06-灰色の世界②



薄曇りの空にびっしりと雲が切れ間なく広がっている。頬に触れる風は湿っていて今にも雨がふり出しそうな天気だ。こうして寝転がって見上げていると、視界一杯が灰色で。次第にどちらが上か下か分からなくなってくる。まるで昔の俺の心を写し取ったみたいに、限りなく黒に近いグレー。
見ていると飲み込まれそうで、俺は荒い呼吸を整えてから体を起こした。

「伏黒~!もうバテたのかよ」
「ったく体力ないわね~。夕べはナニしてたのかしら~」

虎杖と釘崎が運動場で呪具を交えながら叫んでいたが、さくっと無視して額に浮かんだ汗をタオルで拭った。特に釘崎にはアレを見られたせいで今朝からやたらとジロジロ見られるから嫌になる。別にアイツにどう思われようがどうでもいいが、からかうネタを提供してしまった感は否めない。

「はい、恵」

鬱々とした気持ちを溶かすような彼女の声に顔を上げると、目の前にはスポーツドリンクの入ったペットボトル。それを差し出しているのは眩しいくらいの笑顔を見せるだった。

「サンキュ」

の笑顔に何故かホっとしてドリンクを受けとる。昔の自分に引き戻されそうになる俺を引き留めてくれるのは、いつだって彼女だった。

「オマエ…それどうした」

ふと見れば、の膝に擦り傷があった。かすかに血が滲んでいるのを見て顔をしかめると、彼女はわたわたしながら「ちょ、ちょっと転んだだけだよ」と笑っている。補助監督でも体力は必要だ、と自らオレ達との特訓に参加したの体には、最近生傷が絶えない。言わんこっちゃない、と軽く息を吐くと、こんな時の為に持ってきたリュックの中から消毒液と絆創膏を取り出した。

、座って」
「え、大丈夫だよ」
「いいから」

俺が見上げるとはモジモジしつつも隣に腰を下ろした。自分がドジだと自覚してる分、怪我をすると気まずそうな顔をする。それを心配はしても、別に誰も責めやしないのに、こいつは鈍臭くて申し訳ないと勝手に思ってるようだった。
消毒液をコットンに浸して傷口に当てると、やはり沁みるのか彼女は僅かながら顔をしかめている。

「沁みる?」
「す、少し。でも平気」

傷口を丁寧に消毒すると、は嬉しそうな顔で「ありがとう」と言ってくれる。でも素直じゃない性格が災いして、俺はいつものように素っ気ない返ししかできない。こんな俺を、は好きだと言う。誰よりも必要だと頼ってくれる。慈しんでくれる。唯一、俺の心を温めてくれる大切な存在。

「これで大丈夫だろ」

傷口に絆創膏を貼って膝をぺちんとはたけば、「痛いよ、恵」と可愛い苦情を言われた。

「オマエも少しはケガをしないように動けよ」
「…だ、だって…」
「あとショートパンツじゃなく、長いの穿け。その方が多少マシだろ?」
「え、でも暑いよ…」

彼女は極度の暑がりだ。そして冬は寒がり。要するにこらえ性がない。そんな彼女がオレの為に苦手なことを頑張り、補助監督として一緒に高専に来てくれた。それが何より幸せなことだと気づかされる。がこうして隣にいてくれるだけで、俺は――。

「はい、そこー!イチャイチャしない!」
「……先生」

腹の底からイラっとくる声が背後から聞こえてきた。その瞬間から思い切り感情が顔に出ていたらしい。五条先生は口元に緩く弧を描きながらこっちへ歩いてきた。

「あれ、恵、なに、その顔。いつにも増して黒いオーラが出まくってるよ」
「別にイチャイチャしてないっスけど…」
「えー?そーお?甲斐甲斐しくの手当てしてあげてたじゃない」
「……手当すんのがイチャイチャに分類されるんスか、先生の常識じゃ」
「さーて!次は体術の時間だよー、みんなー」
「………」

俺のツッコミを見事にスルーして、五条先生は虎杖たちの方へ歩いて行く。相変わらず適当で緩い人だと思う。最初に会った時にはすでにあんな感じだった。

「げー五条先生、ちょっと休憩させてー」
「何、悠仁。それくらいでバテたの?」
「バテるに決まってんでしょ!この蒸し暑い中、一時間以上、呪具振り回してんだから!」

虎杖に続き、釘崎まで文句を言いだし、五条先生もさすがに仕方ないなーと苦笑を零した。どうせ、ここで無視したら、虎杖も釘崎も休ませるまで文句を言い続けるのは目に見えている。先生もそれを分かっているから休憩をとることにしたようだ。

「じゃあ十分の休憩~」
「短っ!」
「文句言わないの」

そのやり取りを聞いていたが慌てたように立ち上がり、大きな木の陰に置いてある保冷容器の中から二人分の飲み物を出している。そこまでしなくても、と毎回思うが、これも補助監督としての仕事の内だと、は笑う。そういうマメで頑張り屋な性格は中学の頃とさほど変わらない。

「はい、野薔薇ちゃん、悠仁」
「ありがとー。気が利く~」
「サンキュー、

二人は汗を拭きながらも彼女からドリンクを受けとると、それを一気に飲み干して「生き返る!」と大げさに騒いでいる。はそんな二人を見ながら嬉しそうな笑顔を見せた。彼女は人の為に何かをするのが好きみたいだ。自分が誰かの役に立つことが嬉しい。前にそう話してた。自分がここにいていいと思えるからだそうだ。存在理由が欲しい、と彼女は言った。親に捨てられた子供は、自分は生きてていいのかどうかも分からなくなるから。
俺も似たような環境だったからこそ理解できるけど、俺には津美紀がいたから寂しくはなかった。
でもは両親もなく、兄弟もいないせいで小学校途中から中学卒業まで、殆どを施設で過ごした。施設の子供たちがいたから寂しくなかったと言ってたけど、あれは彼女なりの強がりだ。

「あと冷たいタオルもあるからね」
「ありがとー!生き返るわー」
「俺もー。に生かされてるわ…」
「ほーんと、こんなに可愛くて気の利く子が、何で伏黒なんかの彼女なわけー?」
「……聞こえてるぞ」

釘崎はわざとらしいくらいの大きな声でいつもの嫌味をぶつけてくる。そんなの俺が一番思っていることだ。素直で、優しくて、少し鈍臭いけど何事にも一生懸命な彼女が、何で俺なんだって今でも思う。

「バカだな、釘崎。やっぱ怖い思いしてるとこへ助けに来てくれたら、そりゃ惚れるだろ」

虎杖がまたその話を蒸し返すから軽く舌打ちが出た。あの頃のことはあまり思い出したくもない。

「でもさー助けたまでは分かるけど…その後はどんな風にくっついたわけ?この不愛想な男と」
「え、っと…」

釘崎が余計なことを言いだし、更に顔が引きつった。が俺の様子伺うようにチラチラと視線を送ってくる。無言のまま睨み、言うなという圧をかけると、さすがに彼女も苦笑気味に頷いた。

「そ、その話はまた今度…」
「えぇー?いいじゃない、教えてよ」

あの様子じゃ聞き出すまでしつこく聞いて、最後はが値を上げて口を割る未来しか想像できない。でもそこで助け船を出してくれたのは、まさかの五条先生だった。

「はい!休憩終わり―!恵!悠仁!野薔薇!こっち来て」

五条先生の号令で、釘崎は「えー?もうー?」と文句を言いつつ、虎杖と歩いて行く。それには少しだけホっとした。釘崎には余計な情報を与えるなって後でに言っておかないと

「恵も頑張ってね」
「…おう」

ニコニコと俺を見上げてくるの頭を軽く撫でた。それだけで嬉しそうにするんだから嫌になる。何でこんな俺のことを、はそこまで想ってくれるんだろう。
出逢った頃は、まさかこんな関係になるとは、俺も思っていなかったのに。





と初めて言葉を交わしたのは中学二年の頃だった。元々クラスメートで彼女の存在だけは知っていた。クラスの中でも一際小柄で女の子らしい印象。
人見知りだったようで、あまりクラスの女子と馴染めていないというのは他人に興味のない俺でも薄々気づいていた。
その代わり、男子からは結構話しかけられていたようにも思う。小動物みたいで素直そうなところが、男の目を引いたのかもしれない。俺は俺で特に誰と親しくするでもなく、毎日を漠然と過ごしていて。時々フラっと現れては厄介な任務を押し付ける怪しい白髪の男の存在に少しだけイライラしていた日々だった。顔も知らない父親に売られそうになった俺を、救い出してくれたのはその男だというのも気持ちを鬱々とさせた。

代わりにオレは中学を卒業したら呪術師とやらにならなければいけない。善人でもない俺が、どのツラ下げて他人を助けるというんだ。
ガキの頃はまだ良かった。それが津美紀の為になると信じて、言われるがまま呪いを祓っては経験値を摘み、式神を次々に承伏させて増やしていく。そういう力をつけるのは自分の為にもなる。そう信じてた。
でも中学に上がる頃から少しずつ色んなことを理解できるようになった時、自分の運命がとてもおかしなもんだということに気づいてしまった。

日増しに募っていく訳の分からない苛立ちを、群れで弱い者イジメをしていた不良達にぶつけながら、ただ息をしているだけの日常。義姉の津美紀に叱られても、あの頃の俺は素直に聞くことも出来なかった。だからクラスの女子がを無視したり、当番を押しつけたり、そんなイジメのようなことをしているのに気づいた時も、いつものように妙な苛立ちを覚える程度だった。
 
「あ、さーん。掃除当番変わってもらっていいかなー?私これから塾があるのー」
「あ…うん。いいよ」
「ありがとー!助かるわー」

クラスでも目立つグループの酒井千夏って女は、いつも何かしらの理由をつけてに自分の作業を押し付けていた。明らかに嘘だと分かりそうなものなのに、それをバカ正直に信じて受け入れる。そんなのことも、見ててイライラした。

「千夏ってばまーたさんに当番押し付けて」
「いいんだって。あの子、何でもうんって言うし、やらせておけばいいんだよ。それに何かあの子、変なもの見えるとか言うし気味悪いじゃない」
「確かに。あの子ってちょっと変だよね。何もないとこジっと見てることあるし不気味ー」

そんな悪意たっぷりの感情を口から吐きだすこの女達にもイラついた。下らない。程度の低いプライドを満たすために、他人を貶める悪人でしかない。
そしてそんな悪人に足蹴にされているとも知らないで、は教室の掃除をバカ丁寧に頑張っていた。誰も真面目にやっていないのに、一人だけ黙々と手を動かす。そんな姿を見ていると、どうしようもなく腹が立った。

「…伏黒…くん?」

が運ぼうと手を伸ばした机をガンっと蹴とばすと、彼女は酷く驚いた様子で俺を見上げた。

「オマエ…バカじゃねえの」
「…え?」

第一声がそれ。きっとには意味が分からなかっただろう。本気できょとん、とした顔をしていた。怒っても良さそうなものなのに、彼女の色素の薄い瞳に怒りの感情は浮かんでいなかった。普通、いきなりバカだと言われたら、誰だってムっとはするものだ。なのに、彼女にはそれがない。

「あ…ご、ごめんね。この机、使ってた?」
「…は?」

何とも的外れな勘違いをしたようで、はわたわたしながら謝ってきた。彼女は何も悪いことをしていないのに、申し訳なさそうに俺を見上げる。その顔を見ていると小さな罪悪感が芽生えて、何とも居心地の悪い空間になった。

「別に謝るようなことしてねえだろ、オマエ。何で謝んだよ」
「え…だって…伏黒くん、何か怒ってるし…」
「チッ…別に怒ってねえ」
「あ、伏黒くん…っ?」

それ以上、向かい合っていたら更に酷い言葉を吐いてしまいそうで、俺は早々に教室をあとにした。どんな親に育てられればあんなお人よしに育つんだ。きっと両親から甘やかされて愛情たっぷりに育てられたんだろう。俺とはまるで正反対。そう思っていた。
の家の噂話を、聞くまでは。

ある日の昼休み、机に突っ伏してウトウトしていた俺の後ろの席で、クラスの女子どもがの噂話を始めた。

さんって両親いないらしいよ」
「ウソ―何で?死んだの?」
「ううん。どっちも愛人作って蒸発だって。さん、小学校の頃に置き去りにされて今は施設から学校に通ってるっぽい。同じ小学校の子が言ってたから間違いないよ」
「え~置き去りってひっさーん。私なら恥ずかしくて学校来れない~」
「あの子、一人っ子だったみたいだし、ガチで天涯孤独じゃん」

そんな会話が聞こえてきて、俺は少なからず衝撃を受けた。自分と似た境遇だったこと。なのにそんな素振りさえ見せない。俺には津美紀がいたけど、は置き去りにされた時点で独りぼっちになったのだ。

「あ~でもそれ聞いて納得。男子に媚びるのは母親の血を引いてるんだよ、きっと」
「そうかもねー。愛人作って蒸発しちゃうような母親じゃあね~」
「それか、親もあの子が怖かったんじゃない?娘があれじゃ捨てたくなる気持ちも分かるわー。さっきも何か屋上に上がる階段をジーっと見ながら立ってたし、怖すぎ――」

椅子を蹴り上げて立ち上がったら、がたんっというデカい音が教室に響いて、それまで饒舌だった女達がビックリした顔でこっちへ振り向いた。

「怖いのはオマエらだろ。の前じゃ嘘くさい笑顔貼り付けて、あげく面倒ごと押し付けてんだから」

我慢も限界だった。聞きたくもない話を聞かされて色んな感情が渦を巻くから、ついそんなことを口走っていた。
急に立ち上がった俺を見て、酒井達は驚いたような間抜け面をしていたけど、最後は俺を睨みつけてきた。

「何よ、伏黒。アンタもあーいう女、タイプなんだ」
「いいよね~さんは。親がいなくたって守ってくれる男がわんさか寄って来るんだもん」

悪人が嫌いだ。他人を羨み、妬み、醜い嫉妬を周囲にまき散らす。親がいなくても周りを大切に扱う。まともな家庭に育ちながら、人を見下ろし、踏みつけようとするコイツら。どっちが上等な人間かなんて、誰の目から見ても明らかだ。

「オマエらはかわいそうだな。まともな環境で育ったわりに、頭が弱くて」
「な…何なの?コイツ!」
「何でもいーけど、オマエらのその更地みたいな想像力をよーく膨らませてみろよ。親が急にいなくなった時のこと」
「はあ?」
「そうすれば他人の痛みが少しは分かるんじゃねーの」

それだけ言って席を立つ。午後の授業は受ける気がなくなった。ポケットに手を突っ込み、欠伸を噛み殺しながら教室を出ようとした時、「そんなにさんが好きなんだ」と悔しまぎれの言葉が背中に飛んでくる。

「俺、のこと好きだって一言も言ってねえけど」
「嘘つかないでよ!カッコつけちゃって!」
「…オマエ…マジでバカなんだな」

甲高い声が耳障りでうんざりした。でもその女は鼻で笑うと、これでもかと言わんばかりに悪意を吐き出した。

「あんな不気味な女、よく好きになれるよね」
「……不気味?」
「知らないの?あの子、見えないものが見えるんだって」
「見えないもの…?何だそれ」
「知らないけど。よく何もないとこ見つめたりしてるし、前は"あっちに行かない方がいいよ"とか意味の分かんないこと言われたし、マジで気持ち悪いからはぶってんのに笑顔で話しかけてくるし、ほんとウザいのよ」
「あっそ。俺には関係ねえ」

バカ女の相手も疲れて、俺はそのまま教室を出た。そろそろ昼休みも終わる時間で、廊下は教室に戻ろうとする生徒達が次々に走って来る。その中に彼女はいなかった。

「見えないもん、ね…」

そこでふと足を止めた。頭に血が上ってつい聞き流してたが、それっては"視える側"ってことだろうか。普段からクラスメートのことなんて観察してるわけじゃないし、がそんな素振りをしてるとこなんて見たことがない。

――前は"あっちに行かない方がいいよ"とか意味の分かんないこと言われたし…

さっき酒井が言ってたのが本当なら、には近づいちゃヤバいもんが見えてたってことになる。それにアイツらの会話の中に引っかかる内容があったのを思い出した。

――何か屋上に上がる階段をジーっと見ながら立ってたし、怖すぎー。

屋上、というワードで俺の中に心当たりがあった。今朝、登校してきた時に見えた三級ほどの呪いのことだ。屋上への扉は鍵がかけられてるから、生徒達が屋上へ出ることは出来ない。だから祓うのは人のいなくなった放課後でもいいか、と後回しにしていた。
そもそも学校という場所柄、小さな呪いはしょっちゅう生まれてくるし、屋上もそういう意味では祓っても祓っても新しい呪いが発生する定番の場所だ。だから気に留めてなかったが、もしが"視える側"の人間だったなら、"アレ"に気づいたのかもしれない。

のヤツ…まさか屋上に近づいてねえよな…?」

すでに授業時間になっても教室に戻ってこないのを見て、少しだけ嫌な予感がした。もしかしたら戻れない何かが起きたのかもしれない。

「…クソッ何で俺が――」

気づけば踵を翻し、廊下を走っていた。お人よしで、どっか抜けてる女だからこそヤバいかもしれない。何で俺が人助けなんて、と頭では思うのに、なまじ同じ境遇だなんて聞いてしまったせいで、アイツの気持ちが手に取るように分かってしまう。これ以上、傷が増えたら彼女はどうなる。今まで通り笑えるのか?無理だろ。そう思ったら必死になってを探していた。

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