いくつもの鉄格子に囲まれた異質なその空間は、拷問用に使う器具が所狭しと置かれていた。
異様な光景の中で、上半身裸のまま特殊な鎖に両手を拘束されている男の口元は痛々しいほどに腫れ、傷から血が流れ落ちている。
男は目の前で己を凝視する番人を睨んでいたが、限界とばかりに力なく頭を垂れた。
その男の長い黒髪がゆらゆらを揺れるのを眺めながら、番人長の武長はその手に握った不思議な形の剣を繋がれている男へ静かに向けた。
「そろそろ話す気になったか?」
「……言っただろ。姫を守ろうと…しただけだ…。オマエから…ぐあぁっ」
「本当にそれだけか?」
武長は手にした剣を、拘束されている男――天夜の腹に突き刺し、その激痛で天夜は更に顔を歪ませる。
鬼と同様、天狗の身体は鋼のような硬さと妖力で守られている。
その肌に容易く傷を作れるのは特殊な呪具だけである。
武長は手にした呪具"鬼殺丸"を天夜の顎に当てて、その冷ややかな目を僅かに細めた。
「五条家が鬼姫さまを手にかけるはずがないことはオマエにも分かっていたと思うが」
「フン…五条家の番人は…何するか分かったもんじゃねーからな…。現にテメェは10歳にしてさまの母君を手に掛けた…」
「裏切りは許さない。誓約書にそう書かれている。それに僕は番人だった父について行っただけさ。たまたま彼女が子供の僕を人質にしようとしたんだ」
「チッ…。姫じゃなくとも鬼をそう簡単に殺せる者は少ない…。ガキだったオマエが殺れたのは…ソレのおかげか…」
天夜は武長の持つ剣を見て、忌々し気に顔を歪めた。
鬼を殺せる呪具はいくつかあるが、武長の持つ禍々しいオーラを放った剣は、天狗である天夜の肉体をいとも簡単に傷つけた。
それだけ強力な呪具は天夜も初めて見る。
武長は顎へ当てた剣を少しずつ天夜の喉元へ滑らせ、刃を喉仏に当てた。
「本来なら貴様はこの場で粛清される運命。だが鬼姫さまが殺すなと言い続けているご様子。人間として育て、兄と偽ったおかげだな。運命を捻じ曲げたオマエを恨まず、優しい姫に育った」
「……さまは…彼女はどうしてる」
「貴様には関わりのないことだが…まあいい。鬼姫様は大切に保護されている、とだけ言っておこう」
「…そうか。俺は…見つかった時点で自分の役割を終えた…。あとは好きに…しろ」
「それはご当主さまが決める。オマエが姫を連れ去ったりしなければ本来なら姫を守護する者として傍にいれたものを…」
武長の一言に、天夜は垂れていた頭をゆっくりと上げた。
腕に巻かれている太い鎖にすら呪力が流れていて、そう簡単には外せそうにない。
「さて…話を戻そう。貴様は何故あの時鬼姫さまを連れ去った?」
「だから何度も言っただろう…。あの時は姫の母君が殺されるのを見てパニくっただけだと…それに、」
「…それに?何だ」
「あのことがあった一年前、"六眼"が生まれていたな」
「悟さまか…。だから何だ」
「…姫の母君が心配していたんだ…。生んだばかりの娘が鬼姫と知った時…彼女の相手となる五条家の跡継ぎが六眼だということを…」
「それは…何故だ」
武長が訝しげに眉を寄せると、天夜は深い溜息を吐き出し、話し始めた。
「500年前…初めて五条家に六眼が生まれたのは知っているな…?」
「ああ…それが?」
「鬼の長である呉羽さまの娘、紅葉さま。その紅葉さまと交わった当時の五条家当主の嫡男は自分の妻との間に運よく六眼を授かった。そうだろう?」
「だから…何だ」
「その時の六眼持ちの息子がその後、自分の父と交わった鬼姫である紅葉さまを―――」
と言いかけた時、入口の方から派手な落下音が聞こえて来た。
ハッと息を呑んだ武長は、天夜に「待て。様子を見て来る」とだけ言い残し、歩いて行った。

朝曇りのする明け方、少し息が苦しいくらいの蒸しばむ暑さではふと目を覚ました。
だいぶ夏めいてきたせいで、室内の気温がかなり高いようだ。
視界に映る天井や見慣れない部屋に、ここが自宅ではないことを思い出す。
五条家に軟禁されてから一週間―――。
は屋敷の外に一歩たりとも出られず、離れでの生活を余儀なくされていた。
一ヶ月後の16歳の誕生日を迎えるまで安全に過ごしてもらう為だと説明されたが、は体のいい軟禁だと思っている。
を外へ出せば、また人を襲うかもしれない。
鬼姫として完全に目覚めてはいないものの、前段階の発作が起これば再び"飢え"に襲われる可能性も高いからだ。
発作が起これば近くにいる人間を手あたり次第に喰ってしまう恐れがあると言われた。
何度も説明され、今ではも自分が鬼と言う存在なのだと頭で理解はしてきているものの、やはりまだ心はついて行かない。
これまで普通に生活をしてきて、人を喰いたいと思ったことがないからだ。
自分と一緒に拘束されている兄、いや兄と名乗っていた天夜のことも心配だった。
五条家の人間は無事だと話しているが、未だに会わせてもらえない。
無事だという言葉をどこまで信用していいのか、は分からなかった。
(お兄ちゃんに会ってちゃんと話を聞きたいのに…)
あの五条悟と名乗った男の話を思い出し、は深い溜息を吐いた。
と五条悟がパートナーになるという話ではあったが、は五条が苦手であった。
態度は粗暴かつ横柄、口を開けば辛辣ときている。の最も苦手とするタイプだ。
一歳しか違わない15歳のを子ども扱いし、まるで己が主かのように振舞う。
パートナーとは互いに同等の立場という意味ではないのか。
五条と話している時、は何度もそう思った。
「…交換の儀かぁ」
ふと自分の最もたる役割を思い出し、憂鬱な気分になる。
あの粗暴な男から生気を与えてもらわねばならない現実が、の気持ちをどんよりと重く沈ませる。
"接吻で行うべしって書いてある誓約書、ちゃんと読んだ?ちゃん"
ここへ連れて来られた日、五条から言われた言葉が頭を過ぎる。
でも"接吻"の意味くらいは知っている。
改めて思い出すと頬の熱が少し上がるくらいには。
「…何で好きでもない男とそんなことしなくちゃいけないの…?」
その行為に男女の何があるというわけではない。
五条の言うとり、ただの"作業"。
だからと言っても年頃の女の子。平然と割り切れるというものでもないのだ。
「アイツ…絶対楽しんでる…」
先日のやり取りが脳裏を過ぎり、は挑発するような五条の碧眼を思い出した。

一週間前―――。
「せ…接吻って…私と…アナタが…?」
「だーから名前で呼べって言ってんだろ?ガキんちょ」
「む…。ガキじゃないもん」
目の前で揶揄するような笑みを浮かべる五条を睨みつけ、身を守るように僅かに後退して距離を取る。五条は気にする風でもなく「目覚めてもないただの人間にするかよ。ってか、オマエも深く考えねーでただの作業と思え」と鼻で笑い、その身を引いた。
あくまでバカにしてくる五条に、は「アナタ…さ、悟もガキじゃない」と言い捨て顔を背ける。
"アナタ"と言いかけた時にジロリと睨まれ、は仕方なく五条の名前を口にした。
「あ?俺のどこがガキだよ」
「…そうやって年下をバカにする態度がガキだって言ってるの」
「けっ。生意気なガキは可愛げねーぞ」
「ア…悟に可愛いなんて思われたくない」
「…………」
てっきり言い返してくるものとばかり思っていたは、五条が何も言わないのが気になり、視線を僅かに向けた。
「…何よ、その顔」
さっきまで仏頂面だった五条の口元が僅かに笑みを浮かべていたのだ。
バカにするようなこれまでの笑みではなく、自然に顔を綻ばせたといった感じだ。
「いや、何だかんだとブー垂れるわりには素直に名前呼んでくんじゃんって思っただけー」
「……っ」
嫌な所を指摘され、の顏が僅かに赤くなる。
笑いながら立ち上がると、五条は不意にの頭をクシャリと撫でた。
「ま、素直な女は可愛く見えるし、ももう少し―――」
「よ…余計なお世話です」
「…そういうとこな」
再び顔を背けたを見下ろすと、五条は溜息をついて部屋を出て行く。
が、ふと足を止めて振り向いた。
「ああ、何か必要なもんあったら彩乃に言えよ。アイツはの味方だから制約に違反しない範囲でオマエを世話してくれるはずだし」
「…え?」
その意味を問う前に五条は襖を閉めて行ってしまった。
「何よ、アイツ…」
意地悪なのかと思えば、次の瞬間には普通に接して来る五条の裏腹な態度は少なからずを戸惑わせた。
どこまで本気なのかさっぱり分からない。
「彩乃って…使用人頭の女の人だっけ…」
先ほどの着替えを手伝いに数人の使用人がやってきたが、最初に挨拶をしてきたのが彩乃だった。使用人にしておくのがもったいないほどの美人だったのでよく覚えている。
彩乃は他の使用人にあれこれ命令しながら必要なものを運ばせ、自分はに浴衣の着付けをして戻って行った。
特に個人的には言葉を交わしていないので、五条の言った意味がどういうものなのかまではも分からない。
「あの人が私の味方って…どういう意味だろ」
今度会ったら話しかけてみようか、とは漠然と思っていたが、その意味は次の日に知ることが出来た。
朝、彩乃が食事を運んで来た時、彼女はひとりだった。
「さま。昨日は挨拶だけで失礼いたしました」
膝をつき、丁寧に頭を下げる彩乃を見て、は少し驚いた。
いくら五条家の使用人とはいえ、中学生の自分にそこまで丁寧に接する必要があるのかと。
彩乃はがそれを問う前に答えをくれた。
「私は鬼女で御座います、さま」
「…えっ?」
鬼女とは鬼族でも一般的な鬼であり、殆どの鬼女は一族の長になる存在の姫に従うという話だった。その鬼女が五条家に仕えてるという状況に、は少し驚いたが、それも制約に含まれているらしい。
鬼族が五条家の繁栄の為、妖力を与える代わりに、五条家は現在鬼族の者に仕事を与え、面倒を見るという関係性になっているようだ。
長きにわたり、鬼族と五条家は協力関係にあるが、時代ごとに交換の儀以外のことは変化していき、数少ない鬼族の繁栄と安全は五条家が保証することで落ち着いたらしい。
「ですので私もさまが生まれた際、お世話をする為に五条家に仕えるようになり、早16年。行方不明だというさまの身を案じておりました」
「そ…そうだったんですね…」
行方不明と言われても未だピンとは来ないが、赤ん坊の時に天夜がどこかへ連れ去り、こっそり自分を育ててくれたのは間違いないようだ。
天狗は記憶も操作出来るので、の記憶の一部は現実には経験していないことも含まれているという。
「そっか…だから時々辻褄の合わない記憶があったんだ」
「さまを連れ去った天夜が違和感のない程度に記憶を操作したのでしょう」
「え、でも彩乃さんって、そんな昔から五条家にいるんですね…。そんなに若いのに…」
彩乃の見た目で言えば20代半ばだろうか。
しかし彩乃は苦笑いを浮かべると「私、これでも38で御座います」と言い出し、は酷く驚いた。
「え?ぜ…全然見えないです…けど」
「鬼も天狗も普通の人間より老いるスピードは遥かに遅いのです。故に人間の世界では年齢が上でも見た目や肉体は若いまま。人間界の年齢とは当てはまりません」
「そ、そうなんです、か?」
「さまについていた天夜も人間の世界に合わせて22と言っていたようですが、実際は40と訊いております」
「えっ!!」
またしても驚きの声を上げたに、彩乃も苦笑いを浮かべている。
「鬼の年齢で30、40は人間でいうところの20代と同じなのです」
はついこの前まで兄と思っていた天夜の姿を思い出し、思わず固まってしまった。
確かにどう見ても40には見えないほど、天夜は若々しく、イケメンな兄だったからだ。
「なので鬼も天狗も一般生活を続けるのは無理なのです。長いこと同じ場所にいれば周りに怪しまれますので」
「あ…そっか…」
天夜が住むところを転々としていたのは、もちろん五条家からの追手を危惧してのことだろうが、そういった理由も含まれていたのかもしれない。
「何故彼がさまを連れ去ったのかまでは分かりませんが、私はこうしてお会いできたことを光栄に思います。私にできることでしたら何でも仰って下さいね」
彩乃はそう言いながらもに優しく微笑んでくれた。

青く澄みわたる晴れた日の夏空を見上げて、五条は両腕を伸ばして欠伸を噛み殺した。
任務帰り、補助監督の運転する車で自宅近くのコンビニ前まで送ってもらったのだが、朝が早かった為に爆睡をかまし、目的地で起こされたばかりだった。
「あっちーなー」
「家の前までつけて貰えば良かったのに。コンビニになんか寄らないで」
「アイス食いたかったんだよ。ってか別に傑はあのまま高専に帰れば良かっただろーが」
五条の後ろを歩くのは、今日の任務が一緒だった夏油傑だ。
珍しく五条が生家に寄ると言い出したので、夏油も興味本位で着いて来たのだ。
「この前もお邪魔したんだしいいだろ、別に。あの子のことも気になるし。悟も同じなんじゃないのか?」
「チッ。別にそんなんじゃねーよ。オヤジが一週間起きに顔を出してとコミニュケーション取れってうるせーから来てんの」
「へえ」
ブツブツ言いながら前を歩く五条の背中を眺めながら、夏油は素直じゃないな、と苦笑いを浮かべた。先ほどコンビニで五条がアイスを二人分購入していたのを、夏油はこっそり見ていたのだ。
まあ、これから長きに渡り二人はパートナーとして一時を過ごさねばならないのだから、確かに関係は良好にしておいた方がいいだろうというのは夏油でも分かる。
だが五条の性格を知っているだけに、また余計な一言を口にして鬼姫さまを不快にさせてるのでは、と夏油はそこが気になっていた。
もしそうなら自分が間に入って潤滑油のような役割が出来れば、とお節介ながらに思っただけだ。
「お帰りなさいませ。悟様」
五条家の正門に着くと、再び使用人たちに出迎えられる。
その間を五条と夏油は歩いて行き、今日は母屋ではなく、のいる離れの方へ足を向けた。
「相変わらず凄い家だな」
「はっ。無駄に大きくて無駄に人が多いだけだろ。ああ、の部屋はコッチ」
五条は広い庭を抜けていくと、東側の敷地を歩いて行く。
五条家の広い敷地には母屋とはまた違う風情のある建物がいくつか並んでいて、五条はその中のひとつを指さした。
「ここ」
「へぇ…離れと言っても見事なものだな。年代物だろう」
「まー何回かリノベーションしてるらしいな。でも昔の形は残したいみたいでさ。古くせーっつーのに」
「いや、私でもこれは残したいと思うよ。味わいのある美しい造形だ」
「傑は変なもんに味わいを感じるんだな」
五条は笑いながら夏油の方を見ながら慣れた動作で離れの鍵を出して施錠を外すと、引き戸を開けた。
だがその瞬間、中から何かが飛び出して来て、五条は「うぉ」と声を上げ、条件反射で飛びのく。
「は?」
一瞬の出来事で五条は自分の眼が捉えたものの意味が理解出来なかった。
しかし直後に「悟!彼女が逃げたぞ!」という夏油の言葉で我に返る。
振り向けばが母屋の方向へ走って行く姿が見えて、五条はアイスの入った袋を放り投げると、すぐに後を追いかけた。
「おい!待てって!」
「来ないで!!」
「あぁ?!テメェ、逃げたら制約違反ってみなすぞ、コラ!」
いくら追いかけるのが数秒遅れたからと言って、やはりまだ目覚めていない、それも浴衣を着ているの足と五条の足の速さでは大差がある。
母屋手前で追いつき、五条はの腕を掴んで引き寄せた。
だがそれで素直に大人しくなるようなではない。
「放してよ!」と五条の足を蹴とばしたり踏んだりと大暴れしている。
そのたび「いってっ!てめ、蹴んな!」と五条の大きな声が響く。
「あーあー。何やってるんだよ、悟」
「何ってコイツが暴れるからだよっ」
「痛いっ放して!」
あまりに暴れるので五条は仕方なくの身体を担いだのだが、それでも少女は激しく足をばたつかせている。
おかげで赤と黒の市松模様をした可愛らしい桐下駄が夏油の足元にまで吹っ飛んで来た。
その光景を見た夏油は苦笑いを浮かべると、下駄を拾い上げ五条に担がれているの方へ歩いて行く。
「悟。まずは理由を聞いてあげなきゃ」
「あぁ?んなもん逃げようとしたからじゃ―――」
「違う!私はただお兄ちゃんに会わせて欲しいだけよ!」
「お兄ちゃんん?!アイツはオマエの兄貴じゃねえーつったろっ」
「悟!いいから彼女を下ろして。話を聞けよ」
このままじゃ埒が明かないとばかりに、夏油が五条を諭す。
いくら何でも年頃の女の子を荷物を抱えるみたいにしていては可哀そうだと思った。
しかしは未だに足をばたつかせ、せっかくの浴衣も裾がめくれてしまっている。
「。そんなに暴れたら下着が見えちゃうけどいいのかい?」
「え…っ?」
夏油の一言ではピタリと暴れるのをやめた。見れば頬が僅かに赤らんでいる。
やはり女の子だなと内心苦笑していると、五条はホっとしたのか「ふざけやがって」と乱暴にを地面へ落とした。
「…痛ぃっ」
「おい、悟!乱暴するな」
「うっせーな!コッチはコイツに何回も蹴られてんだぞっ」
「話も聞かないで乱暴に抱えるからだろ。いいから彼女の言い分も聞けよ」
夏油は呆れ顔で溜息をつくと、腰を擦っているの前にしゃがんだ。
「大丈夫?」
「……大丈夫です」
「チッ!ケガしたところですぐ治せんだろ?は鬼なんだから」
「目覚めるまでは人間だよ、悟」
そんなやり取りをしている二人を見て、は目の前で優しい眼差しを向けて来る夏油を見上げた。最初に会った時もこの人だけは五条よりも優しかったことを思い出したのだ。
「あ、あの…ありがとう…」
「どういたしまして。ああ、私は夏油傑。悟と同じ高専に通ってるんだ」
「高専…?」
「呪術を専門に学ぶ学校のことだよ」
夏油は安心させるようになるべく丁寧に話すと、持っていた下駄を履かせ、の手を引いて立たせてあげた。
そして浴衣についた土や草を払ってあげると、がもう一度「ありがとう」とお礼を言う。
仏頂面でそれを眺めていた五条は軽く舌打ちをすると、の前へと歩いて行く。
「おい」
「……何よ」
「ついてこい」
「え…?」
五条が離れとは逆の方向へ歩いて行くのを見て、が驚いたように隣にいる夏油を見上げると、夏油はニッコリ微笑み、頷いて見せた。
「早くしろよ!兄貴に会いたいんだろーが」
「会わせて…くれるの?」
急いで後を追いかけ尋ねると、五条は仏頂面のまま「少しだけだぞ」と呟いた。
その一言での顏にも笑顔が浮かぶ。
「ありがとう、悟…」
「…いーからサッサと来いよ。他のヤツに見つかったらうるせえから」
「うん」
嬉しそうに頷いたは、今度こそ素直に五条の後をついて行く。
「私はこの辺りで待ってるよ」
夏油はその場に残り、不安げに振り向くに笑顔で手を振った。
「あの夏油傑とかいう人…」
「あ?」
「悟のお友達?」
「…お友達っつーか…まあ…。何で?ああ、傑に惚れたの?」
「は?違うよ。悟の友達にしちゃ随分と優しいなーと思っただけ」
「あ?テメ、どーいう意味だよ」
「そのままの意味です」
が澄ました顔で応えると、五条は面白くなさげに目を細めた。
それにしても先ほど油断していたとはいえ、まさか逃げられるとは思わなかった、と五条は安堵の息を漏らした。
今は鬼としての力も記憶もないだけに、自分が軟禁されている現状に納得してはいないだろうが、天夜のことがあるからは従っているようなものだ。
父には天狗と会わせるなと言われてはいるが、に納得してもらう為には一度、天夜が無事だという証拠を見せた方がいいと思った。
母屋の裏手に歩いて行くと、そこは竹林が広がっている。
だがその更に奥へ歩いて行くと、竹に囲まれた一画の地面に重々しい扉が現れた。
そこは地下室に繋がる扉で、五条家の人間だけが通れる特殊な結界で覆われている。
主に捕らえた呪詛師などを拷問したり、閉じ込めておく監禁部屋がある場所だ。
五条は鉄の分厚い扉を呪力を込めて難なく開けると、地下へ続く階段を下りて行く。
だがは薄暗いその場所を見て怖くなったのか、下りてこようとはせずに上で中を覗いていた。
「何やってんだよ。来ねーの?」
「…ほんとに…ここにお兄ちゃんいるの?」
「多分な。ここしか天狗を監禁できる場所はねーし。いいから早く来いよ。置いてくぞ」
「わ、分かった…」
イライラした態度を隠そうともしない五条を見て、は恐る恐る階段を下りて行く。
少し下りて行くと、中は湿った空気が充満していて、は思わず顔をしかめた。
「こんなところにお兄ちゃん閉じ込めるなんて…」
「あのなあ…アイツは兄貴じゃねーって言ってんだろ。それに子供の約束じゃねーんだよ、ウチと鬼族が交わした制約は。破れば即刻粛清されて当然のところを助けてやってんの」
「だからって…」
「いーから文句言ってねーで足元気を付けろよ?滑りやすくなってる」
「わ、分かってるよ―――」
と言って足を一歩、下ろした瞬間、下駄の前部分が階段をとらえきれずに身体が前へ傾いた。
「わっ」
「……は?!」
そのまま階段の下まで顔から突っ込みそうになった時。
数段下にいた五条が咄嗟にの身体を受け止め、その勢いのまま背中から階段下へ飛ばされるかのように落ちて行った。
「…ってぇ…」
「…ぃたたた…」
強い衝撃の後、は何か温かいものに包まれてることに気づき、ふと顔を上げた。
「きゃ…」
気づけばは五条の胸元に顔を押し付け、背中には五条の腕がまわり、一見抱きしめられている状態だった。
それは落ちた自分を五条が受け止め、助けてくれたことを示していた。
「あ、あの…ごめんなさい!大丈夫?」
「あ~?大丈夫に見えるか?背中から落ちたんだぞ…。しかもオマエ抱えて…背骨が折れてても不思議じゃねえ」
「う…だ、だから…謝ってるでしょ…?っていうか背骨が折れてるの?!きゅ、救急車…」
「あー動くな!今、動かれるとマジで背骨に響く…。驚いて術式使うの忘れたからもろにぶつけたんだよ…」
「で、でも…」
「大丈夫だから痛み引くまで、もう少しこのままでいろ」
「う、うん…」
仰向けで倒れている五条の上に乗ったまま背中を抱き留められている状態は恥ずかしいが、はそのままジっと動かずにいた。
大怪我をさせてしまったのではと不安になり、そっと五条の顔を見上げると、やはり本当に痛いようで思い切り顔をしかめているようだ。
わざとではないが、そんな顔を見ていると申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。
もし五条が助けてくれなければ、は顔から落ちて大怪我をしていたところだ。
「ごめんなさい……悟」
「…あ?やけに素直じゃん…」
「だって私のせいで…」
「いや…そもそもオマエ、和服って着慣れてねーんだろ…。そんな踵の高い下駄、オマエに履かせたバカオヤジが悪い」
五条は舌打ちをすると、痛みのある背中に意識を向けた。
どうやら骨は折れていないが、酷い打撲といったところか。
家入がいればすぐにでも治してもらいたいくらいには痛みがある。
無限を使っておけば問題なかったのだが、咄嗟の事でそこまで頭が回らなかった自分にも腹が立った。いつでも無限を出しているというわけではなく、それなりに呪力を消費する為、今は戦闘の時だけ発動するといった意識の方が強いのだ。
「はぁ…反転術式が使えれば全て解決しそうなんだよなァ…」
「え…?」
「オマエが一日でも早く鬼として目覚めてくれねーかなって話…」
そうなれば自分の呪力を更に高め、術式効果を最大限活かす為の力が手に入る。
は五条の言っている意味を分かってはないのか、軽く首を傾げている。
そこへ「悟さま…?!」という声が響き、二人はハッと通路の奥へ視線を向けた。
「武長…?」
「ど、どうされたんです!お二人してこんな場所で…」
通路奥から驚いた様子で歩いてきたのは武長だった。
だが二人の体勢を見るや否や、眉間を寄せると呆れたように溜息をついている。
「まだ交わりの儀をするには早いと思いますが…」
「は?何ワケ分かんねーこと言ってんだっ!コイツが落ちそうになったのを受け止めたんだよっ」
「何故こんな場所に…それもさまをお連れするなんて旦那さまに知れたら…」
「うっせぇな。コイツが天狗に会わせろってきかないんだよ!ちゃんと生きてるって事だけでも分かれば大人しくなんだろ?」
五条はゆっくりと身体を起こし、上に乗っているに「もう動いていいぞ…」とその身体を押しやった。
「大丈夫…?悟」
避けた後もは心配そうに五条を見ている。
五条は制服についた土埃を手で払うと「何とかな」と言って立ち上がった。
鍛えてるだけに骨も折れてなさそうだ。
「で、武長。天狗はどこだ」
「本当に会わせて良いんですか?」
「いーから。じゃねえとコイツが部屋を抜け出そうとすんだよ」
五条の渋い顔を見ながらも武長は小さく息を吐き出すと、仕方ないと言った様子で頷いた。
「分かりました。では旦那さまには内密に」
「わーかってるって」
「ではコチラへどうぞ。天狗は危険なので拘束してあります」
「…こ、拘束…?」
拘束と聞いては心配そうな表情を見せた。
しかし五条は拘束だけでは済まないことを知っている。
武長は事情を聞く為、拷問まがいのことをしていたはずだ。
「…ここです」
ある牢屋の前で武長が立ち止まる。
中を見れば両手両足を鎖で繋がれた天夜の姿があった。
「お兄ちゃん…!!」
大きな瞳を更に大きく見開き、は慌てて鉄の格子を掴んだ。
気を失っているのか、天夜は頭を垂れたままピクリとも動かない。
「お兄ちゃん…!お兄ちゃん!大丈夫?!」
「……ん……か…?」
声が届いたのか、ふと意識が戻った様子で天夜が呟いたのを聞き、はもう一度「お兄ちゃん!」と呼びかけた。
ゆっくりと顔を上げた天夜は、目の前の格子向こうにいるを見て、僅かに微笑んだ。
「よか…た…元気…そうだ」
「お兄ちゃん!ケガしてるの…?」
口元が腫れているのを見たは泣きそうな顔をした。
よく見れば腹からも血が流れている。
「ひどい…こんなケガさせるなんて…!」
怒りを露わに、は後ろで立っている武長を睨みつける。
だが武長は無表情のまま「そんな傷など天狗はすぐに治せます」と冷笑を浮かべた。
「大丈夫だ…。これくらい何ともない…」
「お兄ちゃん…」
「オマエには…何も話してなかったから驚いただろ…?」
天夜の問いに、は軽く目を伏せ頷いた。
未だ自分が鬼で兄の天夜が天狗などという存在であることを信じきれない自分がいる。
天夜はそんなの心情を察したように「ごめんな…」と悲しげに微笑んだ。
「本来なら…の父母が殺された時点で五条家の人間にを預けるのが正しいことなのだと分かっていた…。でも相手が六眼と知っていたから…怖くてオマエを連れて逃げてしまったんだ…。例え逃げたとしても…いつかこんな日が来ることは分かっていたのに…」
「…お兄ちゃん」
天夜の話を聞いて、やはり自分が鬼という存在なのは真実なのだと悲しくなった。
嘘だと言ってくれたら、どんなに気が安らいだことだろう。
「おい」
そこへ五条が歩いて来た。
「六眼だったら何が怖いんだよ」
「…っオマエか…。500年ぶりに生まれた六眼と言うのは…なるほど…呉羽さまと同じ…見事な碧眼だ…」
「あ?」
「悟さま…僕も先ほどそれを聞いていたところです」
武長は格子前まで歩いて来ると、天夜に「話の途中だったな」と言葉をかけた。
「ちょうどいい。悟さまの前できっちりと話してもらおうか」
「…分かった」
天夜が素直に頷くと、だけは不安そうに「何の…話?」と隣に立つ武長を見上げる。
「何故、この天夜がアナタを連れて逃げたか、です。さまの母親は生んだばかりの我が子が鬼姫と知り、アナタの相手となる五条家の跡継ぎが六眼と知って心配していたと」
「心配?何で俺が六眼だと心配なんだよ」
「…それは鬼姫さまと…六眼…二人が交わると…強い絆が生まれるからです…」
「…強い絆?何だそれ」
五条も興味が沸いたのか、ふと隣に立つを見下ろす。
天夜は二人が並んでいる姿を見ながら、これもまた運命なのか、と僅かに笑みを浮かべた。
「私も彼女の母君から聞いた話だ。今から500年前―――」
天夜は、遠い過去に鬼姫と出逢い、心を奪われた六眼のことを、静かに話し出した。
ほぼオリジナルストーリーになりそうな予感…笑👹
早く過去編をアニメで見たいですね♡
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