちらへ向けた。でも鼻で笑うとすぐにまた視線を外されてしまった。やっぱり、こんな高価な着物、餌のわたしに似合わないのでは…
そう思って何故か落ち込みそうになった時、「まあ…馬子にも衣裳だな」という宿儺さまの声が聞こえた。
「あ…ありがとう、御座います…」
その一言で意味も分からず顔が火照った。そんな言葉でも言われたのは初めてで、胸の奥まで熱くなるようだった。
やけに顔が熱いので俯いていると、不意にそばで宿儺さまの気配がした。その時、結っていた髪に何かを通され、ふと顔を上げれば、しゃりん、と美しい音がかすかに聞こえた。目の前には宿儺さまがいる。え、と思って髪に手をやれば、そこには簪が飾られていた。
「あ、あの…」
寒さをしのげと着物をくれたはずなのに、何故こんな美しい音色を奏でる簪まで?と驚いていると、宿儺さまは「それも献上されたものだが俺も裏梅もそんなもんはつけないのでな」と素っ気なく言われてしまった。
「ま、一応おなごのオマエになら似合うだろうと思ったまでのこと」
「…あ、ありがとう…御座います。わたし、こんなの付けたことなくて…嬉しいです」
「……フン。そんな物を付けて喜ぶとは、オマエも案外単純なのだな」
確かに今日まで自分を着飾ることは一切なく、実家でもしたことはない。だから綺麗な着物を着た自分が想像すら出来なかった。
まさか生贄として来た宿儺さまの元で着ることになるなんて思わない。じわじわ感動に浸っていると、宿儺さまは何を思ったのか、更に驚くようなことを口にされた。
「どうだ?せっかく着飾ったのだから、そのまま都へ出かけてみるというのは」
「……へ?」
都?宿儺さまは何を仰ってるんだろう、と本気で驚いてしまった。そもそもわたしは生贄であり、今も逃げないよう見張られてる立場なのでは。
「そうだ。オマエに使いを頼もう」
「え、あ、あの…宿儺さま…?」
どこか愉しげに言うと、宿儺さまは普段見せたこともない笑みを、その凛々しいお顔へ浮かべた。どうやら本気らしい。
「。オマエ、都の公寿庵へ出向き、俺の為に茶菓子を買って来い」
「…えっ!ほ、本気…ですか?」
「俺が嘘をつく理由などないだろう。いいから行け。これは命令だからな」
けひっと笑った宿儺さまは、どこまでも愉しげで。わたしはしばし言葉を失い、その場に立ち尽くしてしまった。

「す、宿儺さま…何故、を都へ行かせたのです?」
出かけて行くを見送りながら、私は宿儺さまの真意を測りかねていた。あの小娘は宿儺さまに献上された生贄のはず。外へ出しては逃げられる恐れがあるというのに、宿儺さまはどこか楽しそうだ。そもそも、あのような高価な着物をに着せた意味も分からない。
「裏梅はが逃げ出すと思うのか?」
「…え?」
「あいつは必ずここへ戻って来る。俺に食べられたい一心でな」
「はあ…そう言われてみれば確かに…にはそういうきらいがありますが…」
はどこまで行っても死にたがりなところがあるのは、私にも分かっている。そんな小娘の望みを簡単に叶えてやるのは癪だ、と宿儺さまが未だを生かしたままにしていることも。
肉付きが悪いというのは表向きの理由だというのは、私も薄々気づいている。
しかし着物を贈り、都へ使いに出すのはどういう意図があるのだろう。そんな疑問を抱えていると、宿儺さまは屋敷へ戻りながら、ふとこちらへ振り向いた。
「着飾って都へ行けば、の知らない景色が見えるかもしれない。刺激を受ければ少しは生きるという楽しみを知るかもしれん。楽しみを知れば…の考えも少しは変わるかと思ってな」
「はあ…宿儺さまは…を変えたいのですか?」
「………」
私の問いに宿儺さまはしばし沈黙したあと。
「あれほど死ぬ覚悟のあるおなごを傍に置いても興が沸かんのでな。ただの戯れだ」
「…確かに。あれは変わったおなごですね。尻叩きはあんなに嫌がるのに、宿儺さまに喰われることを本気で望んでいる…おかしな娘です」
「……だろう?そこが面白いのだ。は」
「………」
そう言って笑う宿儺さまの横顔は穏やかでいて、どこか愉しげだった。こんな表情をする宿儺さまを、私は初めて見た気がする。
「…それに」
「それに…?」
「を喰らえば、の術師を喜ばすだけ。それもまた癪なのでな」
「はあ。そう言われると…そう、ですね」
を虐げて来た家。そやつらの望み通りにするのは嫌なのだろう。今の宿儺さまを見ていると、ふとそう思ってしまった。
その時、門扉の方から人の気配が近づいて来るのを感じて足を止める。宿儺さまも当然その気配に気づき、その鋭い視線を後ろへと向けた。
「…またか」
呆れたように息を吐く宿儺さまを見上げながら、私は訪問者の正体に気づいた。
「今回は早いですね。先週、都の外れで術師を数人ほど屠ったからでしょうか」
「下らん。都の奴らは俺が人を喰らうだけの化け物としか思ってないのだろうな」
あんなもの、たまに食べるからこそ珍味なのだ、という宿儺さまの言葉に思わず笑ってしまった。確かに、その通りだ。
その時、新たな生贄を連れた誰かの声が、私と宿儺さまの耳に届いた。
さて、今度はどんな小娘が来たのやら――。
そう思いながら、私は静かに門扉の方へ歩いて行った。

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