嫉妬の情は理屈ではなく③
時は少し前に遡り――都。
「ハァ…凄い人…人、人ばかり…」
今いる山の麓では考えられないほどの人や、お店の数々に圧倒されながら、わたしは目当ての茶菓子を手に、帰路へつこうとしていた。
けれどの家に居た頃から殆ど外へ出してはもらえず、巫女としての作法だ何だと勉強を強いられてきたわたしにとって、この華やかな街並みはまるで夢か幻かと思うほどに心を躍らせてくれた。一歩外へ出ただけでこんな世界が広がっているなど、わたしの小さな想像力では思いもよらなかった。
都で生まれたくせに、完全にお上りさん思考で町並みを見てまわっていると、何とも馨しい香りが漂ってきた。
「うわぁ…美味しそうなお団子…」
ふわっと鼻腔をくすぐった甘く上品な香り。つい足を止めれば目の前に茶屋があり、店先では客達が美味しそうに団子を頬張っている。あまりに美味しそうでジっと見ていたら、案の定お腹がぐぅ、と鳴ってしまった。
「お腹空いた…正午もだいぶ過ぎてから出て来たし、もう夕方になるのね。夕餉の時間になっちゃう」
わたしのお腹は時を刻むことに長けているらしい。きっちり食事時に鳴るのだから、どれだけ食いしん坊なんだろうと自分で笑ってしまう。
いつも裏梅さまに「食いしん坊め」と揶揄されるけれど、仰る通り、わたしは食事になかなかの執着を持ってしまってるようだ。――わたし自身が餌のはずなのに。
の家で、巫女は一日一食と決められており、食事は朝餉のみ、という環境だった。それも質素な白飯に漬物、汁物のみのお膳。それ以降はどれだけ腹が鳴っても何も食べさせてもらえなかった。
巫女たるもの、心身共に清くならなければならず、食事は身体が穢れると言われたけど、どう穢れるのかはわたしも聞かされていない。
でも今は生贄の分際で、きっちり美味しいお食事を三食与えてもらっているのだから、おかしな話だと、ふと思う。
わたしを食べる前に太らせたいと言われてるけど、それを抜きにしてもの家に居た頃より、宿儺さまや裏梅さまに数倍も人らしく扱ってもらっている気がした。
今日のこともそうだ。こんなに高価な着物を下さり、何故か都へ使いに出されたのだから。
逃げる気はさらさらないけれど、逃げ出さない為に、と裏梅さまに見張られてたはずなのに、こうもあっさり屋敷の外へ出してもらえるなんて一体どういう心境の変化なんだろうか。
そんなことを考えていると、再びお腹が情けない音を立てた。
「…お団子一つ食べていくだけなら遅くならないかな」
宿儺さまから茶菓子のお代は頂いた。でもその金額が少々多い。余ったら好きに使えと言って下さったけれど、これまで自分の為にお金を使ったこともないから、何に使えばいいのか悩んでいたところだ。でも団子一つくらいなら買ってみたいと思う。
ふらふらと匂いに導かれるように茶屋の方へ勝手に足が動く。だけど、ふと近くにある織物屋に目が向いてしまった。店頭にある女性物の着物が視界に入ったせいだ。
袖口がゆったりとした作りで、それほど派手でもなく、上品な色合いのその着物は、宿儺さまにお似合いになりそうだと思ってしまった。
「これ宿儺さまに絶対似合うなぁ…」
織物屋を覗き、出来上がった状態で売りに出されている着物を眺めながら、ふと頭の中で想像してみる。あの凛々しい姿にこの着物を着ている姿は、思った以上に素敵だと思った。
「値段は少しお高いけど…お団子我慢すれば余ったお金で買えるかも…」
そもそも、こんな大金を自分の為に使うというのは、どうも図々しい気がした。ならば宿儺さまの贈り物に使えばいいのだ。好きに使え、と言われたのだから、買いたいものを買えばいい。
わたしは迷ったあげく、お団子を諦めて目に止まった着物を買うことにした。
「あら、可愛いお嬢さん。お目が高いわねえ。この着物は生地が上等で肌触りも最上なのよ。今朝入荷したばかりの掘り出し物なの」
お代を払う際、織物屋の女主人からそんな説明を受け、それなら尚更宿儺さまに喜ばれそうだと、わたしもつい顔が綻ぶ。
とにかく丁寧に着物を包んで下さい、とお願いし、それが終わるまで他の着物を眺めて待つことにした。
「はあ、どれも素敵な柄…」
幼い頃から姉さまのお古を渡されていたわたしは、着物一つ、自分で選んだことはなく。こうして華やかな織物たちを見ていると、自然に気分が高揚してくる。
そう言えば、商人が家に訪れた時、姉さまも頬を高揚させて生地を選んでたっけ。今ならあの時の姉さまの気持ちが少し分かるような気がした。
そんなことを思うのも、先ほど宿儺さまにこんなにも素敵な着物を頂いたせいかもしれない。自分が人間である、と思い出させてくれたような感覚で――。
「…はっち、違う…だめだめ、それは」
思いがけず信念がブレてしまいそうになり、諫めるように首を振る。
わたしは人にあらず。生贄なのだから感情など持ってはならない。改めて自分に言い聞かせていると、店先に新たな客が入って来た。
商品を見るのに邪魔にならないよう「すみません」と声をかけてから、脇へよけようと顔を上げる。けれど、その客を視界に入れた時、驚きのあまり大きく目を見開いた。
「…は?オマエ……っ?」
「ね……姉さま…?!」
店へ入って来たのは一年前に会ったきりの、わたしの実の姉だった。姉さまはまるで幽霊でも見るような目つきでわたしを凝視している。当然だ。わたしは一年と二カ月前、宿儺さまに与えられる生贄として、の家を出たのだから、姉さまはわたしがとっくに喰われたものと思っていたはず。まさかこんな場所で会ってしまうなんて。
「オ…オマエ…な、な何で生きてるのよ!」
わなわなと震える指先をわたしに向けた姉さまは、今にも倒れてしまいそうなほど青ざめていて、従者の者が慌てて肩を支えている。その見覚えのある従者さえ、わたしを見て仰天しているようだった。
むむむ…これは困ったぞ、と思いながら「はは…ははは」と笑って誤魔化していると、店の女主人が先ほどの着物を丁寧に包んで持って来てくれた。それを受けとり、礼を言うと、再び姉さまの方へ向き直る。きちんと説明しなければ、また父上と母上に「役立たず」の烙印を押されてしまうからだ。家の使命を果たせていないわたしを、家族が許すはずもない。
ここでは何ですので、と姉さまを目の前に流れる川のほとりへ促す。ここなら他人さまの迷惑にもなるまいと思ったからだ。
姉さまも事情を知りたいらしく、そこは大人しくついて来てくれた。
「あの…実は…ですね」
わたしは意を決して、何故わたしが今ものうのうと生きているのかという事情を、姉さまに順序だてて説明していった。
宿儺さまのお屋敷へ行ったこと、宿儺さまにお会いしたこと。そして痩せすぎという理由で喰われそこねたこと。現在は太るまで猶予を与えられていること。
全て包み隠さず、姉さまへ話した。
「はぁ?ではオマエに栄養価値がないと思われ、今は餌付けされてる状態だっていうの?あの両面宿儺に?」
「……はあ。申し訳ございません」
「…なんてこと!まさか、あの鬼神が生贄を一年以上も生かしておくなんて…!」
「わたしもそう思いますけど…事実でして…重ね重ね申し訳ございません…」
姉さまは驚きやら呆れやらで、わたしを昔のように侮蔑するような目で眺めている。とっくに死んだと思っていた不肖の妹が未だ生きてることが許せないようだった。
いや、それだけじゃなく。姉さまの目はわたしが着ている着物を見ている。そして袖の部分を掴むと「これ、私のより高価な着物じゃない…っ」と詰め寄ってきた。
「どうしたの、この着物。こんなもの持ってなかったわよねえ?は」
「え…と…これは…」
「まさか…もらったの?両面宿儺に」
「……は、はい…まあ…気まぐれで」
「何よそれ…!あの人喰いの化け物が生贄にこんな高価な着物を贈る?あり得ないわ!」
「あ、あの姉さ、ま…宿儺さまは民が噂してるようなお方じゃ…それに人など言うほど食べてるとも思えません」
宿儺さまのことを悪く言われ、何故かそんな口答えをしてしまった。昔のわたしなら考えられない。姉さまや兄さまに逆らうことは、一切許されていなかった。だけど自分のことを言われるならともかく、宿儺さまのことを何も知らない姉さまには、そんな風に言って欲しくない。そう思ってしまった。
案の定、姉さまは口答えをしたわたしを、信じられないと言いたげに睨んでいる。怒りで手が震えているようだ。そしてやはり、昔のように何一つ躊躇うことなく、わたしの頬を平手打ちしてきた。ぱしん、という音と共に、久しぶりの痛みが頬に走り、きぃんと耳鳴りが走る。
「オマエ、あの化け物と通じたわけじゃないわよねぇ?必要のない子でも一応オマエにはの名がついてるの。そのオマエが両面宿儺と通じるなんて許されないのよっ」
「そ、そんなことは絶対にありません!わたしはただ…使命を全うしようと――」
「だったら何でこんな高価な着物を着て、のうのう都で買い物をしてるのよ!さっきの店もお高いのに!何を買ったの?それ、見せなさいよっ」
姉さまは怒りが頂点に達したらしい。先ほど買った着物の包みを強引に奪おうと引っ張ってくる。それをさせないよう腕の中に抱えるように隠すと、姉さまはわたしの頭をバシバシと殴りつけてきた。
「何なの、オマエ!だいたい何故お金まで持ってるのよ!この裏切者!」
「や、やめて下さい!姉さま…!」
姉さまは興奮すると手が付けられなくなるのは昔からだ。気が済むまでわたしを殴り続け、こちらが根を上げるのを待っている。せっかく結いあげた髪を引っ張られ、宿儺さまに頂いた着物の衿元を引っ張られる。それでも腕の中にある包みだけは必死に守った。
「こ、この…強情な…」
「もうお止やめ下さい!お嬢様!民が先ほどから何事かと見ておりますゆえ…!」
そこへ見かねた従者が姉さまを制止する。周りを見れば、茶屋の客も、織物屋の女主人も、皆がわたし達を見てひそひそと何やら話しているのが分かった。姉さまもそれに気づき、慌てて振り上げた手を下ろしている。昔から世間体ばかりを気にする性格は健在のようだ。
その隙にわたしは姉さまから離れると「申し訳ありません!でも近いうち、必ず使命は果たしますので、お父さまにもそうお伝え下さい!」と言い残し、その場からすぐに走り去った。後ろから姉さまの怒鳴り声は聞こえてきたけど、わたしは振り向くこともなく、必死に都の街を駆け抜ける。慣れない草履で転びそうになりながらも、急いで宿儺さまのお屋敷へと走った。
引っ張られた髪も着物も乱れ、すれ違う民の視線が突き刺さることも気にせず、わたしは宿儺さまのお屋敷へ帰ることだけを考えていた。
「……ハァ…ハァ…つ…疲れた……」
都から歩いて約三十分のところに宿儺さまのお屋敷がある。元々は大名の別邸として都を見下ろせる山を切り開いて立てたものらしいが、その大名が宿儺さまへ献上品として、あの屋敷を贈ったようだ。それも全て「これで命だけは」という哀願だったんだろう。それ以来、あのお屋敷は宿儺さまのものとされ、そこへ次々に民からの献上品が届くのが常となっていた。
だから、その者たちを見た時も、またそういった類の使いの者だと思った。
命からがらといった思いで姉さまから逃げ切ったわたしは、どうにか山を登り、ふらふらになりながら宿儺さまのお屋敷前の一本道を歩いていた。けれど、お屋敷の屋根が見えて来た辺りで何やら人の声がして、ふと足を止める。見れば門扉の前で、どこかの従者らしき男達が数名ほど騒いでるようだった。
「何なの、あの人達…また宿儺さまに献上品でも持って来たのかしら…」
でもどうもそんな雰囲気でもない。その男達は「どうするのだ!」とか「やはり連れ戻した方が!」などと言い合いながら、右往左往している。何だろう?と思いながら歩いていくと、男達はわたしを見てギョっとしたように口をつぐんだ。髪も着物も乱した女がふらりと現れたら、誰もがこういう反応をするかもしれない。
ただ何だろう、この空気、と思いながらも、こういう場合は挨拶をするんだっけ、と気づき、にっこりと嘘くさい笑顔を顔に張り付けた。
「…こ、こんにちは。いいお天気ですね」
「「「…………」」」
わたしが挨拶をすると、彼らは呆気にとられた顔で固まってしまった。あれ、何か間違えた?と作ったばかりの笑顔が引きつる。
家から出してもらえなかったせいで、わたしは他者との正しい接し方がよく分かっていない。時々裏梅さまに酷く驚かれるのは、そういったことが原因なのかもしれない。
巫女の最低限の常識として人に会ったらまずは挨拶をする、というのは教わっていたので実践してみたのに、彼らには何にも響いてないようだ。あげくジロジロと不躾な視線を送ってきてたけど、その中の一人が意を決したように「そこの娘」と声をかけてきた。
「そなたはこの屋敷の使用人か?」
「……はい?」
「両面宿儺の手の者かと聞いておる」
「………い、いえ。あ、そ、そう…です」
一瞬本当のことを言おうとしたが、つかさず話を合わせておく。家の娘とバレたら、父母に恥をかかせてしまうと思ったからだ。
わたしが頷くと、従者らしき男たちは何故か一様に安堵の息を漏らした。
「す、すまぬが今、お屋敷に我が藤原の二の姫さまがいらっしゃる。申し訳ないが様子を伺ってきてはくれまいか」
「……二の姫、さまですか?えっと…何故こちらに?」
藤原と言えば呪術師の中でも最高峰の家系。そこの姫が生贄にされるとは到底思えない。しかし姫の従者だという男は「二の姫さまは自ら宿儺さまの贄になりに来た」と説明され、わたしは言葉を失った。
「そ、それで二の姫さまは?」
「で、ですから中に入ってしまわれたのです!今頃は宿儺さまに喰われてるやもしれません。ああ、どうしよう!旦那様に何と説明すれば…!ど、どうか後生ですから二の姫さまを――」
「…は?宿儺さまに…喰われてる…だと?」
「……え?」
どうにも聞き捨てならない言葉を聞き、わたしは驚愕しすぎて手がわなわなと震えてしまった。
わたしより後に来た者が、来たその日に宿儺さまに喰われている。想像しただけで、頭にカーっと血が上る。
きっと、この時のわたしの顔が般若のように見えたのだろう。従者の男たちが「ひぃ!お、鬼?」と言いながら、慌てたように山を下りていく。
「す、宿儺さまの側近は鬼の娘だぞー!」
「逃げろぉぉ!!」
「…っえ?!あ、ちょ、ちょっと――!」
憤慨している間に彼らは何を勘違いしたのか、血相を変えて行ってしまった。今まで心配してた二の姫とやらを置いて行くのかしら、と呆気にとられつつ。
そんなことよりも、宿儺さまが現在その姫を食しているという現実を思いだし、再び言い知れぬ怒りが沸々と湧いてくる。
先に来たわたしを差し置いて、あとから来た贄を喰らうなど、これほど屈辱的なことはない。何とも身勝手な怒り、というより、もしかしたら、わたしはその姫とやらに嫉妬をしていたのかもしれない。
来た瞬間、いの一番で宿儺さまに食べて頂けるなんてずるい!という気持ちの方が強かった。そしてその理由の分からぬ怒りは、いつになくわたしを大胆にさせた。
「…ああ、。戻ったのか――」
「裏梅さま!」
屋敷へ飛び込むと、裏梅さまが台所で何やら作業をしておられたが、わたしの姿を見て唖然としたらしい。手にしていた出刃包丁がするりと落ちてカラン…っと音を立てる。
「ど、どうした、!髪も着物も乱れて…まさか何者かに襲われたのか?!誰にやられた――!」
わたしの恰好を見て驚愕した裏梅さまは、わたしが誰かに襲われたと勘違いしたらしい。怖い顔で詰め寄ってきた。何故かは分からないけど怒っているようだ。
もしかしたら宿儺さまに頂いた着物をしわしわにしてしまったからかもしれない。でも火熨斗をすればしわは伸ばせる。
「い、いえ…これはちょっと姉に…」
「は?姉?」
「そ、そんなことより!今、宿儺さまのところに姫が来てるというのは本当ですかっ?」
「……は?ど、どうしてそれを――あ、!」
裏梅さまの顔色がさっと青くなった。その反応を見て本当なのだと悟ったわたしは、すぐに宿儺さまのいる奥の座敷へ走って行く。普段はいくら何でも、こんな無作法な真似はしない。ただ食料として食べ頃になるまで生かされてるだけの存在だから。
でも今は完全に頭に血が上っていた。
「…す、宿儺さまー!!」
他の人を先に食べないでという思いだけで奥座敷へ向かうと、案の定かすかな声が聞こえてくる。それは女の苦しげに喘ぐような声で、今まさに喰われてるのかと焦ってしまった。その焦りのまま襖を開け放つ。
「お待ち下さい!」
「―――!!」
やはり喰らおうとしていたのか、宿儺さまが贄の姫へ覆いかぶさっていた。わたしの乱入に宿儺さまは酷く驚いたようで、弾かれたようにこちらを向く。
「…?」
「やっぱり…!あんまりです、宿儺さま!」
わたしが座敷へ入って行くと、宿儺さまは贄の姫からすぐに身を引いたけれど、喰われかけていた姫は今にも死んでしまいそうな表情で涎まで垂らしている。ただ、想像してたよりは原型をしっかりとどめているものの、着物も髪も乱れ、だらしくなく腿まで広げているし、藤原の姫というわりに何ともあられもないお姿で少々唖然とした。
ただ見る限り、姫は意識こそないものの、まだ生きているようだ。その事実に安堵してホっと息を吐き出した。
「…良かった」
あとから来た姫という生贄に先を越されてないと知り、胸を撫でおろす。でもそこへ「…ちっとも良くないが?」という冷んやりとした声が背後から聞こえてきた。「ひ」と首を窄めたのは首筋に禍々しい呪力が触れたせいだ。恐る恐る振り返れば、額をピクピクさせた宿儺さまが立っている。きっと久しぶりの獲物を喰らう邪魔をされて怒ってらっしゃるのだろう。でも怒ってるのはわたしも同じだ。
「す、宿儺さまのお食事を邪魔したことは謝ります…!でもこの姫さまをわたしより先に召しあがるのはあんまりです…っ!」
「……食事…?オマエは何を言っている。俺は食事などしておらん」
宿儺さまは少し怪訝そうなお顔をされたけど、そのあと心底呆れたように溜息を吐いている。しかし、そんな嘘で騙されるわたしではない。
「嘘はおやめ下さい。さっきまでその姫さまに圧し掛かってらしたじゃないですかっ。姫さまもうんうん苦しそうに唸ってましたし――」
と言い返したところで、宿儺さまは一瞬だけぽかん、とした顔でわたしを見下ろして、そのあと「ふはっ」と盛大に吹き出した。わたしは宿儺さまがこんな風に笑うところを始めて見た。ゆえに、ただただ驚くと共に、何となく顔が熱くなってしまった。
「な…何故笑うのですかっ」
「オマエ…くっくっく…意外に初心なのだな…くっく…」
「………ど、どういう意味です?」
今では肩を揺らしながら笑っている宿儺さまに、わたしは呆気にとられてしまった。何がそんなにおかしいのだろう?自分が笑われてる気がして次第に恥ずかしくなってきた頃、宿儺さまはやっと笑うのをやめてこちらへ視線を向けた。
「要するに…は俺がオマエより先にそこの女を喰らおうとしたと、そう思ってるのだな?」
「…そ、そうです…」
「それが気に入らん、と」
「…そ、それは…だって…」
使命を全うしたくてここへ来たのに、一年以上も生かされている。家の役にも立てない自分に、何の価値もない気がした。
「…ふん。俺がいつ、どこで、何を喰おうが、何をしようが俺の自由だ。オマエに指図される覚えはないわ」
「…う…ご、ごもっともです…けど…」
さっきよりも頭に上った熱が下がってきたことで、宿儺さまにそう一蹴されると、確かに…と思ってしまう。ただ、それでも食べるならわたしを先にして欲しいという思いは変わらない。それか、いっそ今の無礼を死を以て償わせて欲しい。そう訴えた。姉さまに生きてることを知られて、多少は焦りが生じたのかもしれない。
早く使命を全うしなければ――。
いつも以上に、そう強く思ってしまった。
でも宿儺さまはわたしの訴えを聞いても、いつもの呆れた表情で「やれやれ…」と溜息交じりで首を振るばかりだ。
「またそれか。オマエは本当に死にたがりのつまらん女だな。少しは命乞いをしてみろ」
「…え、餌に面白さを求められても困ります…それにわたしの命は宿儺さまのものなので乞う必要はありません」
「……はぁ」
また深々と息を吐かれてしまった。自分では何が間違っているのかも分からない。宿儺さまがどうして無礼を働く生贄を、今日まで生かしているのかも。
「す…宿儺さまはわたしをからかう為に生かしてるのですか?」
気づけば、そんな質問を投げかけていた。
「…………」
「…宿儺…さま…?」
突然黙ってしまった宿儺さまを見上げると、顎に指を当てつつ、何やら難しい顔で天井を仰いでいる。わたしも釣られて天井を見上げたけど、特に何もなかった。
その時、生贄の姫さまの「うーん…」と言う声が聞こえてどきりとする。どうやら意識が戻りかけているようだ。
ただ宿儺さまの視線もそちらへ向き、わたしは慌てて間に立ち塞がった。何となくあの姫を宿儺さまの視界に入れたくなかったからだ。
両手を広げて視界を妨げるわたしを見ると、宿儺さまは怪訝そうな顔で首を傾げた。
「…何をしている」
「あ、あの方はあとでお食べ下さい。今はわたしを――」
「俺に指図するのか、オマエは」
「さ…指図…します」
何より他人に指図されるのを嫌う宿儺さまに敢えてそう言ってみた。そうすれば今度こそ怒りを買って殺してくれるはず。そう思ったのだ。彼の力を以ってすれば、わたしなど一瞬でバラバラにされる。でも、それでいい。死ねばわたしは家からも使命からも解放されて、心身共に楽になれるのだから。
なのに――宿儺さまは不意に口元へ笑み浮かべると、指でわたしの顎をくいっと持ち上げた。
「まあいい…今は気分が良い。その指図、聞いてやろう。オマエの望みはあの女と同じように喰らって欲しいと。そういうことなのだな?」
「へ?」
言うや否や、宿儺さまはわたしを軽々抱き上げ、肩へと担いだ。
「ひゃぁ」
「裏梅!そこにおるのだろう?」
驚いて騒ぐわたしをよそに、宿儺さまは裏梅さまを座敷へ呼び寄せた。え、と思っていると襖が静かに開き、裏梅さまが傅いているのが逆さまな視界に映る。
「そこの女はオマエに任せる。好きに始末しろ」
「…始末、で御座いますか?」
「それを喰われるのは嫌だと、が我がままを言うのでな」
「…へ…?わたし…?」
「は。では、そのように」
裏梅さまは宿儺さまに言われたことを理解したらしい。わたしにはサッパリだけど、でも、とにかく宿儺さまがあの姫より先にわたしを食べてくれる気になったのは嬉しい誤算で、生贄らしかぬ言動をした甲斐があるというもの。
ただ、宿儺さまはお怒りになったという空気ではなく、どこか面白がってるようにも見えて、それが少しだけ違和感があった。それに――。
「あ、あの…宿儺さま…どちらへ行かれるのですか…?この先は宿儺さまの寝所しか――」
「うるさい。オマエは黙って担がれていろ」
「は、はあ…」
宿儺さまはわたしを担いだまま、何故かご自分の寝所へ向かっているようだ。そこでわたしを食するというのもおかしな話だとは思う。だいたい獣でさえ、解体する際はあれほど血が出るのだから――普段から裏梅さまの仕事を手伝わされているので知っている――人間ならば尚更血がどばーっと出て、それこそ寝所が血まみれになってしまうのではないか、と変なところで心配になる。なのに宿儺さまは迷うことなく寝所へ入られると、わたしをご自分の床へぽいっと放り投げた。布団から弾かれ、畳にしたたかお尻を打ったおかげで「ぎゃっ」という情けない声が寝所に響く。
そんなわたしを見下ろしながら、宿儺さまはどこか愉しげに笑っていた。こんなにも上機嫌な宿儺さまも、わたしは初めて見る。
「尻尾を踏まれた猫みたいな声を出すな。色気もクソもないな、は」
「な、何も放らなくても…」
「ちゃんと布団に下ろしてやったろう。軽すぎて跳ねたのはオマエが痩せすぎているからだ」
「う…そ、そうでした…――ひゃ」
お尻を擦っていると凄い力で腕を引かれ、気づけばふかふかの布団の上に倒されていた。視線を上げれば、宿儺さまが上から見下ろしている。本当にここで食べる気らしい。寝所が汚れてしまうのに、という思いと同時に、遂に本懐を遂げられる、と思うとごくり、と喉が鳴ってしまった。
でも…出来れば最後に裏梅さまの作る夕餉が食べたかった――。
「」
「…っは、はい」
宿儺さまの手がわたしの髪に触れ、どきりとして顔を上げる。
「…先ほどから気になっていたのだが」
「…え?」
「何故オマエの髪も着物もこんなに乱れておるのだ?」
宿儺さまの指が、結っていた髪をそっと梳いていく。そこでわたしも先ほどのことを思い出した。
「そ、それは…その…」
「着物も衿が引っ張られたように型崩れしてるな。もしかして誰かに――」
「い、いえ…あ!」
「…あ?」
姉のことを思い出した時、同時に一番忘れてはいけなかったことを思い出し、つい声を上げてしまった。
「す、すみません、宿儺さま。あの…わたしを食べる前に渡しておきたいものが」
「……何だ」
慌てて起き上がると、着物の袖口に入れておいた茶菓子を取り出す。それと――。
「こ、これ…です」
「ああ…何を大事そうに持っているのかと思えば…使いを頼んだ茶菓子か…して、これは?」
宿儺さまはもう一つの包みを見ると、訝しげに眉を寄せている。頼まれもしないのに図々しく買ってしまった例の着物だ。
「き、着物、です…宿儺さまに似合うと思ったので、つい…」
「………これを。俺に?」
「は、はい…女性物の着物を好んで着てらっしゃるので…あ、少し地味かもしれないですけど――」
と言った矢先、宿儺さまは包みを開けて中の着物を取り出した。紫水晶の淡い色合いは、宿儺さまに似合うと思ったのだ。
「ほう…なかなかいい生地の着物だな。色合いもちょうどいい」
「ほんとですか?良かったぁ…ちょっと地味かなと心配だったんですけど」
「…オマエは何か勘違いしているようだが…別に見た目で女物の着物を好んでるわけじゃない。ゆったりして幅広な造りが俺の体に合うというだけだ」
「…へ?」
「まあ…これはもらっておいてやろう」
わたしの思い違いだったみたいだけど、宿儺さまは苦笑交じりで着物を受けとって下さった。お使いを頼まれた茶菓子も渡せたし、これで思い残すことは、もう何も――。
「…」
ホっと安堵の息を漏らしたのと同時に名を呼ばれ、ふと顔を上げれば。何か柔らかいものを唇に押し付けられた。
「…んん?」
宿儺さまの唇が、わたしの唇をちゅる、と吸っている、と気づいた時、驚きと衝撃で心臓が大きな音を立てて跳ねた気がした。

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