03-或る事象-1
※夏油視点
2005年、初秋。だいぶ気温も下がり始め、涼しくなってきた朝のこと。寮の食堂で朝食を食べていると、例の如くドタバタとうるさい足音が近づいてくるのに気づいた。この大きさは悟だな。硝子ならもっと軽い音だし、他の先輩方に朝からこんな無粋な音を立てる人はいない。案の定、秒とかからず、食堂に悟が走り込んできた。
「あ、いたいた!…じゃなくて先輩、ちょっとアレ貸して!」
親友の私を無視して、悟は向かい側の席で同じく朝食をとっている先輩に声をかける。彼女は驚くこともなく、相変わらず淡々とした表情で振り向くと、朝の挨拶すらしない後輩に「おはよう、五条くん」と律儀に声をかけた。なのに悟は「そうじゃなくてアレ、貸して」と右手人差し指で、左手の袖の辺りを指しながらクルクルと回す仕草を見せた。何のことだ?と首を傾げたくなったが、それだけで先輩は理解したらしい。「ああ、アレ」と愛用のキャリーバッグから小さなポーチを出すと、中から裁縫セットを取り出して見せた。
「これか?」
「あ、そうそう!」
アレだけで何で分かったんだ、と不思議に思ったが、悟はそのまま先輩の隣を陣取り「袖、引っ掛けてほつれたから縫って」と自分の左腕を彼女へずいっと差し出した。いや、何で「貸して」から「縫って」に変わった?しかも先輩は分かっていたかのように、針と糸を出している。私も相当怪訝そうな顔をしてたらしい。先輩はふと顔を上げて私を見ると「この前もボタンが取れたと来たので縫ってやったんだ」と説明してくれた。なるほど、とは思ったものの、それでも悟の言葉足らずなジェスチャーで理解できるのは凄い。
彼女は器用に細い糸を針へと通し、悟から制服の上着を受けとると、ほつれたという袖口を確認。ああ、ここか、と言いながら、慣れた手つきでその箇所を縫い始めた。その姿を隣でガン見してる悟は、ご飯を待てされてる大型犬そのものだ。へっへと舌をだし、ぶんぶん尻尾を振ってるような幻覚さえ見える気がして、軽く目を擦ってみたが、目の前の光景はあまり変わらない。先輩が自分の上着を縫ってくれてる姿を見て、嬉しいという表情を隠そうともしてない。この男のこういう姿が見られる日が来るとはな。初めて会った時とはまるで別人だ。きっと先輩も内心では多少戸惑ってることだろう。
それにしても、彼女の食事を中断させてまで、自分の用を頼むのはいただけない。だから、つい注意してしまった。
「悟。先輩が食事中なのにそんなことを頼むなよ」
「いや、これから任務だし時間ねえんだもん」
その任務は私も同行するので分かってはいるが、それにしても、と苦笑してしまう。別に彼女に頼まずとも、補助監督の誰かに頼むということもできる。なのに最近の悟は何か困ったことがあると他の誰でもなく、先輩を頼ってくるのだから、人はこうも変われるものなのかと驚かされるばかりだ。
「…じゃなくて先輩さー」
「別に無理して先輩をつけなくてもいいけど」
「いや、無理してない。やっぱ呼び捨てにするのは先輩が俺の彼女になってからのがありがたみ出るし」
「はい、出来た。きつく縫っておいたからしばらくは大丈夫のはずだ」
「…いや、俺、今すんごく大事なこと言ったよ?」
先輩に軽くいなされ、悟は不満そうに唇を突き出した。しかし先輩はそれでも「朝ご飯は食べていかないのか?」とズレた質問をしている。思わず吹き出すと、悟の誰もを魅了する青い瞳は見事なまでに半分以下となり、私をじっとり睨んできた。
「何笑ってんだよ、傑」
「いや、別に。人の心とは摩訶不思議なものだというのを目の当たりにして感動してるんだ」
「ハァ?心理学でも始める気かよ」
なんて言ってる間に、先輩は食事を終え――今日もご飯大盛りをペロリと平らげてる――「じゃあ任務頑張って」と食堂を出て行ってしまった。それを見ていた悟は「あ…お礼言い忘れた」と、すぐにケータイのアドレスを開く。いや、まだ近くにいるんだから、そこは追いかけて言えよ、とは思ったが、悟いわく「電話して先輩が出てくれる瞬間が好き」とのことだった。あの俺さま気質だった悟をよくここまで骨抜きにしたものだ、と、改めて驚かされる。
そもそもの話。"憑きモノ筋"とかいう家系の人間だから、と最初から先輩を敵視してたのは悟だ。昔、名家の人間が集まる茶会で彼女を見かけた時、その危険性を悟の六眼は見逃さなかったという。
――あいつの周りだけが異様な空気に満ちていた。憑神を宿す一族のことはガキの頃に聞かされたことがあったけど、実際見てマジでヤバいやつだと思ったよ。
などと言われたが、私はその一族のことは知らなかったし、先輩を見ている限り何がヤバいのかも分からなかった。でも悟はその時に見た彼女の陰の力である"呪詛"を警戒してるようだった。
"本来、呪術とは人を呪う為のものである"、と説いたのは家の初代当主だったらしいが、その子供たちは己の力を善業に使うと決めて以降、今の家が出来上がったようだ。しかし強力な呪詛の力を持つ憑神をコントロールするのは至難の業で、少なくとも一族の半数が呪詛師へ落ちると言われているいわくつきの家系らしい。
陰と陽、どちらも持つからこそ、先輩にその力が受け継がれた時、呪術界総本部が見張る目的として、高専へ入学をさせたとのことだった。
そして悟はそれを知り、高専への入学を決めたという。
――もともと御三家の人間は通っても通わなくてもどっちでもいいんだよ。今さら習わなくてもガキの頃から散々呪術の何たるかを叩きこまれて育ってんだから。でも家の人間が入ると聞いて、監視する目的でここへ来た。
その話を聞いた時は、何故そこまでするのかと思ったものだが、あんな気質でも五条家の跡取りというだけあり、危険を事前に防ぐという責任だけはあるようだ。まあ半分は彼女と戦ってみたいという強者ゆえの望みもあったようだが、今ではそんな願望もすっかり鳴りを潜めてるようだ。
「あ、先輩?上着、さんきゅー。あ、それでさ。さっき言い忘れたんだけど…次の休みっていつ?え?しばらくないのかよ。いや、もし休みが合えばデートに誘…っあっちょっとまだ切んな!…」
ハァ、この様子じゃ秒で振られたようだ。悟の頭や腕が重力に負けて、どんどん下へ下へと傾いていくから、何とも分かりやすくヘコむ男だと苦笑してしまう。数か月前までは向かうところ敵なしだった五条悟が、たったひとりの先輩に惨敗を喫してるんだから、恋心とはやっぱり不思議なものだと思う。
悟が何故急に、彼女に対してそんな想いを抱くようになったのか聞いてはみたが、「思ってたのと違った」とか「を見てると何か和む」とか「だって変な人じゃん」などと、その都度アレコレ言うから、ハッキリ言って今もよく分からない。最近では悟自身も自分の心のうちを分かってないんじゃなかろうか、と思うようになった。
でもまあ、最初に会った頃の悟を思えば、今の悟の方が人間らしくて私は好きだけどね。
「傑~…先輩、しばらく休みねえって…」
「はいはい。今は繁忙期だしね」
未だに立ち直れていないのか、今度は私の隣に座り肩に頭を乗せて甘えてくる。今の悟に、もう最初の頃のような険はなく。これも全て初恋がなせる業かもしれないな、と、どこか微笑ましい気持ちになった朝だった。

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