10-灰色の世界⑥
月明りだけが差し込む薄暗い廊下に、自分の足音と荒い息遣いだけが響く。喉が酷くカラカラで唾液すら出ないから、呼吸するたび空咳が出た。
怖くて後ろは振り向けない。
アイツの気配が、匂いが、ひたひたと近づく足音が、ぞり、と壁を引っ掻く不気味な音が、わたしの足を速くする。
おかっぱだった髪は足元まで伸び、全体が黒っぽく見える女は、わたしが知ってるアレと少し異なって見えた。
危険なのは女の長く鋭い爪だ。自在に長さを変え、わたしを攻撃してくる。
<おいで……こ、こ、こっち……へ>
見た目のおぞましさとは裏腹に、優しい声色で女の声が不気味にわたしを誘ってくる。以前は聞く前に逃げ出したから、呪いの声を聞くのは初めてだった。恐怖で嗚咽が漏れる。
「……痛っ」
走る振動で先ほど攻撃を避けた時に強打した左腕がかなり痛むけど、かまってられなかった。
問題はその時に落としたスマホだ。
どうにか隙を作って隠れた一階のトイレ。そこでやっと伏黒くんに電話をかける時間を稼げたというのに、結局トイレから出た時に見つかってしまった。
伏黒くんにはちゃんと伝わっただろうか。電話に出てくれたことが嬉しくて、でも気持ちばかりが急いて肝心なことは何も言えなかった気がする。
命が脅かされる状況下では、普段の半分も頭が働かなくなるんだと思い知らされた。
音楽教室にいたアレは、前に見た時よりも少し大きくなっていた気がする。ちらっと視界に入った時、廊下の天井すれすれだったのを思い出す。
前にこっそり見た時は、確か人くらいの大きさだったはずだ。なのに今は3メートル近い。
「……あっ」
ギィン、という鈍い音と共に飛んできた何かが肩を掠めた。女の爪かもしれない。
痛みが走ったけど、どうにか持ちこたえて転ばずに階段を昇って行く。さっきから一階と三階をぐるぐるとめぐっていた。
二階には職員室があるし、もしそこに教師が残っていたら見つかる可能性が高い。もし見つかれば巻き込んでしまう恐れがある。
出来れば入って来た裏口へ逃げたかったけど、そこまで行くには今いる場所からでは距離がある上に、一本通路を走り抜けなければならない。
あの女呪霊の攻撃を受けずに逃げ切る自信はなかった。だから角を曲がり、死角を作りながら逃げ続ける方法を選んだのだ。
幸いにもアレの動きはそれほど早くない。だからわたしの足でも何とか死角を作ることでギリギリ逃げられてる。でも体力的に、そろそろ限界がきそうだった。
肺が潰れそうなほど苦しい。こんなに全速力で長いこと走ったことはないし、元々体力はない方だ。
もし、わたしの体力が尽きればその時は――。
「あ、あれ……!」
一階の廊下は残業している教師や、事務員の為なのか、今のところ蛍光灯が二つほど点いていて三階よりは比較的明るい。そのおかげで逃げている最中、身を隠せる場所を見つけられた。一階奥階段の近くに設置されている小荷物専用昇降機だ。
いわゆる給食を運ぶ小さなエレベーターで、当然、開閉ボタンなどは外側にだけあるタイプだから、中からは操作出来ない。でも人ひとりは入れる大きさだから、少しの間隠れるにはもってこいの場所だと思った。
まず上へ逃げる前にそのダムウェーターを開けるボタンを押しておく。ウィーンという小さな機械音と共に、扉が開くのを確認した。でもすぐには入らず、今まで同様三階へ上がると、すぐ近くの教室へ飛び込んだ。そして扉の近くに身を潜め、息を殺す。その間に靴は脱いでおいた。
少し待つとアレの声や音が階段を昇ってくるのを伝えてくる。はぁ、はぁ、と漏れる荒い息をどうにか押し殺すと窒息しそうなほど苦しくなった。でもここは我慢だ。
伏黒くんが来てくれるまで逃げて、逃げて、逃げないと。
<おいで……こっちへおいで……>
甘い声が近づいて来る。ひた、ひた、と裸足で歩く足音も。
壁一枚を挟んだ廊下を黒髪の女が歩いて行く。その気配を集中して探りながら、ベストなタイミングを待つ。
女はわたしが真っすぐ逃げたと思ってくれたのか、教室の前を静かに通り過ぎた。わたしの体内で激しく脈打つ心音が聞かれないかと緊張したけど、女が立ち止まる気配はない。
ぞり、ぞり、と爪が一定の間際で壁を引っ掻く音も、徐々に遠ざかっていく。
(――今だ!)
音がだいぶ聞こえにくくなった頃、わたしは静かに立ち上がると、空いたドアからそっと廊下を覗き見た。そこに女の姿はなく、わたしがまた同じように一階へ逃げたと思ってくれたらしい。
靴を脱いだことで足音はないも同じになった。そこで静かに教室を出ると、すぐ傍の階段を下りていく。
女が回ってくる前に、あのダムウェーターの中へ隠れる為だ。
「良かった……開いたままだ」
逃げ回るのに何度も一階と三階を回って気づいたのは、女がわたし以外の物に興味を示さなかったこと。逃げながら教室などのドアを開けたり、机や椅子を放り投げても、そっちへ気を向けるような素振りは見られなかった。
つまり、あの女呪霊は生きてる人間にしか意識を向けない。
なら、わたしがこの中へ入って動かずジっとしていたら時間を稼げるはずだ。
(伏黒くんが今どこにいるかまでは訊けなかった……うんと遠い場所にいたかもしれない)
だけど、どこにいても伏黒くんなら絶対に来てくれるはず。そう信じてわたしは今、自分が出来ることをやると決めた。
ダムウェーターの中へ入り、手で扉を閉めていく。このダムウェーターは古いタイプの物で扉は開閉ボタンでも動くけど手動でも動かせる。
わたしは少し迷ったあと、上の扉だけ閉めることにした。全て閉めてしまうと外の気配を探れないと思ったからだ。
奥側にいれば目の前を女呪霊が通っても視界には入らない。アレは天井まであるデカさだから、這いつくばって覗き込んだりしない限り、バレないだろうと推測する。
「……大丈夫。気づかれない」
ダムウェーターの奥側に移動してしゃがみこむと、散々走り回った疲れを感じた。ここで休んで少しでも体力を温存しておかなければ。もし見つかっても、すぐに走れるように。
そこで靴下も脱いでおいた。逃げる際、滑って転ばないようにする為だ。
(……きた!)
しばらくすると、三階から回って降りて来たのか、廊下の方からぞり、という壁を引っ掻く音が聞こえて来た。小さく深呼吸をしてから軽く息を吸い込んでおく。
女呪霊が目の前を通り過ぎ、再び階段を上がっていけば、また少し時間が稼げる――。
<……ど、ど、こぉ……だぁ……よ……>
その声を聞いた時、ひゅっと喉の奥が鳴った。さっきまでの誘うような甘い声色じゃなく、まるで地の底を這うような低い、低い声。女の呪霊はわたしの姿を見失い、少し苛立ってるようだった。壁を引っ掻く音がさっきよりも大きい。ぞりぞりぞり、と抉るような音が響く。女呪霊がダムウェーターのすぐそばまで迫っていた。
<ど……どぉこだ……ど、こ……だよおぉおぉおお……ッ!>
「……っ」
地鳴りのように腹に響く女呪霊の声は、心底わたしを震え上がらせた。思わず手で耳を塞ぐ。
湿った不快な匂いがする。女呪霊が近づいて来ると、その匂いはいっそう濃く漂ってきた。思わず嘔吐きそうになり、今度は慌てて口を塞ぐ。有り余る恐怖と匂いでムカムカとして気持ちが悪い。
勝手に涙がぼろぼろと零れ落ち、わたしの顎を濡らしていく。死が、すぐ目の前に迫っていた。
その時――。
(……音が……やんだ?)
どれくらいそうしていたのか。数秒なのか、数分なのかも分からない。
膝を抱えながら震えていたわたしは、女呪霊の立てる音や声が聞こえなくなったことに気づいた。
階段を上がって行ったんだろうか。今いる場所からでは廊下の床部分しか見えない。
女呪霊の立てる音だけを頼りに動きを予測していたから、音が聞こえなければどこへ向かったのかすら分からなくなった。
(もしアイツがまた三階へ上がったなら……この隙に裏口まで一気に走れるかも……)
あまりに静かすぎるせいで、ふとそんな思いが過ぎる。
あの呪霊が音楽室から出てこられるようになっていたのは誤算だったけど、この学校から出られるのかどうかまでは分からない。そもそも生まれたのは学校内で蔓延る都市伝説が原因。
伏黒くんから聞いた呪いの発生理由が人の心から漏れ出す澱なら、それしか考えられない。
ならアイツは学校から出られないかも――。
「だったらモタモタしてる場合じゃない……」
顔を上げて、ゆっくりと立ち上がる。アイツが上の階を移動する間に、わたしは裏口まで一気に走る。
そう決めてわたしは静かにダムウェーターの上部の扉を押し上げた――。
<見、見ぃぃいつけたぁ……>
「ひ……っ」
開けた瞬間、目の前に女が、いた。
天井に届くほどの巨体を見上げれば、長い髪の隙間から昔も見たことのある黒い孔が、わたしをジっと見下ろしている。だけど大きく裂けた口元は、にたぁ、と笑ってるかのように不自然な動きで弧を描いていた。
<あ……遊び……ましょおぉぉおおっ>
「い、いやぁぁあっ」
女の細い腕が振り下ろされ、わたしは潰されたトマトみたいにぺしゃんこになる、はずだった。
「――玉犬!」
その刹那、聞き覚えのある声が響いて、前にも見たことのある大きな白い犬と黒い犬が、女呪霊の腕と顔へ飛び掛かったのを信じられない思いで見ていた。
「……!」
「ふ、伏黒く……」
走ってきた伏黒くんが、腰を抜かして座り込んでいたわたしの前へ滑り込んでくる。そのまま凄い力でわたしを抱えて女呪霊から引き離した。
「怪我は?」
廊下の端へわたしを下ろすと、伏黒くんはわたしの頬を両手で包む。震えて声が出ないから、左右に首を振ると、彼はホっと息を吐き、犬たちを振り払おうと暴れている女呪霊を見上げた。
「思ってた以上に育ってやがる……どんだけ食ったんだ、コイツ」
「え……」
食った、と聞いてゾっとした。もしかしたら噂になっていないだけで、この学校ではわたしのクラスメートたちのように犠牲になってる人達がいるのかもしれない。
その時、女呪霊の長い腕に黒い犬の方が吹き飛ばされ、きゃん、という鳴き声を上げた。
「チッ……玉犬だけじゃ少しキツそうだ」
「ま、待って……伏黒くん……!」
立ち上がろうとする彼の腕を思わず掴む。あの呪霊がどれほど力があるのか分からないけど、伏黒くんのことが心配だった。
でも彼はわたしの手を掴むとそっと外して「大丈夫だから」と静かな声で言ってくれた。
「今のアイツなら、まだ俺でも祓える」
「……ほんと?」
「ああ。だからはここで待ってろ」
伏黒くんはそう言って立ち上がると、女呪霊の方へ歩いて行く。でもふと足を止めた。
「……よく、頑張ったな」
ぼそりと呟く伏黒くんの背中を思わず見上げた。その瞬間、恐怖とは違う涙が溢れてくる。
やっぱり伏黒くんは来てくれた。それが何より嬉しかったから。
「今、五条さんもこっちに向かってるから、もう大丈夫だ」
伏黒くんはそれだけ言うと、彼に気づいて襲い掛かって来た女呪霊を見上げながら、片手の人差し指と中指で何かの形を模した。
「――大蛇」
彼がその名を口にした瞬間、女呪霊よりも巨大な白蛇がどこからともなく姿を現わす。あまりの大きさに驚いたわたしは、床を這うように距離をとった。
<……ぎぁうあっ>
白い大蛇に巻き付かれた女呪霊は苦しげな声を上げながら、その長い爪を振り回している。同時に壁のあちこちが裂けていくのを見て、わたしの肩を切り裂いたのは爪から飛ばされた斬撃だったんだと、この時気づいた。
<があぁぁぁああっ>
ぎち、みし、と嫌な音が響き、女呪霊はもがき苦しんでいる。長い爪は犬たちに折られ、長い髪を振り乱しながら叫びだした。
特に伏黒くんの出した白蛇は女呪霊より強かったらしい。まるでアナコンダのように女呪霊を締め上げながら、白い大蛇は彼女を、その大きな口で丸のみにしてしまった。
「嘘……」
女呪霊の断末魔すら一飲みにして、白い大蛇は煙の如くその巨体を消した。
突然、静寂の戻った廊下を見て、まるで狐につままれた気分になる。今のは幻だったんじゃないかとさえ思ったくらい、現実離れした光景だった。
だけど――、と呼ぶ伏黒くんは、幻でも何でもない。
「う……ふ、伏黒く――」
わたしの方へ戻ってきた彼を見上げて手を伸ばす。その手を、物凄い力で引き寄せられたと思った瞬間、わたしの体は伏黒くんの腕に抱きしめられていた。
「……良かった。無事で」
「ふ……しぐろくん……?」
男の子に抱きしめられたのは初めてで、またこれも夢なんじゃないかと思ってしまった。だけど背中に感じる腕の強さや、頬に触れる制服から伏黒くんの匂いがする。
それら全てが、これは現実なんだと教えてくれた。
――わたし、伏黒くんが好きだ。
ドキドキする鼓動を感じた時、ふとそう思った。
これが吊り橋効果なのかなんて関係ない。きっと、もっと前から、わたしは伏黒くんに惹かれてたんだと思うから。
なのに伏黒くんは不意に体を放すと「バカ野郎!」と怒鳴ってきた。思わず亀みたいに首を窄める。
「何で勝手に一人で来たんだよ!オマエ、もう少しで死ぬとこだったんだぞ!」
「う……ご、ごめんなさい……まだアイツがいるかだけでも確認しようと思って……もしいなかったら無駄足させちゃうし」
「すんじゃねえよ!つーか、そんな下らねえ理由で自分を危険にさらすんじゃねえ!」
「……ご、ごめん……なさぃ……」
あまりの剣幕に涙が溢れてくる。好きな人に叱られるのも初めてで、凄く悲しくなってきたからだ。
だけど伏黒くんは「う」とか「ぐ」とか言いながら「な、泣くなって……」と急に怒りのボルテージが下がったらしい。もう一度、今度はわたしの頭を抱き寄せてくれた。
「オマエに泣かれると……困る」
それは今まで聞いたどんな言葉より、優しい響きだった。

「――玉犬!」
あの女呪霊にが殺されそうになっている姿を見た時、俺の中に感じたこともない焦燥が一気に溢れ出し、無意識に玉犬を顕現していた。
あと一歩、来るのが遅れていたら、と思うと足元から例えようのない恐怖が這い上がってきて。
全てが終わった時、思わずを抱きしめていた。
失うところだった。もう少しで。
の体温を腕に感じながら、ふとそう思った。
あの時、からの電話が切れてしまったあの瞬間。目の前が真っ暗になった。
何も見えない。何も聞こえない。何も――考えられなかった。
現実へと引き戻してくれたのは五条さんだ。
「恵。今すぐオマエを家の近くまで飛ばす。そこからその小学校は近いんだったね」
「……飛ばす、って……どうやって――」
「話はあと。いいから恵は向こうに着いたらすぐに彼女のとこ向かって。僕もあとから行く」
何を言ってるのか分からないまま車から降ろされ、五条さんの描いた円陣の上に立たされ、気づけば俺は自宅近くの上空へと放り出されていた。
「……は?」
まさにそんな心情だった。一体全体、あの人はどんだけの能力を秘めてるんだと唖然とした。
俺はもしかしたら、とんでもない人に後見人になってもらってるのかもしれないと、そこで初めて五条さんの凄さを実感した気がする。
「間に合ったようだね」
俺より一足遅れで到着した五条さんは、学校での戦闘を見据えて色々と手を回してくれたらしい。それを終えて自分も飛んできたようだ。ってか、それってどうやってんだと不思議でならない。
蒼の応用だよ、と言われても、あの人の術式をそこまで掘り下げて聞いたこともないから「そうっすか」としか返せなかった。
それより――。
「いつ俺の家の近所にマーキングしたんスか」
「ん?ああ、あれは確か恵が小学校の――」
「………もういいっす」
勝手にそんなもん作って飛んで来てたのかと思うと、深い溜息しか出ない。
よく東京方面から俺の家まで頻繁に来られるな、とガキなりに不思議に思ってたのを思い出す。
こういうことだったらしい。
「あ、あの……伏黒くんと……五条さんにまでご迷惑をおかけしてすみませんでした」
その時、が泣きはらした目で謝ってきた。俺も少し言い過ぎたかもしれないと反省する。
コイツはコイツなりに気を遣ってくれたんだろう。
でも、だけど。そんなことで命を落とすところだったんだから、やっぱりそこは許容は出来ない。
「いや、ちゃんも無事で良かったよ。でも危ないから次こそ絶対、一人で無茶はしないように」
「は、はい」
って元々アンタの任務に呼び出されたからなんだけど、とは思ったが、今回は五条さんがいなかったらマジでは死んでたし、敢えて文句を言うのはやめておく。どうせ倍返しで口撃されるだけだ。
「ところで……二人はもういい感じなわけ?」
「……は?」
校舎から出た途端、ニヤニヤし始めた五条さんは、俺とを交互に見ながらニッコリ微笑んだ。
「だってさっき抱き合ってたでしょ、二人」
「……ぐ……っ」
「……えっ」
「で、付き合うの?あ、それともすでに付き合ってる?」
「……うぜぇ」
気持ちが昂ってたとはいえ、よりによって一番見られたくない人に見られてたらしい。このあとも暫くは五条さんにからかわれる羽目になった。
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