宵闇に咲く花火のように
――オマエは生まれてくるべき子じゃなかった。
物心のついた頃から、父さまに言われ続けた言葉。そのあと決まってこう言われた。
明日いなくなっても誰も困らないんだ、と。
姉さまと兄さまがいれば、あの家は幸せだったらしい。
わたしはいらない子。この世から消えようと誰も困らない。
幼いわたしは無意識化で、そんな暗示にかかった。
体裁を取り繕う為、巫女としての役職を与えられたわたしは、常に家のお荷物だったけれど、それを不幸とは思っていなかった。
不幸、と思う知識も、比べる対象もなかったからだ。
外へ出ることも許されず、傍にいるのはわたしを憐れむ使用人だけ。
わたしは悲しいほどに、無知だった。
暗く、深い海の底へ沈められたみたいだと思った。頭も、体も、全てが重たくて、体を動かそうとしてもままならない。
これでやっと死ねる――。
意識が途切れる瞬間に、心の底から安堵した。

宿儺さまに喰われた感想を一言で表すならば、「痛ぁっ!」というのが一番的を得ている気がした。
まさか生きたまま、それも下半身から喰らうなどと思ってもいなくて、体内に異物が入ってきた感覚は恐怖というより、何をどうされているの?とただひたすら驚いた。
けれども、本当に驚いたのは宿儺さまのお言葉の方だった気がする。
――は死なせん。俺のそばでオマエは生きろ。
よく分からない熱で朦朧としている時、不意にそんな言葉を呟かれた。それはどういう意味ですか?
そう聞き返そうと思った矢先、例の「痛ぁっ!」がきたのだ。ただ、その痛みはすぐに違う感覚へと変換された。ますます意識が切れ切れになったのち、何とも言えない夢心地。体中が火照り、ふわふわと浮くようで、これが天国への道筋なのだと信じて疑わなかった。
なのに――この状況は一体どうしたと言うんだろうか。
最初の感覚は温かい、だった。少しずつ自我意識を取り戻し、わたしがわたしだと認識する。同時に首筋へ柔らかいものが触れる感触。
そこで一気に覚醒した。
「……え」
「ん?意識が戻ったのか」
目の前の状況が整理できないまま、すぐ背後で聞きなれた声を耳が拾う。驚いて無意識に体を動かそうとしても、がっちりと体を拘束されていてビクともしなかった。
「す……宿儺、さま?」
「何だ。どこか痛いところでも――」
「な、何故……わたしは生きて湯に浸かっているのでしょうか」
そう、そうなのだ。意識が戻った時、まず視界に入ったのは檜で造られた大きな湯船と、咽るほどの湯気。天国にしては肌に触れる湯が熱すぎた。
ひょっとしたら、ここは地獄で、わたしは煮えたぎった地獄風呂へ入れられているのでは、とすら思ってしまうほどに驚く。
しかし、それでは宿儺さまが一緒に入っている理由が分からない。
そもそも浸かっている風呂はわたしが毎日入っていたもので、地獄風呂にはまず見えなかった。
わたしの問いを受け、宿儺さまは軽く吹きだされたようだった。
「言っただろう。オマエは死なせない、と。風呂に入れたのは体を清めてやろうと思っただけだが、不満か?」
「な、何故ですか?わたしを喰らったはずでは――」
と言いながら振り返ろうとしても、腹に宿儺さまの逞しい腕が四本ほど絡みついていて動けない。更にぎゅうっと力を込められたせいか、ぐぇ、とカエルが踏み潰されたような声まで出てしまった。宿儺さまが今度こそ吹き出している。
「……オマエのその反応は俺を飽きさせんな」
「な……こ、答えになっていません!わたしを喰らうと仰ったのは嘘ですか」
「だから美味しく食ってやっただろう。忘れたのか?」
宿儺さまは愉しげな声で言いながら、わたしの腰を抱いていた手で下腹をすり、と一撫でする。唐突に感じたくすぐったさで肩がびくん、と跳ねて、ついでにお湯がちゃぷん、と波打った。
風呂に浸かっているのだから当然だけれど、わたしも、そして宿儺さままでが素っ裸であり、わたしを後ろから羽交い絞めしている。
そんな状態で少々混乱してきた。
だいたい食ってやったと言われたが、腕も足もちゃんとあるし当然喰われた気はしない。
「あ、あれは前準備では」
「まあ、準備と言うならそうだが……オマエは知らないなら知る必要もない」
苦笑気味に言いながら、宿儺さまはわたしの髪を片寄せ、露わになった項へ顔を寄せたようだった。直後、ちゅ、という音と共に柔らかいものが押しつけられる。先ほど覚醒する時も感じた感触だ。その場所からじわり、と小さな疼きが生まれ、何故か頬も熱くなった。
「ど、どうして生かすのですか……わたしは使命を全うしたいのに」
「使命、か。下らん。オマエはもう家の人間ではない。俺のものだ。も自分でそう言ってただろう。その命は俺のものだと」
「そ、それは……そうですけど……」
「なら俺のものをどうしようと俺の勝手。オマエに決める権利はない」
勝手に死ぬのも許さん、と宿儺さまは仰った。
何故かは分からないけれど、宿儺さまはわたしを喰らうどころか、殺す気さえないようだ。
いっそう混乱していると「」と名を呼ばれた。いつもと同じようでいて、どこか優しい響きで。
「オマエはここにいるのが嫌か?」
「え……い、いえ……嫌だなんて」
生贄としてここへ来たはずなのに、裏梅さまと宿儺さまに命の猶予を与えられた。一緒に生活していくうち、とても居心地が良くなってしまったくらいだ。
そんな自分を戒める為にも早く使命を全うしたい、と思っていた。
生贄のくせに、ここで暮らすことを楽しんではいけない。
姉さまに生きていることを知られた時、その思いがいっそう強くなり、それが焦りとなって自分の愚かな願いを断ち切らなければと、強く思った。
だけど――。
「わ、わたしは……生きていてもいいんでしょうか……」
親から生まれてくるべきじゃなかった、と蔑まれ、いなくても困らないと嘲られ、どうせ死ぬのなら家の役に立って死ねと、初めて大切な役割を与えられた。
それさえ全うすれば、わたしは晴れて解放される。
そう思っていたはずのに。
「いいも何も、俺が生きろと言っている。文句でもあるのか?」
「い、いえ……!」
生きていていいのだと、家族の誰も言ってはくれなかったその言葉を、まさか宿儺さまに言って頂けるなんて思わなかった。
「……ひ……っく」
「ハァ……何故泣く」
勝手に零れてくる涙も嗚咽も止められずにいると、宿儺さまは呆れたように息を吐かれた。
「……れしくて……う、嬉し……いから……す、すみま――」
「いいから泣くな」
そう言った瞬間、わたしを抱く腕にぎゅぅっと力が入る。宿儺さまの体は大きいから、わたしの全てがすっぽりと納まってしまう。
こんな風に誰かに抱かれたのは、生まれて初めてだということを今更ながらに気づいた。
「オマエに泣かれると、どうして良いのか分からん」
「……す、すびばせ……ん」
ずず、と鼻を啜ると、宿儺さまは「相変わらず色気もくそもない女だな」と呆れたような声を出す。その声色がいつもより柔らかく感じて自然と笑みが零れた。
「オマエはそうやって間抜け面で笑っていろ、」
「……はい」
大きな手が頭を撫でてくれただけで、また笑みが零れた。こんな風にされたのも初めてのことだ。
思えば宿儺さまの元へ来てからというもの、色々な初めてを頂いてる気がする。家に居た頃には何ひとつ、与えてもらえなかった"優しさ"を。
「」
また名を呼ばれて仰ぎ見れば、宿儺さまの唇がわたしのと重なる。夕べも同じことをされたけれど、これは喰らう為の味見ではないんだろうか。
「あの……何故、口を吸うのですか?」
「ん?」
唇が離れた時、つい疑問を投げかけてしまった。宿儺さまは僅かに眉を上げたけれどすぐに、けひ、と小さく笑う。
「美味いからに決まってるだろう」
「え……わたしの唇は美味しいのですか?自分で舐めても味はしないんですけど」
「…………」
ひょっとして飴玉のような味でもあるのかと思い、ぺろりと自分の唇を舐めていると、宿儺さまは少々呆気にとられた顔でわたしを見下ろしている。でもすぐに「ぶ……っ」と吹き出すから驚いた。
「オマエ……くくっ……本当に何も知らんのだな。まあ、いい」
「……宿儺さま――?ひゃ」
ぐいっと体を持ち上げられ、宿儺さまの硬い腿へ座らされた感触に驚く。同時に大きな手のひらが下腹を軽く撫でてきた。
「時に、。体はツラくないのか」
「え?」
「どこか痛みはないのかと聞いている」
「い、痛み……?」
と聞かれて気づいた。宿儺さまが触れている下腹の、というより体の奥がやけにジンジンしている。いや、ジンジンではなく、ジクジクとした鈍痛かもしれない。怪我でもしたかしら?と首を捻ったが、宿儺さまに何かをされた以外は特に覚えがない。あの時は何かで貫かれた気がするし、一瞬死んだと思ったくらいの痛みはあったけど、やっぱり怪我をしたんだろうか。
「な、何か下の方、というか奥に少し変な痛みがあります、けど……」
「ふ……あれだけ濡れていたのに。まあ少々無理をさせ過ぎたか」
顎に手をやり、独り言ちるように呟く。わたしには宿儺さまの言葉の意味がよく分からなかったけれど、宿儺さまには痛みの原因も分かっているようだ。
あの行為は味見じゃないのなら何だったんだろう。
激痛のあと、少しずつそれもなくなり、最後は夢見心地になったのも不思議だった。
「ふん。なら今日はもう無理をさせるのは良くないな。このまま体を清めるだけにしておこう」
苦笑交じりで言った宿儺さまの顔に、薄っすら意地の悪い笑みが浮かんでいた。

「あ、あの、裏梅さま……もう大丈夫ですから」
火照った顔を冷やすように手のひらを額へ当てていると、は何とも申し分けなさそうに呟いた。
しかし見る限り全く大丈夫には見えないくらい、の顔は真っ赤だ。
まさか湯に中てられるほど浸かっていたとは、宿儺さまも戯れが過ぎたな、と苦笑が洩れた。
――裏梅!がグッタリしているから冷やせ!
先刻、昼餉の準備をしていると、慌ただしい足音と共に宿儺さまが私の元へやってきた。それも素っ裸の、濡れたままのを抱いて。
目覚めたあと、宿儺さまから「を清めたいから湯浴みの準備を」と申し付かり、すぐに準備をしたのだがつい長風呂をしたらしい。が軽く湯あたりを起こしたようだ。
すぐに床の用意をすると、宿儺さまはまずに着物を羽織らせ、布団へと寝かせた。宿儺さまが自ら誰かの世話をするなど初めてのこと。
何とも贅沢なおなごだ、と思いながら、火照った顔を私の手で冷やしてやった。その甲斐あってか、それほどかからずが意識を取り戻し、今は情けない顔で私を見上げている。
「まだ顔が熱いだろう。黙って冷やされていろ」
「……はあ。すみません」
しゅん、としたように目を伏せ、どこか落ち込んでいる姿は昨日と何も変わらないように見える。宿儺さまとまぐわったとは到底思えないほど、まだあどけなさを残していた。ただ細い首筋に刻まれた赤い華は、情交を交わした名残。
あどけなさの残る傍ら、肌には男の情を刻むその不均衡さが、小娘から女へ移り変わっているようで、見ようによっては悩ましくもあるのだから不思議なものだなと思う。
「あ、あの……宿儺さまは……」
「湯殿へ戻られた。宿儺さまは長風呂なのだ。きっと普段の調子でオマエを付き合わせてしまったんだろう。無事を確認して、またすぐ戻られた」
「そ、そうですか……」
は安堵したように笑むと、ふと私を見上げてきた。しかし僅かながら目を伏せ、何とも複雑そうな表情で視線を泳がせている。
その顏を見れば、何を伝えたいのか分かった気がした。
「あの……わたし、死なせないと言われてしまいました」
「そうか。やはりな」
「裏梅さまは……何かを知っておられるのですか?」
「何か、とは?」
「その……宿儺さまの気が変わられたことです……」
今度は真っすぐ見上げてくる視線は戸惑いの色が浮かんでいる。は宿儺さまが何故、自分を生かそうとするのか分からないのだろう。
「さあな。もしかしたらオマエは喰らっても不味いと思われたのでは?」
「う……太る気配がないから、でしょうか」
「冗談だ。何でも鵜呑みにして情けない顔をするな」
の目には見る見るうちに涙が溢れてくる。やれやれ、と思いながら、手巾で濡れた頬を拭いてやった。
「宿儺さまにとって今のオマエは単なる生贄ではなくなったということ。しかしオマエの考えているような悪い理由ではない。いちいち落ち込むな」
「は、はい……。そう言えば……生きろ、と言われた気がします」
「なら言われた通り、今後は生きることを考えろ。宿儺さまの命令に背いて死ぬようなことがないように、これからは更に気をつけて過ごすように」
オマエは鈍臭いから、すぐに怪我をするしな、と付け足せば、は泣き笑いのような顔を見せて頷いた。
それはまるで夜空にパっと咲く花火のように、明るく、眩しい笑顔だった。
こんなにも生気の通った笑みは初めてみる。少しは宿儺さまのお気持ちが届いているらしい。
その時、部屋の外から「は目覚めたか!」という、宿儺さまの賑やかな声が響いてきた。

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