ポーンという音がして機内アナウンスが流れ始めたことで、はふと目を覚ました。
皆の乗った飛行機は着陸態勢に入り、は慌ててベルトを締める。
「よく眠れた?」
「うん」
隣りに座っていた灰原が笑顔を向ける。
通路を挟んで反対側の座席に座っている七海は相変わらず疲れた顔をしていたが、やっと東京に戻って来れたことにホっとしているようだった。
「無事に着いて良かったね。夏油さんの呪霊が守ってくれてるおかげだよ」
「そうだね。でも…理子ちゃんにとっては複雑だろうな…」
は窓の外を眺めながら、ポツリと呟く。
今朝も早起きして一緒に沖縄を回り、楽しそうにしていた天内も、帰る時間が近づいてくる頃にはだんだん無口になっていった。
東京に戻り高専へ着いたら、彼女の意識はこの世から消えるのだから当然かもしれない。
「僕達より年下の子が、この世界の為とはいえその身を差し出すのはツラいね」
灰原も思うところがあるのか、ふとそんなことを言った。
も無言のまま頷くと、飛行機はちょうど滑走路へと着地した。
(悟と傑も…何となくこのまま理子ちゃんを高専に連れて行っていいのかって顔してた…)
はしゃぐ理子ちゃんを見ながら、五条と夏油は何かを考えているようだったとは思い出しながら、溜息をつく。
任務とはいえ、一日以上もずっとそばにいれば、大なり小なりの情も湧いて来るだろう。
だからと言って自分達には何が出来るのか分からない。決めるのは、天内自身なのだ。
「もう懸賞金も取り下げられたし、雑魚が襲って来る心配はなくなりましたね」
ふと、七海が時計を見て、呟いた。
ここから高専まで護衛をしたら、五条と夏油の任務は終わる。
何事もなければいいな、と思いながら、も下りる準備を始めた――。

空港からの道中、五条と一緒に天内はやけにはしゃいでいた。
特に天内はこんな遠出をしたことはなかったようで、見るもの全てが新鮮だったのかもしれない。
「やはりこうして見ると東京は都会じゃのう…」
「そらそーだろ」
「…原宿とか渋谷にも行ってみたかったな」
生まれた時から星漿体となることが決められていた天内は、危険を避けるためなるべく安全に生活しなければならなかった。
故に普通の女の子がするようなことは一切経験出来なまま、今日という日を迎えた。
「でも…沖縄に行けて本望だ。本当に楽しかった」
流れる都会の景色を眺めながら、沖縄の輝く海を思いだし、天内が微笑む。
あんなに一日中、笑って過ごしたことも、初めてだったかもしれない。
「ソーキそば…美味しかったな」
「………」
ポツリと呟く天内に、五条、夏油、そして黒井は何も応えることが出来なかった。
また食べられるよ、という言葉すらかけられないのだ。
「もうすぐ高専です」
と車を運転していた補助監督が言った。
一時間ほど車を走らせると都会の喧騒も遠のき、次第に緑が多くなってくる。
呪術高専は都内の奥地、筵山麓の山間部にあり、東京とは思えない風景が広がっている。
五条達の乗った車の後を追うように、もう一台の車が走っていて、そこにはや灰原、七海が乗っていた。
いつもの風景を見ながら灰原は「はぁ…もう着いちゃうのか…」と嘆いていたが、は高専のある場所が気に入っていた。
森林が多いことで空気も澄んでいるし、辺りは静かで都会のような騒音被害も滅多にない。
鳥や虫たちが多いことで、東京もまだまだ自然豊かな街だと思えるのだ。
鬼や天狗といった存在は、古の時代からそんな自然の中に身を潜めて暮らして来た。
だからというわけではないが、は高専で暮らすようになってから気分も落ち着き、まるで昔から住んでいたかのような気持ちになることがある。
「私はこの風景見ると帰って来たぁって気持ちになるかな」
「ちゃんは自然が好きだもんね。都会より」
「うん。あ、でも虫は苦手だけど」
以前、五条家の離れで黒い物体を見つけた時は大騒ぎをし、五条に笑われたことがある。
自然が多いことは嬉しいのだが、夏場は特に虫が活発になる時期なので、毎年もそれだけが憂鬱だった。ただひとつ良かったことがあったとすれば、それは鬼に目覚めてからは蚊に刺されなくなったことだ。
「鬼の血はマズいんじゃねえ?」
と五条はバカにしてきたが、あの痒みから逃れられるなら、マズくて結構とは思っていた。
(悟はいっつも人をバカにするんだから)
前方を走る車を睨みつつ、それでもその意地悪な男を好きだと気づいてしまったのだから、自分でもおかしな話だと思う。
それに気づいたところで所詮、人間と鬼。絶対に結ばれることのない相手なのだ。
(私に人間の彼氏が出来たと勘違いしただけで、悟はやめろと言う為にすっ飛んで来てたしね…)
自分の気持ちに気づいた時点で失恋決定どころか、五条は人間以前に最強の呪術師になる為に生まれて来た男であり、が好きになることさえ許されない相手なのだ。
初めての恋にして悲恋なんて、本当に愚かだと思う。
過去に生きて来た鬼達のように、ただの制約だと割り切ってしまえばいいものを、相手の術師に心を移すなど愚の骨頂としか言いようがない。
それでも、例えこの先ツラい想いをしようと、今はただ五条の為にそばにいたい。
(鬼の私が、唯一悟にしてあげられることがあるから…)
そしてこの後、が五条に己の全てを与えようと思う出来事に遭遇することになる。

「はぁ~着いたぁ…」
車から降りた瞬間、灰原は両腕を伸ばし、思い切り空気を吸い込む。
長時間、乗り物に乗っていた為、体の節々が痛い。
「全く…今回の出張は無駄足で終わりました」
七海は溜息交じりで校舎の方へ歩いて行く。
今回の出張の報告をしに行く為だろう。
五条に呼ばれて沖縄まで出向いたものの、敵の姿など一切なく平和そのものだったこともあり、七海は行き損だったと思っているようだ。
「いいじゃん。誰も危ない目に合わないで済んだんだから」
「…灰原くんは呑気でいいですね」
「いいんだよ。皆が気を張る必要はない。前向きな呪術師がいたっていいだろ?」
ガックリ肩を落とす七海に、灰原が笑顔でその肩を抱く。
ふたりの任務はここで終わりを告げた。
しかしは五条達と一緒に天内を見送る約束をしていた。
「あ、じゃあ私は行って来るね」
「ああ、そっか。ちゃんは理子ちゃんに付きそうんだっけ」
「うん。先に着いてると思うから行って来る」
「行ってらっしゃい。あ、夜は三人でホラー大会ね」
「あ…そうだった」
笑顔で手を振る灰原を見送ったは、夜のホラー映画鑑賞を思い出し、苦笑いを浮かべた。
明日は休みなので灰原が夕飯の後に自分の部屋に集まって怖い映画を観ようと誘って来たのだ。
鬼のくせにホラーが苦手なは少しだけ気が重かったが、ひとつの任務を終えて休み前に同級生同士で騒ぎたいという灰原の気持ちも分かる。
「まあ、皆で観れば怖くないか」
そんなことを思いながら、幾重にも続く鳥居の間を通り、この先にいるはずの五条達の元へ向かう。この鳥居を抜ければ高専の結界内となる。
だが、あと数歩で入れるというところでは僅かな違和感を覚えた。
それは一歩、一歩、足を進めていたの頬をかすかな風が撫でていったせいだ。
普段なら絶対に気にも留めない、ほんのわずかな空気の流れ。
しかしそれは鬼の本能なのか、の中で"異質"と判断した直後だった。
気づけば、の全身が総毛だっていた。
「わりぃな。お嬢ちゃん」
「―――」
トン、と肩が当たるまで、は男の存在に気づかなかった。
を追い越す形で歩いて行った男の黒いTシャツの袖口からは、程よく鍛えられたがっしりとした腕が見えている。しかしの碧眼が捉えたのはただ、それだけだった。
術師ではない普通の人間でも、多少は体に呪力というものが存在する。
なのに、この男には一切それがない。故に近づかれるまで気づかなかった。
しかし呪力がないのにの本能は、前を歩いて行く男を"危険"だと訴えてくる。
誰?と考えるよりも早く、が動いた。それは普段よりも研ぎ澄まされた鬼としての衝動。
だが、時間にしてほんの数秒にも満たないくらいの刹那――。
一歩、遅かった。
鳥居を抜けた辺りで待っていた五条の背後から近づいた男は、どこから出したのか手にした日本刀で、五条の胸を音もなく突き刺した。
「―――悟!!」
それは五条が術式を解いた直後に起きた。
あそこまで敵に近づかれたのに五条は気づかず、侵入者は結界も難なく通り抜けた。
これは只者ではない、とは判断した。
「アンタ…どっかで会ったか?」
「気にすんな。俺も苦手だ。男の名前覚えんのは」
男が応えた直後、五条は術式を発動し、背後にいる男を自身から引きはがした。
同時に夏油が手から巨大で長い芋虫のような呪霊を出し、その呪霊が空中に持ち上げられた男を丸のみする。それを確認した夏油はすぐさま五条の方へ走った。
「悟…!!」
「問題ない」
しかし五条は駆け寄って来た、そして夏油を手で制止した。
「術式は間に合わなかったけど内臓は避けたし、その後呪力の強化をして刃をどこにも引かせなかった。ニットのセーターに安全ピン通したようなもんだよ。マジで問題ない」
五条はいつものテンションで説明し、と夏油は互いに顔を見合わせた。
しかしの眼には、今の説明に多少嘘が混じっていることは分かる。
でも敢えて何も言わなかった。
「天内優先。アイツの相手は俺がする。傑達は先に天元様の所へ行ってくれ」
「で、でも悟――」
「だーいじょうぶだって、。んな顏すんな。ほら、天内のこと頼む」
「う、うん…」
心配そうな顔をするに、五条は笑みすら浮かべてそう言うと、夏油に目で合図を送る。
それに気づいた夏油はの腕を掴むと「油断するなよ」とだけ声をかける。
その時、男を飲み込んだ呪霊の腹に、亀裂が入った。
「誰に言ってんだよ」
五条がサングラスを外しながら鼻で笑うのを見た夏油は、と一緒に天内と黒井の元へ走った。
「急ごう」
「は、はい」
黒井は天内を守るようにしながら夏油について行く。
もふたりの後からついて行ったが、背後では激しい戦闘音が聞こえて来た。
侵入者の男が呪霊の腹から出てきたようだ。
(悟…!あの怪我は言うほど軽傷じゃない…あの体で得体のしれない侵入者と戦うのは…)
高専最下層へ続くエレベーターの前まで来ると、は足を止めた。
「…?」
「…ごめん、傑…。私…行かなきゃ…」
天内と黒井をエレベーターに乗せた夏油が驚いたように振り返る。
しかしの眼には迷いがなく、一目で引き留めても無駄だと分かった。
五条なら例えケガをしていてもひとりで大丈夫だという確信はあるのだが、得体のしれない敵には違いない。
ここはと共闘させた方が、いやなら五条のあの怪我もすぐに治せるはずだ。
夏油は軽く頷くと「ああ…悟を頼むよ」とへ微笑んだ。
もその言葉に頷くと、天内と黒井の方へ深々と頭を下げた。
「すみません…最後まで付き添えなくて…」
「さん…気を付けて」
「…はい」
心配そうな黒井と天内に微笑むと、はすぐに踵を翻した。
五条なら大丈夫。も夏油と同じく、そう信じている。
なのに、胸の奥がざわざわと嫌な音を立てるのは何故なんだろう。
(悟…今行くから―――)
あの怪我さえ治療出来れば――。
五条がいつもみたいに余裕の笑みで「楽勝だった」と言ってくれるのを期待しながら、は必死に走った。その時、ゴリゴリゴリっという物凄い音と同時に大地が揺れる。
「…これ…悟の術式?」
ということは五条とあの男はまだ戦闘してるということだ。
間に合うと思ったは再び走り出した。
しかし、その直後、無数の蠅頭が現れ、の行く手を阻むように囲んで来る。
「な…何よ、これ…気持ち悪い!」
虫の形をした大量の蠅頭は不気味な羽音を立てながら近づいて来る。
いつものなら己の力を使う前に逃げ出していたかもしれない。
けれど今は一刻も早く五条の元へ駆けつけたかった。
その想いが苛立ちとなり、は鬼の力を解放した。
「邪魔よ、どいて!」
手をかざした瞬間、青い炎に包まれた蠅頭は一瞬で塵となり、風に吹かれて行く。
残りも鬼火を操り燃やしながら、は必死に走って行った。
(おかしい…急に戦闘音が聞こえなくなった…)
先ほどまで肌にビリビリくるような殺気が充満していたのに、今は怖いくらいに静かだ。
の背中に嫌な汗が伝っていく。
「これ…」
五条と別れた地点まで近づいた時、辺りを見渡し唖然とした。
さっきまでの地形は抉られ瓦礫が散乱している。辺りにはまたしても蠅頭が飛び回っていた。
はそれが五条の術式によるものだと分かった。
だが戦闘をしている様子もなければ、ふたりの姿が見当たらない。
いや――抉られた地形の真ん中に、不自然なほど蠅頭が集まっている箇所があった。
は小さく喉を鳴らすと、足元に注意をしながらそこを目指して足を進めて行く。
その時、蠅頭の群れの中から誰かが歩いて来るのが見えた。
一瞬、五条かと思って声をかけようとしたは、それがすぐに侵入者の男だと気づいた。
「あれ、さっきのお嬢ちゃんか」
の顏から血の気が引いた。この男が無事ということは―――。
「何で戻って来た?星漿体はもう送り届けたのか?やべえな…急がねーと…」
男は誰に言うでもなく、ブツブツと独り言ちている。
しかしにはどうでもいいことだった。
ふらつく足を男が歩いて来た方向へと向ける。
途中、男とすれ違ったが、は気にせず歩いて行った。
一瞬、男が殺気を放ち、斬り落とされたはずの首は瞬時に繋がった。
男が小さく息を飲むのだけは分かった。
「オマエ…その容姿…まさか鬼姫か…?」
そう呟く男に、はチラリとその碧眼を向ける。
鬼姫の存在を知っているのは呪術師だけだが、男からは何の呪力も感じない。
だが、の誰かの記憶が、目の前の男は古の時代から因縁のある家系の者だということを見抜いていた。
「チッ…鬼用の呪具はねぇし…俺と相性が悪すぎる…。目的は、達成しねえといけねえしな」
男はそう呟くと同時にその場から消え去ったが、にとっては消えた敵など興味がなかった。
今、頭にあるのはたったひとり、大事な人のことだけだ。
「…悟?」
群がっている蠅頭を全て燃やした場所に見えたのは、大きな血だまりの中で倒れている五条の姿だった。
全身が血まみれで、刺し傷が無数にあるその肉体からは、今も真っ赤な液体が流れ出ている。
眼、鼻、口からも血が流れ、の碧眼に映る五条の命の灯火は、今にも消えそうだった。
いつも皮肉たっぷりで見て来るアパタイトブルーの綺麗な瞳も濁り、今は何も映すことなく、ただ空を見つめている。
「…悟っ」
血だまりに膝をつき、力なく投げ出されている五条の手を握る。
夕べ、この手が自分の手を優しく引いてくれたことを思い出し、の両目に涙が浮かんだ。
腹の底から熱い力が溢れて来る。本来の妖力が全身に回り始め、は強く、五条の手を握り締めた。
「…死なせない」
ゆっくりと血だまりに手をつき、は五条の血に濡れた唇に自らの唇を近づけ、そっと重ねた。いつも五条がしてくれるように、舌で五条の唇を僅かに開けると、そこから一気に妖力を流し込む。死にかけている相手に多少の妖力では到底足りない。は命を燃やすように自らのエネルギーを注ぎ込んだ。
全ての力を与えてでも、五条を助けたかった。
(悟…死なないで…間に合って…お願いだから――)
力ない手を握り締めながら、妖力を与え続けたの記憶は、ここでぷつりと途切れた。

家入が異変に気付いたのは突如鳴り響いたアラートと、高専の敷地に現れた無数の蠅頭を見た時だった。
三日前から同級生のふたりは星漿体の護衛という特殊任務に出ていた為、この日はひとりで自習をしていたのだが、アイツらそろそろ帰ってくる頃かな、と思っていると、登録していない呪力の感知を知らせるアラート音そして校庭に現れた蠅頭に家入は驚いた。
「何あれ…。もしかして星漿体狙ってる奴らがここまで来たってこと…?ったく、あのクズふたりは何してんのよ…」
敵が侵入してるかもしれないとは思ったが、自分に出来ることと言えば怪我人を治すくらいしかない。反転術式を他人に扱える術師は貴重なので、家入は危険があると思われる場所に近づくことは許されていなかった。
「ま、アイツらが蹴散らすでしょ」
この時までは家入も呑気にそんなことを考えていた。
まさかそのふたりが瀕死の重傷を負わされているなどとは露ほども思っていない。
教室にいると何度か地響きのような音がしたものの、次第に静けさが戻って来たことで、やっと終わったか、と家入は溜息をついた。
その時だった。教室の窓から誰かが飛び込んで来て、家入は飛び上がらんばかりに驚いた。
「硝子…!」
「ご…五条?!てか…何よ、アンタ…血まみれのボロボロ…って?!」
窓から入って来たことも驚いたが、まず五条のボロボロの姿に驚愕した家入は、その五条の腕に抱かれてグッタリしているに気づき、慌てて駆け寄った。
「何があったのよ!」
「分かんねえ…俺の傍にコイツが倒れてて…息してねーんだ!診てくれよ、硝子」
「えぇ?!息してないって…ちょ、ちょっとここへ寝かせて」
家入はすぐに机や椅子を避けると、五条が床へを寝かせた。
の顏は青ざめ、血が通っていないように見える。
「侵入者は?!」
「これから追う。硝子はを頼む…!」
「いいけど…はケガしてるわけじゃない…。私の術式が効くかどうか分かんないわよ?!って…聞いてないし…」
再び窓から飛び出して行く五条に、家入は深々と溜息をつく。
そして青白い顔で横たわっているの頬に触れてみた。
「冷た…何よ…どうしちゃったの?…」
思っていたよりも深刻で、家入はの体へ反転術式を使ってみた。
しかし何の反応もない。
「これってもしかして…」
家入は五条のように六眼を持っているわけじゃない。
だからの妖力の流れがどうなっているのかまでは分からないが、当然術師である以上、他人の呪力などは感じることが出来る。
今のからはそういった類のものが何も感じられないのだ。
「五条のヤツ…パニくってそんなことにも気づかなかったのか…」
いや、パニくってると言うより、さっきの五条はどこかテンションが高く、様子もおかしかった。
「ったく…何があったのよ…」
色々気になることはあれど、とにかく今はが優先だ。
家入はの状態を見て、これは生気不足によるものではないかと考えた。
「まさか…命を削るくらい自分の妖力を誰かにあげたの…?」
そう口に出してハッとした。
が力を分け与える相手など、ひとりしかいない。
「五条…」
珍しく五条が血まみれの姿だったのは、そういうことなの?と家入は思った。
別にさっきの五条がケガをしていたわけじゃない。顔や服に血がこびりついていたからそう見えただけだ。
でもあれが敵のではなく自分の血の跡だったとしたら、相当な重症だったと容易に想像出来る。
まさかは重症の五条を見て自分の力を――。
「とにかく…五条がいないんじゃ私がやるしかないか…」
色々想像の域を出ないが、今はやれることをしなくては。
家入は気持ちを切り替え、の口を少しだけ開けると、人工呼吸のように自らの口をへ近づけた。
意識のないが自分の生気を喰ってくれるかは分からなかったが、今はこれしか思いつかない。
(お願い、…戻って来て――)
家入は祈る思いで、の唇へ自分の唇を重ねた。

―――ここは、どこ?
真っ白い何もない空間にひとり、は佇んでいた。
冷たい床を歩く足は靴も履いておらず、素足のまま。
は辺りを見渡して、自分がどこにいるのかを考えた。
その時、頭の中で誰かの声が響く。
―――、起きるのじゃ。まだこっちへ来てはならぬ。
ハッキリ聞こえた声に、は思わず耳を塞いだ。
頭の中で聞こえる声は、どこか気持ちが悪い。
「誰…?」
―――わたくしは呉羽。鬼の始祖となった姫。
呉羽、と聞いて、それが自分の先祖の名だとは気づいた。
「…呉羽…さま?」
―――六眼の者は無事じゃ。何と愚かなことを。
六眼と聞き、はハッとしたように息を飲む。
血まみれの五条の姿が脳裏を掠めた。無事だと聞き、ホっと胸を撫でおろす。
―――まだこっちへ来てはならぬ。オマエは生きて六眼と…
頭の中で響いていた声は、次第に小さくなっていく。
最後の言葉は聞き取れず、は待って、と言おうとした。
しかし実際は口内でモゴモゴとした、ただの音が出ただけ。
それが引き金となり、はふと目を開けた。
「…!」
「……さと…る…?」
目を開けた瞬間、目の前に五条の顏があり、はギョっとした。
「な…何で…」
「こんのバカ!勝手に命削ってんじゃねーよっ」
「…え?」
目覚めた瞬間、怒鳴られ、は少し驚いたが、体を起こして五条の姿を見ると、さっきの光景が蘇って来た。
血だまりに倒れている五条の命が消えそうになっていたことまで、ハッキリと思い出す。
「さ…悟…ケガは?大丈夫なのっ?」
慌ててしがみつくと、五条は呆れたように深い息を吐きだした。
「人の心配してるより…てめえの心配しろ!オマエ、餓死寸前だったんだぞっ」
「……餓死?」
そう言われて改めて室内を見渡すと、どうやらそこは医務室のようだった。
はそこにあるベッドに寝かされている。
しかし医師はなく、その部屋には五条しかいない。
「え、えっと…」
「ああ、硝子は今、オマエと他の怪我人の治療で疲れて寮で寝てる。力使いすぎたんだろ」
「え、私の治療って…どうして…」
瀕死の五条に力を与えていたことまでは覚えているが、その後のことは覚えていない。
何故自分が医務室のベッドで寝ていたのかすら分からなかった。
すると五条がベッドの端に座り、を見下ろした。
「オマエは俺に力使いすぎてぶっ倒れてた。それ気づかなくて俺はすぐに硝子の元にオマエ運んだんだよ。そしたら硝子がオマエが生気不足だと気づいて自分の生気を少しに与えた」
「…えっ?硝子ちゃんが…?」
「そうでもしねーと死にそうだったらしい。んで、少し生気喰ったおかげで呼吸も戻って来たっていうし、俺もオマエにさっき生気喰わせたとこ」
「……そ…そう…だったんだ」
自分の知らないところで生気を与えられてたかと思うと少々恥ずかしかったが、自分が生きてるのは家入と五条のおかげということになる。
鬼は滅多なことで死なないが、やはり命の源である生気が空になれば当然、餓死と同じ状態になるのだ。
「ありがとう…悟…」
いつものように呆れ顔で見て来る五条に、はお礼を言った。
呆れられてもいい。さっき死にかけていた五条を思い出すだけで心臓が止まりそうになる。
あの時は本当に自分の命と引き換えにしてでも、五条を助けたいと思ったのだ。
「そりゃこっちの台詞だよ…」
「…え」
不意にポンと頭に手を乗せられ、が顏を上げると、五条はどこか照れ臭そうな顔で視線を反らした。
「…不本意だけど…死にかけてた俺を助けてくれたのはだろーが」
「……そ、それは…」
「んな顏すんなよ。油断してた俺も悪い」
「あ…あの人…は?」
忌々し気に呟く五条を見て、はさっきの侵入者を思いだした。
あの時は五条を救いたいと必死で、男の後を追わなかったが、その後はどうなったんだろう。
の問いに、五条は「俺が倒した…」とだけ言った。
「え、悟が?じゃあ理子ちゃんは無事に天元さまの――」
と言ったところで言葉を切る。
五条がゆっくりと首を振ったからだ。
「…天内は…救えなかった」
「え…?」
「俺が行った時には…天内も殺されて遺体はアイツが敵のところへ運んだ後だった…。傑も瀕死だった。任務は――失敗だ」
「…うそ…」
の脳裏に、天内の笑顔が過ぎる。
沖縄でジンベエザメを見て喜んでいたのは、つい昨日のことなのだ。
自らの使命を全うしようとしていた少女が、大人たちの下らない思惑で命をあっさり奪われた。
こんなにも悔しくて、悲しいことはない。
「……傑は…?」
「硝子に治療されて今はピンピンしてっけど…心はどうかな。目の前で天内が殺されるのを見ちまったらしいから…」
その光景を想像して、の瞳に涙が浮かんだ。
守ろうとしていた存在が目の前で殺されたなんて、心が打ち砕かれただろう。
後悔してもし足りないはずだ。
「泣くなよ…」
声を殺して肩を震わせているを、五条はそっと抱きしめた。
本来、この任務とは関係のなかったを沖縄に呼び、天内と関わらせてしまったのは自分達だ。そんなことをしなければ、今回の任務が失敗に終わっても、こんな風に泣かせることはなかった。
「…ごめんな…。呼ばなきゃ良かったな…沖縄」
言ったところで、もう遅いのだが、言わずにはいられなかった。
の頭に唇を寄せると、も僅かに首を振る。
腕の中にすっぽりと納まるほどに小柄な少女が、自分の為に命を懸けてくれたことは少なくとも五条に衝撃を与えた。制約にもそんな約束ごとはないのだ。
なのに、は躊躇うことなく自らの生命を燃やして、五条を救った。
しかもこれをキッカケに、五条はまたひとつ、上の段階へ進むことが出来たのだ。
(…の妖力を一時とは言え大量に取り込んだことで膨大な呪力を手に入れた。そのおかげであの忌々しい男は倒せたが…)
生まれて初めての敗北は五条に屈辱と焦燥を与えたが、反転術式も遂に使えるようになり、今は自他ともに認める最強となった自負はある。
けれど、この先も自分の予想を超える敵が、絶対に現れないとは言い切れない。
(もう二度と…負けることがあってはならない。がまた俺の為にバカな真似をしないように…)
五条は決意も新たにすると、腕の中で泣いているを、強く抱きしめた。
あの敗北は衝撃的だったのを覚えてます🥺