三十一.海月の火の玉(前編)

そこはさほど大きくはない街だった。海から近く、潮の香りが時折風に乗って漂って来る。は電車を降りると、適当に足を進め、記憶を頼りに近辺を歩いてみることにした。

「だいぶ変わったなぁ、駅前も」

がこの下田市に住んでいたのは生まれてすぐの頃だ。覚えているはずもない。それでも見覚えがあるのは母の記憶だろうか。兄の天夜の話では、はこの街で生まれ、その後、母が粛清されたのもこの街だったという。

(風景は見覚えある気がするのにお母さんの記憶がないなんて…)

がこの街にいたのは赤ん坊の頃。なのに自然と足が向いたのは、今は亡き母の記憶を辿ったからなのか、それとも紅葉の記憶か。
の母が逃亡先にこの地を選んだのは、先祖の紅葉がこの土地の海に身を投げた、という言い伝えがあったからだそうだ。鬼女としての役割を投げ出し、好きな相手とふたり、母はどんな思いでこの街に来たんだろう。は初めてそんなことが気になった。それはきっと、自身も苦しい恋をしているせいなのかもしれない。

「もっとお兄ちゃんにお母さんの話聞いておけば良かったな…」

マンションを出てから二日ほど経っていた。寮に戻ると言ったものの、とてもそんな気分にはなれずに、はアテもないまま電車と新幹線を乗り継ぎ、戸隠村へ向かった。そこは鬼の始祖である呉羽が生まれた場所。行き場のない思いを抱え、先祖にすがりたくなったのかもしれない。遥か遠い昔に存在した村など現在は影も形もない。けれども、そこに生きた鬼姫の存在を感じることは出来た。古のこの地で鬼と呪術師の戦いが繰り広げられていたのかと思うと、どことなく感慨深いものはあった。そこでふと自分の生まれた土地にも行ってみたくなったのだ。

「海…」

しばらく歩くと目の前に海が見えて来た。以前に行った沖縄の海よりも濃い、ダークターコイズのような碧が広がっている。その光景を見た瞬間、フラッシュバックのように色んな映像が現れては消えて行った。

「やだ…何で涙なんか…」

胸が苦しい。色んな想いに呼応しているような感覚に襲われ、涙が止まらなくなる。時々こんな風になることはあったが、ここまで強いものは初めてだ。は何かに導かれるように海の方へ歩き出した。

――何故、どうして。

不意にの頭の中で声が響いた。

――鬼に生まれたくはなかった。

それは前にも聞いたことのある声だった。

――わたくしが人だったならば。もっと違う形で出会えていたなら。

誰かの思考がのものと重なる。それはまさに今、が抱えていた思いだった。優しい海風に吹かれ、長い髪がふわりとさらわれて行く。

(ああ――貴女はここで永遠の眠りについたのね…)

一歩、一歩、誰もいない砂浜を歩いて行く。目の前の光景と遥か古に見た光景が重なり、は前に見える女性の影へ、そっと手を伸ばした。








「…は?来てない?」

任務から高専に戻ったばかりの五条は、夜蛾の言葉に驚愕したような顔で振り返った。

「何だ。オマエのところにいるんだろう?しばらく休ませるって言ってたじゃないか」
「いや、でも――」

と五条は動揺したように言葉を詰まらせた。がマンションを出て行ってから二日。あれから頭を冷やすために五条は複数の任務をこなし二日ぶりに都内へ戻って来たばかりだった。その間、のことは考えないようにしていたが、やはり気になったので今日、任務の報告がてら高専まで来たのだ。そこで夜蛾に「はどうしてる」と尋ねたところ、さっきのような答えが返って来たことで、五条は少しばかり混乱していた。

(どういうことだ?アイツはハッキリ寮に戻ると言ってたのに…)

そこで浮かんだのは父親の顔だった。まさかこの期に及んでまたを五条家へ連れて行ったんだろうか。そう思ったがすぐに打ち消した。

(いや、それはない…もしが実家にいるなら親父からあんな電話が入るはずもない)

五条が高専に戻る途中、父から電話があり、見合いが破談になったことで文句を言って来た。その時もと暮らすのをやめろとまで言っていたのだ。もしが実家にいるならそんなことを言うはずもない。

「クソ…っ」
「あ、おい、悟!何があったんだ?」

慌てたように踵を翻す五条を見て、夜蛾が尋ねる。

が消えた」
「は?」
「心当たりを探して来る。万が一がここに来たら僕に連絡してくれ」

それだけ言い残すと五条は瞬時に姿を消した。その場に取り残された夜蛾はポカンとしていたが、が消えたという五条の言葉を理解し、すぐに家入や七海にも連絡を入れる。

「ったく…悟のアホが…」

ふたりの間に何があったのかは分からないが、も大事な生徒だ。鬼族と五条家の関係は理解している。しかしそのせいでがツラい思いをしているなら許せないと思う。その怒りの矛先はやはり五条だった。

「絶対見つけろよ…悟」

溜息交じりで窓の外を照らす夕焼けを眺めながら、夜蛾は小さく呟いた。







五条は術式を使って都心に戻ると、まずはマンションへ足を向けた。あんな風に出て行ったのだから来ているとも思えないが僅かな可能性も無視はできない。すぐに部屋に上がり、の部屋を覗く。しかしそこには帰った様子はない。出て行った時のまま、多少の荷物は置かれたままだ。五条はすぐに他の場所も調べたが、戻った形跡はなかった。

はここに戻ってない…ということは…)

そこで五条はが行きそうな場所を殆ど知らないことに気づいた。数年の間そばにいたのに、こういう時にがどこへ行くのか予想もつかない。いったい何をしてたんだと自分で自分に呆れた。

"私と悟の関係は今まで通り変わらないんだし、それでいいじゃない"

ふとに言われた言葉が頭を過ぎる。少しも良くなんかない。例えの気持ちが自分になくとも、他の女を隣に置く気はなかった。これまで通り鬼姫と六眼という関係など、くそくらえだと思う。制約を破ることになろうが知ったことじゃない。五条にとっては今のこの時代をと共に歩んでいきたい。ただそれだけだ。数百年も昔の約束ごとなど、これからどうとでも変えていけばいいのだ。今の自分にはそれが出来る。

(僕のことを男として見れない?嘘つきめ…)

五条は気づいていた。ちょっと触れただけで恥ずかしそうに頬を染めることも、手を繋いだだけで嬉しそうに頬笑むことも、キスをしただけでの鼓動が跳ねることも。それほど五条はのことを見て来た。些細な変化などすぐに分かる。いや、自分の気持ちに気づいた時、やっとその理由が分かった。

「絶対に逃がさない…」

どこに逃げても必ず見つけてやる――。

その時、五条のケータイが鳴り響き、ハッと我に返った。すぐに確認すると、そこには夜蛾の名前が表示されている。

「もしもし?が戻って来たの?」
『いや違う。だががどこに向かったのかが分かった』
「どこ?!」

五条は思わず声を荒げていた。夜蛾の話では念のためにとのケータイの位置情報を警察関係者に調べさせただようだ。呪術界と政界や警察は秘密裏に繋がっている。普段危ない仕事を請け負っている代わりに、こういう時は協力してくれる関係らしい。

『あちこち行ったようだが…今日の一番新しい位置情報は〇〇県の下田市という場所だった。何か心当たりはあるか?』
「…下田…」

そこで五条の頭の中に以前見た鬼族の伝書と、関連の書類の内容が浮かんだ。その情報の中には確かにその街の記載もあった。

「……が生まれた街だ」
『何?じゃあ…』
がそこに行ったのは間違いないみたいだな…僕も今からそこへ向かう」
『…分かった。なるべく急げ。もしまた位置情報が分かったら連絡する』
「ああ…。夜蛾センセー」
『何だ?』
「さんきゅー」

五条は滅多なことでお礼など口にしない。夜蛾はつい苦笑してしまった。

『いいから早く行け。そろそろ日も暮れる』
「ああ。じゃあ、また後で」

そこで電話を切ると、五条はすぐパソコンで新幹線の予約を入れてマンションを出た。

(でも…何でそんな場所に…?)

東京駅を目指しながら、五条はふと心配になった。あの街はが生まれた場所でもあるが、あの紅葉が愛しい男を失い、自ら命を絶った場所でもある。

(まさか…に限って…)

嫌な想像を打ち消すように大通りまで出ると、途中でタクシーを拾った。その時、今度は家入から電話が入った。

『五条、の場所、分かったって?』
「ああ、今向かってる」
『でも何で急にそんな場所に…アンタ達いったい何があったの?』
「…何がって…」
『またアンタ、を傷つけたんだじゃないのっ?』

家入の責めるような口調に五条も苦笑いを浮かべるしかなかった。

「どっちかと言えば傷ついたのは僕なんだけど」
『…は?』

家入も思っていなかった返しをされ、驚いている。そこで五条はとの間にあったことを全て説明した。や五条の見合い話を父親が持ち掛けてきたこと。との関係を侮辱されたこと。引き離されそうになったこと。そして最後に自分の想いに気づいたこと。家入は黙って聞いてたが、話し終わると同時に『鈍すぎ』とひとこと言い放った。

『どう見ても五条はに惚れてたし、もちろんもそう。分かりやすいのよ、アンタ達』
「……マジ?」
『でもふたりの間のことはそう簡単じゃないってことも分かってるから何も言えなかっただけ。でも…本当に鬼と人間が結ばれちゃいけないわけ?どうにか出来るんじゃないの。今のアンタなら』

家入の言葉に五条はふと笑みを浮かべた。普段は憎まれ口しか叩かないクセに、とつい言ってしまいそになる。

「オヤジがに何を言ったのか知らないけど…僕は一回フラれたくらいじゃ諦めるつもりはないよ。色んな問題はあるけど、それはどうとでもなる。今、心配なのはが無事かどうかだけ」
『無事って…に何があるって言うのよ。ただ生まれ故郷に行っただけなんでしょ?』
「あそこはの先祖の鬼姫が自ら死を選んだ場所でもあるんだ」
『え…死って…でも鬼はそうそう死なないんじゃ…自分で死ねるものなの?鬼用の呪具でも持ってるわけ?』

困惑したように家入が言った。詳しい事情を知らない家入が疑問に思うのは当然だった。

「ぶっちゃけると呪具で鬼は死なない」
『え、でも…』
「もちろん鬼用の呪具は鬼の硬い身体を傷つけることは出来る。でも…そんなもの鬼姫なら瞬時に治せる程度のものだ。鬼姫を死に至らしめるものは…以前が僕を助けた時のように全てのエネルギーを放出して一気に空にすること」
『あ…そっか…』

あの時のの状態は家入も見ている。すぐに家入が自分の生気を分け与えたことでは一命をとりとめることが出来たのだ。

「ガス欠になればは動くことさえ出来なくなる。そして僕らが前回交換の儀をしたのがちょうど一ヶ月前なんだ」
『えっ?じゃあ…』
「今のはすでに空腹だってこと。もしこのまま見つけられなければは空腹に我慢できずに人間を襲うか、餓死する」

家入が息を飲む気配を感じ、五条は「その前に僕が見つける」と言った。

「だから硝子は心配しないでそこで待ってろ」
『…絶対…見つけてよねっ』

最後に涙声で叫ぶと、家入との通話は切れた。

「言われなくても見つけるさ…」

ケータイを閉じ、流れる景色を眺めながら独り言ちる。空は次第に太陽が傾き、夜の帳が降りようとしていた。






は安らかな揺らぎの中にいた。過去の意識と融合したかのように紅葉の想いが伝わって来る。それを感じ取ったは思う。自分はまだマシだと。結ばれない運命は変わらない。けれども、恋しい人はこの世に在る。紅葉のように永遠に失ったわけじゃない。

――そんな風にひとりで泣かないで。

意識の中で紅葉に話しかける。ゆらゆら海の底へ沈んでいく白く長い髪が見えた。そこで初めては紅葉の最期を知った。

(ああ、そうか…彼女は人を襲わないよう、自ら海の底へ沈み、命尽きるまでこの場所で――)

波が打ち寄せ、冷たい海水が足を濡らしていく。その感覚さえ覚えていた・・・・・。迷わず一歩、一歩と足を踏み出す。恋しい人に逢えない寂しさに耐えられない。その想いに押し潰されそうになりながら、海の中へと体を進めていく。ふわふわふわふわ、波に流されるまま沈んでいくのが心地よかった。ゆらゆらゆらゆら、波に揺られて光のない海の底へ落ちていく。その時、は見た気がした。海の底を青く照らす、海月のように揺れる、青い鬼火を――。








▽管理人にやる気エナジーをくれるという方は此方から笑🥰▽

🔥一言エナジー🔥

.