まさかこの20分足らずで、カフェで出て来そうなパンケーキを出されるとは思っていなかった五条は、濡れた髪をバスタオルで拭きながらテーブルの前に座った。
「すっげー。生クリームとかどうした?」
「あ、コレ?この前プリン作った時に乗せたくて彩乃さんに買って来て貰ったの」
「へぇ。苺ソースも?」
「それはヨーグルトにかけようと思って買ったやつ」
は紅茶のカップを二つ運んで来ると、テーブルに淡い紫色のジャムが入った小瓶を置いた。
「これは?」
「これは紅茶を飲む時、一緒に舐める用に作ったブルベリージャム」
「オマエ、そんなもんも作れんのか」
五条は驚きつつも小瓶を摘まむと、感心したように眺めている。
「で、何で紅茶飲むのにジャム?」
「ロシアンティーにハマって前はジャムを入れて飲んでたんだけど本場ではジャム入れずに、濃いめの紅茶を飲みながら砂糖代わりに舐めるんだって。だから真似してみようと思ったのがキッカケ」
「女ってそういうの好きだよなー。ま、でも美味そう」
「悟もジャムいる?」
「あーいる。いるけど…見事に甘党だな、オマエ」
テーブルに並べられた物を見てると、全てに糖分が入っている。
どちらかと言えば五条も食べる方ではあるが、ほどではない。
ジャムを小皿に分けて目の前に出してくれたを見ながら、五条は苦笑した。
「甘党っていうか…しいて言えば生気と似てるから好きなのかも」
「は?似てるってどこが」
「甘いとこ」
「あー…」
そう言われてふと思い浮かんだのは、生気を吸われている時の感覚だった。
アレも喰われてる最中は体中に甘い痺れが巡って何とも言えないほどの快感なのだ。
鬼は人を惑わし、甘い夢を見せながら喰らうと言われており、五条はそれを身を以って体験していると言えよう。
「…美味い」
「ほんと?良かったー」
ジャムを一口舐めてみると、甘酸っぱい―というより甘めが若干強い―味覚が口内に広がる。
砂糖を入れていない紅茶を飲んでからジャムを舐めてみると、なるほど確かに合う。
パンケーキにナイフを入れて、クリームと苺ソースを絡めてから口に入れると、前にに買って来たフレジェのような風味がこれまた口内に広がった。
「ん~やっぱ美味い。、パンケーキ作るの上手だよな。見事にふわふわ」
「私も好きだから色々研究したの。お兄ちゃんは甘すぎるって言って食べてくれなかったけど」
「あ~アイツは天狗だからな。天狗は霞を喰らうってよく言うだろ」
「霞…ああ、自然エネルギーで発生する気のことか」
「天狗は鬼と違って人を喰らわなくても生きていける。他は人と同じ食いもんで基本OKだしな」
「…いいなぁ。私も霞で生きていけたらいいのに…」
ポツリと漏れた一言に、五条はふと顔を上げた。
どこか寂しそうな表情は、それが本音であると見て取れる。
「どうした?急に」
「…んー今日ね、初めて同じクラスの女の子に話しかけられて友達になったんだけど…私だけ皆とは違う存在なんだなぁと思ったら何か寂しくなった」
「はぁ?気にすんなよ、んなこと。喰いもんが違うだけだろ」
「だ、だからそれが問題なんじゃない。もし私が間違って友達を襲うようなことになったら――」
「俺がさせねぇつってんだろ」
カチャンと大きな音を立ててフォークが置かれたのを見て、はドキっとしたように五条を見た。
普段ならサングラスに隠されているアパタイトブルーの双眸が、射抜くようにを見ている。
その強い眼差しは怒っているようにも見えて、は少しだけ戸惑った。
「…さとる――」
どうしたの?という言葉は、発せられる前に五条の唇によって塞がれた。
驚いて離れようとしたの頭へ手を回し、五条は自分の方へ引き寄せると、互いの唇が深く交わる。
そして喰えと言わんばかりに、驚きで固まっているの唇を五条は舌先で器用にこじ開けた。
先ほどから薄っすらと感じていた空腹感に加え、五条から甘い生気の匂いが洩れて来たことで更にの鼻腔を刺激して来る。
鬼にとって、それは何とも言えない誘惑だった。
「…ん、」
一気に熱い生気がの口内から体内へと巡るように入って来る。
それは全身を蕩けさせるほどに甘美な味で、一日早いというのにはもっと欲しいと言うように五条の頬へ両手を添えた。
未だに外では暴風雨が吹き荒れていて、ガタガタと雨戸を揺らしている音が響く。
先ほどまで怯えていたも、今はそれすら聞こえなくなったかのように、夢中で唇を合わせて来る。気づけば室内に青い鬼火が灯り、二人を照らすようにゆらゆらと燃え始めた。
薄目を開け、それを眺めていた五条の視界に、頬を上気させたが映る。
貪欲に生気を喰らおうとするは普段とは比べものにならないほどに艶のある表情を浮かべている。五条は視界の端でそれを盗み見て、すぐに瞳を閉じた。
これ以上、意識をに向けてしまえば五条の身体が別の意味で持たないからだ。
そう頭では理解しているのに、自然と呼吸は乱れていくのを止められない。
「…んっ…」
の強い妖力は五条の中で眠っている細胞を一つ一つ目覚めさせていくかのように体内を巡り、呪力へと取り込まれていく。
その瞬間は全身に力がみなぎり、呪力が変化していくのが手に取るように"視"える。
こうなると一気に全身の熱が上がり、ある種の興奮状態になるのだが、必要以上に相手の力を取り込むのは危険なのも分かっている。それはも同じことだ。
「……もう…ダメだっ…て…」
五条は理性を働かせると吐息交じりに唇を離し、合図するかのように自分にしがみついているの肩を軽く押し戻す。
その瞬間、恍惚とした表情で余韻に浸っていたの身体は重力に逆らうことなく崩れ落ち、五条はそれを受け止めた。
鬼化の影響なのか、それとも日に日に増していく妖力の影響か。
食事の後は一時的に意識を失うことも増えた気がする。
顏にかかった髪をそっと指で避けると、の頬は先ほどよりも血色よく紅がさしていた。
その頬にちゅっと軽く口付けた五条は、を抱えると寝室の布団へと運んでいく。
喰らいすぎた後で、一度意識を失うとなかなか起きないのは分かっていた。
五条は途中で妖気を喰らうのを止めたが、前に許容量をオーバーしそうになった時は五条でも意識が飛びかけたことがある。
「はぁ…だる…」
妖気を喰らった後の気だるさで、五条はフラつきながらもを布団へ寝かせると、自身もその場に座り込んだ。
深呼吸を何度か繰り返し、ボーっとしている頭と痺れているような感覚の身体を暫し休める。
最初に喰らっていた頃より、の妖力が上がったせいで五条にまで多少の影響が出るようになった。
まるで達した後のような気だるさと疲労感で、こうなると肉体が勝手に疼いてくるのが困るのだ。
夏油にも説明した通り、いつもなら変な気を起こさないよう早々に帰っているところだが、今夜は傍にいると約束をしたので帰るに帰れない。
の意識がないのは幸いだった。
「ったく…。無邪気な顔で寝やがって…」
先ほどよりも呼吸が落ち着いたのか、今は頬の赤みも消え、も普段の幼い寝顔に戻っている。
しかし生気を喰らったことで艶やかに光っている唇だけは、誘うように薄っすら開いていてドキっとさせられる。
五条がいくら他の人間よりも強い術式と精神力を持っていようとも、16歳という多感な年齢であるのは間違いなく。
肉体の方が素直に自分の情欲に反応してしまうのは仕方のないことだ。
「あー…ツライ…」
溜息交じりで弱音を吐きつつ、少し体が楽になった五条は隣の部屋まで両手と両ひざを動かし移動する。
分かってはいたのに、こうも反応するものなのかと、五条は改めて驚くことがあった。
先祖たちが定めた制約の中にああいった一文があるのは、やはり根拠に基づいたものであり、なかなかどうしてバカには出来ないな、と五条は今更ながらに実感した。
五条はテーブル前に戻ると、気持ちを静めるのにすっかり冷めた紅茶を一口飲んで、ホっと息をつく。外は相変わらずの暴風雨で、風の音に交じって再び雷も轟きだした。
この分だと明日、の学校は休校になるだろう。
ならば、あのまま寝かせておいても問題はないはずだ。
「友達…出来た、ね」
食欲も戻り、残りのパンケーキを頬張りつつ、置きっぱなしになっていたのケータイ画面を眺める。
しかしそこには今日出来たという友達の名ではなく、五条と通話した時のままの画面であり、ふと笑みが零れた。
電話もいよいよ繋がらなくなり、放置したまま布団の中へ逃げ込んだの姿を想像すると、つい顔がにやけたというところだ。
鬼のクセに、そういうところはやけに人間臭い。
大木などひと撫ででなぎ倒せるほどの力がありながら、たかが雷や暴風雨に怯えて駆けつけた五条に縋って来る始末。
そういうところはやはりガキだな、と思う反面、可愛くもある。
"私だけ皆とは違う存在なんだなぁと思ったら何か寂しくなった"
あんな風に言われても、五条は優しく慰めてあげられるような性格ではない。
どうにも出来ない運命ならば受け入れるしかない。
五条もこの世に生まれ落ちた瞬間から、皆とは"違う存在"だったからこそ、の気持ちは多少理解できる。
幼い頃から自分の役割をきっちり叩き込まれた五条と、幼い頃に知るべき事情を知らずに16歳を迎えてしまったではもちろん心構えが違う。
故にはどこか人間臭いところが強く残っていて、心のバランスがうまく取れていないように見える。
「バカだな…。違ってたっていいんだよ…。俺達の世界では」
この呪われた世界で生き抜くには、どうしたって力が必要だ。
今の五条が一番欲するのは、更に高みへ行ける能力。それのみ――だ。
その時、雷鳴が轟き、室内を青白い光が照らした。

は心地のいいふわふわとした感覚の中でゆっくりと覚醒した。
身体が軽く、すっきりしている。
「…ん…?」
かすかに雨音と雷のゴロゴロという音が聞こえてきて、まだ降ってるんだと思いながら目を開けた。だが寝室は電気が消されていて薄暗い。
ついでに奥にあるこの寝室には窓がなく、今が朝なのか、まだ夜なのかも分からないかった。
(あれ…私、電気なんか消したっけ…?)
ぼんやりと考えながら寝返りを打とうとした。
なのに身体が固定されて動かない。何故?と問う間もなく、の鼻腔がその存在を認識した。
「さ…悟…?」
かすかに甘い香りがして首を右側へ向けると、目の前に五条の端正な顔―いや、寝顔が視界に飛び込んで来る。
芸術の如き造形美は眠っている時でも健在のようだ。
「な…何で…」
一瞬ギョっとして目だけを動かしてみれば、そこはいつもの自分の寝室。
でもいつもと同じじゃないのは隣に五条が寝ていることだ。
そこでは先ほどのことを思い出した。
五条とケータイで話している最中、電波状況が悪くなり、物凄い騒音がしたと心配して駆けつけてくれたことを。
「あ…それで生気交換したんだっけ…」
話してる最中、何故か五条がいきなり仕掛けて来たのだ。
しかも空腹になりかけてたところだったせいで、明日の儀を一日早く済ませたくらいには喰らってしまったのかもしれない。
オーバーすることで意識を失うことがあるのはも把握していた。
「そっか…だから悟が布団に運んでくれたんだ…」
そこまで思い当たり、はふと隣で静かに眠っている五条を見た。
言ってた通り、ちゃっかり同じ布団に入っている。
しかものお腹の上に五条の右腕が乗っていた為、身体が動かなかったらしい。
あげく五条はの方へ体を向けた状態で寝ており、よく確認すれば足まで絡められている。
これでは動けなくて当たり前だ。
「っていうか…足、絡めないでよ…抱き枕じゃあるまいし…」
自分の今の状態がだんだん分かって来たは、一気に恥ずかしくなって来た。
彼氏いない歴16年だと言うのに、付き合ってもいない男と先に同じ布団で寝る羽目になるなんて何の冗談だと思う。
その前に交換の儀という名の"接吻"はしてしまっているのだが、そこは深く考えないでおく。
ガッシリ絡められた足に至ってはびくともしない。
は細身であり、五条のような身長の高い男に体重を乗せられた状態では当たり前のことだった。
「お…重たい…」
眠っている五条は足だけでも重たいということに気づいたが、は何とか絡められた足を抜くことに成功した。
次はお腹の上にある腕を外せば起き上がることが出来る。
とりあえず時間を確認するのにケータイを見たかった。
はそっと五条の腕を掴むと、ゆっくり動かしていく。
その時、いきなり掴んでいた腕に力が入ったと思えばグイっと五条の方へ引き寄せられた。
「…な…」
「…動くなって…」
「さ…悟…起こしちゃった?」
「…ん。何かモゾモゾしてるし…」
五条はを己の胸に押し付けた状態で背中に腕を回し、欠伸をしている。
それでもまだ少し眠そうだ。
一方抜け出そうとしていたはずが更に沼へハマったかの如く、身体をホールドされたは、困ったように「放してよ…」と可愛い抗議をする。
「…まだ朝方だし…寝てようぜ…」
「え…何で朝方って分かるの…?」
「感覚…それにまだ台風通過してねぇし…オマエは休校になるって…」
「あ…休校…」
「ま…これ次は東北方面に移動してんだろうから俺の出張も行けるかわかんねえけど…ふぁぁ…」
言われてみれば確かに外はまだ強風と雨の音がしている。
予報では今日の午後に東北方面に抜けていくと言っていた。
確かに東北に出張の五条も移動できるかどうか怪しいところではある。
それでも一度ちゃんと起きてテレビなどで台風状況確認はしたいところだ。
「ちょ、ちょっと悟…私、テレビ見て来るから放してよ…」
「…あ?んなもん後にしろ…オマエ、抱き心地ちょうどいいんだよ…」
「だ…抱き心地って…私、枕じゃないよ」
文句は言ったものの、五条は一向に放す気配はない。
どうしたものか、と思っていると、後ろに回っている手がゆっくりと動いてやんわり背中を撫でて行く。そのくすぐったさには動ける範囲で身を捩った。
「く、くすぐったいってば…っ」
「…ん~柔らかくて気持ちぃ~…」
五条はの頭に頬ずりをしながら半分寝かかっている。
完全にヌイグルミか何かと間違えてる、とはムっとして、もう一度五条の腕から抜け出そうともがいた。
その時、背中を撫でていた手がするすると下りて行き、腰のラインをなぞりながらヒップラインにまで到達し、これにはもビクっと肩が跳ねる。
五条の手は丸みのある部分をやんわり撫でて再び腰のくびれを確かめるように撫でて行く。
「ちょ、…悟…っ」
「……んだよ…」
「変なとこ触んない…ひゃっ」
またしてもお尻の部分に手が下がって来たのを感じ、たまらず叫ぶ。
その時、太ももの辺りに何か硬いものが当たった。
この感じは…と記憶が"目覚めの日"まで遡る。
あの日のことは後々少しずつ思い出して来たのだが、今この状態になってあの時のことを思い出した。
「さ…悟っ!発情しないでよっ」
お尻を撫でている手を思い切りつねると、五条は「いてっ…」という声と共に、ゆっくりと目を開けた。
この様子だと半分寝ていたのだろうが、身体が反応してるのは何故なんだと疑問が残る。
すると五条が不満そうに「うるせぇな…今いい夢見てたのに…」と欠伸を咬み殺した。
「い、いいから放してってば…っこのスケベっ」
「…あ?あー…朝の生理現象だから仕方ねぇだろ…」
自分の身体の状態に気づいたのか、五条はやっとの身体から腕を放した。
男の生理現象くらいはでも知っているが、いくらそうでも精神的に良くないので、解放されたことでそのまま布団から逃げ出そうとした。
しかし腕を掴まれ、すぐに布団へと押し倒される。
ギョっとして見上げれば、すっかり目を覚ました様子の五条と目が合う。
「人を叩き起こしといて、そんな必死に逃げられると何かムカつく」
「…な…放してってば…」
「どうすっかなぁ…」
五条はクククと喉の奥で笑いながら、寝起きとは思えないほど扇情的な視線でを見下ろしてくる。
男特有の熱を孕んでいる自分と同じ碧眼に見下ろされ、次第に頬が熱くなっていく。
「俺が当主になったら…俺とは交わる予定なんだし…少し早めて今からする?」
「…は?何言って…ダメに決まってるじゃない…っ。それにソレはしなくてもいいはずじゃ――」
「まあ、俺もぶっちゃけそう思ってたんだけど…なあ?」
五条は意味深な笑みを浮かべて、ゆっくりと唇を近づけて来た。
ついでに身動きの取れないの脇腹のラインをなぞるように撫で上げて行く。
初めて男の人に身体を触られ、の顏が真っ赤に染まって行った。
「…こうして見るとも案外、色っぽく見えんのな」
「……あ…案外って…失礼ね…んっ」
五条の指がの唇をツツっと撫でた瞬間、そこから甘い刺激が伝わり、心臓が大きな音を立てる。
こんな風に唇を触れられたことなどないにとっては羞恥心が煽られるには十分すぎた。
制約にある以上、いつかはこんな日が来るかもしれない、とはも覚悟をしたこともあったが、それは"いつか"であって"今"じゃない。
まだ知り合ってそれほど経ってもおらず、信頼関係を作り上げていく途中段階なのだ。
なのに五条は本当に何かしようとしてるんだろうか、とは本気で焦って来た。
「いつものじゃなく…普通のキス、してやろーか」
「……っ」
五条はふと真顔でを見下ろすと、ゆっくりと顔を傾け唇を近づけて来た。
こういう時、ドラマなんかだと思い切り引っぱたくシーンがあったりするが、実際に身の危険を感じた時、身体が思うように動かないんだというのをは実感する。
五条のキラキラした双眸に見つめられると、まさに蛇に睨まれた蛙の如く、固まってしまった。
その時――廊下の方から「さま!」という声と、走る足音、そしてガラっと勢いよく襖を開ける音が連続で聞こえた。
「きゃ…っさ、悟さま?!」
寝室に飛びこんで来たのは彩乃だった。
台風が苦手だと天夜から訊いていた彩乃はのことを心配して朝一で様子を見に来たのだ。
しかしてっきり布団の中で怖がっているかと思っていた姫が、五条家の嫡男に布団の上で組み敷かれている、という場面に遭遇し、真っ赤になっている。
五条が来る予定だったのは今日ではあるが、まさかこんな早朝にいるとは彩乃でも思わない。
「し…失礼致しました!」
来てはいけない時に来てしまったと焦った彩乃は、が何かを言う前に慌てて離れを飛び出して行った。
「ま、待って彩乃さん、助けて―――」
ふと我に返ったは思い切り叫んでみたが、彩乃に届くはずもなく、空しく扉の閉まる音を聞いていた。
「ぶはは…っ」
「…な…」
その時、五条がいきなり吹き出し、の上から避けたと思った瞬間、布団の上で笑い転げている。今の今まで自分を襲おうとしていた五条が爆笑しているのを見て、は唖然とした。
「い…今の彩乃の顏…見たかよ?」
「な…何笑ってんのよっ」
今のうちと言わんばかりに布団の上から逃げ出したは、未だに笑っている五条を睨みつけた。未だ心臓は早鐘を打ち、さっきの恥ずかしさが徐々に怒りに変わって来る。
本気で襲われる覚悟をしたものの、目の前で笑い転げてる五条からは先ほどのような雰囲気は見て取れないからだ。
「だって…しまったって顔してたし、アイツ勘違いしてただろ」
「…勘…違い…?」
「あれ?も本気で襲われるとか思ってたんだ」
「……っ?」
目尻に浮かんだ涙を拭いながらも、五条はニヤリと笑みを浮かべる。
その顔を見て、は何かに気づいた。
五条がこういう顔をする時は、だいたいが―――。
「冗談に決まってんだろ」
「な…っ」
「がいちいち意識してくっからショック療法してやろうと思って」
五条は体を起こすと、布団の上に胡坐をかいて「マジでビビってたのかよ」と苦笑いを浮かべた。
その態度にの顏も今度は怒りで赤くなっていく。
一瞬でも覚悟を決めた自分が恥ずかしかった。
「何がショック療法よ…。最低!」
「あのな…俺は早く慣れてもらおうと思っただけだから。いちいち意識してたらこの先もたねーだろ、オマエ」
「……う…そ、れは…そうだけど…」
それを言われるとも困ってしまう。
いくら交換の儀だと分かっていても始める前と終わった後はどうしても恥ずかしくなってしまうのだ。五条は苦笑気味にの頭へ手を置くと、軽くポンポンと叩いた。
「恥じらうのは彼氏が出来た時までとっとけよ」
「…かれ…し?」
「今回みたいに台風の時、オマエを心配して駆けつけてくれるような彼氏、欲しくねーの?」
「……そんなの…」
「はまだ恋したことねーだろうけど」
五条に言われて、ハッとした。
確かにこれまで誰かに恋をしたことなどない。
少女漫画やドラマで見て知ってはいるものの、それが実際はどんなものなのかすら、には分からなかった。
これまで誰かを恋しい、なんて思ったことがない。
「悟は…あるの?」
ふと話を振って来た五条に尋ねると「俺ぇ?」と思い切り吹き出している。
「ないない。俺には必要ねーもんだし」
「ど、どうして…?だって…モテるんでしょ?」
「まあ、適当にデートはしたりするかもなあ」
の問いに五条は笑いながら「でもそれと恋とは違うだろ」と肩を竦めている。
では恋とはどういうものなんだろう――?
デートはするのに恋ではないと言い切る五条を見ていると、は本気で分からなくなった。
やはり人間がする恋と、鬼の自分がする恋は全然違う気がする。
二人がこの先、どんなに触れ合っても決して、恋人同士にはなれないように。
前回の続きです。長くなったので分けました。
そして前回所々誤字ってたので直しました笑💦
そして前回所々誤字ってたので直しました笑💦