
真夏の夜は太陽が沈んでも蒸し暑い。休日の夕方も終わりを迎えて薄暗くなって来た頃、私はいつものバーガーショップでハンバーガーを買いにいくのに、お財布を手に家を出た。
今日は未だにラブラブで仲のいい両親が外食デートをするらしく「は自分で夕飯済ませて」なんてメールをしてきたから、夜は大好きなハンバーガーを食べながら、のんびり録画しておいた映画でも観ようと思ったのだ。
「うわ……暑い……」
エアコンが効いた涼しい部屋にずっといたせいで、外に出るとむわっとした湿気を感じて思わず顔をしかめる。ノースリーブワンピースという薄着でも、暑いものは暑い。
昼間とは違う夜特有の蒸し暑さを肌に感じながら、それほど遠くない道のりをのんびり歩いていると、頭に思い浮かぶのは先日シェイクを奢ってくれた黒子くんのこと。
放課後、約束通り教室まで迎えに来てくれた黒子くんは、普段のテンションと変わりなく。
逆に私は男の子と初めてふたりきりでどこかへ行くということに少し緊張していたけれど、次第に会話も多くなってくると、黒子くんはとても話しやすい人だと感じた。
普段はそれほどお喋りなイメージがなかった黒子くんも、バスケのことを聞くと意外に饒舌で、一つの質問に十個ほどの返しをしてくれたから話題を探す必要がなかった。
彼の説明は分かりやすく、バスケに興味のなかった私でも面白いと興味が沸いてしまうほど丁寧に教えてくれる。シェイクを飲み終わる頃には、すっかり緊張も解れ、もっと話したいとまで思った。
だから帰り際「またシェイク飲みに行く時は誘って」なんて口走ってしまったのかもしれない。
黒子くんに少し驚いたような顔をされたから、すぐに「バスケの話、もっと聞きたくて」と付け足した。彼は不思議そうに「さん、黄瀬くんや紫原くんと同じクラスだし、僕より彼らに聞いた方がいいんじゃ……」と言われたけど、それはちょっと難しい。
「黄瀬くんはバスケの話より自分の話しかしないし、紫原くんは……バスケ嫌いって言って話したがらないんだもん」
私のその言葉で黒子くんは察してくれたのか「あー」と短い言葉を吐きだし、小さく吹き出した。
不意に見せてくれた笑顔は、私の鼓動を速くするのに充分だったようで。
黄瀬くんに言われた通り、目の前で優しい眼差しを向けてくれている黒子テツヤという男の子に、私はきっと恋をしているんだというのを自覚した。
「じゃあ……バスケの話を聞きたくなったら誘って下さい」
先に誘ってと言ったのは私の方なのに、最後は黒子くんに誘って下さいと言われてしまった。
でも次に繋がるその言葉を、私が無駄にするはずもなく。
今では一週間に一度のペースで、黒子くんを誘うようになっていた。
彼はバスケの練習があるから、早く終わる日などを黄瀬くんにコッソリ聞いては、黒子くんをあのバーガーショップに誘う。その際は必ず黒子くんもOKしてくれていた。
なのに――余計なことを教えてくれる人はいるものだ。
「最近、黒ちんと仲いいってマジなんだ~」
昨日、黒子くんが珍しく私に用事でクラスへ顔を出したのを見ていたらしい同じクラスの紫原くんに話しかけられた。普段はそれほど話すこともない彼に、急に声をかけられたから少しだけ驚いた。
「え、っと……仲いいっていうことでも……これを貸してくれて」
そう言って黒子くんが貸してくれたバスケ雑誌を見せると、紫原くんは「へぇ~ちんはバスケが好きなんだぁ」と苦笑いを浮かべた。自分だってバスケ部の、それも強豪と謳われているウチのバスケ部レギュラーのくせに、彼はあまりバスケの話はしたがらない。
というか、そんなに親しくもないのに何で名前で呼んで来るのかもワケが分からないけど。
紫原くんはその雑誌を私の手から奪っていくと、パラパラとめくりながら意味深な笑みを浮かべた。
「でも黒ちん、彼女いるよ~?」
「……え、彼女…?」
その単語にドキっとする。そこまで考えていなかったからだ。
もし黒子くんに彼女がいるんだとしたら、定期的に学校の外で会っているのはマズいし、知らなかったじゃ済まない。
「あれぇ、でもホントに彼女なんかなぁ?ウチの部のマネージャーの子なんだけどさぁ。何か本人がそう言ってたから」
マネージャーと聞いてピンときた。いつもの"黒子探し"をしていると時々視界に入って来る女の子だ。
桃井さつき――。
帝光バスケ部マネージャーで、天真爛漫な可愛さと類まれなる巨乳で男子にも人気がある。
あの子が黒子くんの、彼女――?
最初の時以来、初めて黒子くんの方から私を訪ねて来てくれたことで浮かれていた心が、急に翳って行く気がした――。
「はあ……ダメだ。考えれば考えるほど敵うわけない気がする」
やっと自分の気持ちに気づいたというのに、すぐに失恋なんて笑えない。
気づく前にそういうことは知りたかった。知ったところで好きになってないかと言われたら自分でもよく分からないけど。溜息をつきながらバーガーショップへ入って、いつものセットを頼む。
「あ……やっぱり飲み物はコーラにして下さい」
前は飲み物にコーラ一択だったはずが、今では黒子くんの飲んでいるものが飲みたくてシェイクにするのがクセになっていた。今は何となく甘ったるいものは口にしたくない気分だから、前と同じようにコーラに変更して会計を済ませる。無意識に店内を見渡したけど、休日の夜に彼がいるはずもなく。また、いたところで前のように話しかけられるか自信はなかった。
「ありがとう御座いましたー」
マニュアル通りの笑顔と言葉を背に店を出ると、家に向かって歩き出す。
でも信号を渡った時に見えた公園内のバスケコートが視界に入り、ふと足を止める。
家が近いらしく、このコートではシェイクを買った帰りに黒子くんが練習している姿をたびたび見かけていたから、今夜もいないかな、なんてこれも無意識に探すのがクセになっているようだ。
「……いるわけないか」
いつも見かけてたのは平日だし、今日はさすがに身体を休めているかもしれない。
それか彼女とデートをしてるのかも――。
考えたくもないことを思い浮かべてしまったせいで、また気持ちがどんよりと沈んで来る。
蒸し暑いせいで空気も心なしか、重たい気がした。
「……帰ろ」
ついフラフラと公園の方へ歩いて来てしまった自分に苦笑しながら踵を翻す。
けど、不意にボールの跳ねる音が響いてドキっとした。慌てて振り返ると、外灯に照らされた薄暗いコートが見える。一見誰もいないように見えるその場所に、一か所だけ色が見えた気がした。
「……黒子くん」
きっと他の誰も気づかないその色を、私が見逃すはずはない。
弾んだボールはコロコロと転がり、まるでキューピッドをしてくれるかの如く私の方へ転がって来た。
「……さん?」
「こ、こんばんは」
ボールを取りに走って来た黒子くんは、私に気づいて驚いたように足を止めた。フェンス越しで顔を合わせるのは、黒子くんを追いかけて来たあの時以来だ。でも確実にあの時よりも、彼との距離は近い。
「いい匂いがするなぁと思ったらさんがいるし驚きました」
コートにあるベンチに座りながら、黒子くんは笑った。
私も自然と隣に座って、手に持っている袋を見下ろすと「あ、これだ」と笑う。
出来たてのハンバーガーの匂いは自然の中だと余計に強く感じるみたいだ。
「珍しいですね。休日のこんな時間にハンバーガー買いに来るなんて」
「あ、今日は両親がデートでいないの。だからたまにはジャンクフード食べながら映画でも観ようかなぁと思って……」
「いいですね、そういうの」
タオルで汗を拭きながら、黒子くんが微笑む。その穏やかな笑顔を見るだけで、私の心は容易く鳴ってしまうのだから嫌になる。でも会えたならちょうどいい機会だから、もうふたりで会うのはやめようと言わなければならない。別に私と黒子くんの間にやましいことはないとしても、彼女がいる相手と学校外、それもふたりきりで会うのはいけないことだ。桃井さんにバレる前にやめなければ、余計な波風を立ててしまう。
「えっと……黒子くんはバスケの練習?」
「はい。僕、レギュラーって言っても全然ダメなんで少しでも周りに迷惑かけないくらいには上手くなりたくて」
「そっか。偉いね、黒子くんは。いつも頑張ってるもん」
「偉くなんかないですよ。ただバスケが好きだから頑張れるだけです」
そういう謙虚なとこが好き、だなぁ、とこんな時でもシミジミ思ってしまった。気づいたばかりの想いが暴走している。でも気づいたばかりだからこそ、今ならまだ諦められるはずだ。
「あ。あの――」
「ああ、そうだ。明日は練習早く終わるんで、帰りにどうですか?また面白そうなバスケの本を見つけたんで明日持ってきます」
「え……?」
ドキっとして顔を上げると、黒子くんはニコニコしながら私を見ている。
黒子くんの方から誘ってもらえるなんて珍しいから、本音を言えば今すぐOKしたいと思った。凄く嬉しかった。けど、やっぱり頭によぎるのは、あの可愛らしい女子マネの顏だ。
練習が早く終わるなら、それこそ彼女とデートとかしなくていいんだろうか。
というか、彼女がいるのに私を誘うことさえアウトな気がする。
最初に言い出したのは私だけど、もし黒子くんが彼女のことを考えるなら断ったって良かったはずだ。
元々私は黒子くんの友達でもなく、クラスメートでさえないんだから。
「え、えっと……黒子くん」
「はい」
「こ、こういうの……もう……やめない?」
思い切って口から吐き出した声は、少しだけ掠れていたかもしれない。
緊張で喉の奥がくっつくほど、カラカラだった。
黒子くんはキョトンとした顔のまま、黙って私を見ている。
「こういうのって……」
「だ、だから……学校の外でこんな風に会ったりするの……」
「……えっと……それは僕とこうして話したりするのを、ってことですか?」
黒子くんの顏が困惑しているように見えた。そりゃそうだろう。バスケのことを教えて、なんて言い出したのは私なんだから。何言ってんだ、コイツ、と思われたって仕方ない。立場が逆なら私だってそう思う。
「い、言い出したのは私なのにごめんね……。でも――」
「分かり、ました」
「……」
ドキっとして黒子くんを見ると、彼は怒った様子でもなく、ただいつもと同じ優しい眼差しで私を見ていた。
「すみません。僕、バスケのことになると夢中になっちゃって……さんを退屈にさせてたなら申し訳ないです」
「……え?」
何で黒子くんが謝るの?と驚いた。悪いのは、勝手なことを言ってるのは私なのに。
「じゃあ……僕、帰ります。さんも帰り気をつけて下さいね。もう暗いんで」
黒子くんは唐突に立ち上がると、タオルやボールをスポーツバッグにしまって、最後はやっぱり会釈をして帰っていく。その後ろ姿を見ていたら、胸の奥が痛くて苦しくてどうしようもなくなった。
黒子くんは誤解してる。そんな誤解をされたままなのは耐えられない。
私は黒子くんと一緒にいて、退屈どころか凄く楽しかったのに。楽しそうにバスケのことを話す黒子くんに凄く癒されてたのに。
「ま、待って!黒子くん!」
彼女がいたっていい。私はやっぱり黒子くんが好きだ。そう思ったら彼の名を呼んでいた。
もうこんな風に会えなくても、せめて理由だけは言わなくちゃ。そう思ったから。
名前を呼ぶと、黒子くんは弾かれたように振り返った。すぐに後を追いかけて、黒子くんのTシャツの裾を掴む。
「……さん?」
「ち、違うの……」
「え……?」
「退屈だとか、そんな理由でやめようって言ったんじゃない……」
そう伝えると、黒子くんはまた困惑したように眉間を寄せ、左右に視線を走らせた後、空を仰いでから再び視線を私に戻した。
「えっと……じゃあ……何で、ですか」
「彼女……」
「……え?」
「黒子くんの彼女に悪いと思って……」
どうにか理由を告げると、黒子くんを見上げる。その時の彼の顏は想像していたものとは違う、私も初めて見るような顔だった。
驚愕――まさに、そんな表情で私を見ている。
「か、彼女……って……誰の?」
「え?だ、だから黒子くんの――」
「僕、彼女なんていません……っ」
「えっ?!」
何故か慌てたように声を荒げる黒子くんも珍しいと思ったけど、それより何より彼の言葉に今度は私が驚愕するはめになった。
「え……い、いないって……だって、マネージャーの桃井さんと付き合ってるんでしょ?紫原くんが言ってたもん……」
「は?!も、桃井さん……って、あのウチのバスケ部の?」
「え……違うの?」
明らかに驚いているその姿に、私も次第におかしいな、と思えて来た。ここまですっとぼけられるなら相当な演技派だ。けど、黒子くんはそこまでこの手の話で器用に振る舞えるような男じゃないというのは本能で感じる。
「違いますっ。彼女とは付き合ってません」
「え……」
「紫原くんが何て言ったのかは分かりませんけど、僕は彼女なんていないです」
「……(む、紫原ぁ~~~~!!!)」
あのすっとぼけた顔を思い出し、思わず拳を握り締める。その話を聞いてから私がどれだけ悩んだと思ってるんだ。いやむしろ殴りたい。絶対に手は届かないし、180近い紫原くんには私の攻撃なんて蚊に刺される程度のものでしかないだろう。でも腹が立つ。
「あの……じゃあ……さんが会うのやめようって言ったのは僕に彼女がいると誤解したからってことですか?」
「……う、うん、まあ」
心の中で紫原くんを半殺しにしていると(!)不意に黒子くんが顔を覗き込んできた。
ドキっとして脳内の惨劇を打ち消すと、引きつりながらも何とか笑顔で頷く。
黒子くんは明らかにホっとしたような顔をした。
「良かったです……。てっきり嫌われたかと思ったんで」
「え!まさか。嫌うわけないよ……」
思わず首を振ると、黒子くんは少し驚いた顔で私を見て、それから僅かに視線を泳がせた。
その表情がどこか照れているようにも見えて、可愛いなぁ、なんて呑気に考えていると、ふと視線が合う。
「じゃあ……会うのやめるのをやめる……ってことでいいですか?」
「え?あ……う、うん!黒子くんが……良ければ……」
そう応えながらも、まるで黒子くんの方が私と会うことをやめたくないと言ってるように聞こえて頬が熱くなる。
「僕はもちろんいいです」
ハッキリとそう言った後で嬉しそうに微笑むから、私の方が照れ臭くなった。
黒子くんに彼女がいなくて、本当に良かったと心の底から思う。
「じゃあ……改めて明日……どうですか」
「……うん。じゃあ……明日」
もっと話していたい。この勢いのまま、告白してしまいたい。そんなことを考えながら笑顔で頷いた。
でも帰りかけた黒子くんが足を止めて、もう一度私の方へ歩いて来るのを見た時、静まりかけてた心臓が再び再始動するかのように鳴り始めた。
「もう暗いんで……家まで送ります」
「……えっ」
「あ……迷惑……ですか?」
「ま、まさか……。でもいいの……?」
「もちろん。ひとりで帰すのは心配だなって思ってたんで」
彼の言葉に思わず顔から火が出たかと思うくらいに熱くなった。黒子くんに心配してもらえただけで泣きそうだ。
「ありがとう……」
「はい」
今が夜で良かった。赤くなった頬を隠せるから。
黒子くんの隣を歩きながら、今はただこの幸せな時間を、心の奥に刻みたいと思った。