五.鬼の涙


仄暗い海の中を漂うような感覚がを包んでいた。
上なのか下なのかも分からない。
ただ、波に身を任せて漂う海月のように、ふわふわふわふわ流される。
音は何も聞こえない。ただただ、静寂がを包んでいた。
唯一、瞳に映るのは蒼く、儚いかすかなる炎―――。

そこに静寂を破る音が響いた。
―――!
それは自分の名を呼ぶ、誰かの声だった。

「―――…!おい!しっかりしろ!」

突然、ガクガクと揺さぶられる感覚に、は不意に覚醒した。

?!大丈夫か?」
「……悟?」

ぼんやりと視界に映ったのは、小夜に光る美しい碧眼だった。
しかし意識が戻ったと同時に、ここはどこだと辺りを見渡す。

「…神社?」
「オマエ…覚えてねーのか?」

五条はが目を開けたのを見てホっと息をついたが、まだ少しぼんやりとした様子のを見て眉間を寄せた。

「わ…私…えっと…りんご飴食べてて……あ、お面…」
「お面?」

かすかに過ぎったお面屋での出来事を思い出したは、ついでに自分が五条の腕に抱き起されてることに気づき、慌てて離れようとした。

「おい、急に動くな!」
「だ、だって近い…」
「あ?!」
「悟…あまり大きな声を出すなよ…。が怖がるだろ」

そこへ夏油が歩いて来るのが見えたは、ホっとしたように「傑…」と微笑んだ。
夏油のことをいつの間にか名前で呼んでいるに、五条は僅かに目を細めながらも己の親友に「さっきの奴は」と問いかけた。

「大丈夫。硝子が治療してる。武長さんが来るまで呪霊にも見張らせてるし」
「…何のこと?」
「オマエ、マジで何も覚えてねーのかよ…」

五条は呆れ顔で溜息をつく。

「オマエ、呪詛師に襲われたんだよ」
「…え、呪詛師…」

その名前を聞いた途端、の頭に鋭い刀を持った黒装束の男が浮かんだ。

「あ…!あのお面屋のオジサン…」
「は?お面屋?」
「わ、私、お面屋のオジサンに殺されそうになって…!それで…」

それで?その後の言葉が続かない。
アレは夢だったのかとも思ったが、五条の口から呪詛師に襲われたと聞いたのだから、やはり夢ではない。

「もしかして…悟が助けてくれたの…?」
「…いや」
「え、じゃあ…傑?」
「いや、私たちじゃないんだ、
「え、じゃあ誰が…」

首を斬り落とす。あの呪詛師はハッキリそう言っていたのを思い出し、は改めて自分の姿を見下ろした。
でも首はちゃんと繋がっているし、どこもケガをした様子はない。
ただ浴衣の帯がほどけて少し乱れているくらいだ。
その時、五条が溜息交じりで「」と呼んだ。

「呪詛師は…。オマエが喰ったんだ」
「………え?」

たっぷり数秒かかっての脳にその言葉が届いた。
喰った、とはどういう意味だろう。そう言いたげなは、自分を見下ろす夏油を仰ぎ見た。
彼なら何か否定してくれると思ったからだ。
しかし夏油は困ったように笑うと「あれは驚いたよ」と肩を竦めている。
ということは、その現場を二人は見たということだろうか。
暫し考えこむを見かねたのか、五条が深い息を吐き出した後に一言、告げた。

「オマエは呪詛師を三人喰って、ひとりは喰いかけのとこを俺達が止めたんだよ」








「おい、!開けろって!」
「いや!放っておいて!」

部屋の中から何かで止めたのか、襖はびくともせず、五条はイライラして頭を掻きむしった。

「あー!だから嫌なんだよ、ガキは!自分でやったことだろーがっ!素直に認めろ!」
「悟…やめろ。今はそっとしておこう」

苛立つ五条の肩にポンと手を置き、夏油は外へ促すように歩き出した。
五条もこれ以上ここにいても仕方ないといったように夏油の後に続く。

――先ほど、を助けに行った時。
呪詛師に襲われたらしいは何故か一時、鬼の力に目覚めたようだった。
命の危険を感じた結果だと想像はできたが、実際に自分の目で見た五条達は、のその美しさに言葉を失った。
呪詛師三人の生気を喰らい、残る一人も手に掛けようとしていたのぬばたまの髪は変色し、五条と同様、闇に光る銀の糸のように白く。
獲物を映す瞳は、濡れて光る宝玉のような美しい碧になっていた。

「あれは…、か…?」

夏油が呆気に取られた様子で呟く。
呪詛師の首を手で捕らえ、その口を大きく開けさせると、はゆっくりとその赤い唇を近づけていく。
その間も呪詛師の男の口からはオレンジ色のオーラのようなものが溢れだしていた。

「マズい…」

ハッと我に返った五条は素早く動くとの手から呪詛師を引きはがす。
獲物を奪われた鬼が暴れるかとも思ったが、引きはがした途端、は崩れ落ちるように倒れて意識を失ったのだ。
その瞬間、周りを浮遊していた青い炎も消え去った。
呪詛師の男は一命をとりとめたが、生気を吸われたことで一気に10歳は老け込んだ容姿となっていて、夏油と家入は心底驚いた。

「――まあ、でも…やっと自分が鬼だと理解しようとしていた最中で人を喰らったと聞かされれば、ショックを受けるのは当然だよ」

の部屋の窓を見ながら、夏油が苦笑する。
意識を取り戻したには鬼になった記憶がなかった為、五条が簡単に説明したのだが、自分が殺されかかった恐怖と、呪詛師とはいえ人を殺してしまったという罪悪感から、戻って早々離れに閉じこもってしまったのだ。

「ショック受けようが事実なんだから、それはそれで受け止めるしかねーだろ。ったく弱っちい奴だな…」
「誰もが皆、悟のように心が強いわけじゃないさ」

夏油は静かな声でそう言うと、五条がまた舌打ちをする。
だがそれ以上、何を言うでもなく、ただ黙って離れの窓から洩れる明かりを見つめていた。

「あれ、は?」

そこへ呪詛師の治療を終えた家入が戻って来た。

「硝子、どうだった?アイツ」
「あーま、出来ることはやったけどさ。ちゃん殺そうとした呪詛師なんか助けてどーすんの?」
「アイツの意識が戻ったら誰に頼まれたのか、それとも単独なのか聞き出すよ」
「あーなるほど。だから武長さんに預けたわけね」

五条の言う聞き出す、とは拷問をしてでも、という意味が含まれている。
五条家にとって、それは番人の仕事でもあった。

「それより…ちゃん、大丈夫だった?」
「…いや…閉じこもって出てこねえ」
「マジ…?やっぱ…ショックだったかー」

家入は天を仰ぎながら溜息をつくと、五条に向かって「アンタ、どーにかしなさいよね」と言って門の方へ歩き出す。

「おい、どこ行くんだよ」
「私は寮に帰るわよ。五条は泊ってくんでしょ?明日は任務もないし休みじゃない」
「…俺も帰るよ」
「は?何で」
「俺がいたところで何も出来ねーし…」

五条は仏頂面でポケットに手を突っ込むと、家入と同じく門へ向かって歩き出す。
夏油もそれに続こうと歩き出したが、ふと五条が足を止めた。

「……やっぱ最後に一回だけ声かけてみるわ」
「ああ。なら私は先に硝子と戻ってるよ」
「わりぃな」

五条はそれだけ言うと、すぐに離れの方へ戻って行く。
その姿を見送りながら、夏油と家入は苦笑を漏らした。

「ったく素直じゃないわね~」
「まあ、悟もどうしたらいいのか分からないだけだよ。自分は呪詛師を殺したところで、あそこまでショックを受けたことはないだろうから」
「そりゃ五条からしてみれば自分の命を狙ってきたやつを返り討ちにしたところで胸なんか痛まないだろうけど…ちゃんはねぇ…」
「こういう世界とは無縁で生きて来た子だからね。やはり人を殺めてしまったことはショックだろうな」
「上手く励ませるのかな、五条のヤツ」

家入は五条の後ろ姿を見ながら心配そうに呟いた。





静かな部屋に、くぐもった泣き声だけが響く。
何で、どうして、と言ったところで、自分の運命は変わらない。
姿見に映る自分の姿を見ていると、涙が溢れて来た。
が意識のなかった時、髪と目の色はいつの間にか元に戻っていたらしい。
だからこそ余計に信じられなかったのだ。
しかし三人が目撃していたというのだから鬼化したのは事実なのだろう。

「私は鬼…人を…喰らう鬼…」

五条や夏油の話を聞いていたら自分が殺されかかったところまでは思い出した。
薬で眠らされ、あの神社まで連れて行かれただけでも意味が分からないのに、知らない男達に殺されかけて更に混乱した。
自分の運命をそれなりに理解したつもりでいたが、鬼だ何だと言われても、やはりどこか絵空事のような感覚で過ごしていたのだ。
だからこそ、目の前で刀を向けられても尚、現実のこととは思えなかった。
しかし確実にあの時、呪詛師の男は首を斬り落とそうとしてきたのだ。
そこから先の記憶は覚えていないと言うよりは、全てが曖昧だった。
急に身体が熱くなったこと、その後はどこかふわふわしていて、とても心地良かったというぼんやりとした感覚。
海の中に揺られてるような、ただ流されているような。
その中で突然、名前を呼ばれて気づけば目の前に五条がいた。
としてはこんな感じだった。
だから何をしたか覚えているかと問われたところで答えようもなかった。

"オマエは呪詛師を三人喰って、ひとりは喰いかけのとこを俺達が止めたんだよ"

五条にハッキリとそう言われた時はただショックで、嘘だとしか言えなかった。
中身のない黒装束のみが残されていたのを見ても、自分が何かしたとは思えなくて。
しかし、生きているのが何よりの証拠のような気がした。
首を斬り落とされそうになった時、確かにあの場には自分達しかいなかったのだから。
その時、離れの引き戸が開く音が聞こえて、ドキリと鼓動が跳ねた。
てっきり五条達は帰ったものだとばかり思っていたのだ。

「……?」
「……な、何よ。まだいたの?」
「チッ。いちゃわりーかよ」

五条はイラっとした様子で応えたが、廊下に座り込むような気配がした。

「…まだ…へこんでんの?」
「………」
「あのなぁ…アイツらはオマエを殺そうとした奴らだぞ。そんな奴ら殺したところで何を落ち込む必要があんの」
「そんなの分かってる…。けど私は悟みたいに簡単に割り切れない」
「あーっっそ。ったくめんどくせぇ…。なら延々へこんで泣いてろ!どんなに泣いたところで現実は変わらないんだ。オマエが鬼だってこともな」

五条は呆れた声でそう告げると溜息をつきながら立ち上がったようだった。
これから高専へと帰るのだろう。玄関の方へ歩いて行く音が聞こえる。
その時、の中でモヤモヤしたものがこみ上げ、すぐに立ち上がると徐に襖を開け放った。

「悟には分かんないよ!小さい時から自分の運命を教えられて育った悟には…っ」

五条はちょうど靴を履いているところだった。その背中に向けてどうしようもない苛立ちをぶちまける。こんなことを言ったところでどうしようもないのは分かっていた。
どう足掻いたところで自分が鬼になる運命は変えられない。

「あーわかんないなぁ。俺、どうしようも出来ないことをウジウジ悩んでるヤツって嫌いだし、そんなヤツの気持ちなんか考えたこともねーわ」
「……っ」
「ま、俺は帰るんで、はひとりでずーっと泣いてろ」

五条はそう言い捨てると引き戸を開けて出て行った。
ぴしゃりと乾いた音を立てて閉じられたことで、五条の苛立ちが見て取れる。
だがは無性に腹が立った。
玄関まで走ると、目についた物を拾って引き戸を開け放ち、手にしていたものを五条の背中へ思い切り放り投げた。

「…ぃてっ」

それは見事に五条の背中に当たり、ボトリと地面に転がった。

「…てめ、下駄ぶつけてんじゃねーよ―――」
「悟なんか大っ嫌い!」
「あぁ?!俺だってオマエみてーな弱っちいガキは嫌いだっつーのっ!」
「だったら殺せばいいでしょ?!私は制約を破って人を喰らったんだから!早く粛清してよ!」
「はあ?バカじゃねーの…普通の人間喰ったわけじゃねーんだよ。アイツらは呪詛師だ。あんなの何人喰ったところで制約違反にならねーよ」
「……いーから殺してよ…!鬼になる前なら簡単に殺せるんでしょ?さっきの男が言ってた…あの刀を使えば―――」

パンっという乾いた音と頬に走る痛みで、の言おうとした言葉は喉の奥に消えた。
ジンジンと熱い頬に手を添えながら、いつの間にか目の前に立っている五条を見上げる。
月明りを映した輝く碧眼の虹彩には、怒りという色がハッキリ見てとれる。

「殺せ?ハッ。マジでバカか、テメェは」
「…バ、バカで悪かったわね―――」
「ちなみに死ぬのは制約違反だから」
「…え?」
にはにしか出来ない役目があるだろ。それ放棄して死ぬのは制約違反だろうが」
「な…」
「もしが勝手に自殺すれば、鬼族は皆殺しになるぞ?」

五条は溜息交じりでを見下ろした。

「な、何でよっ」
「長である鬼姫が約束破るんだから当然だろ。言っとくけど天狗や鬼女が違反する事より、よっぽど重たいからな」

五条はそう言い捨てると、の手を引いて離れの方へ歩き出した。

「ちょ、な、何?」
「今のオマエ、何すっか分かんねーから見張る。いーから着いてこい」
「や…っまた閉じ込める気…?」
が死ぬって言うなら今度こそ監禁してやる」
「や、やだ!放してよ…っ」

力づくで掴まれた腕を振り払おうと暴れるを、五条は容赦なく担ぎ上げる。

「ひゃっ、ちょ、ちょっと!」
「あまり暴れると拘束すっぞー」
「そ、それ制約違反じゃないの?!」
「うっせぇ。そっちが先に違反しようとしてんじゃねーか」

五条はを担いだまま離れに戻ると、部屋のソファにその体を放り投げた。
あまりに乱暴な扱いに、は更に怒りが沸いて来る。

「何すんのよ…っ」
「死ぬなんて許さねえ」
「…っ?」

顔を上げた瞬間、五条がをソファに押し付け、上から怖い顔で見下ろしてくる。
怒りのこもった碧い双眸はの瞳を射抜くように見つめていた。
今まで何度かケンカをしたが、これほどまでに怒りを見せられたのは初めてだった。

「…さ、悟…?」
「次、死ぬなんて言ったら、マジビンタだからな」
「…いたっ」

いきなり指で額を弾かれ、その激痛に思い切り顔をしかめる。
今のデコピンも痛いが、さっきのビンタも痛かったのに、とは目の前の五条を見上げながらムっと口を尖らせた。

「さっきだってビンタしたじゃない…」
「あ?あんなもん手加減したに決まってんだろ」
「……あ、あれで手加減…?」
「言っとくけど俺がマジビンタしたら、吹っ飛ぶから。鼓膜も破れちゃうかもなー?」
「……っ?!」

ニヤリと笑みを浮かべる五条に、の顏がサっと青くなる。
これまで生きて来て誰かに殴られたことなどなかったは、それだけで心が折られた気がした。

「わ…分かったわよ…」
「あ?何が?」
「だ、だから…もう死ぬなんて言わない」

別に本気でそう思ってたわけじゃない。
死にたくなったのは確かだが、感情的になっていたといった方が正しいかもしれない。
それに五条の言った通り、自分が違反をすれば天夜や彩乃までが粛清されてしまうかもしれないのだ。
一族の長などと言われても未だピンとは来ないが、自分のしたことで誰かが傷つくのはも嫌だった。

「…ごめんなさい」

気分も落ち着いて来ると、自分が物凄く子供じみた我がままを言った気がして、素直に謝る。
何だかんだ言いながら、五条が心配して怒ってくれたのだと、気づいたのだ。
それに今夜、花火大会に連れて行ってくれたお礼さえ言えていない。
シュンとしたように項垂れていると、不意に頭にポンと手を乗せられた。

「わかりゃいーんだよ」

五条はニヤリと笑いながら、の頭をいつものようにグリグリと回す。
その手の強さに顔をしかめたが、でも気分が悪いわけでもない。

「…悟、ほんとに帰らないの?」

五条がいきなり制服の上着を脱ぎだしたのを見たは、驚いたように顔を上げた。

「私、もう死のうなんて…」
「あー違う違う。そうじゃなくて。さっきオヤジに報告しに行った時、言われたの思い出した」
「え、何を…?」
の鬼化の周期が早いから、そろそろ目覚める時期じゃないかって」
「…周期?」
「オマエ、俺が会いに行った時に初めて人を喰おうとしてただろ?」
「あ、あれは―――」
「あーアイツからちゅーされそうになって勝手に生気吸っちゃったんだろ?分かってるけど、あれから二週間ちょっとだ。そろそろ鬼化してもおかしくねえだろ」
「……」

思いだしたくもない光景を思い出し、は思い切り顔をしかめたが、やはり鬼化が近いと言われると怖くなってくる。
自分の意思とは関係なく鬼化し人を襲ったのだから、次また何かあったらと思うと不安になるのだ。
この五条家には鬼の餌となる呪術師が大勢いる。

「んな不安そうな顔すんなよ。俺が傍にいりゃ大丈夫だから」
「…悟が?」
「鬼化する前後の鬼姫の食欲は凄いらしいから、その時は俺が生気をやる」
「え…で、でもそれ危ないんじゃ…」
「半分くらいまでは平気だよ。その辺のヤツよりはマシ。つーかその時に俺もの妖気を喰らえばチャラみたいなもんだ」
「妖気ってでも生気とは違うでしょ?」
「違うけどそれで呪力が上がれば、俺の中の生気も上がる。だから交換の儀なんだよ」

五条の説明には分かったような分からないような顔をしていたが、とりあえず傍に五条がいれば大丈夫、という安心感はもらえた。
少しホっとしたことで、はふとりんご飴のことを思い出す。
せっかく買って貰ったのに殆ど食べていない上に、気づけば手になかったのだ。

「あ、あの悟…りんご飴、どこかでなくしちゃったみたいなの…。せっかく買ってくれたのにごめんなさい」
「ああ、アレなら神社の手前で落っこちてたわ」
「えっ」
「仕方ねーだろ。不可抗力だったんだし。あんなのまた買ってやるよ」
「でも花火大会、終わっちゃってたし…」
「ここのじゃなくても、まだどっかでやるだろ。夏はこれからだし―――」
「連れてってくれるの…?」

ふと尋ねれば、五条は一瞬しまった、という顔をしたが、溜息をつくと「仕方ねーな…」と渋々頷いた。
話の流れで、つい言ってしまったのだが、余計な話をしてしまったと僅かに後悔する。
だがは嬉しそうな笑顔を見せたので、少しはホっとした。

「元気出たみたいだな」
「…え?あ…」
「ま、ひとまず仲直りっつーことで」
「な…仲直り…」

手を出してくる五条に、が不思議そうに首を傾げる。
すると五条は「仲直りの握手だよ」と言っての手を掴んだ。

「な…何…」
「ぷ…っなーに赤くなってんの?オマエ。あ、男に手を握られたことないんか。ダッサ」
「…い、いいでしょ!そんなのにダサいとかダサくないとかないしっ」

真っ赤になりながらも握られた手を振り払うと、五条はひとり楽しげに笑いを噛み殺している。
それを横目で見ながら自然に口を尖らせているを見て、五条は更に「そういやキスもしたことないんじゃねーの?」とからかってきた。
男の子と手を繋いだことがないのだから、当然キスなんかしているわけがない。
図星をさされたの顏がますます赤くなっていく。

「あーじゃあ結果的に俺がのファーストキスの相手になっちゃうけど」
「…は?」
「言ったろ。生気交換する時は口移しだって」
「な、何そのいやらしい顔…っ」

ニヤっとする五条を見て、は遂に耳まで真っ赤に染まって行く。
しかしこのまま行けば確実に五条の言う通りになってしまう。
五条家から出られないのだから、鬼に目覚める前に彼氏を作れるはずもないのだ。

「仕方ねーから、俺が優し~くちゅーの仕方教えてやるよ」
「い、いい!そんなのしなくたって交換できるでしょっ」
「だからそれじゃ洩れるっつってんじゃん」
「……っ」

が動揺している姿を見て、五条は明らかに楽しんでいる様子だ。
鬼に目覚めれば長い間、その儀を行わなければいけない相手なだけに、変な意味で楽しまれたら余計に羞恥心が煽られる。

「と、とにかく…悟が言ってるみたいな変な意味のものじゃないって彩乃さんも言ってたし、私もそんなつもりでしないから」
「ふーん。じゃあ練習してみる?」
「…は?」
「今、交換の模擬やろうぜ。いきなり本番で初ちゅーは嫌だろ?」

ニヤリと笑う五条に、の頬がカッと熱くなる。

「ちゅ、ちゅーって言わないでよ!」
「あれ?オマエはそんなつもりでしないんだろ?ならいいじゃん。俺がどう思いながらしようと」
「……っ」

五条は楽しげに笑いながらの隣りに座ると、いきなり腕を肩に回して来た。
それにはも慌てて逃げようとしたが、すぐに強い力で引き寄せられる。

「ちょ…ち、近い…」

五条の腕がの背中に回り、一気に二人の距離が近くなる。
かすかに甘い香りがするのはお香かもしれない。

「ほら、顔上げろよ」
「ほ…ほんとにするの…?練習…」
「当たり前だろ。オマエ、本番の時にいちいち逃げそうだし、今から慣れとけ」
「な…慣れとけって…」
「だーから赤くなんなって。前にも言ったろ、作業と思えって。俺よりよっぽどオマエの方が意識してんじゃん」
「…う…」

呆れたように笑う五条に何も言い返せず、は泣きそうになりながら俯いた。
好きでも恋人でもない相手と、いくら生きる為とはいえ、こんな恥ずかしいことを一週間に一度やらなければならないのはにとって大きな問題だ。

「ひゃ…っ」

突然、顎を持ち上げられ、至近距離で五条と目が合う。
その瞬間、心臓が壊れるんじゃないかと思うほどに早鐘を打ち出し、はぎゅっと目を瞑った。

「じゃーするぞ?」
「……」

すぐ近くで五条の声がするだけで勝手に顔の熱が上がって行く。
返事は出来ず、小さく頷くだけで精一杯だ。
あまりの緊張に、は五条のシャツをぎゅっと握りしめた。
しかし五条もまた、そんなの反応に少しだけ戸惑っていた。
ただの練習であり、不慣れなを今の内から慣らすためと思っていたのだが、見ればの頬は赤く染まり、シャツを握り締める手は僅かに震えている。
こんな反応をされれば、いかに五条でも多少は変な気分になってくる。
まるで本当に今からキスをするような、甘い高揚感を覚えた五条は、軽く頭を振りこれは練習であり、キスじゃない、と自分に言い聞かせた。

「さ…悟…?」

一向にされないことで、緊張も限界とばかりにが目を開けた。
その漆黒の瞳は今にも泣いてしまいそうなほど潤み、まるで五条を誘っているかの如く扇情的に映る。朱色に染まった頬と合わせて、こうして見ているとの綺麗な顔立ちがまた仇となり、やけに艶っぽい。

「…バカ、目あけんな」
「…う、うん」

やはり、こういう時は目を瞑った方がいいんだ、とは慌てて目を瞑り、五条は困ったように小さく息を吐き出す。
気を取り直し、五条はゆっくりと唇を近づけ、の赤い唇へ僅かに重ねた。
その瞬間、の肩がビクリと跳ねる。また五条もドキっとして唇を離したが、はぎゅっと目を瞑ったままだ。
ついでにシャツを握り締める手にも力が入っている。
そんな緊張されても、と思いながら、五条はもう一度、今度は本番のようにの唇を塞ぐ。

「ん…っ」

触れ合っただけの先ほどよりも深く重なる唇に、は驚いたような声を上げた。
だが唇が塞がれている為、その声も口内へと消える。
やはり初めての行為だからか、唇にも力が入っているはきゅっと口を閉じたままだ。
生気交換の際は、唇を重ねながら僅かに口を開け、互いにエネルギーを吸いあうものであり、これでは交換が行えない。

、口、開けろ」
「…ぇ?」
「口、少しだけ開けんの。閉じたままじゃ交換できない」
「う…うん…」

は言われた通り薄っすらと口を開く。
その艶のある唇が開くのを見てドキリとしたが、そこへあまり意識を向けないよう五条は再び唇を重ねると、自分も僅かに口を開き、イメージとしてはこんな感じだろうと考えていた。
その間もシャツを握り締めているの手は更に震えている。
初めてのキスがこういう形で可哀想だとは思うが、こればかりは仕方ない。

「…はい。こんな感じ。分かった?」
「………」

唇を解放し、なるべく普通に話しかけると、は恐る恐る目を開けて真っ赤な顔で頷いた。
この様子では慣れるというところまでは行ってなさそうだな、と五条も苦笑するしかない。

「で、どうだった?」
「…え」
「初めてキスした感想」

場を和ませようと、そんな事を聞いてみれば、はギョっとしたように目を見開き、今では茹蛸みたいになっている。

「キ、キスだなんて思ってないし…っ」
「そりゃそうだけど。じゃあ唇くっつけた感想は?」

必死になって意識しないようにしているが可愛くて、五条はつい意地悪な質問を繰り返す。
また怒り出すかとも思ったが、その質問には少し考える素振りをすると、一言。

「や…柔らかかった…」
「………」

俯いて照れたように呟くに、またしてもドキっとしてしまった自分を誤魔化すように、普通の感想だなと笑いながら五条はの身体を解放した。
そしてまだ説明していなかったことがあったのを思い出す。

「あーそれと大事なこと言っとくの忘れた」
「…な、何?」
「これ、にこの先彼氏が出来たとしてもやるからな?そこは頭に入れておけ」
「……え、」

これまで恋愛に対して疎かったは、全く考えていなかったことを言われて暫し呆気に取られた。でも確かに誓約書にはそういった項目があったようにも思う。

「この制約は互いに恋人や妻、夫がいても行われるって書いてたろ」
「う、うん…確か…」
「だから好きな相手が出来たので嫌ですってのは通らない。それも―――」
「違反になるんでしょ…。分かってるよ…」
「やけに素直じゃん」
「…べ、別にただの作業だし」
「そういうこと」

プイっと顔を反らすの頭を、五条も笑いながらクシャリと撫でる。
強がりを言っても、の頬が赤いのは五条も気づいていた。

「っつーことで、もう一回する?」
「…っし、しませんっ」

またしてもからかう五条に、は慌てたように離れる。
このままの関係でいけば、まだ二人は辛い思いをしなかったのかもしれない。
ただの誓約、ただの作業、そう割り切り、一定の距離を保っていればあるいは、胸を裂くような想いを抱くことはなかっただろう。
心とは、時として思わぬ思慕を生み出すものだと、この時の二人はまだ、気づいてすらいなかった。




高専時代の先生を早くアニメで見たい…
粗暴だけど女の子にマジビンタはしない…はずだ笑🤔
あ、邪魔だからフォーム外しました笑💡