
私は生きてる-02
これまで人より色んな経験をしてきた五条悟は滅多なことで驚かない。だがしかし、元恋人が霊体となって目の前に現れる、というのは未体験だった。その不思議現象が何の前触れもなく起こったことで、さすがの五条も心底驚き、また唖然としていた。
「な…何で…」
突如として姿を見せた元恋人のを、五条の六眼がしっかりと捉えている。しかも生身の人間としてではなく、霊体としてのだ。実体じゃない。実体じゃないということは――。
「…嘘だろ…まさか死――」
《さとる…たすけて…》
不意にが喋ったことで、五条はハッと我に返った。霊体としてのは目の前にいる五条を見て泣きそうな表情をしている。
「いったい…どうしてそんな姿に?何があったっ?」
思わず手を伸ばし、に触れた。普通の人間では触れることすら出来ない実態のない体でも、呪術師である五条なら触れることは出来る。だがどうしても手に伝わってくるのは少しの呪力と微弱な電磁波、温かみのない空気のような感触だ。
「お、おい悟…その人ってまさか…」
「ああ。彼女が…。僕の…元カノだよ」
「「「「…………え、えぇぇぇぇぇぇッ!!」」」」
後ろで見守っていた生徒全員もこの事態に驚愕したようだ。校庭に響き渡るほどの大きな声をあげた。
「な…何で霊体なんだよ?まさか元カノ死んだのか?」
「悟に嘘つかれてショックがデカすぎて、じ…自殺したとか?」
「おかかっ」
「み、みんな!まだそうと決まったわけじゃ――」
「いーや、それしか考えらんねーだろっ!恨みがあって化けて出て来たんだってっ」
それぞれが、この状況を整理出来ないまま慌て出した。しかし五条はから伝わって来る感情は、皆が言うように恨みで化けて出てきたものとは違うことに気づいていた。
「うるさい!オマエら、少し黙ってろ!今からに詳しい話聞くから」
「そ、そーだな…本人が来てるんだ…。真相を聞けば分かるか」
パンダも動揺しながらその場に座り、他の皆にも座れと促す。三人も担任の元カノの身に何があったのか気になり、そこは素直に言うことをきいた。それを見た五条は霊体のの手を引き寄せ、体を地面へと下ろす。そうすることでも落ち着いて来たのか、ホっとしたような気配が伝わって来た。最初は動揺した五条も今はすでに頭を切り替え、冷静に彼女の話を聞こうとしている。の身に何が起きたのかを知らなければ祓ってあげることすら出来ない。いや、むしろ彼女が死んだとはまだ認めたくないのだ。
「、教えて。君に何が起きたの?」
五条はそっと彼女の手を取り、優しく握りしめた。体温のない、ただふわふわとした感触があるだけの手。それでも愛しいと感じる。こっぴどく振られたのに、未だに忘れられない相手だ。
は逡巡しているように視線を反らしたが、後ろに座っているパンダ達を見て《パンダ…?》と少し驚いた顔をした。
「ああ、コイツらは僕の生徒で、ここは呪術専門の学校。僕がそこの教師だってことは話したろ?」
は思い出したように頷き、生徒の中に何故パンダがいるのかとも思ったが、自分に起きている不可思議な現象のこともあり、あまり深くは考えられないようだ。五条もそれを感じ取ったのか「とりあえずに何があったか教えて」と声をかけた。は頷いたものの、軽く首を傾げながら、
《でもよく分からないの……気づいたらわたし…ミャウ太郎の体になってた》
は五条を見つめながら泣きそうな顔をした。自分で自分の身に起きたことを理解できないようだった。
「じゃあ…覚えてることだけ教えてくれる?ミャウ太郎の中に入る前の記憶はある?」
《…同僚と…飲み会に行ったの…それで…タクシーが拾えなくて歩いて家まで帰った》
「歩いて?飲み会って夜だろ?そんな時間にひとりで歩いて帰るなんてダメだって前にも言ったよね」
慌てたように叱る五条に、は困ったように目を伏せた。
《…そうだけど…》
「全く…はいつも僕に心配させる」
《ごめん…》
「「「「………」」」」
すっかり二人の世界になっている。ここまで五条と元カノの会話を聞いていたパンダたちは、互いに顔を見合わせながらも、それぞれが首を傾げた。どうみても恋人同士の会話だからだ。
「ねえ…あのふたりって別れてるんだろ…?」
「そーだな」
「なのに何で悟は恋人みたいな態度で説教してんだよ…」
「オレが知るかよ…」
パンダと真希の会話を聞き、棘も「しゃけ…」と頷く。乙骨だけは心配そうに五条とを見ていたが、里香が何かを言ったのか「ダメだよ、里香ちゃん…彼女は敵じゃないってば」とボソボソ話しだした。どうやら乙骨に憑いている里香が霊体のを敵視しているようだ。そんな生徒達の会話など五条には聞こえない。再びに「それで…無事に帰れたの?」と問いかけた。
《それが…帰れたのかどうか…覚えてないの》
「覚えてない?」
《うん…マンションの近くまで帰って来たのは覚えてるんだけど…その後のことはすっぽり抜けてて…気づけばミャウ太郎の中にいた》
の話はこうだった。飲み会の後、タクシーが拾えず雨の中を歩いて帰った。そして自宅近くまで帰って来たところまではハッキリ覚えているものの、その後の記憶が曖昧らしい。そして次に意識がハッキリした時、何故か愛猫の体の中に入っていた。最初は夢だと思ったようだが酷い空腹と喉の渇きを感じ、これが現実のことだと気づいた。慌てた彼女は自分に異変が起きていると理解し、この不可解な現象をどうにか出来るとすれば、呪術師だと話していた五条なんじゃないかと思ったようだ。しかし猫の体で居場所の分からない五条の元へ行けるはずがない。しばらく自分の部屋の中でウロウロしていたものの、ミャウ太郎の体が弱っていたのか手足に力も入らず、遂に動けなくなった。途方に暮れたは五条にどうにか会いに行かなければと強く思ったそうだ。そして次の瞬間には何故か分からないが、この場所にいたと言う。
「え…テレポートしたって…こと…?」
《分からない…でも頭の中で悟に会いに行かなくちゃってずっと思ってたの。そしたら目の前にいるから驚いて悟を呼んだんだけど…》
「あ―…猫語になってたな」
《うん…ミャウ太郎の体にいると言葉は話せないから悟に伝えたくても伝わらないし困って、どうにかここから出たいって思ったら急に体が浮く感覚がして…》
「…霊体になって出られたってわけか…」
五条は納得したように頷くと、深い溜息を吐いた。多少は分かったものの肝心のところをが覚えていなければ彼女に何が起こったのかが分からない。
「…多分…君は今はミャウ太郎と精神的に繋がってる状態なんだと思う」
《え…どういう、こと?》
「きっとに何かが起きた時、強くミャウ太郎のことを考えたんじゃない?」
《…うん。確か考えてたと思う。帰って早くご飯あげなきゃいけないのにって。その意識だけは覚えてる》
「多分ミャウ太郎の中に入ってしまったのはそれが原因。そしてミャウ太郎も多分だけど君のことを強く思ってたんだと思う。それで互いに引き寄せられて精神だけがミャウ太郎のとこへいったのか、それとも…」
とそこまで言って五条は言葉を切った。
「…気づいたらミャウ太郎の中にいたって言ってたけど…それってマンションの自分の部屋にいたってことだよな?」
《…そう、だけど》
「そこに……自分の体はあった…?」
五条の問いには首を傾げながら《なかった…と思う》と応えた。
《ミャウ太郎が全ての部屋に行けるようドアは開けてあるから全ての部屋に行ったけど…わたしの体なんてどこにも…もしあったらもっと早くに夢じゃないって気づいたと思うし…》
「じゃあ……の体はどこにあるんだ…?」
独り言のように呟く五条に、は分からないと言って首を振った。後ろで聞いていたパンダや真希も事態を飲み込んだのか、もうからかうこともなく真剣にに起きたことを考えていた。
「悟…これは人間同士の事件だ。彼女に何があったのかは分からないけど警察に任せた方がいい」
「…真希」
「分かってんだろ?ここに彼女の霊体があるってことは彼女はもう――」
「言うな!」
五条は初めて感情のまま、真希に怒鳴った。敢えて考えないようにしていたのだ。もう、はこの世にいないかもしれないと。一度は結婚まで考えた相手だ。理不尽なことが、この世界にはたくさん溢れていることを嫌というほど知っている五条でも、それだけは信じたくなかった。
「でも彼女をこのままにしてはおけないだろ…。ちゃんと成仏できるように――」
《ま、待ってよ!》
真希の言葉にが驚いたような声を上げた。
「…?」
《その子は誰なの?わたしがもう死んでるみたいな言い方ばかりして…》
「…言ったろ?この子達は僕の生徒なんだ。そして同じ呪術師。みんなにもは見えてるし声も聞こえてるけど、肉体がないってことの意味をよく知ってる…」
《そんな…わたしは生きてる…!》
「…」
動揺し、感情的になったを見て、五条は宥めるように「落ち着いて…」と声をかけた。しかしは《ほんとだってばっ》と必死に五条へ言い張っている。
《感じるの…わたしはまだ生きてる!体はどこかにあるわ》
「…体はもちろんまだあるかもしれない。でも生きてるかどうかは…」
《生きてる…!どこにあるかは分からない…でもまだわたしとかすかに意識が繋がってるのを感じるの…!お願いだから死んだなんて言わないで…。わたしを元の体に戻して!お願い、悟…っ》
の言葉を聞き、五条はどうすべきか考えていた。本当に生きているのならどんなことをしてでも助けたい。出来れば自分の手で彼女を祓いたくはなかった。
《お願い、悟…もしあなたに不思議な力が本当にあるなら…わたしの体を探して――!》
必死に哀願して来るを見て、五条は黙って彼女を見つめた。その場しのぎの嘘を言っているようには見えない。は縋るような表情で五条を見つめ返す。一緒にいた頃と何ら変わらない、白く滑らかそうな頬と、優しい色を滲ませた瞳。この瞳に見つめられるだけで、胸がいつも甘く疼いていた。それは今も何一つ変わらない。
(もし…本当にが生きているなら…もう一度、彼女に会いたい)
五条はが生きているという可能性に賭けてみることにした。
「おい、悟…まさか本当に彼女が生きてるなんて信じてるわけじゃないよな…?」
「真希は黙ってて。のことは僕が決める」
きっぱりと言い放った五条を見て、パンダと真希、棘と乙骨は互いに顔を見合わせながら何も言うことが出来なかった。恐ろしいほど冷徹に、合理的に物事を考えるいつもの五条らしくないとは思っても、結婚まで考えた相手が生死不明とくれば、多少動揺しててもおかしくはない。しかしどう見てもが生きているとは考えにくい。生き霊の類は存在するが、それは本体が無意識で出している呪霊と同じ念のようなものだ。こうして感情を露わにしたり会話をすることはない。
「分かった」
《え…?》
「の体は僕が必ず探す」
《…ほんとに?》
「ああ。君が生きてるって感じるなら…どこかで本当に生きてる可能性がある。可能性が少しでもある限り、僕は君を何としてでも救いたい」
《悟……ありがとう…》
は泣きそうな顔で五条の胸元へ顔を埋めた。訳の分からぬ状況に陥り、精神的に参っていたようだ。五条も以前と同じように彼女の体を包むように抱きしめた。温もりもない霊体でも、ここに彼女の意識があるというだけで満たされる気がした。
《ごめんね…別れた人にこんなこと頼むなんて…どうかしてるってわたしも思う》
「でも僕のこと思い出してくれたのは嬉しい」
《だって…悟の本当の職業を覚えてたから…不可解な現象が起きたらそれを解決するのが呪術師の仕事だって言ってたでしょ…?だからもしかしたらって…》
「まあ…そうなんだけど…」
と、そこで五条は苦笑した。プロポーズをした時、には簡単にどんな仕事かは説明してある。しかしそれは呪霊のことであり、のような霊体相手ではない。しかも今回のことは人が起こした事件の可能性の方が高いのだ。
「とにかく…もっと詳しい話を聞かないと。の足取りがつかめないんじゃ体の場所すら分からない」
《うん…頑張って思い出してみる…》
素直に頷くに、五条の頬も自然と緩む。こういう素直なところも五条が惚れた理由の一つだ。霊体になっても可愛いと思ってしまう五条がいた。
「…悟のヤツ…」
「ああ……ニヤケてんな…」
「しゃけ…」
「ま、まあ…でもあんなに落ち込むくらい好きな人と霊体だとしても会えたんだし、五条先生も嬉しいんだよ、きっと」
「……憂太はホント…」
「え?」
「いや別に」
五条の元カノが霊体として現れたこのおかしな状況の中、呑気に恋愛論を口にする乙骨に、真希とパンダは苦笑を零した。
「でも……」
「ん?」
「悟が本気になったっていうだけあって、めちゃくちゃ可愛いな…」
「何か儚げで守ってあげたくなる人だよね」
「しゃけしゃけ」
「……パンダ、憂太、棘…。オマエらもか」
霊体にデレている男二人と一匹を見て、真希はもう一度、盛大に溜息をつく。その時、乙骨の「わ、ごめん!里香ちゃん!浮気じゃないってばっ」という悲鳴が運動場に響いた。