愛はいらない
最悪だ――。頭の中でメリーゴーランドの如く、その言葉がぐるぐる回っていた。ただ仕事をしに行っただけでヒソカに見つかり、ついでにイルミまで迎えに来てしまった。最後はクロロが何かを察知したように迎えに来てくれたものの。イルミにバレたあの状態じゃ彼と消えるわけにもいかない。
あの場から逃げ出したあと、近くの駅に向かってそこから適当に電車へ飛び乗った。
クロロの好意をそのまま受けていたけど、私に良くしてくれるのは旅団へ勧誘したいだけかと思ってた。男の心理に疎いせいか、つい戦闘能力基準で考えてたかもしれない。
暗殺者が女で、ターゲットが男だった場合、殺せる距離まで近づきたい時に最も有効なのはハニートラップだ。私は母さんから当然のようにやり方を叩きこまれてはいるけど、男という生き物を全て理解しているわけじゃない。
私の身近にいた男と言えば兄弟たちだけで、執事や父さん以外で大人の男と言えば、イルミしか私は男という生き物を知らなかった。イルミは私のことを世間知らずだって言うけど、そう育てたのはイルミなのだ。
イルミが望んで、イルミにそう育てられた。彼以外の男など知らなくていいというように。
前まではそれでいいと思ってた。でもそれが普通じゃないと気づいた時、私はそれまで与えられるだけだった自分と環境を変えなければいけないと思った。
だからヒソカやクロロと知り合った時、イルミ以外の男を知ろうと思ったのが良くなかったのかもしれない。
彼らが私の何に興味を持ったのか全く分からないし、ヒソカに至ってはただ寝たいだけなのかと思ってた。
体だけの方がよっぽど楽だし、愛情なんてものが絡むと面倒なことになるのはイルミで嫌と言うほど分かってるからだ。
「ここまで来れば大丈夫かな……」
電車を途中で降りて無人の小さな駅の改札を出るとホっと息を吐いた。家から持って来た荷物などは、私の念能力"ドールハウス"の中に置いたままだったのが幸いだ。
「参ったなァ……今夜はどこで寝よう」
随分と都会から離れたさびれた町で降りてしまったことを後悔しながら、誰も歩いていない道を歩き出す。本当なら今夜もクロロの用意してくれたホテルでヌクヌク寝られると思っていただけに、この現実が悲しい。
「イルミってば依頼人から聞いたんだな、きっと……」
何故居場所がバレたのかを考えたら、それしか思いつかなかった。家出中も私が仕事をすると見越してたに違いない。
依頼のメールをしてきた相手を片っ端から調べていったんだろう。
「でもあの依頼にしておいて良かったかも」
もう一つ、マフィアの幹部を誘惑して内部事情を探ってから殺せ、というのもあったけど、ハニートラップの関係する仕事はあまりやったことがないから止めておいたのだ。
(まあ……ハニートラップはイルミの猛反対を受けて一回しかやったことないしね)
ふとあの時の尋常ではないイルミの怒りを思い出し、ぶるっと身震いした。あれは母さんに練習と称して初めてハニートラップを仕掛けさせられた時だ。誘惑し、近づいてからターゲットを殺せと言われただけなのに、それを後で知ったイルミが母さんと珍しく口論になったほど怒り狂った。
あの時は驚いたし怖かったけど、イルミに愛されてる証拠のような気がして、ほんとは嬉しくもあったのに、何でこんなことになっちゃったんだろう。
そんなことを思い出したら、イルミから逃げて来たはずなのに、もうイルミが恋しくなった。この矛盾的な気持ちは何なのか。
本当は気づいているのに気づかないふりをする。イルミから逃げて来た理由を――。
「はぁ……まずは寝床確保かなぁ。"ドールハウス"で寝てもいいけど、あまり念を使いすぎると疲れちゃうし……」
私の能力は燃費が悪い。異空間を作り出すにはそれ相応の力を使うからだ。
「パソコンでこの辺の宿でも探すか……」
一度"ドールハウス"へ入り、普段着に着替えると荷物の中からパソコンを取り出す。ついでにケータイを持って外へと出た。するとすぐに着信音が鳴りだして僅かに息を飲む。
まさかイルミ?それとも――。
恐々とケータイのディスプレイを確認すると、そこには想像した人物ではなく、思わず笑顔になってしまう相手の名前が表示されていた。
「もしもし、キル?」
『あーやっと繋がった!』
その電話は弟のキルアからだった。咄嗟に逃げ出してきたからキルアには何も言うことなく家を出て来てしまった。きっと心配かけたに違いない。
「ごめんね、キル。お母さんとお父さん、怒ってる?」
『いや、怒ってるって言うより、めちゃくちゃ心配してる。母さんはずっと泣いてて、父さんはじっちゃんと一緒にを探すって家を出たきり戻って来てねえし』
「えっ!そうなの?」
『でもまあ、その分じゃ兄貴からも上手く逃げてるっぽいな』
「あー実はさっき見つかったんだけど……」
『えっマジで?』
驚くキルアに先ほどあった経緯を話すと、キルアの爆笑する声が通話口から駄々洩れてきた。閑静な暗闇に、キルアの明るい声が響くミスマッチな空間の出来上がりだ。
『やっべぇな、その状況!つーか、に付きまとってる男達って何者?』
「え?あー……まあ、ちょっとヤバいくらいには強い人達というか……」
キルアにどう説明していいものか分からず、言葉を濁す。二人のことはキルアに話さない方がいいと思ったからだ。何でも興味を持つキルアが、クロロやヒソカといった強者に興味を持てばどういう行動に出るか分からない。
『へぇ。まあ兄貴と付き合いのあるような連中じゃ相当ヤバいってことだけは分かる』
「う、うん、そうなの」
『はマジで変な男からモテるよなー。無駄に』
「む、無駄にって何よ」
思わず言い返したものの、他の男からモテた記憶はない。私の行動はいつだってイルミに監視されていたし、イルミの許可なしに一人で出歩ける環境でもなかった。だからイルミとの仕事で絡んだ時に知り合ったクロロやヒソカは例外と言ってもいい。なのにその二人以外で誰にモテたというんだろう。その辺を尋ねると、キルアは苦笑交じりでこう言った。
『の知らないとこでストーカーまがいの男達がいたってこと。まあ、これ兄貴に口止めされてるからオレから聞いたってのは内緒にしろよ?』
「え……ストーカー?」
『そ。新入りの執事の中にもいたし、街中でを見かけて見初めた男連中が、屋敷の周りをうろついてたのも知らないだろ』
「えぇっ?し、知らない、そんなの……」
『だろうなぁ。そいつら全員、兄貴に消されちゃってるから』
「……は?」
まさに寝耳に水。青天の霹靂。私の知らないところでそんな事件が起きていたなんて。しかも気づかないうちにイルミから守られてたなんて――。
そう言ったらキルアが呆れたように溜息をついた。
『守られてたって思うの思考がすでにヤバいって。兄貴はを独り占めしたいだけだろ』
「え、それは知ってるけど」
『知ってんのかよ。まあ……はオレ以上に洗脳されてるっぽいしなー。だから今回の家出はオレもマジで驚いた』
「洗脳って……。ただホントに針を刺そうとするから咄嗟に逃げただけだし――」
と、そこまで言って言葉を切った。例の針がこのキルアの頭の中に埋め込まれてるのを知っているからだ。キルアは当然気づいていない。それはキルア自身を守る為だと知ってるから、私も本人には何も言えずにいる。
いくら才能の塊でもキルアはまだ12歳だ。世界にはまだまだ想像もつかないような強者が大勢いて、もしそんな奴らと相対した時、気の強いキルアが無茶なことをしないという保証はない。イルミはキルアの性格を良く分かってると思った。
「と、ところでキルは私に何か用事だったの?それとも心配してかけてくれただけ?」
『ん?あ!そーだった!』
やっと本題を思い出したらしい。キルアは大きな声を上げると意味ありげに「実はさぁ」と前置きをしてから言った。
『家出、オレもしてきたんだよねー』
キルアのその一言に、今度は私が驚愕の声を上げる番だった。
暗闇に乗じて絶で気配を消されたら、さすがのオレでも見失った。そもそもアレに入られたらその瞬間から絶と同じ状態になるんだから見つけるのは困難だ。
というよりは――絶対に無理。
「あーあ。逃げられちゃったねぇ」
「……ヒソカのせいだよ」
呑気に笑いながらトランプを切っているヒソカをジロリと睨む。クロロはとっくに姿を消してどこへ行ったか分からない。を追いかけたのかもしれないけど、が本気で逃げれば誰にも追えないのは分かってるから、クロロでもきっと無理だろうな。
それにしてもがクロロを頼るなんて思ってもいなかった。まあ、さっきの様子じゃ特に関係を深め合ってるという感じはしなかったけど、オレとしてはかなり不愉快だ。
「ボクのせい?違うだろ。君が彼女に怖いことしようとしたからじゃないか」
ニヤニヤしながら向けて来るヒソカの視線が不快だった。彼女の家出の原因をこの男に話したことは失敗だったかもしれない。でも聞かれると、つい正直に応えてしまう性格なんだよな、オレって。こ見えて案外素直だから。
「別に本気で木偶にしようとしたわけじゃない。がヒソカみたいな男に騙されないよう、ちょっとだけコントロールしようと思っただけなのに」
「イルミはちょっとだけのつもりでもからすれば完全に操られるって思ったんだろうし、そりゃあ逃げるよね」
「……」
「それにボクは彼女を騙したりなんかしないよ」
「どうだか。生まれながらに嘘つきだろ、ヒソカは」
「まあ否定はしないけど、嘘ばかりついてるわけじゃないさ」
シレっとした口調でニッコリ微笑むヒソカを見て、つい目を細める。確かに嘘の中に微量の真実を混ぜてくるのが、この男の厄介なところだ。
とはいえ、これ以上ヒソカと問答していても仕方がない。踵をひるがえして再び屋上の柵を超える。とりあえず母さんもが心配で気が気じゃないみたいだから、一度自宅へ戻ることにした。
「とにかく、もうには近づかないでよ。次、もしデートに誘ったりしたら殺すから」
「うーん……それは難しいなァ。それにボクは君が今まで消して来た連中みたく簡単に殺されるつもりはないよ」
「……だろうね。でも忠告はしたから」
それだけ言って屋上から飛び降りる。このビルの連中が殺されたことで生き残った誰かが通報したんだろう。パトカーのサイレンが近づいてくる。
着地と同時に集まって来た野次馬をかき分け、ゆっくり歩き出したオレの横を、数人の警察官が走って行く。
「……ご苦労なことだね」
この事件は迷宮入りだろうに――。
いや、オレ達ゾルディックが関わった仕事全て、真相が暴かれることはない。永遠に。
「さて……次はどこを探そうかなぁ。また届いてる依頼を片っ端から調べるか――?」
軽く首を捻りながらの次の行動を予想する。ああ見えて彼女は仕事を放ったり出来ない性格だから、そのうち、きっとまた動くはずだ。次は必ず捕まえて連れ戻さないと。
「ハァ……今夜も独り寝って嫌だなぁ」
のいない家に帰るのは憂鬱になって溜息を吐く。それと同時にオレのケータイが震動した。
「母さん……?」
また"を捕まえたの?"という催促の電話かと思ったけれど、その予想を見事に外したようだ。
母さんから聞かされた内容は、弟のキルアまでが家出をしたというもの。これにはオレも頭を抱えた。
に続いてキルアまで――。
ゾルディック家に、初めて不穏な空気が流れ始めた気がした。
ひとこと送る
メッセージは文字まで、同一IPの送信は一日回まで