愚かで残酷だった日々のこと-05




五条が高専に入学し、は中学三年へと進級した頃、クラスは以前と異なる空気が流れていた。

「ハァ~つまんない。今年から校内のどこを探しても悟さまを見かけないし寂しいー!」
「学校に来る理由が見当たらない…」
「生きがいを返して欲しいーっ」

クラスの女子の間からそんな会話が漏れ聞こえてくるのを耳にしながら、は授業の準備をしていた。あれから三か月は経とうというのに、未だ五条のファン達は同じように嘆いている。そしてついでと言わんばかりにへ視線を投げかけ、ヒソヒソと始めるのだ。

「でもあの子にはいい気味」
「ほーんと。義妹だか何か知らないけど、悟さまに可愛がられるなんて生意気だし」
「あの子、悟さまがどこの高校に入学したのか知ってるくせに訊いても教えてくれないんだよね。何なの、マジで」
「もう一回、今度は三人で問い詰めてみる?」

これ見よがしにいつもの嫌味が始まったと思えば、急にマズい流れになったことで、は聞こえないふりをしながら席を立った。まだ授業開始まで時間に余裕があるので、トイレにでも行って誤魔化すしかない。どのみち訊かれたところで本当のことを言うわけにはいかないのだ。
高専は表向き宗教学校とされているが、あの調子では彼女達が押しかけないとも限らない。出来ることなら非術師の彼女達に近づいては欲しくなかった。いくら秘匿とされていようが、術師界隈では当然知られている。あの場所を狙う呪詛師が絶対に来ないとも言い切れない。あの場所には珍しい呪具なども回収されることがあり、それを欲しがる輩もいるときく。天元さまの力で隠してはあるらしいが、何が起こるか分からないのがこの世界。クラスメートを少しでも危険のある場所へ行かせるわけにはいかなかった。教えられないのはそうした理由もある。非術師の心の平穏が一番なのだと、も子供の頃から教えられてきた。

(モテるのも困りものだな…)

はふと義兄の顔を思い浮かべながら苦笑を洩らした。
そもそも五条は女子に対して特に優しいわけでもなかったのだが、あの見た目に加えて、かなり素っ気ない態度が「クールでカッコいい」「私も冷たくされたい」などと騒がれる要因になっていた。そんな五条がにだけ甘々な態度で接しているのもポイントが高かったようで、女子たちはに対して嫉妬は向けるものの、五条のそのギャップにのめり込み、余計に人気があるのだから女心とは複雑なものだなとは首を捻る。おかげで彼女は学校中の女子から睨まれる羽目になっている。

寂しい、というならも同じだった。五条の前で平気なフリをしてみたものの、内心は行かないでと何度も言いそうになった。でもそんな我がままを言ったところで五条を困らせるだけだとも分かっている。高専に入らないという選択肢はないに等しいからだ。

(悟に会いたいと思うのは…ずっと一緒にいたひとが急にいなくなったからなのかな…)

毎日そんなことを考えながら眠りにつく。兄のように慕っていた五条から、ある日「お前のことが好きだ」と言われた。は当然「わたしも好き」と答えた。でもふたりの好きは少しだけ意味合いが違うものだと、そのときの彼女は気づかなかった。
両想いだと思った五条は本能に従ってを押し倒し、何故か服を脱がせ始めた。その行動の意味すら、彼女は分かっていなかった。ただ触りたいと言われれば頷くことしか出来ず、それがくすぐったい行為から、気持ちのいい行為に変わっていくことの意味も、きっと分かっていなかったかもしれない。
学校で簡単な性教育は浮けたし、セックスという行為があるのは分かっていたものの、それこそ、どうしたら子供が出来るのかといったものや、女の子の身体の仕組みなどを教わったくらいで、五条にされている行為が性交にあたるとも思っていなかった。一線を越えたわけでないので、単なる過剰なスキンシップくらいに考えてたような気もする。
でも二年も過ぎた頃、ようやく気づいたときには五条から齎される快楽にどっぷりとハマっていた。
ただ、五条は男の子を好きだという感情が芽生える前から一緒にいた相手であり、今の自分が五条を好きだと思う気持ちと、恋愛としての好きという気持ちの何が違うのかも分かっていなかった気がする。いや、正直なことを言えば今も分かっていない。この気持ちが恋なのか、それともずっと一緒にいた相手への情なのかはっきりしないのだ。

でも実際こうして会えなくなってみると、想像以上に寂しいということだけは分かった。
毎晩のように電話では話しているが、やはり声だけじゃ寂しさは消せない。休みの日に会いに行こうと思えば行ける距離ではあるものの、もなかなか自由な時間が取れず、せめて巫女としての立場が昔のように強固なものであれば、まだお役目と称して会いに行けるのに、とさえ思う。

は溜息を吐きながら、行きたくもないトイレに入ろうとドアに手をかけた。同時に、背後から「五条さん」と声をかけられ、ハッと息を飲む。
見ればさっきの女子三人組が立っている。は内心しまったと思ったがもう遅い。

「そろそろ悟さまが行ったっていう高校、教えて欲しいんだけど」
「え…っと…」
「別に迷惑はかけないって言ってるじゃない」
「で、でもちょっと偏狭の地にあるというか…凄く遠い場所だから…」
「じゃあ行かないから、どこの高校かだけでも教えてよ」

三人組の中でも気の強そうな女に詰め寄られ、は困ってしまった。行かないとは言ってるものの、どこまで信用できるか分からない。

「ご、ごめんね。悟兄さまから誰にも言うなって言われてて…」
「またそれ?そももそ何で隠す必要があるのかな」
「それは…」

はどうにも困ってしまった。五条がなまじモテるせいで、こんな面倒なことになっているのだから複雑な思いがこみ上げてくる。だがその時「もうやめろよ」という声が周りから聞こえてきた。驚いて振り返ると、いつの間にか他のクラスの男子生徒達が集まってきている。それも特に親しいわけでもない生徒ばかりだ。

「な、何よ、アンタ達…」
「五条さん困ってるだろーが。しつこいんだよ、オマエら」
「五条先輩が言うなって言ってんだから、オマエらも尊重してやればいいんじゃねーの」

一人、二人と増えていき、最後は集まったギャラリーからも「そうだそうだ」と同意の声が飛びかう。この状況にマズいと思ったのか、女子三人組は「な、何なのよ」と言いながら、そそくさと退散してしまった。ホっとはしたものの、今度は知らない男子に囲まれてしまった。

「大丈夫?五条さん」
「え?あ、うん…ありがとう」
「困った時はお互い様だよ。それより…オレ、隣のクラスの小島っていうんだけど――」
「え?」
「おい、ヌケガケすんな!あ、オレは1組の後藤。宜しく」
「は、はあ…」

これまで交流をしたこともない男子に一斉に話しかけられ、は戸惑いながら後退していく。五条がまだこの学校にいた頃は男子も遠慮をしていたのか、こうして話しかけてくることもなかったので、からすると意味が分からなかった。
実はが密かに男子から人気があることも、それを知った五条が陰で睨みを利かせていたことも、当の本人は気づいていない。

「はい、どいてどいてー」

そこへ友達の田所夏奈が人混みを割って歩いて来た。

「馴れ馴れしくに話しかけないでくれる?ほら、散って散って!」
「夏奈ちゃん」
「ったく盛りのついた猿どもが…悟さまがいなくなった途端、虎視眈々と話しかけるチャンス狙ってたみたいねー」

夏奈の迫力に押され、男子たちは潮が引くように去っていく。はホっとしながら「ありがとう、夏奈ちゃん。ビックリしちゃった」と苦笑を洩らした。

も男子にいい顔しなくていいから。ああいう猿はすーぐつけ上がって何してくるか分かんないし」
「う、うん…気を付けるけど…でも助けてくれただけだよ?」
「ダメダメ!それは男の下心ってやつだし!甘い顔しなくていいの。とにかく悟さまに頼まれたんだから、わたしが卒業までを守ってあげるね」

ふんっと鼻息荒く、夏奈は未だ遠目に見てくる男子たちを睨みつけている。そのボディガードさながらの迫力に、は溜息しか出ない。

(もう…悟があんなこと頼むから夏奈ちゃん、張りきっちゃってるし…)

三か月前の卒業式、帰り際、夏奈に「悟さまに卒業祝いのプレゼントを渡したい」と頼まれ、五条と引き合わせた時のこと。五条が夏奈の手をガシっとつかみ「オレの代わりにを男どもから守ってやって」と頼んだことで、夏奈はすっかり舞い上がってしまったのだ。目をハート型にして「お任せください!悟さま!」と、どこの下僕だと思うような返しをしていたのを見て、はガックリ項垂れるしかなかった。五条に何で友達にあんなことを頼んだんだと怒っても、「変な虫がついたら困るだろ。立ってる者は親でも使えってのが五条家の家訓だし」と訳の分からない返しをされる始末。
「それ、ことわざだよね」と突っ込んだら、今度は「じゃあは学校の男どもに口説かれたいのかよ」とスネられ、大変だった。
と離れ離れになることで少々ナーバスになっていたようだ。

(これがあと数か月続くのか…)

の前を歩きながら、近くにいる男子を蹴散らすように歩いていく夏奈を見て、は項垂れるしかなかった。


△▼△


『…っていうことがあったの!ほんと悟のせいだから』
「あ?俺のおかげでオマエが守られたんじゃねえの、それ」

窓枠に腰をかけ、夜空に浮かぶ丸い月を見上げながらサングラスを外せば、月明かりが優しく上から降ってくる。
いつものお休みコールの際、から苦情を言われて、五条は苦笑した。遂に男どもがに話しかけてきたというのは聞き捨てならないが、例の友達が阻止してくれたなら、五条としては万々歳だ。
は未だに『そういう問題じゃないってば』と怒っているが、五条からすれば、キャンキャン吠える小型犬のようで、ただ可愛いとしか思っていない。もし目の前にいたらわしゃわしゃ撫でてやりたい気分だった。
それと離れてみて気づいたことが一つ。こうして電話で話す時はも昔に戻るようで普通に名前を呼んでくれることが、五条は地味に嬉しかった。

「そろそろオマエもモテるって自覚しろ。そして自衛しろよ」
『な…何それ…わたしは別に…』

呆れたように言えば、途端にごにょごにょと言葉を濁す。顔を赤らめ、困った顔をしている姿を容易く想像できてしまう。脳内に浮かんだを思い、五条の頬がかすかに緩む。

(それにしても…自覚がねえのも困りもんだよな…)

昔からは少々呑気なところがあるので、五条はいつでも心配だった。あまり男の下心を分かっていない上に、五条と関係を持った今でもそういったことに疎いところがある。

(まあ…そこに付け入ったのは俺も同じだけどな…)

を強引に抱いた日のことを思い出し、五条はもう一度、月を仰ぎ見る。
物心ついた頃から傍にいて、一緒にいるのが当たり前だった自分だけの女の子。何の疑いもなく、このまま二人の時間が続いて行くのだと思っていた。
成長にするにつれ、その愛情がまた違った形を見せ始めたのを自覚したのは、他の男がに食指を伸ばそうとした時だった。五条の中で歪んだ思いがこみ上げてきたのもその時だ。
誰にも触れさせたくない。が離れて行かないよう、自分に縛り付けておきたい。そんなどす黒い感情が沸いて、に告白をしようとしていた男をボコボコにした。もちろん手加減はしたが。
他にもに馴れ馴れしく話しかけていた男どもを「あいつに近づくな」と脅したこともある。行き過ぎたシスコンだと相手の男は受け止めたようだが、五条の中では妹でも幼馴染でもなく、いつだって大事な女の子だった。

その頃には五条の中ですでに答えは出ていた。が他の男に目を向ける前に、どうにか彼女を自分のものにしたかった。不思議と迷いはなく、をべッドへ押し倒したときも、一枚一枚、着物を脱がしていったときも、その白い肌へ初めて触れたときも、小さな唇を自分の唇で塞いだ時も、ただ幸せだった。誰も見たことのない彼女を暴いていくことが、五条の中の征服欲を満たしていった。何もかも初めての経験で怯えるの中へ、自身の劣情を埋め込んだときも、快感より自分のものにできたという満足感の方が強かったように思う。
当然、処女だったは驚きと戸惑いと恐怖で、五条を受け入れるには心の準備が出来ていなかった。五条が腰を押し進めるたび、驚いたような声を上げていたことを思い出す。ただ時間をかけて開発した体は意外なほどすんなりと五条を受け入れ、またもすぐに、それまでとは違う快楽を覚えた。可愛い顔を快感で歪ませるその表情にすら欲情した自分に吐き気を感じながらも、ここでやめるという選択肢は五条になかった。

――が好きだ。オレだけのものになって。

男としての想いを口にしたのは、その時が初めてで。は更に戸惑ったようだった。でもそれ以降も彼女は健気に五条の昂ぶりを受け止めてくれたことは、五条にとっても幸運だったとしか言いようがない。
本音を言えば、の言う「好き」が、自分のものとは形が違うことは分かっていた。でも、止められなかった。彼女の「好き」が少しでも変化してくれることを祈りながら触れていた気がする。

(俺も猿だったな…あの時は…)

ふと自分の愚行を思い出し、苦笑した。が何も知らないのをいいことに、上手く丸め込んでしまった気がする。

『悟…何笑ってるの…?』
「んー?最も愚かで幸せだったときのこと思い出した」
『え、何?いつ?』
「オマエは知らなくていいんだよ」

出来れば忘れて欲しい。俺が愚かで残酷だった日々のことなんて――。

『えー何で隠すの』

無邪気に笑うの声を聞きながら、月明かりをその身に受けて静かに目を閉じる。
近くて遠いこの距離を、やけにもどかしく感じながら。