03-帳を下ろそう・前編
AM:6:00
わたしの一日は恵より一時間早く起きるとこから始まる。
目覚ましよりも少し早めに目が覚めて、まずは恵が起きる時間に時計を合わせ直す。
「これでよし、と」
恵の頭の上にそれを置いて準備完了。
恵は頭まですっぽりと布団をかぶっているから、おはようのキスも出来なくってちょっと寂しい。
仕方ないから彼を起こさないよう細心の注意を払ってベッドを出ると、まずは目を覚ます為に顔を洗う。しっかり歯も磨いて、さあ髪をブローしようとドライヤーを持ったところで、ふと手が止まる。恵が寝てるのを思いだしたのだ。でもブローしないと寝ぐせが直せない。
わたしはドライヤーを持ったまま隣の恵の部屋へ向かった。
わたしと恵の部屋は隣同士だ。ここに引っ越して来た時に五条先生が気を遣って隣にしてくれた。
恵は「別に部屋まで近くなくていい」なんて言ってたけど、夜になると「こっち来るか?」と部屋に呼んでくれるから殆ど恵の部屋で一緒に寝ている。
でも今は恵の部屋の反対隣に悠仁が引っ越して来たから、その日から恵はわたしの部屋で寝るようになった。
何で?と聞いたわたしに、恵は凄く困ったような顔をして一言。
「壁…薄いしも嫌だろ」
どういう意味なのか分かった時は真っ赤になってしまった。恵はそういう細かいところを気遣ってくれる。
「俺も…聞かせたく…ないし…」
と後でカタコトながらもそう言ってくれた時はちょっと嬉しかったけど、でもやっぱり恥ずかしい。
この一年の寮に住んでるのは、わたしと恵、悠仁、そして野薔薇ちゃんだけだから、その辺は良かったかもしれない。
ちなみに野薔薇ちゃんは向かい側の一番奥だから少し遠いのだ。
「よし、ブロー出来た」
薄茶色の柔らかすぎる猫っ毛はきちんとブローをしないと、すぐ爆発しちゃうから困りものだ。
今日はどんな髪型にしようか考えて、面倒だからポニーテールにした。でもきっとまた五条先生にグシャグシャにされるんだろうなあと思うと、ちょっと憂鬱だ。
「うーん…恵がわたしの部屋で寝るようになったから毎朝こっちに来なきゃいけないのが地味に大変」
わたしの方が起きるのは早いから、前は恵の部屋から自分の部屋に戻って色々準備をするのは楽だった。でも今度からは静かに用意しないと、恵まで起こしてしまう。
「とりあえず着替えてこよ」
恵の部屋を出て再び自分の部屋へ戻ると、用意してあった制服に着替える。そして今日の自分の仕事内容が入っているタブレットを持って、静かに部屋を出た。
まずは食堂に行って朝ご飯を食べよう。
この高専には非術師のオバちゃんの市子さんがいて、わたし達生徒のご飯を賄ってくれている。 市子さんはわたしよりも更に早く起きるのか、朝早くに食堂へ行っても、いつも優しい笑顔で迎えてくれるのだ。
「市子さん、おはよう御座います」
「あら、ちゃん。今日も可愛いねぇ。ポニーテール?」
「うん。三つ編みも考えたんだけど面倒で。あ、今日はトーストのハムエッグセットをサラダ付きでお願いします」
「あいよー。コーヒーはいつものミルクたっぷりカフェオレでいいのかな?」
「はい」
注文を済ませるとテーブルに座り、タブレットでスケジュール確認を始めた。
今日の呪術実習の場所をチェックして、許可申請が必要なものがないか確認していく。
今日の現場は吉祥寺にある廃ビルだ。数日前から呪霊が出現するようになったらしく、五条先生のいつもの"ダンジョン探し"で発見したらしい。
五条先生はわたし達の引率の他に自分の任務で全国津々浦々と飛び回っているのに、こうして生徒の経験値を上げるための場所探しも怠らないのだ。
自分で良く言っているけど、本当に五条先生はスーパーティーチャーだと思う。
ん?あれ?グレートティーチャー五条だっけ?
まあ、どっちでもいいけど、一体いつ休んでるんだと思うくらいにわたし達の担任は忙しい…のに超元気な人だと思う。
「んーと。ここのビルの所有者は…連絡済で許可が出ているから、これはOK、と」
一つ一つ見逃しはないかチェックしていると、市子さんがモーニングセットを運んできてくれた。
「はいよーちゃん」
「あ、ありがとう御座います。市子さん」
「ちゃんはえらいねー。朝早くから仕事して」
「いえ…わたしは仕事が遅いから人より多めに時間つかわないとヘマしちゃうの」
「でも補助監督の仕事は細かい事をアレコレやらなきゃいけないし術師の人達より時間は倍も働いてる。なのに存在は軽んじられたりするからねえ…」
市子さんは溜息をつきながら首を振っている。
確かに市子さんの言う通りだ。補助監督の仕事内容は生徒のわたしから見てもめちゃくちゃ多くて、こんなことまでやるの?というような仕事が文字通り山ほどある。
わたしはまだ生徒だから残業はないけど、実際に補助監督をしている大先輩の伊地知さんは毎日のように残業してるのを見かける。
日に日にやつれていくのは気のせいじゃないはずだ。なのに術師からはただのサポート要員としてしか見て貰えず、扱いが雑だったりバカにされたりもするみたいだ。
重労働の上に過酷な環境…つくづく報われない仕事だとは思う。いや高専という場所がすでにブラック企業なのかもしれない。
お給料が高給なのが救いだ。 まあ普通のサラリーマンよりは、だけど。
でも恵の傍にいる為なら、わたしはここで頑張るしかない。
「僕は軽んじてないけどねー。大事にしてますよ?補助監督の皆さんも」
「…五条先生?!」
唐突に聞き慣れた声がして振り返ると、いつものようにアイマスクをしていても分かるほど、元気な笑みを口元に浮かべながら五条先生が食堂に入って来た。
いつも思うけど先生は一体いつ寝てるんだろう。
「おはよー。今日もキュートだね! もちもちプリティだね!」
「……おはよう御座います」
五条先生はニコニコ(多分)しながら、わたしの隣に座るとすぐに頭を撫で始めた。髪が乱されていくのは――すでに諦めの境地だ。
「あれれ?なーんか暗いなあ。ちゃんと寝た?」
「…五条先生が髪をグチャグチャにするからだもん」
「あーごめんごめん。じゃあ僕が直してあげる」
五条先生が胡散臭い笑顔でわたしの乱れた髪へ手を伸ばそうとしたその時、背後に気配を感じた。
「センセー。は俺のだから」
「…あれ、恵?」
五条先生の伸ばした手をガシっと掴んでいたのは、未だ眠そうに欠伸を噛み殺している恵だった。
「恵、どうしたの?もう起きたの?」
わたしが腰を浮かせて尋ねると、恵は目をゴシゴシ擦りながら隣へ座った。前髪が少し濡れているのは顔を洗って来たからだろう。
ちゃんとタオルで拭いてっていつも言ってるのに、恵はそういうところが結構雑だったりする。
「…オマエ、30分早く目覚ましかけたろ…」
「え、嘘…」
わたしは七時にセットしたつもりだったのに、と思っていると、恵は苦笑交じりで「6時半に鳴り響いた」と言った。
「あ…ご、ごめ――」
「いいよ…腹減ったし俺も朝食にする」
恵は眠そうな顔ながら、わたしの乱れた髪を直してから市子さんの方へ歩いて行く。それを見ていた五条先生はニヤニヤしながら「恵のヤツ、ほーんとヤキモチ妬きだね」と笑った。え、恵ってヤキモチ妬くのかな。
「そ、そう…かな」
「そーでしょ。ま、僕の前では特にね」
「あ、付き合いが古いから?」
「あーそれもあるな。悠仁達の前じゃ、まだああいう姿は見せないか」
五条先生はどこか楽しげに言うと、徐に立ち上がった。
「んじゃー僕もご飯にしよーかな」
そう言いながら五条先生は恵の方に歩いて行って、また絡んでは「ウザい」と言われている。 絶対、恵の反応を楽しんでやってるな、あれは。
二人を観察しながら市子さんの作った目玉焼きに箸を入れるとジュワっと黄身が溢れてハムと白身を覆っていく。
このトロトロの黄身をハムとか白身に絡ませ、パンに乗せて食べるのが子供の頃から好きだった。
「、ついてる」
「…んぐ」
いつの間にか恵が戻って来てた。テーブルの上には焼き魚定食。恵の朝はだいたい和食と決まっている。
「あ…ありがと」
「ん」
わたしの唇の端についた黄身を指で拭って、それを舐めとっている恵にお礼を言う。昔から恵はわたしのダメなとこを受け入れて、些細なことまで世話をしてくれる。
愛想のない見た目からは想像できないほどに、大きな愛情を与えてくれる。
「相変わらず仲いいねー」
笑いながら恵とは反対側のわたしの隣に座った五条先生は、クリームたっぷりのパンケーキとフルーツの乗ったトレーをテーブルに置いた。
「うえ…先生、また朝からそんなに甘いもの食べるんだ」
「美味しーよ?寝起きの頭を働かせるには、これくらい食べないとね」
言いながらも五条先生は綺麗な所作でナイフとフォークを使い、パンケーキを口に運ぶ。さすが名門五条家のお坊ちゃま…もとい。当主さまだ。
「ところで。今日の呪術実習の準備は出来てる?」
「あ、うん。えっと…各方々に許可申請して近隣の人間は避難させて…あとは…」
「"帳"」
「あ、そうだった」
今日は初めてわたしが"帳"を下ろす日だった。思い出した瞬間、どんより気分が重くなってくる。ただでさえ鈍くさいわたしが、ちゃんと立派な帳を下ろせるんだろうか。
「ちゃんと覚えた?」
「う、うん…でも自信はない」
「大丈夫。この前、伊地知に散々教わったんだろ?」
「うん…でも一回も成功しなかったの…」
「まあ、僕らみたいに呪術を昔からかじってる人間からすれば超簡単でも、にとっては何もかも初めてやることなんだし焦らなくていいよ」
五条先生は笑顔でわたしを見つめながら(多分)頭にポンと手を置いた。アイマスクのせいで分かりづらいけど、口元に浮かんでる笑みは優しい。
「でも心配なら任務に行く前に僕が見てあげるよ」
「う、うん…」
そこでまたグシャグシャにされる、と身構えたものの、五条先生はそれを感じ取ったのか苦笑しながら手をどけた。
「そーんな睨むなよ、恵」
「……睨んでないっスけど」
恵の方を見ると、恵はプイっと顔を反らしてしまった。でも少し不機嫌なオーラは出ている気がする。
それに隣で五条先生が笑いを噛み殺しているのは恵のそういうオーラを感じ取っているからかもしれない。
「あれぇ?みんな早くね?」
その時、食堂に賑やかな声が響き渡った。ふと入り口を見れば悠仁と野薔薇ちゃんが入って来たところだった。
「おはよ、悠仁。野薔薇ちゃん」
「オッス」
「…おはよぉ…」
野薔薇ちゃんは未だ眠たいのか、目を擦りながらも欠伸を連発している。きっとまた夜更かしでもしてたんだろうな。何か東京観光の雑誌とか買い込んでて、それを見ながら遊びに行く日を想像するのが楽しいらしい。
「あれ、、アンタもう行くの?」
急いで食べ終えたわたしを見て、野薔薇ちゃんが驚いている。
「ちょっと任務前にやることあって」
「そー。僕と二人で"帳"の練習~」
「先生と"帳"の練習~?あんなもんに練習必要あんの?」
「こーら、野薔薇。僕らには簡単でも最近、呪術のことを習い始めたには少しの呪力コントロールも難しいんだからね」
「あーそっか…。ごめん。頑張ってね、」
「うん。ありがとう、野薔薇ちゃん」
応援して貰えた気がして嬉しくなった、今日こそ成功するような気がしてきたぞ。
補助監督としてこんな初歩的なことも出来ないようじゃ、皆のサポートなんか出来ないんだからもっと頑張らないと。
この時のわたしは野薔薇ちゃんに背中を押されたような気分だった。
「んじゃー行こうか、」
「うん」
トレーを下げて来た五条先生に促され、行こうとした時、「あ、。俺も行く」と、恵もあっという間にご飯を食べ終えて、すぐにわたしと先生の後を追って来た。珍しく付き合ってくれるらしい。
「恵…?いいの?」
「……別に後は出るだけだし」
言葉は素っ気ないけど、もしかしたら失敗しないか心配してくれてるのかもしれない。
「ははーん。恵、僕とが二人きりで練習するのが嫌なんでしょ」
「…俺が嫌がるようなことしようとしてんスか」
五条先生にからかわれ、恵が少しむっと目を細めた。先生は恵のそういう反応を面白がってるんだからスルーしたらいいのに。
「するわけないでしょー?僕はを可愛がってるんだから泣かせるようなことはしないよ」
「……どーだか」
「ははは、僕も信用ないね~」
更に楽しげに笑った五条先生はサッサと食堂を出て行く。その後から急いでわたしと恵も追いかけて行った。
だいたい五条先生はわたしをダシにして恵とのコミニュケーション(それも歪んだ)を取ろうとするから少し困る。
けど、恵が普段見せないような顔を見られるのはちょっと嬉しいかも。
怒るから恵には絶対に言えないけど。
「恵、心配してくれたの?」
「…が失敗しないかの心配な」
「……酷い…」
相変らずの態度につい唇を尖らせる。たまには恵の方から「好きだよ」とか「妬いてる」くらい言ってくれてもいいのに。
女の子は好きな人の前じゃ、意外と単純なんだから。恵と一緒にいるだけで、わたしはいつだって幸せなんだから。
「恵…大好き」
「……知ってる」
かすかに微笑んでわたしの頭を優しく撫でてくれる恵が、やっぱり好きだなと思う。
だからこの先もずっと、一緒にいてね。
それでたまにはケンカもするの。朝ご飯のこととかでね。
でもすぐに仲直り。きっと、いつか笑い話になるような、そんな思い出を二人でいっぱい作りたい。
そんなささやかな夢を わたしに一つ下さいな。
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