01-音もなく牙をむく
溢れて来る涙を堪えようとすればするほど、瞳の奥からじわりと熱いものが溢れて来て、遂にはそれが頬を伝い落ちる。その雫が顎から更に下へポトリと落ちた先は、今まさに絆創膏を私の指に巻いてくれてる赤司くんの手だった。
「泣かないで」
「う……ご、ごめんね。ドジで」
「らしくて僕はいいと思うけど」
「……それは誉め言葉じゃないよ、赤司くん」
「ごめん」
くすりと笑って赤司くんは「はい、出来た」と絆創膏の巻き終わった私の手を持ち上げた。右手だけでも三本の指にそれは巻かれていて、どれだけドジな子でもカレーを作るだけでこんなことにはならないだろう。こんなことなら最初から玲央ちゃんに頼んでおけば良かったと後悔したけど、マネージャーとして合宿の時の皆の食事くらいはちゃんと作りたかったのだ。
でもジャガイモの皮をむくだけで私の指は切り傷だらけになった。切ったところは滲みるし途方にくれてたところへ様子を見に来た赤司くんが、指を血まみれにして半べそをかいてた私に驚いて手当てをしてくれたのだ。
「ありがとう……」
「じゃあ今度はこっちの手を消毒するから沁みたら言って」
「……うん」
赤司くんはもう片方の手を取ると切り傷を丁寧に消毒してくれている。
洛山バスケ部のキャプテンを務める赤司くんにこんな作業をさせるなんて私はマネージャー失格だ。
そう思ったらまた涙が溢れてきた。
「泣かなくていいよ、こんなことで」
「……ご、ごめんね。すぐ泣くのがあんたの悪いとこだって玲央ちゃんにも言われる」
洛山のバスケ部には私の従妹の実渕 玲央がいる。子供の頃から仲良しの玲央ちゃんを追うように洛山に入って中学の時と同じようにバスケ部のマネージャーになったけど、昔からドジな私は部員にも迷惑をかけることが多い。なのにバスケ部の皆は優しいから、いつも笑って許してくれる。だからこそ余計にちゃんと仕事が出来ないのがツラい。
「赤司くんは凄いね。同じ歳なのに何でも出来るし」
「そういう風に教育されてるから」
「あ、赤司くんのお家って名家なんだっけ。羨ましいな」
「……僕はの方が羨ましいかな」
「えぇっ?何で?」
何でも出来る赤司くんに羨ましがられるようなところは何一つないから、そんなことを言われたのは凄く驚いた。赤司くんはバスケが上手いだけじゃなくてヴァイオリンも上手いし、趣味は乗馬だって話だ。私たちの歳で乗馬とか、もう何から突っ込んでいいのか分からない。
「は何も出来ないから何をするのにも一生懸命だろ。僕はそこまで必死にやらなくても出来るからを見ていて何で出来ないんだろうっていつも不思議だったんだけど……」
「……何気にディスってる?」
「ディスる?いや、褒めてる」
赤司くんの感覚はよく分からない。あまり表情も変わらないし、最初はちょっと怖かった。きっと失敗ばかりしてるから何でも出来ちゃう赤司くんから軽蔑されてるだろうなと思ってた。でもバスケを通して少しずつ話すようになって、赤司くんは物凄く王様気質なのに意外と(失礼だけど)紳士的で優しい人なんだと分かって来た。今だってこうやって手当てしてくれたし、多分これでも慰めてくれてるんだと、思う。
「少なくとも僕はいつもに元気をもらってるよ」
「そ、そんなバカな」
「どうして?他のメンバーもそうだと思うけど」
「……笑われてるだけです」
皆は私がやらかしても怒らないけど、だいたい笑われて終わる。それはそれで私としても微妙だったりするのだ。昨日なんか赤司くんが空いた時間にヴァイオリンを弾いていて、つい私も弾いてみたいと言ってしまった。でも同じように弾いてるつもりなのに、とんでもない雑音しか出なくてびっくりしたのだ。赤司くんが弾いてる時はあんなに綺麗な音が出てたのに。でももっと驚いたのは私が雑音を奏でた時の赤司くんの顏だった。普段はあまり感情を出さないクールなキャラなのに、昨日のあの顔は目が点、いやハニワ?とにかく物凄く驚いてたのは間違いない。でもその後だった。赤司くんがいきなり爆笑しだしたのは。今までそこまで笑ってる彼は見たことがなかったから凄く驚いたし、他のメンバーもギョっとして赤司くんが笑ってる姿を唖然とした顔で見ていたっけ。
「このヴァイオリンでそんな音が出るなんて初めて知ったよ」
散々笑い倒した後で赤司くんはそんなことを言って来たから、私は真っ赤になってしまった。後で聞いたらあのヴァイオリンはめちゃめちゃ高価な名器だったらしい。壊さなくて良かったと心底ホっとしたけど、玲央ちゃんには「もし壊してたら一生かかっても弁償なんか出来なかったわよ」とこっぴどく叱られた。
「笑われても皆を笑顔にしてるんだから僕はいいと思うけどね」
「……笑顔?そうかなぁ」
赤司くんは首を傾げる私を何故か優しい眼差しで見ている。彼のこんな顔はあまり見たことがないし、だんだん恥ずかしくなって来た。普段は表情の変化があまりないから怖い印象を与えがちだけど、何事にも完璧な赤司くんは地味に顔も完璧なのだ。イケメンという軽い言葉で表すより、眉目秀麗といった方がしっくり来るほど綺麗な顔立ちをしてる。だからこんな近くでそんな優しい目で見られてるとさすがの私もドキドキしてきた。
「あ、あの……」
「はい、出来たよ」
「あ、ありがとう……」
左手の指も綺麗に絆創膏が貼られ、ホっと息を吐く。おかしなくらいキッチンには誰も顔を出さなくて、赤司くんとふたりきりというこの状況は少し心臓に悪い。
「あっじゃあ急いで食事の用意終わらせちゃうね」
そう言って立ち上がろうとした。でも一つ問題が出来てしまった。
「あ、あの……赤司……くん?」
「ん?」
「えっと……手を――」
絆創膏を貼り終わった後も、赤司くんに握られたままの手は離されることはなく。私はまた椅子に座るはめになってしまった。握られてる手に意識が集中してしまうと、赤司くんの手の温もりが伝わってきて、じんわりと暖かくなってくる。それが凄く恥ずかしいのに振り払うことが出来ない。
「放したくないって言ったらはどうする?」
「……え?」
それはどういう意味なんだと聞きたいけど、彼の綺麗な赤の虹彩がやけに真剣だから一気に緊張してきた。こうして彼と視線を合わせていていいのか分からない。赤司くんは逆らう相手から視線を合わせられるのを凄く嫌うからだ。私は逆らう気はないけど、それでも不安になってしまう。
でもそんな心配をよそに赤司くんは怒ることもなく、握ったままの私の手をそっと自分の口元へ持って行くと、綺麗な形のくちびるが指先に触れた。
「あ……あの、赤司くんっ?」
「どうやら……僕はに恋をしてるみたいだ」
「……へ?こ、い?」
あまりにあっさりと言うから脳内がバグって鯉とか故意なんて文字が浮かんでくる。でもどこまでも真剣な顔で私を見つめる赤司くんは、指先に口付けたまま微笑んだ。
「好きだ」
驚きすぎて言葉が出てこなかった。きっと今、私はポカンとした顔をしてる。あの完璧な赤司くんが、私みたいな何も出来ない子を好きになるはずがない。玲央ちゃんから聞いた彼の好みともかけ離れてる。
「が好きだよ」
赤司くんはもう一度、今度は正面から私を見つめて言った。告白をされたというのに、どこか捕食される獲物のような気持ちになるのは何でなんだろう。どう応えたら正解なのか全く分からない。
とりあえず心臓が壊れそうだから、その綺麗な顔で微笑まないで。
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