寝苦しかった今年の暑い夏も終わりを迎えそうな初秋。
どこからともなく金木製の香りが漂って来るこの季節が好きだった。
いい匂いだなぁと思いながら、どこに咲いてるんだろうと無意識に香りの在り処を探してしまう。
けど、この行為がいけなかった。視線を右へ左へと動かしてしまったことで、私を追い越そうとしていた自転車に気づかず、私の体は自転車と接触。
バランスを崩したことで焦った私は足に思い切り力を入れて踏ん張ってしまった。
その瞬間、ヒールの先がタイル状になっている歩道の切れ目に刺さった感触があり、まずいと思った時には嫌な音が耳に届いた。

「うそ…」

何とか転ばずに済んだけれど――自転車の男は謝罪もせず行ってしまった――私のお気に入りのヒールは無残にも根本からぽっきりと折れてしまっていた。
つい叫びたくなったけど、こんな街中で騒いで変に目立ちたくはない。いや違う意味で目だってはいるんだけど。

「…最悪…どうすんの、これ」

まるでフラットシューズのようにペタンコになっている右のヒールを脱いで摘まむと大きな溜息が出る。
こんな人混みを片方だけ裸足で歩くか、それともペタンコの靴を履いて近くの靴屋まで向かうか迷う。
今日は事務所で次の撮影の打ち合わせだけだし少しくらいなら遅れても平気だろう。
予想外の出来事に少し混乱しながらも、まずは靴屋だと行き先を決めて歩き出そうとした。
その時「…!」と後ろから呼ばれる声に導かれるように振り返る。

「黄瀬くん…?」

人混みをかき分けて走って来るのは、同じモデル仲間の黄瀬涼太だった。
ついでに言えば、今は高校の同級生でもある。
知り合ったのは中学の頃からだから、何気に付き合いは長い方だ。

「…だ、大丈夫…っ?」

息を切らしながら私の前まで来た彼は、心配そうに私の顔を覗き込む。
黄瀬くんほどじゃないけど、女子の中では私も身長がある方だ。
少し見上げるだけで黄瀬くんの切れ長の瞳と至近距離で目が合って、心臓が素直に音を立てた。

「え、見てたの?」
「オレも打ち合わせで事務所に向かってたんスけど、が前を歩いてるの気づいて声かけようとしたら自転車に引っ掛けられたの見えて…ってかケガは?」
「ケガは多分大丈夫。ただ…」
「ただ…?」
「私のヒールが重症…」

そう言って手にしていたヒールを彼に見せると、黄瀬くんも「あちゃー」と困ったように眉を下げた。
その顔が可愛くて思わず笑みが零れる。

「これじゃ履いていけないっスよね」
「事務所に行く前にそこの靴屋まで裸足で行くか、そこまでコレ履いて誤魔化しながら行くか悩んでたとこ」
「あ、じゃあオレが靴屋までおぶってこうか」
「えっ?い、いいよ…恥ずかしいし…」
「いや、でも裸足で歩くの危ないっスよ」
「大丈夫だよ。近いもん」

こんな人混みの中、ただでさえ目立つ黄瀬くんにおぶられたら余計に目立ってしまう。
それに、中学の頃から密かに想いを寄せてる彼におぶられるのは、それ以上に恥ずかしい。
おんぶなんて胸とか押し付けることになるし、お尻だって支えられちゃうし、地味に密着度が高めの恰好は今の私には耐えられそうにない。

黄瀬くんと初めて会ったのはモデル事務所に入ってからだ。
無駄に大きな身長を持て余していた頃、街中でスカウトされた。
それまでは両親にその高さを生かせるスポーツをしろと言われてたけど、運動が苦手な私は自分の身長を生かす仕事にモデルを選んだ。綺麗な服を着て写真を撮るだけ、と甘い考えで始めたけど、これが意外にも大変で、ただ写真に撮られることがあんなに難しいとは思っていなかった。
でもある日、黄瀬くんと仕事が一緒になった時に色々とアドバイスをくれて、変に身構えずにポーズが取れるようになったことでモデルの仕事も楽しくなっていった。
黄瀬くんはいつだって自然体で気さくで話しやすい空気を作ってくれる。
そんな彼を、気づけば好きになっていた。だから高校も同じ学校を選んだのは、内緒の話。
ファンの子でもモデル仲間でも、黄瀬くんはいつも女の子に囲まれてるから、自分の想いを伝えたことは一度もない。

「あ、じゃあオレが支えるから、なるべく右に負担かけないように歩いて」
「え?で、でも…」
「いーからいーから。はい、手」

綺麗な笑顔を浮かべて私に手を差し出す姿は、おとぎ話に出て来る王子様みたいだ。
黄瀬くんの周りはいつもスポットライトが当たっているような気がする。
身長が高いってだけでモデルを始めた私とは、雲泥の差があるのだ。

…?ほら手、かして」
「う…ん…あ…」

なかなか手を出さない私に痺れを切らしたのか、黄瀬くんは言うや否や私の手を強引に繋いできた。
初めて好きな人と手を繋いだ感触に、心臓が壊れるんじゃないかと思うほどうるさくなっていく。

「オレの方に体重かけてもいいっスからね」
「……ありがとう」

黄瀬くんの大きな手に強く握りしめられ、頬が一気に熱を帯びてくる。
それを誤魔化すように足元だけを見つめながら、靴屋までの道のりを黄瀬くんと歩いた。
黄瀬くんの力を借りるように歩いてみると、つま先歩きになっている右足がだいぶ楽に感じる。

「黄瀬くん、ツラくない?」
「ぜーんぜん。もっと体重かけていいくらいっスよ。右足キツイでしょ」
「大丈夫。ひとりで歩くより凄く楽だよ」
「なら良かったっス」

いつものように明るい笑顔を見せながら、黄瀬くんは今日もキラキラ輝いてる。
こうして歩いているだけで、すれ違う女の子たちは皆、彼に目を奪われてるんだから嫌になってしまう。きっとそういう光景なんか見慣れてて、黄瀬くんの中では女の子が自分に見惚れている姿なんて、その辺の風景と同じになってるんだろうなと思う。その時、黄瀬くんが小さく吹き出したことに気づいて「どうしたの?」と見上げれば、やけに楽しそうな笑みを浮かべた。

「いや…さっきからすれ違う男どもが皆、に見惚れてるからジワっちゃって」
「…えっ?嘘だ」
「え、嘘じゃないっスよ。ほら、みーんなを見て顏赤くして振り返ってるし。んで最後にオレのことジトっとした目で見て来るんだよなぁ。コイツ彼氏かよ?的な目つきで」
「…え…っそ、それ逆じゃない?さっきから女の子が黄瀬くんに見惚れてるし」
「それも気づいてたけど…も同じように見られてるっスよ」
「…そ…それは気のせいだと思うけど…」

自慢じゃないけど中学の頃から綺麗だとか可愛いとか言われたことがない。
不愛想で身長もデカいから男子からは怖がられてたくらいだし、女子からも敬遠されてた気がする。
モデルをやり始めて少し社交的にはなってきたけど、未だに学校では浮いてる気がした。
黒髪ロングってのもいけないのかもしれない。ホラー映画の主人公みたいだし、小学校の時はまさにあだ名が貞子だった。男子がふざけて付けたんだろうけど、おかげでこんな性格になった気がする。
だからモデルを始めた頃、明るく染めて切ってしまおうかと思ってた時、黄瀬くんに「綺麗な髪っスね」と褒められたことが凄く嬉しくて。
結局、染めるのをやめて前より髪のお手入れも念入りにするようになった。
きっとあの瞬間から黄瀬くんに恋をしてしまったんだろうな、と単純な自分に苦笑する。
コンプレックスだったことを人から褒められるだけで、少しだけ自分に自信が持てた気がしたから。

「何で気のせい?オレもは綺麗だと思うっスけど」
「……えっ」
「前に中学の頃は周りから敬遠されてたって言ってたっスけど、オレが思うにきっと綺麗すぎて話しかけにくいオーラがあったと思うんスよねぇ」
「そ、そんなバカな…」
「いやマジで。女子もきっとと並んだら比べられるの嫌だから近寄って来なかったんだと思うなー」

黄瀬くんはそんなことを言いながら楽しそうに笑ってる。
彼らしい前向きな考え方だなと思いながら、何となく私も笑ってしまった。
あまり思い出したくない中学時代も、そんな風に言ってもらえるだけで見方が変わって来るから不思議だ。

「お、この店っスよね?」
「あ、うん」

黄瀬くんとの楽しい時間はアッという間に終わってしまった。
少し寂しさを覚えながらも、繋いでいた手を離そうと足を止めた。

「ありがとう。じゃあ、また事務所で――」

と言いかけた時、黄瀬くんは「え、オレもつき合うっスよ」と離そうした手を引いて店内へと入って行く。それには驚いて「私なら大丈夫だよ?」と声をかけた。

「オレがつき合いたいんスよ」

黄瀬くんは優しい笑みを浮かべながら、そんなことを言って容易く私の心臓を鳴らす。
別にデートでも何でもないのに、こんな風にふたりで過ごすのは初めてだから、やたらと緊張してきた。

はどんな靴が好きなんスか?」
「あ…私は…こういうシルエットのヒールが好きかな」
「高さは?」
「んー。やっぱり7センチは欲しいけど…コレ履くと身長が更に高くなっちゃうからなあ」

と言いながら靴を選んでいると、ふと目についたヒールを黄瀬くんがひょいと手に取った。

「オレ、こういうのも好きなんスよねぇ」
「え…黄瀬くん、履くの?」
「まさか。女の子が履いてたらの話で――」

と言いかけた黄瀬くんは、私が笑いを噛み殺しているのを見て困ったように頭を掻いた。

「ごめん、冗談。私がいいなーと思って見てたら黄瀬くんが先に取るから」
「なーんだ。あ、でもコレ、も気に入ったんスか?」
「うん。こういうデザインの靴は持ってなかったなあと思って」
「あ、じゃあ履いて見せてよ」
「…え?」
「この靴、が履いてるとこ見たい」
「………」

そんな無邪気な笑顔で言われたら断れないじゃない。
なんて思っていると、黄瀬くんは私の手を引き、鏡の前に連れて行くと、傍にあるオットマンに座らせた。

「黄瀬くん…?」

不意に目の前にしゃがんだ彼を見て何をするんだろうと思っていると、黄瀬くんは私の履いていた靴を脱がし、選んだヒールを履かせてくれる。
それにはドキっとして足を引きかけた。男の人に足を触れられるのがこんなにドキドキするものなんだと思うくらい、心臓がうるさく鳴りだす。

「あ、あの…」
「ほら、ぴったり」

私にヒールを履かせた黄瀬くんは、どこか満足そうに微笑むから、頬が赤くなりそうで慌てて俯いてしまった。

、どうスか?これ」
「う…うん。履きやすい…から…これにしよう、かな」

黄瀬くんが選んでくれたものを履きたい、とは言えないけど、こんなことは二度とないだろうし、やっぱり彼の選んだものを身に着けたいと思ってしまう。
こんな風に一緒に買い物を出来るなんて思ってもみなかったから、むしろさっきの自転車に感謝したいくらいだ。

「あーダメっスよ。買うならもう片方も履いて歩いてみなきゃ」

これを買おうと立ち上がりかけた私を再び座らせた黄瀬くんは、もう片方のヒールを再び履かせてくれた。まるでシンデレラにでもなった気分だ。それこそ魔法にでもかかったみたいに心までが嬉しさで弾んでいく。

「はい、手」
「え、」

また私の方へ手を差し出してくれる黄瀬くんは、やっぱり王子様みたいに紳士的で、見上げた先にある笑顔を見ていると、好きだなぁとシミジミ思う。
今日みたいに彼を独り占めできることなんて滅多にないから、ここは黄瀬くんにエスコートを任せることにしよう。そっと彼の手を握ると、黄瀬くんは軽々と引いて私を立たせてくれた。

「ありがとう」
、こっち来て」

黄瀬くんは鏡の前に私を立たせて「ほら、めちゃくちゃ似合う」と微笑んでくれる。
自分が本当にお姫様になったような気持ちになりながら、色んな角度で彼に選んでもらった靴を眺めていると、まるで自分の足じゃないみたいに足元がキラキラしているように見えた。

「気に入った?」
「…うん。凄く。何か履いて外に出るのがもったいないくらい」
「いやいや、外で履いてるが見たいんスよね、オレとしては」
「え?」

私の後ろに立った黄瀬くんと鏡越しで目が合う。彼の瞳はどこか含みを帯びていて不意に肩へ手を置かれた感触にドキっとした。

「今日、これを履いてオレとデートとか、してくれたら嬉しいんスけど」

黄瀬くんが僅かに屈んで、耳元でそんなことを言って来る。
普段とは違う艶のある声にドキっとした。
何かの聞き間違いかと思わず後ろにいる彼を仰ぎ見れば、そこにはいつもの無邪気な笑顔ではなく、意外にも真剣な顔をした黄瀬くんがいた。

「…冗…談…だよね」
「え、マジっすけど」
「だ…だって…黄瀬くん他にデートするような子、いっぱいいるでしょ…?」
「否定はしないっスけど、オレは誰でもかれでもデートなんか誘わないっスよ。オレから誘うのは好きな子だけっスから」
「………え?」

やっぱり聞き間違いだ。だって今、黄瀬くんがデートに誘うのは好きな子だけって言ったように聞こえたし、あまりにこの状況が非日常過ぎたから、きっと自分に都合のいい幻聴が聞こえたんだ。
一瞬のうちに脳内で答えを弾き出した私は「あ、いけない。そろそろ事務所行かなくちゃ」と我に返った。けど試着した靴を脱ぐのに動こうとした時、突然ガシッと腕を掴まれ引き戻された。

「はぐらかすなんてズルいっスよ」
「き…黄瀬くん?」

すでに私の脳が追いついていない。フリーズ通り越してバグってきそうなくらいに混乱している。

「…地味に真剣に告ったつもりなんスけど」
「…こ…告った…?」

え、さっきのは幻聴ではなく、本当に黄瀬くんが私のことを好きだって言ってくれたんだろうか。
何かの冗談だとか、今日はエイプリルフールだったっけと思いながら黄瀬くんを見たけど、彼の顏はやっぱり真剣で。私の脳にやっと到達した「好きな子」という言葉に、じわりじわりと頬が火照って来る。まさかの靴屋さんで好きな人から告白されるとは誰が思うだろう。

「で、の答えは?」
「こ、答えって…」
「オレのこと、どう思ってるんスか?」
「……それ、は…」
「好き?」
「……」
「嫌い?」
「………」
「普通?」

耳元で一定のリズムを刻むように問いかけてくる黄瀬くんは、きっと私の答えなんかとっくに気づいてるはずだ。だって耳まで真っ赤になっているのが分かるし、自分の意志でも止められないくらいに瞳が潤んでいるから。

「す…好き、私も…黄瀬くんが好き」

声まで震えてしまったけれど、何とか正直に応えた私に黄瀬くんは想像以上に嬉しそうな笑顔を見せてくれた。また一つ心が彼への思いを刻む。好きと言っただけでこんな顔を見せてくれるなんて――。

「やべえ…嬉しすぎる…」

いつも堂々としていて自信満々に見えたのに、その台詞も反則だと思う。

「結構アプローチしてたのには全然その気なさそうだったし…いつか他の男に先を越されるんじゃないかってヒヤヒヤしてたんスよね」

私の心をざわめかせるのは、いつだって黄瀬くんだったはずなのに、彼も同じ気持ちでいてくれたんだと思うと幸せなんか通り越して、逆に不幸になっていく落とし穴の入り口じゃないんだろうかとさえ思ってしまった。その気がないように見せてたのは、彼の周りにいる女の子達と同じ"風景"に見られたくなかったからだ。ただ黄瀬くんからのアプローチには全く気づかなかった自分にちょっと呆れてしまった。

「じゃあ…改めて。オレとデートしてくれますか?」

王子様のお誘いを断るのは童話だけで十分だから、私は彼と並んで歩く現実をその手に掴むことにする。


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