01-純粋無垢の祈り
冷え切った室内の空気を肌に感じながらも、布団の中に確かな温もりがあるのに気づいた時、夢と現実の狭間にいた脳がゆっくりと覚醒していくのを感じた。眠いながらも現実に引き戻されれば、いつもの自分のベッドに寝てるのが分かる。なのに小さな違和感を覚えたのは、冷え性で冬はどうしても冷たくなってしまう足が、何故か今はほんのりと温められてるせいだ。
少々困惑しながらも寝返りを打つと、同時に視界の端で白いふわふわを捉える。ちょっと驚いた。驚いたが、その現実をすとんと受け入れられたのは、白いふわふわが誰かを理解したからだ。顔まですっぽりと布団をかぶっている隣の人物は、私の方に体を向け、くっついて眠っている。最近はなかったので油断していたが、この人物の不法侵入は今日が初めてじゃない。前にも一度、これと同じ状況を経験している。
おかげで殴るのはどうにか踏みとどまると、隣に潜り込んでいるであろう真っ白いペルシャ猫の柔らかい髪をそっと摘まむ。いや、ペルシャ猫はこんなに大きくはないし、ベッドを半分占領したりもしないか。
「…五条くん」
「…ん-」
この大きな猫の名を呼べば、相変わらずの寝起きの良さで小さいながらも返事をしてきた。それか私が起きた時点で気配を察知して、彼も起きたのかもしれない。そのくらい彼は眠りが浅いのを、私は知っている。
「いつの間に来たの」
「……さっき」
無意識に時計を見ると、今は午前4時過ぎ。来てからそれほど経ってないんだろう。眠そうなのに律儀に応える後輩に、私は小さく溜息をついた。いや、私も眠りについたのは、ついさっきだ。それくらい、昨日のクリスマスイブは忙しかった。
「…後始末があると言ってなかった?」
「……終わってから来たから」
「そうか…」
昨日のクリスマスイヴ。前代未聞の呪術テロ"百鬼夜行"が実行された。指揮を執ったのは過去に高専の後輩だった夏油傑。隣で寝ている五条悟の親友だった男だ。特級過呪怨霊、折本里香を奪うため、高専、新宿、京都を襲撃した。でもそれも乙骨憂太という生徒と折本里香のおかげか、最小限の被害で済み、呪詛師へと堕ちた夏油傑も、母校の敷地で終焉を迎えた。最後に手を下したのは、この五条くんだ。
「大丈夫か?」
「………」
彼は何も応えなかった。こんなことが9年前にもあったことを思い出す。あの頃は私もまだ学生で、高専の寮に住んでいた。
あれは夏の終わり。まだ少し蒸し暑さが残る9月だった。クーラーをかけて寝ていたにも関わらず、暑くて目が覚めたら隣に五条くんが寝てた。しかもこんな風に私にくっついて。
鍵を閉め忘れるのはいつものことだった。彼はそれを知っていて夜中の内に忍び込んだんだろう。あの時、私の隣で眠りこけていた彼を見て、私は思わず五条くんの頭を殴った。いつもなら「いてぇな!」と文句のひとつも返ってきそうなものなのに、その時の五条くんは目を覚ましても怒りもせず。何故か泣いてしまいそうな顔をするものだから、何故ここにいるのかと追及するのをやめた。
代わりに何かあったのかと理由を聞けば「…傑が高専を離反した」と教えてくれた。
夏油傑――。
私が二年の頃、五条くんと共に高専に入学してきた後輩の一人だ。とても礼儀正しい話し方をする優しいひとに見えた彼が、術師としては絶対にしてはいけないことをしたのだと、五条くんは言った。私はその日、一カ月ほど続いた出張から帰ったばかりで、後輩に起こった悲劇を何も知らなかった。
生まれた瞬間から最強で、鼻っぱしらの強い後輩が、唯一認めていた親友。見かけるたび、五条くんと夏油くんはいつも楽しそうに笑い合ってたのに。
ふたりの絆は強いと勝手に思っていた。
そんな形で夏油くんが去って行ったことは、少なからず私もショックを受けたのは覚えている。彼は"あちら側"へ渡ることを選択したのだ、と。
行き場のない悲しみとか、寂しさとか、そんなものを感じた時、五条くんが私に甘えに来るようになったのはあの夏の日からだ。けれど、ベッドに潜りこんで来たのはあの夜以来だった。どちらも理由は同じだけど、昔と違うのは。たったひとりの親友を、彼は永遠に失ったということ。
横になったまま、視線だけを五条くんに向ける。彼は未だに顔まですっぽり布団をかぶっているから、今どんな顔をしているのかまでは見えない。
「…五条くん。どうやって入った?」
何も応えようとしない彼の方へ、今度は体を向けて訪ねてみた。
「…鍵…開いてたよ。またかけ忘れたでしょ」
モソモソと動きがあり、やっと五条くんが顔を出した。アイマスクもサングラスもない、その色白で端正な顔が私の視界に映る。薄暗い室内で宝石かと思うほどの煌きを帯びた蒼い虹彩は、いつ見ても美しい。この輝きを見られるのは、私の他にも大勢いるだろう。けれど、彼のこんな表情を見られるのは、きっと世界中探しても私だけなんだろうな。
「…」
「…泣きたいなら泣いてもいいよ」
私の方へすり寄って来た五条くんが首元へ顔を埋めてくる。あやすように柔らかい髪を撫でれば「僕が泣くわけないでしょ」なんて強がりを吐いてくるけど。私の背中に回された腕に少しだけ、力が入った。
「傑をある場所まで運んで…最後に今までの文句を言ってきた。一方的にだけど」
囁くような声で聞こえた言の葉は、彼の心に隠された悲しみを乗せて、私の耳に静かに届く。どんな言葉をかけたのかは、聞かないでおこう。
「そうか…」
それ以上、何も言えなかった。きっと彼も、それ以上の言葉を望んでいなかった。五条悟は人前で弱さを見せない人だから、親友との決着をつけるまで、どれほどの痛みを耐えてきたんだろう。担任だった教師にも、そして今の自分の教え子たちにも、こんな姿を見せたことはないだろうし、これからも見せることはないはずだ。
けれども、"最強"に疲れたら私のところへ来ればいい。
そう願わずにはいられない。
心を空かせたペルシャ猫を、いつだって迎えられるように。私は温もりだけを用意して、ずっと傍で待ってるから。

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