07-私の心はひらり、雨に垂れ落ちて-②
「ついたよ」
赤司くんの声と同時に車が大きな門を通っていくのに気づいた。静かに停車した車は、本当に私の知ってる自動車なのかと思うほど滑らかな動きで、高級車というのはこういうところからして普通車とは違うんだとバカみたいなことを思う。
運転手さんが再びドアを開けて、赤司くんが先に下りると、すぐに私の方へ手を伸ばしてきた。
「え……」
「ゆっくり足を下ろして」
「う、うん」
赤司くんの手を掴んで言われた通り、両足を出す。でもやっぱり右足首に力を入れるだけで痛みが走って、立とうとした体がよろけた。それを赤司くんが支えてくれる。
「やっぱり相当痛そうだね」
「だ、大丈夫……ひゃぁ」
言った瞬間、またしても体を抱き上げられ、慌てて赤司くんの肩に捕まる。まさかこの状態で家に入る気だろうかと焦りながら辺りを見渡す。そして唖然とした。
目の前に京都では定番の昔ながらの瓦屋根が施された純和風なお屋敷。周りには竹林があって、まさに京都のイメージぴったりの家だ。
「あ、あの……!大丈夫だから歩いて――」
「ダメだよ。悪化したら困るし僕が運ぶ。ああ、それと両親はここに住んでないから安心して」
「え……」
「実家は東京だしね。ここは父が前から所有していた別荘みたいなもので、今は僕と使用人が住んでる。洛山を卒業するまでだけどね」
まるで私の心を覗いたかのようなことを言う赤司くんに唖然とした。確かに抱っこされたまま彼の親に会うのは気まずいと思っていたところだ。
思わず赤面すると、赤司くんはくすりと笑いながら屋敷の玄関まで歩いて行く。運転手さんが素早く傘をさしてついてくるのはさすがだ。
和の様式美を現代のモダンスタイルにアレンジしたような引き戸を開けると、六畳はあるほどの広い玄関。ほんのりと檜の香りがして昔の懐かしさが漂うのは、祖父母の家と同じ日本家屋だからだろう。赤司くんは私を抱えたまま家に上がると、廊下を真っすぐ歩いて行く。それには慌てて「赤司くん、私、靴履いたままっ」と言ってみても「いいよ。部屋で脱いで」と笑うだけだ。
赤司くんの部屋は廊下奥にある階段を上がって4階にあった。家は奥行きがあるようで、確かに外から見た時、奥の方が高くなっていた。どれだけ大きなお屋敷なんだと呆気にとられてしまう。
部屋に入ると、そこは広間かと思うような空間だった。大きな窓とテラス、革張りの黒いソファに大きなガラステーブル、観葉植物といったシンプルでいてモダンなところは外観と変わりないけど、想像していた和の空間ではなくホっと息をついた。
赤司くんは私をソファの上に座らせると、履いていたショートブーツのジッパーを下ろしていく。恥ずかしくなって「自分でやるから」と言うと、彼はちょっと笑いながら「紅茶を頼もう」と部屋の壁に設置された電話で誰かと話し始めた。きっとこの家のお手伝いさんだろう。
(凄いなあ……話には聞いてたけど、ここまでとは思わなかった)
脱いだ靴をどうしようかと腕に抱えたまま、部屋を見渡した。壁には様々な賞を取ったのか、トロフィーや表彰状などが飾られている。あとは大好きだと話していた馬の写真や、オブジェなどが置いてあり、とても男子高生の部屋とは思えない。本棚には漫画本が一冊もないし、難しいタイトルの本ばかりが並んでいて、自分の本棚を思い出すと急に恥ずかしくなった。
「ああ、靴は玄関に置いておいてもらうから貸して」
「え、あ、うん……。ありがとう」
戻って来た赤司くんが私の手から靴を奪っていく。そこへノックの音がした。赤司くんが出ると、年配の女性がティーポットとカップの乗ったお盆を手に立っている。
「ありがとう。あ、これ彼女の靴を玄関に置いておいて」
「かしこまりました」
お手伝いさんは私の靴を受けとると一礼してドアを閉める。自分の靴を他人に運んでもらうのはかなり気まずい気持ちになった。でも赤司くんにとって、これは日常なんだろうなという空気は伝わってくる。正真正銘、御曹司というやつらしい。
「はい、紅茶」
赤司くんはティーポットから紅茶を注いで、カップを私に差し出した。
「ありがとう。何から何まで……ごめんね。重かったでしょ」
カップを受けとりながら言うと、赤司くんは「え、全然」と笑いながら、自然に私の隣へと座る。一気に緊張が増してきた。この短時間で予想もしていなかった展開になったせいで、ハッキリ言って頭がついていってない。
「お腹空いたろ。何が食べたい?」
「え……?あ……」
普通に何が食べたいと聞かれたけど、言ったらそれが出て来るんだろうか、と変なことが気になった。まるでお店に食べに来たような言い方だ。
私のそんな気持ちを察したのか、赤司くんは笑いながら「この家にも専属の料理人がいるから大抵のものは作ってくれるよ」とあっさり言った。
「え、えっと……」
なるほど、前にシェフがいるって言ってたなあと思い出しながら、いきなり何が食べたいか聞かれても全く浮かばない。この時の私はかなり緊張していた。
「は何が好きなの?」
「え?あ、オ、オムレツとか……グラタンとか?」
とりあえず思いつくものを上げると、赤司くんは突然小さく吹き出した。
「子供が好きそうなやつだね」
「え?あ、た、確かに……」
「まあ僕も好きだけど。特にオムレツは」
「え、そうなの?意外……」
「意外?どうして?」
「だって……赤司くん、キャビアとかフォアグラとか言いそうだし」
「まさか」
一瞬、赤司くんは目を丸くしてから大きな声で笑った。こんな風に声を上げて彼が笑うのを見たのはヴァイオリン爆笑事件に次いで、例の床つるりん事件以来かもしれない。
「キャビアとかフォアグラなんて美味しいと思ったことないよ」
「……そ、そう?(ということは食べたことはあるのか!)」
「ああ、それより足首の具合は?」
ふと赤司くんが尋ねてきた。そう言えば忘れてた、と思いながら足首を動かしてみると、ズキッとした痛みが走る。この感じだと本格的に捻挫をしてしまったようだ。
「い、痛い……かも」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
赤司くんはそう言って立ち上がると、奥の部屋に姿を消した。でもすぐ戻って来ると手には救急箱らしきものとは別に収納ボックスを持っている。
「どの辺が痛い?」
赤司くんは私の足元にしゃがむと「足、見せて」と言ってこっちを見上げた。ふと目が合い鼓動がおかしなくらい跳ねてしまった。足を見せるのも恥ずかしい。でも待っていると思うと焦ってきた。とりあえずニットワンピの裾をめくって右足首を指した。
「痛いのはこの辺なの」
赤司くんは頷いて私の足首に触れた。靴下越しだとしてもさすがにこれは恥ずかしすぎる。バスケ選手もよく捻挫をするからなのか、赤司くんは私の足首を軽く動かして確認すると、再び私を見上げてきた。
「やっぱり捻挫みたいだね。湿布を貼るから靴下、脱がせても?」
「えっ?あ、自分で脱ぐから……」
思わず足を引っ込めると、赤司くんはキョトンとしたように目を丸くした後、また楽しそうに吹き出して笑っている。
「そんなに警戒しなくても何もしないよ」
「えっち、違うっ!そんな心配なんてしてないから……っ」
苦笑交じりで私を見る赤司くんの言葉に耳まで赤くなる。恥ずかしいだけだったのに彼の目には警戒してるように見えたらしい。余計に恥ずかしくなったけど仕方なく靴下を脱ぐ。今日は底冷えのする寒さでもないからストッキングじゃなく靴下にしたけど、今思えば良かったと思う。この状況でストッキングを脱ぐのは本気で恥ずかしい。それに、と自分の足を眺めつつ、念の為と夕べ足の爪のお手入れもしておいて良かったと思った。
「じゃあ貼るよ。少し冷たいと思うけど我慢して」
「うん……ありがとう」
お礼を言うと赤司くんはかすかに笑みを見せて、私の足首に湿布を当てて丁寧に貼って剥がれないようテープも貼ってくれた。その上からまた靴下を穿いて固定すると、やっと気分も落ち着いてくる。
「これで少し腫れや痛みも和らぐと思うけど、もし痛みが引かないようなら明日の練習は休んでいいから病院に行って」
「え……大丈夫だよ、これくらい」
「ダメだよ。マネージャーの仕事は動き回るんだから悪化するだろ」
「でも……」
と言った時、赤司くんの指先が私の唇に触れた。黙って、という意味なんだろうけど、無防備なところに甘い刺激が走って勝手に頬の熱が上がっていく。
「ダメだ。これは部長命令」
「え、ず、ずるい……こんな時に部長になるとか……」
部長、という言葉を聞いた瞬間、背筋がピンと張った気がした。つい普段の調子で「はい」と返事をしそうになる。一瞬、赤司くんと視線が絡んで最後の言葉は尻すぼみになってしまった。
窓の外から雨粒の音が大きくなってきたことに気づき、照れ隠しでふと視線をそっちへ向けた時、膝の上にあった手に温もりを感じた。ドキっとして隣の赤司くんへ視線を戻すと。彼は意味深な笑みをその綺麗な口元に浮かべていた。
「僕としては……部長としてに接するより彼氏として接したいと思ってるけどね」
「え……」
いつの間にか握られていた手に僅かな力が入ったのを感じて、また鼓動がうるさくなりはじめた。赤司くんの言葉も、表情も、全て冗談には聞こえなくて、どう応えようと考えても頭の中が真っ白だった。あんなに色々と考えた言葉たちが綺麗さっぱり消失している。
「そろそろ……改めて返事を聞かせて欲しい」
笑みは消えて、不意に真剣な表情をした赤司くんに、ドクンと心臓が音を立てる。そう、もし赤司くんにそう聞かれたら、私はきちんと自分の想いを告げようと決心して、今日のデートに挑んだのだ。ここで言わなきゃ赤司くんは本当にフラれたと思ってしまうだろう。なのに、言葉が出てこない。
「わ、私……」
たった一言、私も赤司くんが好き。そう言うだけでいいのに、そう思えば思うほど焦ってしまう。好きって言葉を口に出すのがこんなにも照れ臭いなんて驚いてしまう。
「やっぱり……まだ住む世界が違うって思ってる?」
何も言わない私を見て赤司くんが悲しそうな顔をする。違う、そうじゃない。赤司くんにそんな顔をして欲しくない。言葉にする前に慌てて首を振ると、彼は少しだけホっとしたように微笑んだ。その笑顔で、また胸の奥が鳴る。
ああ、この笑顔が好きだなぁなんてシミジミ思う。この気持ちを言葉にしろ、私。そう自分を奮い立たせて赤司くんを見た。
「す、好き……」
「……え?」
「私も……赤司くんが、好き」
……言った。
遂に初めて好きになった人に「好き」って言ってしまった。生まれて初めての告白は、想像以上の負担が心臓にかかった。体から飛び出すんじゃないのと思うほど、胸の奥で暴れている。そして全身の熱が全て顔に集まってきたのでは、と思うくらいに顔が熱い。多分、耳まで沸騰した血液が回ってる気がする。とても赤司くんの目を見つめる勇気はなくて俯いてしまったのがいけない。顔を上げるタイミングを失ってしまった。
赤司くんは何も言わない。言わないからこそドキドキが加速していく。けれど次の瞬間、握られていた手を勢いよく引っ張られて、体が彼の方へと傾いた。
「あ、赤司……くん……?」
「……嬉しい」
「え……?」
「凄く嬉しくて、どんな顔すればいいのか分からないから……もう少しこのままでいい?」
ふわりと包まれた体が、今度はぎゅっと抱きしめられる。耳元で聞こえた赤司くんの声は思っていたよりも小さくて、彼の心を表しているように思えた。
嬉しい――。
そう言ってもらえた私の方が嬉しいと思った。一度は無理だと思ったのに、気づけばこんなにも好きになってしまって、もう数か月前の自分がどんな風に赤司くんのことを見ていたのかさえ、思い出せない。
今の私は赤司征十郎に恋をしている、ただの女の子になっていた。
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