脱出――11
「グロの容態は?」
グロ・キシニアが運ばれた医務室まで来ると、入江はすぐに看護婦を捕まえ尋ねた。
「今ちょうど意識を取り戻しました」
「よし、会わせてくれ」
「お、お待ち下さい。グロさまは――」
「邪魔しないでくれ!」
入江は焦った様子で看護婦を押しのけると、静止も聞かずに病室の中へと入って行った。
「失礼します。ホワイトスペル第二ローザ隊、隊長。入江正一です――」
そう挨拶をしながらベッドへと近づく。だがそこへ横たわるグロ・キシニアの姿に小さく息を呑んだ。
グロ・キシニアの身体は右目付近を残し、後は全て包帯に包まれている。一目見て、かなりの重症だと分かった。
そこへ担当の看護婦が慌てたように歩いてくると、
「入江さま…。グロさまはアゴの骨を折っていて話せる状態ではないのです」
「何だってっ?」
「他の外傷もひどく、指も動かせないほどの重症です…」
「…………」
その説明に入江も言葉に詰まった。これでは話をきくどころではない。
「話せるまでにどれくらい…?」
「見ての通り、当分は無理です」
「…そう」
入江は深く溜息をつくと、グロ・キシニアへと視線を戻した。それを見てグロ・キシニアの目が、何かを言いたげに大きく見開かれる。
だがその様子に気づく事なく、入江はベッドの傍まで歩み寄った。
「…あなたがどこで黒曜の情報を得たのかはいずれ分かります。我々に背いた反逆罪の覚悟はしていてください」
「…………ッ…ッ」
入江の言葉に、グロ・キシニアの目が更に血走っていく。必死に目を動かし、入江に何かを伝えようとするかのように瞬きをするものの、入江は特に気にもとめず、そのまま病室を後にした。
「白蘭サンに連絡はとれた?」
廊下を歩きながら、入江は疲れきった様子で、部下である女に尋ねた。
「いえ、まだです。電波障害があるようで――」
「何してるんだ。早く連絡つくようにしてくれ。僕は部屋にいるから」
「分かりました」
ウンザリ顔の入江はそれ以上、何も話したくないというように、廊下を進み、自室へと歩いていく。
――自分の知らないところで何かが起きている。
入江の中で小さな不安が次第に大きくなっていくのを感じていた。
「ねぇ。今夜これを一緒に見ない?」
この日も白蘭はの部屋に顔を出し、その手には沢山のDVDが抱えられていた。
「…イタリア映画…にテレビドラマ?」
「そ。どれもボクのお気に入り♪」
「観ない」
間髪入れずが応えると、白蘭は不満気な顔で隣に座った。
「何で?コメディにホラー、サスペンスにアクション、何でもあるよ。はどのジャンルが好き?」
「私はハリウッド映画一辺倒なの。それに今は映画よりもアメリカのドラマの方が面白いもの。イタリアの作品はよく分からないものが多いから観ない」
またしてもバッサリと切られ、白蘭は苦笑するしかない。
小さく溜息をつきながら、持って来たDVDをテーブルの上に置くと、の方を見ながらソファに寄りかかった。
「じゃあの好きなドラマって何か教えてよ。ボク、あまり海外のものは観ないから分からないんだ。やっぱりアメリカのドラマって言うと24時間寝ないで戦うヤツ?」
「…それはもう古いでしょ。今は――」
と、そこまで言っては言葉を切った。
「って、何でそんなの知ってるの?あなたからすれば、かなり昔のドラマじゃない」
「調べたんだ。十年前にどんなのが流行ってたのかなぁって。君の好きなものが何か知らないから、色々とね。でもやっぱり分からないから自分の趣味で選んだんだけど…失敗だったね」
ニッコリ微笑みながら、そんな事を言う白蘭に、もさすがに言葉に詰まる。
ここに来て何日経ったのかは分からないが、顔を合わせるたびに素っ気ない態度をしているのに、白蘭の方は一向に懲りる気配がない。
「私の好きな映画とかドラマを知ってどうするのよ…」
「一緒に観るよ、もちろん」
「何で私があなたと一緒にドラマとか映画を観なくちゃいけないの?」
「何でって、ボクが君と観たいから」
白蘭はどこか楽しげにそう応えた。
「好きな子と部屋でノンビリ、映画とか観るの夢だったんだよね。ホラ、お菓子とか飲み物を傍に置いてさ」
「夢って…映画観るくらいで大げさ。今までだって恋人と観たりしたんでしょ」
苦笑いしつつ、隣にいる白蘭を見る。でも白蘭はいつもの笑顔ではなく、どこか寂しげな顔で微笑んでいた。
「今までの恋人と、そんな事をした覚えはないかな」
「…えぇ?嘘ばっかり」
「ホントだよ。これまでボクが付き合ってきた女性は、部屋で映画を観るよりも、立派な映画観で観たいって子ばっかりだったし。その後はお決まりで高級レストランで食事ってコース」
「ふーん。マフィアのボスってなるとデートにも手を抜けないんだ」
「そうじゃないよ。相手の女性がそれを望むんだ。部屋でDVD観ながら、二人でノンビリ過ごそうなんて言ったら、それこそ"バカにしないで!"なんてひっぱたかれるだろうね」
肩を竦め、そう話す白蘭は、どこかウンザリした様子だ。はその話を聞いて、少しだけ驚いていた。
「ひっぱたかれるって…何で?そういうデートでもいいじゃない」
「ボクの周りにいた女性は、そういう子ばかりなんだよ。家でデート、なんて手を抜かれたって思うんだろうなあ」
「えぇっ?手を抜いたって…どうして?好きな人となら何をしてても楽しいのに…」
白蘭の説明に納得できず、は訝しげに首を傾げた。
高級レストランで食事をして、お酒を飲んで、そんな大人なデートもたまにはいいけど、好きな相手と一緒にいれるなら何をしていても楽しい。
それは雲雀と出会ってが初めて知った感情だった。二人でランチを食べたり、一緒に帰ったり、雲雀の家に寄り道して勉強を教えてもらったり…
そんな些細な事でも、にとっては楽しくて幸せな時間だったのだ。だからこそ、手を抜かれたと思う女性の心理が分からない。
白蘭はそんなの顔を見て、小さく噴出した。
「…やっぱりはボクの思ったとおりの子だった」
「…どういう意味よ」
「純粋で素直だってこと。ボクの知ってる女性って、みんな見栄っ張りで強欲な子ばっかりだったからね」
溜息交じりで笑うと、白蘭はゆっくりと紅茶のカップを口に運んだ。
「デートするのもボクの事を本気で好きなわけじゃない。ボクの地位だったり持っている金だったり…そんなものを目当てで近づいてくる」
「……そんな事…」
寂しげな顔をする白蘭を見て、は思わず首を振った。そんなに、白蘭は優しい目を向けると、
「優しいね、は」
「……え?」
「ボクのこと嫌ってるクセにそうやって気遣ってくれる」
「わ、私は別に――」
「嬉しいよ。ありがとう」
白蘭の指摘に、の頬が僅かに赤く染まる。目の前で微笑む男は敵なのだから絶対に気を許すまいと思っていたのに、つい同情してしまった自分がいたのだ。
「お礼なんていらない。別にあなたがどういう女性と付き合おうが私には関係ないし」
そう言って顔を背ける。それでも白蘭は嬉しそうに笑いながら、
「確かにボクは今まで色んな子と軽い付き合いをしてきた。でも―――本気で欲しいと思ったのは君だけだよ」
「………ッ」
その言葉にドキっとして顔を上げると、白蘭は僅かに微笑んだ。
「飾らず、変な見栄を張ることもない。いつだって君は、素顔のままでボクに接してくれてた…そういうところに凄く、惹かれた」
真剣な眼差しで見つめてくる白蘭に、の頬が赤くなる。
嫌いなはずなのに、憎んでるはずなのに、今伝えてくれた告白が、とても真っ直ぐで、いつものような憎まれ口を叩けずにいた。
「今すぐボクの事を好きになってくれるとは思ってない。恋人の事を忘れるとも思ってない。今はこうして、ボクの傍にいてくれるだけでいいんだ」
「そんな勝手な――」
「うん。勝手な事を言ってるのは分かってる。無理やり連れて来たボクの事を君が嫌ってる事も…。けど…どんな事をしても手に入れたかった」
こんな風に思ったのは君だけだから…と微笑んで、白蘭はの腕をそっと引き寄せた。不意に身体が包まれる。
「ちょ…っと――」
「…好きなんだ。こんな気持ち初めてで苦しい…」
白蘭は少しづつ腕の力を強めていく。逃げ出そうにも白蘭の腕にすっぽりと包まれ、動かす事が出来ない。
時折、首筋にかかる熱い吐息に、は強く目を瞑った。
「や……っ」
無駄だと知りながらも僅かに身体を捩った。その瞬間、背中に回されていた腕がするりと頬を滑っていくのを感じ、大きく鼓動が跳ねる。
ゆっくりと視線を上げれば、目の前には白蘭の綺麗な瞳がを見つめていた。
「…な、何する――」
「あの夜と同じだ…」
「……え?」
「ボクはこうして君を抱きしめ、この黒い瞳を見つめてた…」
懐かしそうに呟く白蘭の言葉に、は耳を疑った。未来の自分も、こうして彼に抱きしめられた、と言っているのか。
(私が…?白蘭に?ありえない)
そう思いながら白蘭を睨みつけた。
「…何…言ってるの…?」
訝しげに眉を寄せると、白蘭は困ったように目を伏せた。その表情を見て、少しづつ鼓動が早くなる。
「…本当は言わないつもりだった…どうせ言っても信じてもらえないから」
「…だから何を――」
ワケの分からない事を言い出した白蘭にイラつき、問いただそうとした瞬間、唇に人差し指が当てられた。白蘭の瞳は切なそうに揺れている。
「未来の君は…君が思ってるほど幸せなんかじゃなかった」
「………え…?」
「君は恋人の裏切りに絶望して、あの夜……ボクのところへ来た…」
「……恋人の…裏切り……?」
突然の言葉に、は意味が分からず、目の前の白蘭を見上げた。
恋人の裏切りで、未来の自分が白蘭の元へ?じゃあ裏切った恋人って――
その心を見透かすように、白蘭は微笑むと、
「雲雀…恭弥。彼は君を――裏切ってたんだ」
「―――ッ?」
その一言に息を呑んだ。言っていることは分かるのに、その意味が頭に入ってこない。
「…裏切りって…何よ…意味が――」
「君の他に女がいた。その事実を知った日の夜…君はボクのところへ来てくれたんだ」
「……嘘!そんなの嘘でしょっ?恭弥が私をそんな形で裏切るわけないっ!」
カッとして思い切り白蘭を突き飛ばした。泣きそうになるのを堪えながら、何度も嘘つき、と心の中で繰り返す。
そんなを、白蘭は悲しそうな顔で見ていた。
「ホラ…やっぱり信じない」
「当たり前でしょッ?誰があなたのいう事なんか――」
「それでも本当の事さ。ボクは君からその話を聞いたんだ。未来の君からね」
「それも嘘よ!あなたは未来の私に振られたって言ったじゃない!なのに会いに来るわけないもの!」
「…振られたのは本当の事だよ。でもボクは諦めなかった」
白蘭はそう言うと、の方へ再び手を伸ばした。
「そんなボクを…君はあの夜、受け入れてくれたんだ」
「………ッ?」
「恋人の裏切りに傷ついた君は、あの夜、ボクを選んでくれた」
「嘘!!」
「…本当の事だよ」
そう言った瞬間、白蘭はの腕を引き寄せ、強く抱きしめた。
「や…っ」
いきなりの事では思い切り身体を捩った。それでも白蘭は腕の力を緩めず、の頬にそっと手を添える。
「あの夜、ボクはこうして君を抱きしめ……そしてキスした。――こんな風に」
「……な…」
その言葉の衝撃で顔を上げた瞬間、不意に熱い唇が重ねられる。暴れようとすればするほど、首に回った腕に力が入り、深く交わっていった。
「んん…っ」
深く重なる唇の感触に目を見開く。何とか離れようともがいてみても、絡みつくようにキスをされ、呼吸すらままならない。
白蘭の前では、14歳の少女の抵抗など、無に等しかった。気づけばソファに押し倒されていて、膝を割ってくる足に恐怖が走る。
何度も唇を愛撫され、その行為に涙が溢れてきた。
「……泣いてるの?」
強く目を瞑った拍子に流れ落ちた涙に、白蘭が不意に唇を解放した。急に送り込まれた酸素に、が小さく咽る。
それでも乱暴なキスを仕掛けてきた目の前の男を、睨みかえすくらいのプライドはあった。
「……嘘…つき…」
「…………」
「未来の…私…が…あなたを選ぶはず…ない…」
掠れる声でそう訴えるに、白蘭は僅かに顔をゆがめた。そしてゆっくりと身体を起こす。
突然、解放され、が眉間を寄せると、白蘭は小さく苦笑いを零した。
「無理やり抱くとでも思った?」
「………ッ?」
「そんな事はしない。そんな事をしても今の君の心はボクから遠のいていくだけだしね」
そう言っての腕を引っ張り、身体を起こした。
「でも……未来の君は自ら望んでボクのところへ来てくれた。これは本当の事だよ」
いつもの強気な態度ではなく、どこか悲しげにも見える白蘭の笑みに、は言葉を失った。
「あの夜……ボクは君を抱いた。もちろん…君がそれを望んだから」
「…嘘…!!」
「嘘じゃない…あれは君が過去から来る前の夜の事だ」
「嘘よ!そんなの…!だったら何故あなたは私を浚ったの?!未来の私の心が手に入らないからって言ってたじゃない!」
色んな不安がを混乱させていた。嘘だと分かっていても、心のどこかで雲雀への不信が募る。
そんなを見て、白蘭は小さく息を吐き出した。
「…本当の事を言えば君は今みたいに信じないだろ」
「当たり前でしょ…っ?誰がそんな話、信じるのよ…っ」
「でも実際に君はボクに会いにきたし、ボクは君を手に入れた。たった一晩だったけど、ボクは本当に幸せだったんだ」
「嘘…私が恭弥を裏切るはずない――」
「先に裏切ったのは彼の方だよ。幼馴染の女とね」
「――――ッ」
淡々と言い放つ白蘭に、の心がざわついた。雲雀を信じているのに、どす黒い感情がジワジワと足元から這い上がってくる。
―――幼馴染。そう聞いて、過去の辛い出来事が脳裏に過ぎった。
「何でボクがそんな事まで知ってるのかって顔してるね。もちろん、君から聞いたんだ。未来の君に」
「そんな…」
「あの日、ボクと一夜を過ごした君は、彼と話をしてくると言って帰って行った。彼に別れを告げ、ボクのところへ戻ってくるからって…ボクはずっと君が戻ってくると信じて待ってたよ」
「………」
「でも君は戻っては来なかった…いや…戻って来れなかったんだ。不慮の事故で過去に行ってしまったから…あの日はちょうど正チャンの作ったプログラムが起動した日だった」
「嘘…」
白蘭はそこまで話すと、深い溜息をついた。
「だから…代わりにこの世界に君が来たと聞いた時、どうしても手に入れたくなった」
「……どうして…?私は…あなたの知ってる私じゃ――」
「一晩だけで満足するとでも思う?」
「……ッ」
「一度手に入れてしまったら、もう二度と手放したくない…そう思ったんだ。だから君を浚わせた」
白蘭の言葉を、はどうしても信じる事が出来なかった。いや万に一つでもそれが本当だったとしても、自分を浚った理由には疑問が残る。
「…だ、だったら…ううん、その話が本当なら私を過去に戻すはずよ!本当に未来の私があなたを選んだのなら、そうした方が――」
「それは……無理なんだ」
「え…?」
目を伏せ、そう呟く白蘭に、の鼓動が僅かに跳ねた。
「どういう、意味…?無理って……あなたの部下なら戻せるんでしょう?そう聞いたもの!」
次第に鼓動が大きくなっていく中、必死にそう叫んでいた。だが白蘭の口から出た言葉は、にとって絶望的なものだった。
「……いや…。一度タイムトラベルした者は、二度と元の世界へは戻れない」
「――――ッ」
その決定的な言葉に、思わず息を呑む。僅かな可能性が消えた瞬間であり、が一番聞きたくない言葉だった。
「タイムトラベルの目的はあくまで過去の守護者が持つボンゴレリングだった。だからこそ、十年バズーカなら五分で戻れるところを細工し、過去に戻れないようにした」
「………な…嘘…でしょ…?」
「本当さ。リングを手に入れる前に過去へ戻られたら困るからね。万一の時の為に、逃げられないよう過去へ帰るためのプログラムは作らせてない…ボクがそう命令したんだ」
「………そ…んな…」
白蘭の説明に、は力が抜けたようにその場に座り込んだ。この戦いに勝てば、いや入江正一に辿り着ければ、過去へ帰れる。
皆、そう信じてるからこそ、修行して、危険な敵に戦いを挑もうとしているのだ。それなのに……
「……そのプログラムを作った人なら…過去へ帰せるよう、それを作りかえることが出来るんじゃ…」
「あるいは。でもそれには膨大な時間がかかる。今回、このプログラムを作るのでさえ、数年も費やしたんだ。また作りかえるとなれば更に時間がかかる」
「…………」
すでに、には白蘭に反論する気力さえ残っていなかった。さっきの雲雀の話も、このタイムトラベルの話も、頭が混乱していて何も考えられない。
「…ごめん。黙ってて…。でもこうなるって分かってたから何も言えなかったんだ…」
「……もう…いい……お願いだから一人に…。一人にして」
ソファに蹲るようにして顔を伏せたに、白蘭は「分かった」とだけ言って立ち上がった。
「ボクは嘘はついていない…それだけは信じて欲しい」
「……今は何も聞きたくない…」
消え入るような声で呟くに、白蘭は小さく息を吐き出すと、
「ボクは…少し出かけてくるよ…」
とだけ告げて、静かに部屋を出て行った。閉じられたドアをは暫く眺めていたが、すぐに我に返り、軽く首を振る。
(…あんなヤツのいう事に惑わされちゃいけない…私は…皆の元へ帰るんだから…恭弥の元へ…今はその事だけを考えよう…)
そう繰り返し思いながら、それでも今の話が、暫く頭から離れなかった――
「…ミルフィオーレ日本支部を破壊?」
湯飲みから、ふと顔を上げ、雲雀は草壁に視線を向けた。
「はい。その事で恭さんにも話があるとりボーンさんが」
「ふーん。赤ん坊のご要望じゃ無視できないね」
「あと、その前に笹川了平も話があると言って、待機しておられます」
「……そっちは気乗りしないな…」
小さく溜息をつくと、雲雀は湯飲みを置いて立ち上がった。そして手馴れた手つきで腰の帯を緩めると、着替えてくるとだけ言い残し、奥の部屋へと向かう。
その後姿を見て、草壁は深く息を吐き出した。夕べもツナと激しい修行をした後で、雲雀はあまり寝ていない。そろそろ体の方が心配だった。
(さんの事が心配だろうに…沢田殿にも協力をされて…)
出来れば自分が知っている情報を教えてあげたい。雲雀の気持ちを思えばそれが一番いいのかもしれない。
でもここで雲雀に抜けられると、ツナ達の作戦に支障が出てしまう。それを思うと、草壁はどうしてもの事を雲雀には話せずにいた。
「哲…どうしたの。ボーっとして」
「あ、いえ…」
気づけばスーツに着替えた雲雀が戻ってきていた。草壁は慌てて立ち上がると、すぐに雲雀の後からついていく。
これからリボーンと、今度の作戦の細かな打ち合わせがあるのだ。それが終われば再びツナの相手をしなくてはならない。
(やはり一度、診察してもらった方が…)
ここ数週間、殆ど休みを取っていない雲雀の身体を気遣って、草壁は思い切って口を開いた。
「あ、あの恭さん」
「何?」
「リボーンさんとの打ち合わせが終わった後に、少し休まれてはどうですか。医師にも診てもらった方が…」
「必要ないよ。僕はどこも悪くない」
「ではせめて、睡眠時間をもっと取ってください。眠れないのなら軽い睡眠薬でも――」
「必要ないって言ってるだろ。今はそんな時間の余裕なんかない」
雲雀の一言に、草壁はそれ以上、何も言わなかった。こういう時の雲雀には何を言っても無駄だ、と長い付き合いで分かっている。
体の事は心配だが、こうなれば雲雀の精神力にかけるしかない。それでも、何かあった時の為にいつでも対処できるよう、メディカルセンターへの報告をしておこうと思っていた。
「ちゃおっス。よく来たな、ヒバリ」
モニタールームの隣にあるミューティングルーム。そこにリボーンとジャンニーニの二人だけが待っていた。
群れるのを嫌う雲雀の為に、リボーンが気を利かしておいたのだ。
「やあ、赤ん坊。ミルフィオーレ日本支部を叩くって?」
「ああ。まあ、その事でお前に話がある。この作戦はお前がいないとなし得ないんだ」
「ふーん、そうなんだ。でも……群れる行為なら断るよ?」
「大丈夫。ツナ達と一緒に戦えなんて言うつもりはないぞ」
「なら……話を聞かせてもらおうか」
雲雀はそう言いながら、リボーンの進めるまま、大きなソファにゆったりと腰を沈めた。草壁もそれに習い、隣に腰を下ろすと、ジャンニーニが大きな図面のようなものをテーブルに広げる。
「これは?」
「まあ待て。今説明する」
訝しげに図面を見下ろす雲雀に、リボーンは意味深な笑みを浮かべ、身軽な動作でテーブルの上に飛び乗った。
「…これは敵に罠を仕掛ける為の図面だ。もちろんヒバリ専用だぞ」
「…罠…?」
「ああ。題して――"袋の鼠作戦"」
そう言うと、リボーンはヒバリを見上げ、ニヤリと笑った――
「――白蘭サンとはまだ連絡とれないのかい?」
イライラした様子で入江は部下に尋ねた。
「ええ。つい先ほどお食事に出られたとの事です」
「…食事?」
白蘭の行動に心底呆れつつ、入江は深く溜息をついた。
「何であの人はこう……あーなんだ…。――まあいいや。グロから目を離さないよう、指示しておいてくれ」
「はい」
「僕は少し休ませてもらう」
そう言って自分専用のコンピュータールームへと入っていく。それを見た部下二人は、互いに顔を見合わせ、
「休むのでしたら寝室に…」
「ここが落ち着くんだ」
「そうですか。では……入江さま、上着は――」
「肌身離さず、だろ」
そう言って腕に持っていたジャケットを椅子へとかける。部下たちはそれを見てクスクス笑うと、「では失礼します」と部屋を出て行った。
やっと一人になり、入江は椅子へと腰をかけた。そして机に顔を突っ伏すと、特大の息を吐き出す。
「はーーーーーっ」
それに続き、疲れた、とボヤキを漏らしそうになった時、腕がパソコンのキーに当たり、突然、画面に白蘭の顔が映し出された。
『…聞いた?正チャン♪』
「………ッ!!!」
一瞬、本人かと思い、入江は慌てて顔を上げた。だが、画面には"再生"の文字があり、思わずホっと息を吐き出した。
「何だよ…間違って録画してるし……」
先ほどの白蘭とのやり取りを眺めたまま、頬杖をつく。画面に映る白蘭はニコニコしながら、グロ・キシニアの話をしていた。
「いつも元気だなーー白蘭サン」
半目状態で、画面に映る白蘭を眺めていると、ついそんな言葉が零れ落ちる。だが、何気に見ていたその画面に、入江は信じられないものが映っていることに気づき、思わず目を見開いた。
それと同時に慌てて椅子から立ち上がった際、手元にあった紙コップを倒し、中に残っていた飲み物が、机の上の書類を濡らしていく。
それさえ気づかないといったように、入江は食い入るようにパソコンの画面に映る"それ"を見つめていた。
(何だ…?!これは…!!)
何度も繰り返し巻き戻して確認するが、やはりそこに映っているのは入江にとって"異変"でしかなかった。
「…クソ、どうなってる…!」
慌てて目の前のジャケットへ手を伸ばし、無線で部下に呼びかける。それから数分としないうちに、先ほどの部下二人が部屋に戻ってきた。
「お呼びですか?入江さま」
「これを見てくれ!」
入江はパソコンをいじりながら、部下に録画されていた白蘭の映像を見せた。
「これは…先ほどの白蘭さまの映像ですね」
「そうじゃなくて……この男は誰だ?!」
動揺したように入江は画面に映る一人の男を指差した。パソコンに向かって話す白蘭の後ろに、細身で黒髪の男が小さくだが映っている。
「この部屋に普段、入室できるのは、許可された世話係と伝達係だけだと思います」
「確か先日、伝達係のルイジが亡くなられ、代わりにFランクのレオナルド・リッピという男が配属されたと聞いておりますが…」
「…ああ…その名は知っている…レオナルド・リッピは僕が推薦したんだからね…」
そう言いながら、入江は首筋に伝う汗を拭った。
「だがレオナルドは……60歳の小男だ!」
「「――――ッ」」
入江の言葉に、部下達も驚き、もう一度画面に視線を戻した。そこに映る若者は、どう見ても60代の小男には見えない。
「…どういう事だ…。いったいコイツは何者なんだ…」
「入江さま――」
「すぐに白蘭サンへ緊急回線を使って連絡を取ってくれ!」
「了解しました」
入江の命令に部下達が慌てて部屋を飛び出していく。入江も上着を羽織ると、すぐにその後を追って、司令室へと向かった。
自分の知らないところで何かが起きている。その綻びが、今後どのように影響してくるのか。入江は小さな不安を感じながら、軽く唇を噛んだ。
「どう?!白蘭サンに繋がった?」
司令室に入っていくと、部下たちが慌しくキーを叩いている。その横に立って入江が尋ねると、部下が訝しげな顔で首を振った。
「やはりダメですね!白蘭さまへの緊急回線も繋がりません!」
「…クソ…。もーいいよ!イタリア本部にいる他の部隊へ繋いでくれ!」
「…どうやらそれも無理のようです」
「何?」
「本部パフィオぺディグラムに繋がる全ての回線が通信障害を起こしています」
「何だよ、それっ!いったいどうなって………あ…ッ」
動揺していても、入江はすぐその可能性に気づいた。レオナルドの名を騙って入り込んでいた謎の男。
これほどの通信障害を起こすには内部からの犯行である可能性が高い…
(まさか、あの伝達係が……白蘭サンに何か――)
何度アクセスしてもエラーとなるコンピューターを前に、入江は大きな不安が押し寄せてくるのを感じ、強く拳を握り締めた。
どれくらいの時間、そうしていたのか。ふと我に返ると、部屋に差し込んでいた日差しが傾いていた。僅かに日が翳った気がして、は顔を上げた。
室内はやけに静かで、小さな溜息さえ、その静寂に溶け込んでいく。
「…もう午後なんだ…」
ふと時計を確認し、はゆっくりと立ち上がった。大きな窓の向こうには、さっきまであった青空ではなく、どんよりとした雨雲が覆い始めている。
それを眺めながら、再び深く息を吐き出した。先ほど白蘭から聞いた話を、考えれば考えるほど気分が重く、沈んでいく。
過去へは二度と、戻れないこと。雲雀が自分を裏切り、そして自分もまた、白蘭と…。それがどこまでが真実なのかは、今のには分からない。
確かに過去へ戻れないと言われ、怖くはなったが、それ以前に雲雀の裏切りの事も、にとってはショックだった。
幼馴染…白蘭にそう言われて、脳裏に過ぎったのは、あの大人びた余裕の笑み。それを思うと、白蘭の言っていた事を全て嘘と決め付けるには、あまりにリアルすぎる。
現実、彼女との事は過去ではつい最近の出来事だった。親同士が決めた婚約者…そしてそのために、一度は雲雀もの事を諦めようとしていた事実。
今でも気になっていないと言えば嘘になる。二人がどういう関係だったかは知っているからこそ尚更だ。それが十年後の世界でどう変わったのか、はそれを知るのが怖かった。
恭弥と弥生さんがもしこの世界で白蘭の言っていた通りの事をしていたとしたら…24歳の私はどうしただろう。
恭弥に絶望し、自分の事を求めてくれている白蘭の元へ走ったんだろうか…。聞いた時はそんなはずはない、と思っていた。
でも未来の私が、どう感じていたのかまでは分からない。そう、それに実際、過去でも、私は恭弥の事を忘れる為に、一度はディーノさんの気持ちを受け止めた…
その時の事を思い出し、は今にも雨が降り出しそうな曇り空を見上げながら溜息をついた。
自分の事さえ分からない。白蘭の話を全て嘘と決め付けるには、あまりに状況が似てしまっている。
私と会った時…十年後の恭弥はどんな顔をしていた?
もし二人にそんな危機が迫っていたのなら、何故私にその話をしてくれなかったんだろう…
は初めてこの世界に来た日の事を思い出していた。学校で雲雀の従兄弟であるジンに出会い、そして彼の家に来た未来の雲雀と会う事が出来た。
――そうだ…あの時恭弥は私と食事をする約束をしてたって言ってた…
ふと、その事を思い出し、小さく息を呑んだ。
あの日…恭弥は私との約束の為、会社に迎えに行った…
そして出社していない事実を知り、ジンのところに尋ねてきたって…そう言ってたっけ…。
白蘭の話が本当なのだとすれば…未来の私はその時に恭弥と話をするつもりだったんだろうか。彼と別れ…白蘭の元へ行く、とそう言うつもりだったんだろうか…
「……嘘よ…そんな…」
窓に額をつけ、思わずそう呟いた。それでも、心のどこかで本当なのかもしれない、と思う自分もいる。
今はこれほど恭弥の事を想っていても、十年後に自分が何を感じているのかまでは、分かるはずないのだ。
「もうやだ……どうしたらいいの…?」
泣きそうになりながら、顔を上げると、窓にポツポツと雨粒が当たり始めた。いつの間にか、空全体を、真っ黒な雨雲が覆っていて、遠くではかすかに稲光が見えた。
「…どうしたんですか?そんな悲しそうな顔をして」
「……きゃっ」
不意に背後から声がして、はその場に飛び上がった。慌てて振り返ると、そこには伝達係のレオナルドが笑顔で立っている。
「あ、あなた…!」
「失礼。一度ノックをしたんですが返答がなかったもので勝手に入らせてもらいました」
レオナルドはいつもの笑顔を浮かべ、そう言った。
だが次の瞬間、の目に映ったのは、レオナルド・リッピという男ではなく、妖しい微笑を浮かべる六道骸という謎の男だった。
「…骸…さん?」
「ええ。お約束どおり、あなたを迎えに来ましたよ」
「……え…?」
その言葉に息を呑むと、骸は優しく微笑んで、ゆっくりとに近づいてきた。
「言ったでしょう。準備が整ったら迎えに来ると…。今がその時ですよ」
「……今…って…」
「心配しなくても白蘭は今、外出中です。そして私の方も全て準備が出来ている。チャンスは今しかありません」
その言葉に顔を上げると、骸は僅かに眉を顰め、そっとの頭に手を乗せた。
「どうしました?あまり嬉しそうではありませんね」
「……っそんなこと――」
「何かありましたか?」
子供をあやすように、優しく頭を撫でる骸に、は不思議な感覚を覚えた。まるで柔らかい毛布にくるまれた時のような、そんな安堵感に、さっきまでざわついていた心が静まっていく。
不思議な人だと思いながら、は骸の色の異なる瞳を見つめた。
「…白蘭が言ってたの…。この世界の恭弥が、私を裏切ってたって…そして未来の私は白蘭を――」
「そんな戯言を聞く必要はありません。あなたを自分に縛り付けておく為に言った事でしょう」
「でも――」
そう言いかけた時、唇に人差し指を当てられ、は言葉を切った。
「いいですか?今あなたが考える事は、ここから逃げ出す事です。雲雀恭弥に不信があったとしても、それは彼ともう一度会った時に二人で話せばいい」
「骸さん……」
「あなたも、仲間の元へ帰りたいでしょう?」
骸は静かな声で語りかける。その声を聞いていると、心の奥に燻っていた不安も、洗い流されていくような気がした。
「…皆のところへ…帰りたい…」
がそう呟くと、骸は優しく微笑み、彼女の手をそっと握り締めた。
「では……行きましょう」
「でも…どうやって?この部屋から出れたとしても誰かに見つかるんじゃ…」
不安げに自分を見上げるに、骸は静かに首を振った。
「言ったでしょう?全て準備してあると。このアジトの管理システム全てを少々操作してきました。そう簡単には見つからないはずです」
「…管理システムって…そんな事まで…?」
「ええ。監視カメラや通信回線など、色々と。でもそれも長くは持ちません。早いに越した事はない。白蘭が戻ってくる前に」
白蘭の名を聞いて、はかすかに胸が痛んだ。許したわけではないが、先ほど聞いた限り、自分の事は真剣に想ってくれているようだ。
こんな風に逃げ出せば、彼を傷つける事は明らかだ。された事は腹も立つが、白蘭を心の底から悪い人だとは思えなかった。
そんなの気持ちを見透かすように、骸は微笑んだ。
「気にすることはありません。あなたを騙して浚った男です」
その言葉にも頷いて、骸の促すままドアの前に立った。
「一応、万全の対策をしてきましたが、ここから先は何が起きるか分かりません。決して私の傍を離れないで下さい」
「…はい」
「まず、あなたをこのアジトの外へ逃がし、そこから先はボンゴレの者があなたをイタリア国外へ逃がしてくれる事になってます」
「ボンゴレの人が…?」
「ええ。大丈夫。彼らはあなたの助けになってくれる人物たちです。私は彼らと落ち合う場所まであなたを連れて行く事になっている」
「そう…」
「心配要りませんよ。――さあ、行きましょう」
骸はを安心させるように微笑むと、静かにドアを開け、廊下の様子を伺った。
――ここから出れば、もう後戻りは出来ない。皆のところへ帰る事だけを考えよう…
骸の手を握り締めながら、は心の中でそう決心をしていた――
「内容は分かったよ」
雲雀はそう言いながらゆっくりと立ち上がって、リボーンを見下ろした。
「やってくれるか?」
「邪魔な草食動物がいないならね」
ニヤリと笑う雲雀に、リボーンの顔にもやっと笑みが零れる。この作戦には雲雀の力が必要不可欠なのだ。
「話はそれだけ?なら僕は行くよ」
踵を翻し、部屋を出て行こうとする雲雀を見て、リボーンはテーブルの上から飛び降りると、ドアの前に立ちふさがった。
「待て、ヒバリ」
「何?まだ話があるの」
足元に立つりボーンに、苦笑いを零す。そんな雲雀を見上げ、リボーンは小さく息を吐き出した。
「お前、まだを単独で探してるようだな」
「………それが何」
「あまり無理するな。ツナの修行にも付き合ってくれてるのに、そんな事をしてたら体に障る」
「……哲から何か聞いたのかい?」
雲雀はそう言いながら、後ろに控えている草壁を睨んだ。草壁は軽く目を伏せ、視線を泳がせている。
自分が言ってもきかない雲雀を心配し、リボーンに相談したというところだろう。
「を心配なのは分かる。オレだって心配だ。でもお前が無理をして倒れでもしたら大変だぞ」
「大丈夫だよ、赤ん坊。僕はそんなにヤワじゃない」
「そうだとしても、精神的にもキツイだろ。少しは休め」
「……………」
リボーンにそう言われ、雲雀は僅かに目を伏せた。そんな表情は、あまり見せた事はない。
口で言うほど以上に、を心配しているのはリボーンにも伝わってきた。
「眠れないんだ…こうしてる間にも、が危ない目に合ってるんじゃないかって思うと」
「…ヒバリ…」
「彼女は僕がずっとこの手で守ってきた…。これからも、そうでありたい、と思ってる」
いつものように淡々と話しているように見えて、その声はどこか悲しげだった。その微妙な変化に気づき、リボーンは雲雀を見上げた。
「…お前たち…何かあったのか?」
「……………」
「過去から来たじゃないぞ。この世界の彼女だ」
「…どうしてだい?」
「が行方不明になって心配なのは分かる。だがここ数日のお前の動揺ぶりはオレから見ても異常だ。ヒバリらしくない気がする」
「大切な彼女の行方が分からないんだ。当然の事だよ。僕だって人間だからね。動揺くらいする」
「本当にそれだけか?」
「…………他に何があるって言うんだい?」
雲雀はそれだけ言うと、ドアを静かに開けた。それでもリボーンは無言のまま、雲雀を見上げている。
その視線に気づき、雲雀は一旦足を止めると、小さく息を吐き出した。
「僕は…些細だけれど最も愚かな行為で…彼女を傷つけたまま、過去へ行かせてしまった…」
「…………」
「過去から来た彼女にも、僕らの間に何があったのか話す事も出来ないまま、また行かせてしまった。今、を見つけられなければ…また同じように後悔する事になる」
雲雀はそう言うとリボーンを残して、部屋を出た。リボーンはその背中を仰ぎ見ると、
「過去のと、未来のは同じ人間だが、別人だぞ。今この世界にいるが、同じ選択をするとは限らない」
その一言に、雲雀は僅かに息を呑むと、「そうだね…」と呟き、そのまま廊下を歩いていってしまった。その後姿を見送りながら、リボーンは小さく息を吐き出すと、
「…これでいいのか?草壁」
「…はい」
リボーンの後ろに、いつの間にか立っていた草壁は、額の汗を拭きながら頷いた。
本当に話してしまって良かったのか、と若干の後悔をしながらも、雲雀の様子にホっと息をつく。
後で余計な事を話した、と怒られるかもしれないが、草壁も色々な事を一人で抱え込むのは限界だったのだ。
「恭さん…いえ、雲雀は今も後悔しながら、彼女を探してます。きっと雲雀も白蘭の存在に気づいているかと…」
「だろうな…。この世界のとそんなイザコザがあった後じゃ尚更かもしれない。が自ら白蘭の元へ走った、と思っても仕方がないぞ」
「でもあれは白蘭の――」
「分かってる。だいたいは察しがつくしな。それにまだから話も聞いてないんだろう?」
「二人で話し合う予定でした。あの夜、ヒバリは彼女と食事の約束を…。でもその前に彼女は過去へ行ってしまって……」
「だったらまだ分からないぞ。それに過去から来ただって、本当に白蘭の元へ自分から行ったかどうかも分からないんだ」
「ええ…。ですが少々心配になったもので、リボーンさんに相談を」
「他の奴らに話したら、それこそ騒ぎ立てるからな。この話はあいつらにはしない方がいい。また獄寺あたりがヒバリとモメるかもしれないしな」
「分かっています」
草壁はそう言って僅かに頭を下げると、そのまま雲雀の後を追って戻って行った。
「白蘭、か…」
リボーンはそう呟くと、小さな溜息をついた。考える事は山ほどある。今は数日後に迫ったミルフィオーレ日本支部を破壊する計画が最優先だ。
だがこの世界のと雲雀にあった事は、少なくとも白蘭も関係している。
「…面倒なヤツに惚れられたもんだな、も…」
そんな本音を口にして、リボーンは二度目の溜息を漏らしたのだった。
それはまるで魔法のようだった。骸に手を引かれるまま歩き、誰にも顔を合わす事なくミルフィオーレのアジトから外へ出た時、は心の底からそう思った。
「どうですか?久しぶりの外の空気は。と言っても…この雨では少し湿気があって息苦しいですね」
骸は放心しているに向かって、そう笑った。それでもは久々に感じた外の空気に、思い切り息を吸い込む。
「…気持ちいいです…いくら豪華でも、あんな部屋に閉じ込められてるよりよっぽど」
「でしょうね。では、ついて来て下さい」
アジトの裏口から足早に歩き出した骸に、は慌ててついて行った。塀で囲まれた裏庭を走りながら、外から改めて見るアジトの大きさに溜息が漏れる。
こんな場所に監禁されていれば、一人では絶対に脱出する事は出来なかっただろう。
「雨が酷くなってきましたね。急ぎましょう」
骸はそう言って足を速めたが、霧雨のような雨が今のには心地よく感じた。
庭に植えられている芝生がぬかるむので走りづらいが、それと雨の音が二人の足音を消してくれている。
「この塀の向こうに広い道路があります。そこもミルフィオーレの私道で、主に自家用のヘリやセスナを飛ばすための滑走路的な役割をする場所です」
「…滑走路…」
「ええ。ですが今はどの部隊も出払っている為、そこの警備は手薄です。そこへボンゴレの自家用機が来る手はずになってるんですよ」
「…じ、自家用機?ボンゴレの…?」
「はい。それに乗って、あなたを日本へ運びます」
「それに乗ってって…そんな目立つものが来て大丈夫なの?ここはミルフィオーレの敷地なんでしょ?」
雨の中、走りながらは尋ねた。その問いに骸はかすかに笑うと、
「大丈夫ですよ。それを察知するレーダーも私が操作しておきましたから。誰も気づかないでしょう」
「そんな事まで……」
ありとあらゆる計画をたて、それを一人で実行した骸に、は心の底から感心していた。
「あなたを無事に逃がす方法をきちんと考えて行動してます。心配しないでいい」
「……ありがとう…骸さん」
思わず感謝の言葉を口にすると、骸は優しく微笑んだ。そして不意に足を止めると、
「…ここから出ます。行きますよ」
裏庭の奥まで行ったあたりに、小さな扉を見つけて、骸は足を止めた。も無言のまま頷くと、骸がドアを開けるのを固唾を呑んで見守る。
意外にもアッサリと開けられたドアの向こうには、先ほど聞いた、長い長い滑走路のような道が、延々と先まで続いているのが見えた。
「もうすぐ来るはずです」
骸は時計を確認すると、手で雨よけしながら、曇り空を見上げた。も一緒に見上げてみたが、そこは一面雨雲に覆われていて、視界がはっきりしない。
「この天候なので心配ですが、ボンゴレの自家用機はかなりの大きさなので大丈夫でしょう。風も殆どありませんしね」
の小さな不安を感じ取ったのか、骸はそう言って彼女の頭を撫でた。それだけで安心するのは、彼が不思議な力を使うからだろうか。
「骸さんて不思議な人…」
「…不思議、ですか」
「うん。何だか魔法使いみたいだなぁって…」
のその言葉に、骸は小さく噴出した。それほど自然に笑ったのは、もう遠い昔の事だ。
「……あなたは可愛らしい人だ。あの雲雀恭弥が大切にしている理由がよく分かる」
「……えっ?」
「…想定外の事でしたが……こうしてあなたに会えて、楽しかったですよ」
「骸さん……」
優しい瞳で見つめる骸を見上げ、は嬉しそうに微笑んだ。一生ここから逃げ出せないかもしれない、という絶望から、救い出してくれた存在に、心から感謝する。
その時、遠くの空からゴォォォっという低い唸り声のような音が聞こえてきて、二人は空を見上げた。
音の方向に視線を合わせると、灰色の雲の中から、飛行機らしき影が姿を現す。それを見つけた時、機体の横にボンゴレというロゴも見えて、は笑顔になった。
「来たようですね」
「あれが…ボンゴレの自家用機…」
「そのようです」
骸はそう言っての肩を少しだけ押した。
「骸さん…?」
「私の役目はここまでです。ここからはあなた一人で行きなさい」
「……え?」
その言葉に驚いて振り返る。だが、そこに立っていたのは、すでにレオナルドの姿に戻った彼だった。
「骸さんは…行かないの…?」
「私にはまだやる事が残ってます」
「で、でも私を逃がしたってバレたら――」
「大丈夫ですよ。もしそうなったとしても、私には逃げる術がある。だから心配しないで行って下さい」
骸、いやレオナルド・リッピはそう言って明るい笑顔を見せると、心配そうなの背中を軽く押した。
ボンゴレ自家用機はゆっくりと下降し、その機体から車輪がゆっくりと姿を現し始めた。そのまま無事に着地をすると、真っ直ぐに二人の方へ走ってくる。
「行って下さい。中にはボンゴレの方たちが乗っているはずです。怖い事はない」
「……骸さん…」
「さあ、行って」
笑顔のまま、背中を押す骸に、は涙目になりながらも頷いた。
「ありがとう、骸さん……本当にありがとう…」
「この貸しは雲雀恭弥につけておきますよ」
そう言って笑う彼に深々と頭を下げると、は飛行機の方へと走り出した。こちらに向かってきていた機体は、すでにスピードを緩め、徐々に止まりつつある。
それに向かっては必死に走ると、穿いていたヒールが片方、脱げてしまった。白蘭に送られたものだったが、それを拾う事なく、飛行機に向かって駆けていく。
その時、機体が止まり、横にある扉がゆっくりと開くのが見えて、は走るのを止めた。そこで一度、振り返ったが、そこにはもう、骸の姿はない。
「ありがとう……骸さん…どうか無事で…」
霧雨でよく見えない中、はそう呟くと、祈るように目の前に聳えるミルフィオーレのアジトを見上げる。その顔に、もう迷いは見られなかった。
「う゛お゛ぉい!!!何してやがる!!早くしろぉ!!!」
「――――ッ」
突然、耳を劈くような怒声が響き渡り、は思わず肩を竦めた。驚いて振り返ると、開いた扉から一つの影が見える。
霧雨でよくは見えないが、髪の長い男のようだ。そしてその風貌に、は見覚えがあり、思わず息を呑む。
「サッサと乗れぇ!時間がないぞぉ!」
「……あ、あの人確か……」
その無駄に大きい声にも聞き覚えがある。そしてその記憶が蘇った時、あの時の恐怖も同時に思い出していた。
「まさか………ボンゴレ暗殺部隊…ヴァリアー?!」
過去でリング争奪戦をした時、皆の前に立ちふさがった顔ぶれを思い出し、は言葉を失った。
まさか自分を助けに来てくれたのが、あのヴァリアーのメンバーだとは、想像もつかない。
「う゛お゛ぉい!お前、何ボーっとしてんだぁっ」
「…きゃっ」
なかなか乗り込まないに痺れを切らしたのか、その男は機体から飛び降りると、思い切りの腕を掴んだ。
それには驚き、また過去の恐怖を思い出して、は思わず逃げようと、その手を振り払う。それには男も驚いたようだった。
「な、何だぁ?助けて欲しいんじゃねーのかぁ?」
「あ、あなた何で……ヴァ、ヴァリアーの人でしょ…?」
怯えた顔をするに、目の前の男は面食らった様子で顔を顰めた。
「前にも会ったなぁ…オレはスクアーロだぁ。お前を助けに来た」
「………む、骸さんに言われて?」
「ああ…とにかく事情は中で話す。今は早く乗れぇ。いつまでもここはいられねーぞ」
「で、でも――」
再び腕を掴まれ、はビクっとなった。過去にヴァリアーのメンバーに浚われた時の恐怖は今も残っている。
それに気づいたのか、スクアーロは苦笑しながら、
「安心しろぉ。今は敵じゃねえ」
と、の腕を引っ張り機体へと乗り込む。
その言葉を聞いてホっとしたが、機内に乗り込んだ瞬間、またしてもの顔が凍りついた。
「やっほー♪久しぶり、ちゃん」
「あ……あなた…っ」
煌びやかに装飾された機内。その後方の座席から顔を出し、手を振っている男は、まさにリング争奪戦の時、を浚い、乱暴しようとした男だった。
「べ、ベル……」
「あっれー覚えててくれてたんだー♪王子、感激♡」
うしし、と独特の声で笑い、ベルフェゴールは座席から立ち上がった。その瞬間、は思わずスクアーロの後ろに隠れる。
のその態度に、スクアーロは呆れたように溜息をついた。
「う゛お゛ぉい、こいつも味方だぁ。何もしやしねぇ」
「……で、でも…」
「過去にされた事は忘れろ、とは言わねーが、今はオレ達を信じろぉ。大事な任務の途中なのにお前を助けに来たんだからなぁ」
そう言われ、は渋々ながら頷き、スクアーロから離れた。ベルフェゴールは一人、楽しそうに笑いながら、
「あの時はごめーんね。もう何もしないから許してよ」
「……も、もういいです…」
「あらら、そんな顔しちゃって。まーだオレのこと恨んでる?ってか、そう言えば君って過去から来たから、まだそんな昔の事じゃないんだっけ」
とぼけているのか、呑気なのか、ベルフェゴールはの隣に無理やり座ってニコニコしている。
身の危険はないと分かっていても、やはりベルフェゴールが傍に来ると、身体が強張ってしまい、はそっぽを向いた。
「う゛お゛ぉい、ベル!その女にかまうなぁ!」
「…はいはい。うるっせーお目付け役だよなぁ。オレ一人でいいっつったのにさあ」
ベルフェゴールは不満気に口を尖らせると、渋々の隣から立ち上がり、通路を挟んで反対側の席へと腰を下ろした。
とりあえずベルフェゴールが離れた事でホっとしていると、不意に頭からタオルがかぶせられ、驚いて顔を上げる。
「後で着替えをやるが、離陸するまでそれで我慢してろ」
「あ…ありがとう…」
驚いたものの、御礼を言うと、スクアーロは照れ臭そうに視線を反らし、「そろそろ離陸だぁ」とコックピットに続くドアをドンと蹴った。
そして開け放したままの扉をスクアーロが閉めようとした、その時だった。キキキッという激しいタイヤの音が聞こえ、スクアーロは慌てて外へと顔を出す。
その瞬間、何発かの銃声と、遠くから罵声が聞こえ、その方向から物凄いスピードでリムジンが向かってくるのが見えた。
「…白蘭だ!!早く離陸しろぉ!!!」
その怒鳴り声にはビクっと肩を揺らした。急いで窓の外へ視線を向けると、雨の中、真っ黒い車がこっちへ走ってくるのが見える。
後部座席から顔を出しているのは、まさしく白蘭だった。そしてその車の周りにも二台のベンツが走っていて、そこから白いコスチュームを着た男達が飛び出してきた。
「うしし♪ホワイトスペルの奴らじゃん。このまま殺っちゃってい?」
敵の追っ手を見て、ベルフェゴールが楽しげに声を上げる。その手にはいつの間に握られていたのか、鋭く光ったナイフがあった。
だがそれを見て怯える余裕など、にはもうない。追いかけてくる白蘭に、は祈るように手を握り締めた。
「う゛お゛ぉい!!もっとスピードをだせぇ!!一気に離陸しろぉ!」
「まーたムチャ言ってるよ、スクアーロのヤツ」
ベルフェゴールはナイフをくるくる回しながら、開いたままの扉から顔を出した。そして片手で自分の身体を支えると、追いかけてくる車に向かって素早くナイフを投げる。
パーンっという派手な音と共に、車体が大きく傾き方向を見失ったのは、ナイフが命中してタイヤがパンクをしたせいだ。
一台のベンツがコースを外れていくのを見て、は驚いたようにベルフェゴールを見た。
「さすが王子。百発百中〜♪」
得意げに指を鳴らし、ベルフェゴールは怯えているに軽くウインクをする。それには顔が引きつったが、味方になるとこうも頼もしいのか、とホっと胸を撫で下ろした。
それでももう一台のベンツ、そして白蘭の乗ったリムジンは依然、物凄いスピードで追いかけてくる。
「……!!」
その時、かすかに声が聞こえては思わず開いたままの扉から身を乗り出していた。
「う゛お゛ぉい、危ねぇぞぉ!」
雨に打たれながらも追いかけてくるリムジンを見つめるに、スクアーロが怒鳴り声を上げる。それでもは無言のまま、白蘭の方を見つめていた。
白蘭は車の窓から顔を出し、の名を呼んでいる。そしての姿に気づくと、身体を乗り出した。
「………君は…ずボクの…ろに戻ってくる…!!」
「……白蘭…」
その言葉に、先ほど聞いた話を思い出しドキっとした。雲雀の裏切りに絶望し、彼の元へと走った未来の自分。
そんなバカな、と思いながらも、訴えるように叫ぶ白蘭に、は言い知れぬ不安を感じた。
「…チッ。本当にお前にご執心のようだなぁ、白蘭は」
スクアーロはそう言うと、もうすぐ離陸する、と言って扉を閉め、座席へと腰を掛けた。ベルフェゴールも「もっと暴れたかった」とブツブツ言いながらも座席へ座り、ベルトを締めている。
も同じようにしながら窓の外を覗くと、追いかけてくる車が次第に離されて行くのが見えた。白蘭の乗るリムジンも、もう確認する事が出来ない。
(……ごめんね、白蘭…。私はどうしても…信じられない。未来の私が…どういう判断をしたのかなんて…実際に恭弥に聞くまでは)
心の中でそう思いながら、今は日本に帰ることだけを願った。
――その瞬間、ふわりと機体が浮き、雨の中を轟音と共に、飛行機が飛び立つ。地上から離れた事が、をホっとさせた。
「あーあ。今頃、ボックス使って追いかけてこようとしてやんの。おっせーっつーの」
ベルフェゴールが窓の外を見下ろしながら、楽しげに笑っている。
も外を見てみると、以前にも見た事のある、足に炎を灯した男達が、こちらに向かって飛んでくるのがかすかに見えた。
それでも飛行機のスピードには敵うはずもなく、次第に遠ざかり、最後には雨雲に覆われ、見えなくなった。
「もう大丈夫だぁ」
不安そうに窓の外を見ているに、スクアーロが声をかけた。その言葉に頷くと、全身の力が抜けた気がして、シートに寄りかかる。
そして再び窓の外に目を向けると、機体は厚い雲の中へと入っていき、何も見えなくなった。更にこの上へと上昇すれば、そこは青空が広がっているはずだ。
(……やっと…日本へ帰れる…)
思いがけぬ助っ人に驚きはしたが、骸が危険を冒してまで連絡をとってくれた相手だ。今はもうヴァリアーの二人を信じるしかない。
(骸さん……無事でいてね…)
最後の最後で白蘭に見つかった事を不安に思いながら、は自分を救ってくれた骸の無事を願っていた――