朝から晴天だった空が急に薄暗くなったと思ったら、放課後になった途端土砂降りの雨が降ってきた。あーあ、ついてない。
昇降口に立って見上げた曇天は見る見るうちに真っ黒な雲へ変わっていく。遠くの方でパァっと明るくなったのは雷だった。最近ゲリラ豪雨多すぎ。春の嵐かな。
朝は見事な晴れ模様だったから当然、傘なんて持って来てないし、親友は塾があるとかで一足先に帰ってしまった。まあ、例え彼女がいたとしても傘を持ってる可能性はゼロだろうけど。
そもそも今日みたいな日に傘を持ってる人なんて少ないはずだ。連日晴れの日が続いてたし、一週間予報でも雨マークなんて一つもなかった。だからもし傘を持ってる人がいたとしたら、それはエスパーか、よほどの変人だと思う。

どうせ途中のコンビニで傘を買ったとしても、そこへ行くまでにはびしょ濡れになるだろうし、仕方ない。走って帰ろう。
そう覚悟をしても、天から落ちてくる雨の勢いを見れば多少は怯む。人間の本能なんだろうけど、服や髪が濡れると思うだけで一歩がなかなか踏み出せないでいた。そんな時、背後から「?何やってんだよ」と言う声がかかる。振り向かずとも声だけで誰なのか分かった。

「今日は先に帰るって言ってなかったか?」
「うん、ちょっと友達と無駄話してたら降り出しちゃって……っていうか飛雄ちゃん部活は?」
「チッ。その呼び方やめろ」
「子供の頃から呼んでるし今更ムリですー」

昔から散々言われてることをまた言われて、私も散々言い返してきた台詞で応戦する。幼馴染からスタートした私達はどこまでいっても――進歩がない。

「今日は軽い調整で終わったんだよ。この雨だし、これ以上酷くなる前にコーチが帰れって。そういやお前に連絡したって清水先輩が言ってたけど」

清水先輩とは飛雄ちゃんが所属してるバレー部の女子マネ、潔子先輩のことだ。私は親しみを込めて「潔子さん」と呼ばせてもらっている。飛雄ちゃんには「馴れ馴れしいからやめろ」って怒られたけど、潔子さん本人が「名前で呼んで」って言ってくれたから何も言って来なくなった。
知り合ったキッカケは飛雄ちゃんの練習をしょっちゅう見に行ってたから。その際、潔子さんに次期マネージャーの話を聞いて、「やってみる気はある?」と誘われたけど返事は保留にしてる状態だ。でも、さっき春高での手伝いをして欲しいというメッセージが届いていた。きっと飛雄ちゃんも内容を知ってるんだろう。どこかそわそわした様子で私を見下ろしてくる。

「ちゃんとすぐに返事したよ」
「フーン。で?なんて返事したんだよ」

スニーカーのつま先で地面をグリグリしていた飛雄ちゃんは、その切れ長の目をちらりと私へ向けた。その視線はどことなく催促してるように見える。ほんと可愛い奴。来て欲しいなら来て欲しいって素直に言えばいいのに。

「喜んでーって送っておいた。大きな大会だと一人じゃ大変だもんね」
「……じゃあ……来るのかよ」
「行くよ、もちろん。嬉しい?飛雄ちゃん」

ホっとしたように息を吐く彼の顔を覗き込むように言えば、すぐに目を細めて睨んでくる。よっぽど「ちゃん付け」されるのが嫌みたいだ。

「だから……呼び方」
「いいでしょ。二人きりの時くらい。みんながいる時は気を付けるよ」
はいつも口だけだろ。今でも時々日向にからかわれんだからな」

初めて練習を覗きに行った日、つい「飛雄ちゃん」って声かけたら、一緒にいた小柄な男子が大いに食いついてきた。それが今、飛雄ちゃんの相棒となりつつある日向くんだ。それ以来、日向くんにまで「飛雄ちゃーん」と呼ばれるのが屈辱らしい。私が練習を覗きに行くと日向くんがたまに――時々月島くんや田中先輩も――わざと「飛雄ちゃん」呼びするからだ。
あの時のことを未だ根に持ってるとは恐れ入る。
飛雄ちゃんはムスっとした顔を隠そうともせず、じっとりした目で見下ろしてきたけど、不意に鞄から今、私が一番欲しかったものを取り出した。

「あ、傘!」
「な、何だよ、急に」

飛雄ちゃんの傘を持つ手をガシっと掴むと、驚いたように固まっている。

「何で持ってるの」

今日みたいな日に傘を持って来てる人はいない。持ってる人がいたらそれは変人だ。そう思ってたのに、一番身近な人がそれを持っていた。さすが変人と思ったら、以前「部室に忘れてったやつ」らしい。

「じゃあ一緒に帰ろ!傘入れてよ」
「俺は……最初からそのつもりだけど」

不機嫌そうな顔で言う割に、少しだけ頬が赤い。先月やっと幼馴染を卒業したばかりだから、まだ前の関係とあまり変わらないことも多いけど、こういう時は少しだけ変わったなあと思う。
バレー馬鹿の幼馴染を好きになって早10年。今の私達は少しだけ大人になった。

――もし春高の予選で勝ち抜いたら……幼馴染は卒業な。

不器用が服着て歩いてるような幼馴染から、これまた不機嫌そうにそんな遠回しの告白をされた。本当は高校卒業する頃に私から言うつもりだったのに、まさか先を越されるとは思わなかった。
多分だけど及川先輩と練習試合で再会してから仲良くしてたのが効いたのかもしれない。予選中、先輩からまさかの告白をされて真っ先に報告した時の飛雄ちゃんの顔といったら、この世の全ての殺意を独り占めしてるようなどす黒い殺気が溢れてたっけ。
でも断ったって言ったら一瞬でお釈迦様みたいな顔になったけど、あれはあれで怖かった。ほんと笑顔が似合わない人っているけど飛雄ちゃんのそれは突き抜けて怖い。まあ昔から考えてること全部顔に出ちゃうところは相変わらずだ。
その日から一カ月は経った頃、飛雄ちゃんから告白されて――本当に予選を勝ち抜いた時は私も正直驚いた。

飛雄ちゃんが傘を広げて「帰るぞ」と歩き出す。それを追いかけて彼の腕にしがみついた。相合傘って何か恋人っぽくてドキドキする。

「おい、腕……」

まだ学校の敷地内だから照れ臭いのか、飛雄ちゃんの顔が真っ赤になって釣り目を更に吊り上げる。でもこんな土砂降りの中、みんなは走って帰るのに必死で誰も私達のことなんか見ていない。そう言ったら「日向が追いつくかもしれないだろが」と後ろをいちいち確認してる。よっぽど日向くんに見られたくないみたいだ。まあ気持ちは分かるけど。
因みに日向くんにも「傘入れてけ」ってお願い(?)されたようだけど「お前と相合傘なんて死んでもゴメンだ」とぶっちして逃げてきたらしい。

「じゃあ、手を繋ぐ。日向くん来たらすぐ離せるし」
「傘持ってるし無理」

飛雄ちゃんはさり気なく私の方へ傘を寄せてくる。その彼氏らしい気遣いは嬉しいけど、右手に傘があるせいで手は繋げないらしい。

「じゃあ、やっぱり腕組みたい」
「……もう少し先まで行ったらな」

見上げながら我がままを言えば、飛雄ちゃんも少しは譲歩してくれたようだ。バレーにしか興味のなかった幼馴染と両想いだと分かっただけで幸せだから、ここは我慢してやろう。
いつもは部活があるから、こんな風に二人きりで帰るのは久しぶりだし、ちょっとだけ浮かれてるかもしれない。大雨も雷も嫌いだけど、飛雄ちゃんと相合傘できるならたまにはいいか。

「で……はマネージャーの話、どーすんだよ」

バス停に向かう道すがら、ふと見下ろしてくる釣り目と目が合う。

「んー。まだ迷ってるんだけど……」

ホントは私も中学の時みたいにマネージャーをしたい気持ちはある。でも飛雄ちゃんと付き合いだしたことで少しだけ迷っていた。そばにいられるのは嬉しいけど、彼がバレーをしてる時はバレーのことしか考えないから、そういうのってそばにいると余計に寂しくなりそうだし、遠目で応援していたい気もする。

「……もう次のマネージャー候補は一人入ったけど、バレーに関しては素人だから、出来ればお前にもやって欲しいって先輩言ってたぞ」
「う……そ、それは知ってるけど……」

返事をしてないのは私だから、それは仕方がないと思う反面、そう言われると少し焦る。飛雄ちゃん的にはどうなんだろう。私がマネージャーやるの嫌じゃないのかな。

「飛雄は……私にマネージャーして欲しい?」

真面目な話だから真剣な顔で見上げると、彼はちょっと驚いたように足を止めて私を見下ろした。ザーザーと大きな雨粒が傘へ落ちてくる音が地味にうるさい。でも不思議なくらい誰も通らなくて、心配してた日向くんさえ追いかけてくる気配はなかった。

「……て欲しい」
「え?」

だから彼の声が聞き取れなくて聞き返す。飛雄ちゃんは視線を泳がせながら、もう一度、それでも小さな声で「に……やって欲しい」と言ってくれた。思わず見上げると、飛雄ちゃんは目が合った瞬間、照れ臭そうにぷいっとそっぽを向く。昔よりシャープになった横顔を見つめると、頬はかすかに赤かった。そんな顔されたら私まで顔がじんわり熱くなるから止めて欲しい。

「……か、考えとく」
「あ?これ以上まだ考えるのかよ」
「っていうか飛雄ちゃん、入学当時はやめろって言ってなかったっけ」
「う……」

じとりと睨むとサっと視線を反らす。中学の頃は飛雄ちゃんも色々と不器用すぎて孤立したり大変だったから、きっと高校でも私に心配かけるかも、と思ってそう言ったんだろう。だけど今のチームで飛雄ちゃんが王さまになることはない。それもこれも日向くんのおかげだと私は密かに思っている。

「あ、あれはだな……その……」
「いいよ。分かってるから」
「おい……っ」

困り顔の飛雄ちゃんの腕に自分の腕を絡めると、慌てたように後ろを振り返ってる。未だに日向くんの奇襲を警戒してるらしい。別にみられたって私はいいのに。
一人で慌てる飛雄ちゃんを見てたら、少しの寂しさと少しの悪戯心が芽生えてしまった。
絡めた腕をぐいっと引っ張れば、背の高い飛雄ちゃんの顔が僅かに近くなる。だから背伸びをしてからちゅっと音を立てて彼の唇を啄んだ。ファーストキスってやつだった。

「な……何した、今」

案の定、飛雄ちゃんは耳まで赤くして手の甲で唇を隠す。わなわな震えるくらい驚いたようだ。

「彼女が彼氏にキスしただけだもん。だめ?」
「お、おま……おん、女だろっ女からキ、キスとかすんなっ」
「女からとか男からなんて関係ないし、そもそも飛雄ちゃんちっともしてくれる気配ないから……」

付き合いだして一カ月弱。そろそろいいんじゃないかなと思っても、飛雄ちゃんといると、どうしても昔のノリになりがちで甘いムードにもならない。だから強硬手段に出たわけだ。部屋で二人きりの時より、今みたいな帰り道の方が意外と構えないで済んだと思う。でも私だってほんとはドキドキしたし、今だって手が震えてるくらい緊張したのに。

「嫌だったなら……ごめん」

絡めていた腕も振り払われた悲しさでしゅんとなる。でも影山飛雄という男の子が好きだから、くっつきたくなるしキスだってして欲しい。バレー馬鹿の飛雄ちゃんにはそんな女心は分からないだろうけど――。
そこまで言った時、「……おい」と言う声が降ってきて顔を上げる。その瞬間、飛雄ちゃんが身を屈めるのが分かった。
無防備だった唇に温もりとむにゅっとした柔らかさを感じて目を見開く。どさっという音は私が鞄を落としたからだ。その音を合図に、重なっていた唇がゆっくりと離れていく。

「あー……鞄ずぶ濡れだぞ、バカ」

頭のてっぺんから足の指先まで固まっている私の代わりに、飛雄ちゃんが鞄を拾ってくれてる気配がする。再び視界に入った飛雄ちゃんは、やっぱり顔を赤くしてそっぽを向いてたけど、手に持っていた黒い傘はシッカリ私の上に差してくれていた。

「帰るぞ……腹減ったし」
「う……うん」

拾ってもらった鞄を受けとって二人でまた歩き出す。何とも気恥ずかしい空気が漂っていたけど、時間と共にじわりじわりとドキドキが襲ってきた。自分でした時よりも照れくさくて頬が燃えるように熱い。どうしよう、無性にくっつきたいかも。

「と、飛雄ちゃん――」
「ん」

思い切って声をかけた瞬間、私の肘にこつんと飛雄ちゃんの肘が当たる。驚いて顔を上げると「腕、組むんだろ」とぼそりと呟く飛雄ちゃんの顏はむすっとしていた。でも顔は赤いままだから怒ってるわけじゃない。

「いいの……?」
「誰もいないし、もうここまで来ればアイツもさすがに追いつかないだろ」

普段はツンしかない彼から最高のデレをもらえたのが嬉しくて「うん」と言いながら飛雄ちゃんの腕に自分の腕を絡める。だけどその瞬間「おーい!」という元気な声が後ろから聞こえてきて、私と飛雄ちゃんはその場で飛び上がりそうになった。

「影山~さーん!」

幻聴じゃない!と慌てて振り向けば、何故か日向くんがこの土砂降りの中、自転車をこいでくるのが見えた。

「はー!やっと追いついた!」

私達に追いついた日向くんは文字通りずぶ濡れで、それでも元気に笑ってる。逆に顔を引きつらせてるのは飛雄ちゃんだ。

「……おま……何で雨ん中、自転車こいでんだ……?」
「え、だって置いてったら明日の朝が大変だしさー!そこのコンビニでビニ傘でも買おうかと……ってか二人、何か顏赤くねえ?」
「ぐ……」

日向くんはこう見えて意外とするどいところがある。私と飛雄ちゃんの顔を交互に眺めながら、不思議そうに首を傾げた。

「う、うるせえな。とっとと傘買いに行け!体冷やすな、大会前なんだから」
「分かってるよーってか、自転車を蹴るな!」

鞄と傘で両手が塞がってる飛雄ちゃんは日向くんの自転車を足でぐいぐい押し始めた。サッサと帰れアピ―ルかもしれない。でもさすがの日向くんも土砂降りには敵わないようで「また明日なー!」と言いながら颯爽と立ちこぎしながら帰って行った。まさに爆弾小僧だ。

「……日向くんはアレだね。台風みたいな人だね」

日向くんが来ただけで賑やかになって、いなくなっても元気の余韻だけが残ってる。そんなイメージを台風と称したら、飛雄ちゃんはふと私を見下ろして「確かに」と小さく吹き出した。
チームメイトといい関係を築けたんだな、とその笑顔を見て思う。何よりそれが嬉しかった。

「……俺達も帰るか」
「うん」

一瞬の邪魔は入ったけど、今度こそ私は飛雄ちゃんにくっついて腕を絡める。学校を出た時は雨で憂鬱だった気分が、今は何気ないこの瞬間が凄く幸せだなあと思う。
好きな人が隣にいて、その人が大好きなバレーを心置きなく頑張れてる姿が見れる。今度こそ仲間と呼べるようなチームメイトと一緒に。
それが何より嬉しい。

「飛雄ちゃん」
「……ん?」
「私、マネージャーやろうかな」

そう言って見上げた先に、珍しいくらいの笑顔を見せる天才セッターがいた。