小学校五年の夏。長い休みに入ったらと色々な場所へ出かけようと、五条少年なりに計画を立てていたのは、前に彼女が「鍛錬と習い事ばかりでどこにも遊びにいけない」と嘆いていたからだ。
の家、家は御三家ほどではないものの、それなりの良家で知られており、一級術師を何人も輩出してきた家柄でもある。なので彼女に課せられるものはそれなりに大きいらしく、日頃からの鍛錬に加え、良家の娘として恥ずかしくないようにと術師には関係のない習い事もさせられていた。
それを命じていたのは厳しいと評判のの曽祖父だ。呪術界総本部の一人に数えられるほどの力と発言力があり、いわゆる保守派の一人でもあった。
逆にの祖父や両親はどちらかと言えば現代人っぽい考えのようで、鍛錬や習い事も大事だが、ガチガチに厳しくするのは良くないと、時々は曽祖父の目を盗んでを遊園地や動物園に連れ出していたこともある。
しかし一度それが曽祖父にバレて以降、を遊びに連れ出すのは難しくなったという話を前に聞かされたことがあった。
そこで五条少年は自分がを誘い出せば、曽祖父も首を縦に振るのでは、と考える。
まずを誘う前に家の曽祖父の元へ出向き「にも息抜きさせてやりたい」という名目で連れ出す許可を求めると、渋い顔ながらも「五条のボンが言うなら仕方ない」と苦笑い交じりで許してくれた。こういう時、御三家五条の名前は役に立つ。
思わず心の中でガッツポーズをする五条少年だった。
ただし――そういった男の子の努力を簡単に覆してくるのがという女の子なのである。
「夏休み?師範に誘われて空手の合宿に申し込んだの」
「え」
「あと、柔道と合気道、茶道にピアノのお稽古もあるんだ」
「……マジで?」
普段から鈍臭い自覚のあるは、この夏に自分を鍛え直すことを誓ったらしい。誰に言われたとかではなく、自分自身で考えたようだった。
それを聞いた五条少年が地味にショックを受けたのは、夏休みに入ればが大好きな動物園、ゴーカートに乗れるレジャースポーツプラザ、水族館、花火大会。後半は夢の国へ連れて行ってあげようと念入りに計画を立てていたからだ。特に夢の国は泊りがけの予定を組み、ホテルもきっちり予約。そこで遊び倒したあと、最後にパレードを見ながら正式にプロポーズをする。その予定表を見た両親から「本気すぎる」と笑われたが、五条少年は当然本気なので気にしない。
なのに不眠不休の中考えぬいたデートプランは初手からキャンセルされることとなったが、五条少年はと夏休みを一緒に過ごすという意気込みだけは諦めなかった。
「俺もその合宿に行く」
今度はが驚く番だった。
「今の動きなかなかいいじゃん。もう少しで出来んじゃねーの」
「やった!何かつかめそうな感じなの」
暑い中、延々と体を動かしてるのはもキツい。だが、もう少しでコツを掴めそうなところまで来ていたということもあり、五条に向かって何度も蹴りを繰り返す。でも16回目で限界が来たらしい。
急によろめいたかと思えば、その場にへたり込んでしまった。汗も大量に流し,顔は真っ赤になっている。それを見て逆に青ざめたのは五条だった。きちんと教えてあげなければと気負い過ぎて、つい真剣になりすぎてしまった。
「!大丈夫か?」
「ごめんね、悟……ちょっと休憩してい?」
「こんなことで謝んなって。俺もごめん。休憩入れてやれば良かった」
弱々しい声に苦しげな息遣いのを見て猛省していると、そこへ二人の特訓を見学していた後輩の七海と灰原が冷えたスポーツドリンクと冷却シートを持って走って来た。
「これで冷やしてあげて下さい」
「あーサンキュ、七海。ってかのオデコあっつ!」
「熱中症になりかけてるのかも……首元は冷たいタオルで冷やして下さい」
「オデコには冷却シートをどうぞ。あとウチワも!」
「おー灰原もなかなか気が利くな」
テキパキと動きながら指示を出してくれる後輩に感心しつつ、言われた通り、の首元や額を冷やしていく。
「冷たくて気持ちいい……」
「吐き気は?気持ち悪いとかねえの?」
とりあえず木陰にを運んで寝かせると、後輩の灰原が貸してくれたウチワで顔の付近を扇いでやる。それをキッカケに全員が休憩に入ると、さっきまで賑やかだった校庭は気の早い蝉の声だけが響いてきた。
そこまでの重症でもなかったのか、は「もう大丈夫だよ。ちょっと暑くてボーっとしちゃっただけ」と微笑む。時折、撫でるようにさわさわと吹く熱風が彼女や五条の髪を揺らしていった。さすがに昼近くになればジっとしていても暑い。
「頭痛くねえ?」
「大丈夫だよ。大げさだってば」
「そっか……了解」
「……ん?」
何が了解?とも思った瞬間、体を抱えられた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「ひゃ」
「大丈夫でも今のうちに涼しいとこに移動しとこうぜ」
「え、でも体術訓練は?」
「いつでもできんだろ、そんなもん。夜蛾センセーもいないんだしバレねえって」
サッサと校舎の方へ歩き出す五条にぽかんとしていた彼女も「過保護だなぁ、悟は」と笑う。そのまま速攻で保健室まで運ばれ、もう一人の同級生、家入硝子が五条によって召喚された。
「ごめんね、硝子ちゃん。勉強してたんでしょ」
しっかりベッドへ寝かされ、暑苦しいジャージを脱がされたは申し訳なさそうに家入を見上げた。
「いいのいいの。一通り終わって休もうと思ってたし。まあ今日は訓練もう終わりにしときなよ。これから更に暑くなるんだし、他の連中もエアコンの効いた体育館に移動したってさ」
「そっかぁ、わかった。悟もごめんね、せっかく教えてくれてたのに」
ベッド脇で青くなりつつ、しゃがんでいる五条にも声をかけると、「そんなの気にすんな」と頭を撫でられる。あとは家入が呆れるくらいに「何か欲しいもんある?」「水とかスポドリよりOS1の方がいいよな」などと言いながら「薬局まで行ってくるわ」と保健室を出て行こうと立ち上がった。それを慌てて止めたのは家入だ。
「それなら保健室の冷蔵庫に入ってるよ。夏場は結構、熱中症になりかける生徒も多いから」
「え、マジで?」
家入が設置されてる冷蔵庫を指すと、五条はすぐに中から目当てのものを取り出した。
「おぉ、気が利くじゃん。ゼリーとドリンクタイプ、はどっちがいい?」
「えっと……じゃあゼリー」
「だと思った」
五条は初めから分かっていたのか、ゼリータイプを彼女へ渡す。それもキャップをわざわざ外して。
高専に入ってから何度となく見せられてきたが、五条の幼馴染への熱愛っぷりは昨日今日始まったことじゃないんだろうなと家入は密かに苦笑した。それくらい手慣れているしもそれが普通になっているようだ。「ありがとう、悟」と笑顔で受け取っている。
こうして見ていると仲のいいカップルに見えるのだが、二人は何故か付き合っていないという。
不思議に思った家入だったが、二人を観察していると、その理由が徐々に分かってきた。
五条の方が彼女に惚れている、というのは家入にもびんびん伝わってくるのだが、問題はの方なんだろう。良くも悪くものんびり屋でお嬢様気質の彼女は、五条のことを異性としてというより、幼馴染という思いの方が強いようだった。
その理由を前にチラっと聞いたことがある。
五条って過保護すぎない?と言った家入に対し、はこう答えた。
――悟はわたしのこと好きすぎるから色々心配しちゃうみたい。
あっけらかんと応えるに家入の頬も引きつった。彼女にとったら「好き」という感情は恋愛に結びつかないのかもしれない。報われないな、五条……と同情すらしてしまった。
ただ、この際だからもう一つ深く追求してみようと思ったのは、唯我独尊男の片思いの行方が面白かったからに過ぎない。
――じゃあは五条のこと男としてどう思ってんの?
――男?
――うん、ほら。恋人にしたいなーとかいう感情はないのかなって。
思い切って切りこんでみると、は大きな瞳をぱちくりとさせて、それから軽く吹き出した。
――わたしに悟はもったいないよー!
――え?
――だって悟は五条家の跡取りだし、女の子からも凄くモテるから選び放題だもん。わざわざ幼馴染のわたしを恋人にするメリットないよ。何か親同士はわたしと悟をくっつけたいみたいだけど、そんなことになったら悟が可哀そう。
またしてもあっけらかんと言い切るを見ながら、家入も今度こそ心から五条に同情した。要するに、は家柄のことも含め五条悟という男を見てるせいか、個人的な想いにまで発展してないのだ。
再び、報われないな、五条……と、家入が心の中で合掌したのは言うまでもない。
そういう背景を知ってか知らずか。五条は懲りもせず今も可愛い幼馴染にデレている。
「ゼリー吸ってるもかわいー」
ちゅるちゅるとOS1のゼリーを吸っているをケータイのカメラでパシャパシャ写しながら、一人ご満悦の五条を眺めつつ、家入は「あほか」と目を細めた。
ケータイの待ち受けをに設定している五条が、こうして写した写真を日替わりで変えてると知った時は、さすがに「きも」と言ってやったが、当の本人は全く止める気配もない。もその辺は特に気にしてないようだ。
前に一度「彼氏でもない男に待ち受けにされてるの嫌じゃないの」と尋ねたところ、彼女は笑顔で自分のケータイを開き、それを家入に見せてきた。
――わたしも悟が待ち受けなんだ。
――は?
――ちっちゃい悟も可愛いでしょ!
彼女の待ち受けには、まつ毛バッサバサの可愛らしい美少年がどや顔でピースをしている画像が設定されていて、家入は言葉を失った。
ふと思う。"こいつら似た者同士"かもしれないと。まあの方は今の五条ではなく、子供の頃の五条、というのがミソではあるが。
「もう……悟ってば写真撮らないでよ。今、髪も崩れてるのに」
「そーかあ?いつも通り可愛いけど?」
「……」
注意するとこそこ?と家入は思うのだが、もう直接突っ込む元気はない。そろそろ戻るか、とキャスター付きの椅子から立ち上がった。
「じゃあ私は行くから――」
「気になるなら俺が髪縛り直してやろうか?」
「え、ほんと?じゃあお願いしようかなぁ。悟の方が器用だし」
「もっと可愛くしてやっからヘアゴム貸せよ」
「やったぁ」
「……(これで付き合ってないなんてねえ)」
仲良くイチャイチャしだした二人を半目で眺めながら、家入は溜息交じりで保健室を後にした。
どこからどう見ても、五条の場合は過保護を通り越してスパダリ感が漂う。可愛い彼女が心配でたまらないといった感じだ。
「何がそんなに心配なんだか……」
その時、ふと前にから聞いた話を思い出した。
――そう言えば元々過保護気味だった悟が更に過保護になったのって、思えばわたしが遭難しかけた時からかなぁ?
――え、遭難って……どこで?
――子供の頃ね。一緒に空手を習ってたんだけど、それの合宿の時にわたしが山で迷子になって怪我しちゃったことがあって。
――え、山?
――うん。合宿先が山間にある師範の別荘だったから走り込みするのは山道とかだったの。で、その道を間違えて迷子になったあげく足を滑らせて山道脇の下に転げ落ちて大怪我しちゃって……その時わたしを助けに来てくれたのが悟なの。
当時のことを思い出したのか、は嬉しそうな笑顔で「あの時の悟はヒーローに見えたなぁ」と言っていた。何とも子供らしいエピソードだと思いつつ、それ以降五条の心配性が加速し、結局空手も辞めさせられたということだった。同時にその空手道場もなくなったらしい。
そこまでするか、と驚いた家入は五条にその話を持ち出し突っ込んだことがある。すると五条は呆れ顔で言った。
――あの事故はのドジが原因じゃねえ。俺のせいなんだよ。
何とも言えない表情を見せた五条を思い出す。が気にすると嫌だからと詳しいことは教えてくれなかったものの、五条はどこか申し訳なさそうにしていた。
「何があったのやら……」
保健室から二人の楽しげな声が響いてくるのを聞きながら、家入は肩を竦めて歩き出した。