が高専に入学してから5ヶ月目に入ろうかという初夏。
「はあ?彼氏が出来た?」
素っ頓狂な声を上げた五条は、その情報をもたらした親友の顔を呆れたように振り返った。
五条のそんな態度に慣れている夏油は口角を緩めたまま肩を竦めて見せた。
「に?」
「ああ」
「相手は」
「何だ。やっぱり悟も気になるんだ」
揶揄するような視線を向けられ、五条は軽く舌打ちをすると、手にしていたコーラを飲もうとして空になっていることに気づいた。
それを呪力で小粒ほどの大きさまで潰した五条が自販機の横にあるゴミ箱へと放れば、カランと小気味いい音が鳴る。
「寝言は寝てから言えよ、傑。どーせ嘘だろ、そんなん」
「何故嘘だと思う?」
「そりゃ…」
と言いかけた五条は、目の前で相変らずニヤけた顏を向ける夏油を睥睨した。
明らかに五条の反応を見て楽しんでいる節があるからだ。
「どこにそんな出会いがあんだよ。にそんな暇なんかなかったろ」
高専に入学してからのは呪術についての授業と基礎訓練、体術訓練、そして五条達と現場へ出ての実戦任務などに忙しく、唯一の休みも疲れたと言って、最近は外出もせず寝てばかりいたのは五条も知っている。
そんな忙しさの中で出会いなどあるはずもなく、五条がありえないという態度を見せるのも当然だった。しかし夏油は「でも休日くらいはあるだろ」と意味深な笑みを浮かべた。
「休日ったってアイツ最近は疲れて部屋でゴロゴロしてばっかだったけど?」
「いや、先々週に灰原達と渋谷に映画を観に行っただろ」
「あーそういや言ってたな…。確か海賊映画の続編だっけか。俺も観ようと思ってたのにがネタバレかましたやつね」
「そう、それ」
「で?同級生同士で映画を観に行って何の出逢いが……って、まさかアイツらのどっちかじゃねえよな?!」
高専での出会いがないと思い込んでいた五条だったが、別にそれは自分だけの話であって、他の人間がどうかは別の話だ。
にとって最も身近な異性と言えば、同級生の二人だろうし、普通の学生同士よりは長い時間を共有する仲間でもある。その中で恋愛関係に発展したとしてもおかしくはない。
だが五条の予想は見事に外れ、夏油は「あの二人ではないよ」と笑った。
「ただ3人で映画を観に行った帰りに近くのカフェでお茶をしてたら、の元同級生が話しかけて来たらしくてね」
「…の…同級生?」
「中学の」
「ああ…」
が去年半年だけ通った中学校の同級生と知り、五条は眉間を寄せた。
あの学校でが親しくなった人間など殆どいないのは知っていたからだ。
唯一親しくなったクラスメートも、を利用して五条に取り入ろうとしていた乃絵のグループくらいだった。
「でもあのクラスにと卒業後に会ったとして話しかけて来る男なんて――」
「それが同じクラスじゃなく隣のクラスって話だったな」
「…隣?」
「何でも芸能事務所に入るほどのイケメンで、今はメンズモデルとして人気もあるらしい」
「…へぇ。で、ソイツとが付き合ってるって言いたいのかよ」
「再会した時に連絡先を交換したらしい。それで何度かやり取りをしているうちにデートに誘われたようでね。そこで告白されたとか」
夏油はニッコリと笑顔を見せる。その様子だとがOKしたという情報も手に入れてるようだ。それにしても何故夏油がのそんな事情に詳しいのかという方が、五条は気になった。
「傑、それ―――」
「ああ、今の話は全て灰原から聞いたんだ」
「灰原…」
の同級生であり、夏油を慕っているアイツならあり得る話だと五条は納得した。
しかし五条の予想したことと少し違い「どうやら灰原はのことが好きみたいでね」と夏油が言った。
「は?好き?灰原が…を?」
「私に相談してきたんだ」
苦笑いを浮かべた夏油に、五条は再び驚かされ何度か瞬きをした。
後輩の恋愛相談に乗ってやるとは何とも夏油らしい、と五条は思ったが,相手が相手だけに笑える気分ではない。
「灰原は…もちろん知ってるよな、が鬼だってこと」
「そりゃ呪術を学ぶ以上、鬼族の存在はもちろん、御三家である五条家と鬼族の関係も知ってるさ。けど好きになるのは理屈じゃないだろ?」
「いや、そうかもしんねーけど…。つーか、灰原の話の前にだよ。アイツ、人間の男と付き合いだしたってことか?」
「そうらしいね。灰原がデートどうだったって聞いたら、恥ずかしそうに告白されたって言ってたらしいから」
「あんのバカ…」
五条は舌打ちすると、すぐに1年が待つ校庭へと足を向けた。
今日はこれから1年に呪具を使った訓練を行う予定なのだ。
夏油はイライラしながら歩いて行く五条の背中を眺めながら苦笑すると、その後をのんびりとついて行った。

ジリジリと朝から焼けつくような日差しが降り注ぎ、それを凌ぐように大木の陰で五条と夏油が来るのを待っていたと灰原、そして七海はすでに暑さでバテ気味だった。
熱中症を防ぐために飲みものなどの用意はしてあるが、この暑さの中で訓練をするのかと思うと、やる前からウンザリする。
「はぁ…どうして高専って体育館とかないのかなぁー」
「それの代わりが本堂とかじゃない?」
「あーそっか。でもさすがに呪具の立ち合いとかは無理か…」
「柱が結構あるもんねー」
灰原とのどうでもいい会話を聞きながら、七海は不意に負のオーラのような怒気を感じて、そちらへ視線を向けた。
すると校舎の方から目立つ長身の白髪、そして後ろに同じく長身の黒髪が自分達の方へ歩いて来るのが見える。
やっと先輩方のご登場かと思いながら立ち上がると、後ろで雑談をしている二人に「五条さん達来ましたよ」と声をかけた。
「あ、ほんとだ。悟ー傑ーおは…よっ?」
長い脚の二人が一年生たちの前に到着するのはアッという間だったが、目の前に来たと思った瞬間、は五条に腕を掴まれ「ちょっと来い」と無理やり連行されてしまった。
それを唖然とした顔で見送る灰原と七海、そして事情を知っている夏油は笑顔で「早く戻れよー悟」と手を振っている。
は3人を振り返りながら、何故自分だけが五条に連行されているのか分からず「悟、どうしたの?」と声をかけた。
しかし五条は無言のまま校庭から少し離れた校舎裏口の自販機の前まで戻って来ると、掴んでいた腕を放し徐にの方へ振り返った。
「オマエ、何考えてんだよ」
「…え、何が?」
いきなりこんな場所まで引っ張って来られて、いきなり何考えてんだとはどういうことだと顔を上げたは僅かに眉間を寄せた。
五条はサングラスをズラし、その碧眼を不愉快そうに細めてを見下ろしている。
「彼氏」
「え?」
「出来たんだって?人間の」
「……だ、誰からそんなことっ」
唐突に出されたその話題にギョっとしたの頬が一瞬で赤くなったのを、五条は見逃さなかった。
「傑から聞いた」
「え…何で傑がそんな話…」
「傑は灰原から―――」
相談を受けた、ということは言わない方が後輩の為か、とそこは五条も気を利かす。
「…聞いたらしい」
「え、もう…灰原くんのお喋り…」
は恥ずかしそうに視線を反らし、ブツブツ言っている。
五条はそんなの反応も何となく気に入らない。
「マジで付き合ってんの」
「…つ…付き合ってるなんて言ってないのに」
「あ?」
「た、ただ好きだって言われてデート誘われて行っただけなのに」
「だから、それが付き合ってるってことじゃねーの」
「え、そ、そうなの…?」
「つーか誘われたからって何、ほいほいデートしてんの、オマエ」
五条は呆れたように溜息をつき、の額を指で小突く。
それにはもムっとしたように口を尖らせた。
「悟には関係ないでしょ」
「あ"っ?」
思いがけずに反抗され、五条の額がピクリと動く。
それでもはひるまずプイっと顔を反らした。
今までも何度かケンカはしてきたものの、だいたいは五条が無意識にやらかしてが一方的に怒るものだった。しかし今回は五条のどこかの怒りに火がついた。
「バカじゃねーの。人間の男と付き合う鬼なんて聞いたことねーわ」
「だ、だから付き合ってるつもりはないってば!だけど悟にいちいち口出しされたくない!」
「はあ?俺はオマエが間違って相手の男を喰わねーよーに心配してるだけだろっ」
「喰べるわけないでしょっ?もう放っておいて!」
「おい、待てよっ」
怒って歩いて行こうとするの腕を掴み、五条が自分の方へ引き戻す。
は「放してよっ」と暴れだしたが、やはりそこは五条の方が力も強い。
振り回している腕を拘束して、の身体を自販機へと押し付けた。
「痛いってば…っ」
「…オマエ、ソイツのこと好きなのかよ」
腕を掴む力の強さに顔をしかめたが、五条の質問に驚いて顔を上げる。
怖い顔で見下ろす五条の双眸には怒りの色が見え隠れしているのが分かった。
「…ソイツって…羽田くんのこと…?」
「名前なんか知らねーよ」
「…悟…さっきから何で怒ってるの…?」
「あ?」
「そもそも私が誰と付き合おうと悟には関係ないじゃない…彼氏じゃないんだから」
そうだ、確かに自分はの彼氏でも何でもない。
古から続く制約で結ばれた者同士というだけだ。
なのに何故こんなにもイラつくのか、五条本人にも分からない。
が人間の男と付き合っているのなら、それがどれだけ危険なのか教えようと思っただけ。
ただ、それだけのことだ。
なのに心のどこかで、のことを自分の所有物のように思う気持ちが少なからずあったような気がして、五条は小さく舌打ちをした。
「とにかく……人間の男とは付き合うな。何があるか分かんねーだろ」
「…わ、分かってるよ…。でも悟ももう少し私を信用してくれてもいいんじゃないの…?」
「信用…?」
拗ねたように自分を見上げて来るの瞳には先ほどまでの怒りが消え、叱られた子供のような顔になっている。
つい抱きしめてやりたい衝動に駆られたが、五条はの腕を解放すると深い溜息をついた。
「信用できるかよ…。オマエは…人を喰らう鬼だ」
「―――ッ」
言ってからすぐに後悔した。
の大きな瞳に見る見るうちに透明な涙が溢れて行く。
彼女を傷つけたのは明らかだった。
の頬にぽろっと一粒の涙が零れ落ちたのを見て、五条はハッと我に返った。
そして「悪ぃ―――」と謝ろうとした時、が五条の腕を振り払う。
「そんなの嫌ってほど分かってるよ…!」
はそう叫ぶと、泣きながら校舎の方へ走って行く。
それを追いかけることも出来ずに、五条はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。

「ほーんとサイテーよね、五条のヤツ」
次の日、たち1年は任務もなく、教室で通常の授業を受けていた。
休み時間になると「暇~」と顔を見せた家入梢子に「五条とケンカでもした?」と訊かれ、は昨日のことを簡単に彼女へ話した。
「でも…何でケンカしたの知ってるんですか?」
家入とふたりでジュースを買いに娯楽室へ向かう途中、は疑問に思っていたことを尋ねた。
すると家入は苦笑交じりで「だって分かりやすいんだもん、五条のヤツ」と肩を竦めている。
「昨日は午後から先輩術師の救助任務で私もついて行ったんだけどさ~。いつもと同じようで違うって言うか、先輩にまで失礼な発言かますし帳は忘れるしで何か変だったのよ」
「…え、悟が?」
「だから夏油にコッソリ聞いたら詳しい事情知っててさ。教えてくれたってわけ」
「悟が…傑に話したってこと…?」
「んー。不機嫌そうに戻って来た五条に夏油がさりげなく聞き出したみたいだよ?何か珍しくへこんでたらしいし」
「え…あの悟が…?」
その話を聞いたは少しだけ驚いた。
人を傷つけたところで何も気にしてないだろうと思っていたのだ。
家入もそこは同感だったようで「夏油の気のせいじゃない?とは言ったんだけど」と笑っている。
「でも今朝も何か五条の機嫌が悪くて、夏油と下らないことでケンカしそうになってたし、ちょっと様子も変だったのよねえ」
いつものコーヒーを買い、家入がベンチに腰をかける。
もコーラを買うと家入の隣に座り、プルタブに指をかけた。
今は上級生の術師達も任務で出払っているようで、校舎の中は人気も少なく静かだ。
「…悟はいつも変だよ。すぐケンカ腰になるし…」
「まあ、それもそうなんだけどねー」
「で、傑とはケンカにならなかったの?」
もし自分とのケンカが原因で夏油にまでとばっちりがいっていたなら申し訳ないと思った。
しかし家入は首を振ると「一触即発って感じのとこで夜蛾先生が来て有耶無耶になってたかな」と笑う。そこで夜蛾から何やらふたりに任務が言い渡され、先ほど出かけて行ったようだ。
「護衛…任務。術師ってそんな任務までやるんだ」
「うーん。今回は天元さま絡みだからねぇ。も知ってるでしょ?」
「うん。高専に入った時に説明された。結界を張ってる不死の人でしょう?」
「そうそう。でも不老ではないから次の器になる体が必要で、その星漿体となる女の子が何か命狙われてるってことみたい」
「そっか…」
「ま、あのふたりのことだから、ちゃちゃっと敵を潰して戻って来るわよ」
家入は呑気に笑いながらコーヒーを飲んでいる。
も黙って聞いていたが、心の中では未だに怒りは燻っていた。
いや、怒りというよりは、悲しみの方が強い。
何の根拠もなく、五条はのことを認めてくれている、理解してくれていると思い込んでいた。けどそれはの独りよがりなものだったのだと、昨日の五条の一言で思い知らされたのだ。
"信用できるかよ…。オマエは…人を喰らう鬼だ"
あの言葉がずっとぐるぐる回っている。
五条と知り合って今日まで、色々なことがあったし常に仲良しというわけではなかったにせよ、それなりに信頼関係が出来ていると思っていた。
でも結局、五条にとってはどこまでいっても鬼なのだ。
利害が一致しているだけの、ただの鬼。
それがには悲しかった。
(そうだよ…どれだけ優しくされようと、それは私の妖力が欲しいから…。悟は…私自身を見てくれてるわけじゃない…)
そう思えば思うほど胸が苦しくなった。
どうしてこんなにも心が痛いんだろう。
急に、独りぼっちになったかのように、寂しい気持ちになった。
自分には鬼の仲間がいるのに。天夜も彩乃もいるというのに。
たったひとりの味方を失ったみたいに、は孤独を感じていた。
"―――。"
名を呼んで、いつも見せてくれていた笑顔は嘘だったのか。
"はい、仲直りのちゅーね"
戯れで口付けてきた時も、心の中では鬼だと蔑んでいたのか。
これまでの優しさは全て、偽りだったのか。
には分からなかった。
ただ分かっているのは、それでも五条のことを信じたいと思っている自分の想いだけだ。
「…泣いてるの…?」
「…え?」
家入に指摘され、は初めて自分が泣いていることに気づいて驚いた。
気づいた瞬間、ポロポロと涙が溢れて止まらなくなる。
「泣かないで。五条が帰って来たら私がぶっ飛ばしてやるから」
「……だ、大丈夫」
家入に肩を抱かれ、は慌てて涙を拭いた。
こんな風に泣いては困らせてしまうだけなのに、家入に抱きしめられると本当に止まらなくなった。
「五条のヤツ…こんな可愛い子を泣かすなんて、ほんとクズね」
家入が小さくそんな事を呟く。
優しく頭を撫でてくれる家入に、はぎゅっと抱き着いた。
五条と同じ呪術師の彼女にそうされると、少しだけ今の自分でいいんだ、と思える気がした。
―――この次の日、1年全員が五条と夏油の援護をするべく沖縄に呼ばれることを、はまだ知らない。そして2日後には、にとっても大きな決断をすることになる―――。
今回は繋ぎ的なお話です。次回は過去編をさらりと…