querido.03









深夜、辺りは静まり返っていた。
標的がいる建物からは、小さな灯りが見えるだけで、特に変わった様子もない。
それを車の中から見張りつつ、時計を見る。午前2時。
――今夜はもう動かないか・・・・。
そう思った時、部下が暗闇から姿を現し、オレは静かに窓を開けた。


「スクアーロ様。家光の家から、あの少年が出てきた様子はありません」
「・・・・そうか。裏も見張ってるんだろうなぁ?」
「はい。裏口、全て見張りの者が」
「よし。そのまま朝まで見張れ」
「了解しました」


頭を下げ、戻ろうとしている部下の背を見ながら、一瞬考える。
が、答えが出る前に、「・・・・待て」と声をかけていた。部下が慌てて戻ってくる。


「オレは一度、屋敷に戻る」
「・・・・は?」


俺の言葉に、部下は驚いたように顔を上げた。
当然だ。任務の最中、帰るなどと、ありえない事だ。
だが、オレには気がかりな事が一つあった。何度も振り切ろうとしたが、どうしても頭の隅から離れない。
これでは任務に集中出来ないと思った。


「代わりに他の奴を寄こす。それまでサボんなよ」
「――――はっ!了解しました」


部下はその場に傅くと、すぐに姿を消した。
今夜、奴は動く気配がないとふんだオレは、そのまま運転する部下に「屋敷へ戻れ」とだけ告げて、シートに深く凭れかかった。
何となく、気分が落ち着かない。
屋敷を出て、ここへ向かう途中も、どこか後ろ髪が引かれる思いでいた。
――――相手を見張る。
そんな退屈な任務の間も、部下に指示を出しながら、心の半分はどこかへ置いてきてしまったかのようにざわついていた。


「――――チッ。バカか、オレは」
「・・・・は?何か仰りましたか?」


ハンドルを握る部下が訝しげな顔でバックミラーを覗く。
「・・・・何でもねぇ」と返し、窓の外を眺めた。
分かっている。自分が何に気を取られているのか。
先ほど一瞬だけ、顔を合わせた彼女の表情が、脳裏にこびりついて離れない。
忘れよう、消し去ろうとしても、そう思えば思うほど、心に募っていく。
彼女は悲しそうな顔をしていた。
ベルの傍で、今、幸せなはずのが、オレを見て泣きそうな顔をしていた。
気のせいかもしれない。でも・・・・どうしても気になってしまう。


「スクアーロ様?到着しました」


その声に顔を上げると、いつの間にか車は屋敷のエントランス前に停車していた。
すぐに入り口を見張っている部下たちが走って来て、ドアを開けてくれる。
無言で降りると、部下は足元に傅いた。


「お帰りなさいませ」
「他の奴らは?」
「まだ大広間の方に」
「けっ。まだ飲んでんのかよ。いい気なもんだぁ」


そう言いながらも自然と足はエレベーターへと急いでいた。
やはり気になる。あんな時間に、彼女があの場所にいた事を。
エレベーターへ乗り込み、最上階のボタンを押す。それほど遅くはないエレベーターの動きが、今はやけに鈍く感じた。
イライラしながら点滅していく番号を見上げる。
到着した瞬間には、廊下へと飛び出していた。


「あらースクアーロじゃなぁい」
「ルッスーリア」


廊下を歩いて行くと、そこへルッスーリアが歩いて来た。
少し酔っているのか、楽しげな笑みを浮かべ、鼻歌なんか歌っている。


「もう戻ってきたの?随分と早いじゃない?動きはあったの?」
「・・・・動きはねぇが見張りは置いてある。後はてめぇか他の奴らを行かせろ」
「あらま。何よ・・・・さっきは自分が行くなんて言ったクセに」
「うるせぇ。暇ならてめーが行け。それか他の奴を呼んで来い。まだいるんだろ?ベルウェゴールかレヴィの奴が」


ルッスーリアはそれを聞いて、今夜はもう寝ようと思ってたのに、と顔を顰めた。
だがすぐに苦笑いを浮かべると、


「他の連中も今は無理かもねぇ・・・・」
「あ?何でだ・・・・?」


意味深な笑みを浮かべているルッスーリアに、オレは眉を寄せて振り向いた。
ルッスーリアは大広間の方に目を向けると、「今、ベルちゃんはヤケ酒の真っ最中よ」と肩を竦めた。


「マモちゃんはサッサと部屋に戻ったし、レヴィなんかベルちゃんに付き合わされてベロベロ状態なの。私は上手く逃げてきたんだけど」
「・・・・どういう意味だぁ?」


状況がつかめず、顔を顰めると、ルッスーリアは困ったように首を振った。


「それがねぇ・・・・。ベルちゃんのお気に入りの女の子をボスが呼べって言って。ま、いつもの事なんだけど・・・・」
「――――何?」


(やはりそういう事か。じゃあは――――)


「ベルちゃんがって娼婦の子に入れ込んでるの、知ってた?スクアーロもその子の事、呼んでたってチラっと聞いた事あるんだけど」
「・・・・知ってんのか?」


不意にそんな事を言われ、驚いた。
ルッスーリアはちょっと苦笑いを零すと、


「ええ。仲のいい娼婦の子に聞いたの。ベルちゃんてば、その子にかなり本気みたいなのよねぇ」


ルッスーリアは、はあっと溜息をついた。


「最初信じられなかったんだけど、それがマジらしいのよ。ボスがその子に酒の相手をさせてる間もハラハラした顔してたし・・・・」
「・・・・酒の相手だと?」
「そう!それでね、例の如くボスがその子を気に入っちゃって・・・・。さっきいつものように部屋に連れてったわ?」
「――――ッ」
「それでベルちゃんてばヤケ酒・・・・ってちょっとスクアーロ?!」


話を聞き終わる前に勝手に足が動いていた。
まだ止まっていたエレベーターに飛び乗ると、すぐにボスの部屋がある階を押す。
やはり――――嫌な予感は当たった。
ザンザスのいつもの悪いクセが出てしまったのだ。
これまでも何度かあったが、やはり同じか。
いや、これまでの女達はどうでもいい。オレやベルだって遊びの相手だったし、女達だって楽しんでた。
ザンザスは人のものを奪う事を楽しんでいる。オレ達だってそれを楽しんでいた事もある。
けど彼女を・・・・を、その"遊び"に引き込む事なんか出来るはずがない。

――――ベルの奴・・・・分かってるクセに何を・・・・いや。あいつを責める事は出来ない。
ヴァリアーの中でザンザスの命令は絶対だ。逆らう事は許されない。
でも・・・・例えザンザスの怒りに触れようとも許せない事はある――――。
彼女はきっと何も文句を言わず、言われたとおりにするだろう。
自分を救ってくれたベルに言われれば、彼女はきっと嫌とは言わない。
は、そういう女だ。だからこそ、こんなにも・・・・守ってやらなきゃ、と心が騒ぐ――――


「クソ!らしくねぇ・・・・!」


色んな怒りをぶつけるように、ノロノロと開く扉を蹴る。
半分、無理やりこじ開けると、廊下に飛び出し、奴の部屋へと走って行く。
この時のオレはすでに、何も恐れていなかった。
頭にあるのは、ザンザスに逆らう事になる、という事よりも、が泣いているかもしれない、という事だけだ。

廊下の一番奥に、派手な装飾を施された大きな扉がある。それを、力いっぱい押し開いた――――










「――――ちょ、ちょっとベルちゃん、レヴィ!!大変よ、大変!」
「・・・・んぁ?」


けたたましく扉が開き、逃げたはずのオカマが戻ってきた。
テーブルに突っ伏していたオレはボーっとしながら顔を上げると、隣ではレヴィが酔いつぶれていた。
ヤケ酒につき合わせていたら先にダウンしたらしい。


「あらやだ!レヴィってば完全につぶれちゃってるじゃない!」


慌てたように飛び込んできたルッスーリアは、テーブルにオデコをつけてイビキをかいているレヴィを見て、目を丸くしている。
が、ハッとしたようにオレを見ると、またしても「そんな事より!大変なの!」と叫んだ。


「・・・・何だよ・・・・。ヒゲでも生えてきたの?ぅしし・・・・♪」


そう言いながらグラスに残っていたワインを一気に飲み干す。
そんなオレの手からグラスを奪うと、


「冗談言ってる場合じゃないわ、ベルちゃん!スクアーロが・・・・っ」
「何だよ・・・・。うっせえな・・・・。スクアーロが何かヘマでも――――」
「ボスのところに行ったみたいなの!!」


その言葉の意味が酔っ払った頭に届くのが少し遅くなった。
ゆっくり顔を上げると、後ろで青くなっているルッスーリアを見上げる。


「――――は?」
「今、廊下で会ったからあの子の話をしたのよ!そしたら凄い怖い顔でエレベーターに飛び乗っちゃって!」
「な・・・・」
「気になってどこで降りるか見てたのよ。そしたら止まったのがボスの部屋がある階じゃない?私ビックリしちゃって・・・・」


ルッスーリアの言葉に、オレは一気に酔いが冷めた。
まさかアイツがそんな行動に出るとは思ってもみなかった。


「スクアーロもあの子を呼んでたのは聞いてたけど・・・・まさかスクアーロまで彼女に本気なんて事ないわよね?!」
「・・・・・・」
「ベルちゃん・・・・何か知ってるんじゃない?」


視線を反らしたオレに、ルッスーリアが訝しげな顔をした。


「ねぇ、どうなの?信じられないけど・・・・。スクアーロもあの子に本気なんじゃない?だからボスのところに――――」
「ああ、そうだよ!お前の言うとおり!だから何だよ!」


ドン!とテーブルを叩くと、ルッスーリアはギョっとしたように身を引いた。


「ベルちゃん・・・・」
「スクアーロもに惚れてる!でもはもうオレのもんなの!アイツがボスのとこに行ったって何も出来やしねーって!」


そう叫んだ瞬間、体の力が抜けて、床に崩れ落ちた。
ルッスーリアが驚いて体を支えてくれたけど、今のオレには立ち上がる気力なんかない。


――――何も出来なかったのは・・・・オレだ。


ボスに連れて行かれるを・・・・オレは止める事が出来なかった。
こんなに好きなのに・・・・相手がボスだからってオレは見て見ぬフリをした。――――それって、最低じゃね?


「ベルちゃん・・・・大丈夫?」


心配そうな顔のルッスリーアの腕を振り払い、よろよろと立ち上がる。
スクアーロがボスのところに行ったのなら、オレも行かなくちゃダメだ。
その思いだけでアルコールのまわった足で、廊下に出る。


「ちょっと!そんな体でどこ行く気?」
「・・・・ボスんとこ」
「な・・・・やめなさいってば!スクアーロだって考え直して途中で引き返したかも――――」
「んなわけないじゃん。きっとアイツは・・・・」


そう、アイツは何も恐れず、ただを救いに・・・・。多分オレらの中でボスに一番、忠誠を誓ってるのはアイツだ。
そのスクアーロが、たった一人の女の為に、ボスのところへ、行った。
それが、どういう意味なのか痛いくらいに知ってる。
フラつく足でエレベーターに乗り込む。
すると、ルッスーリアも一緒に乗り込んできた。


「何だよ・・・・。お前は関係ない――――」
「私も行くわ」
「・・・・はぁ?」
「だって少なからず事情を知っちゃったし・・・・どうなるか見たいじゃない。――――仲間の恋のけ・つ・ま・つ♪」
「・・・・うぜ」
「まあ、そう言わないで。暴走した仲間を止めるのも、私達の仕事でしょ?」


ルッスーリアはそう言って笑うと、オレの肩を支えてくれた。
オカマに優しくしてもらっても、ちっとも嬉しくない。でも――――


「サンキュ・・・・」


そう呟くと、ルッスーリアが微笑んだ。
その時、エレベーターが目的の階に到着した。ゆっくりと扉が開く。
その瞬間――――ドゴォォン!という物凄い音がして、オレ達は廊下に飛び出した。


「――――ッ?!」
「・・・・やだ!ちょっと、何これっ」


オレ達の目に飛び込んできたのは、ボスの部屋の扉が吹っ飛んでいる光景だった。
思わず息を呑み、ルッスーリアと顔を見合わせる。
その時、部屋の中から、の悲鳴が聞こえてきた。


「――――ッ!」
「行きましょ、ベルちゃん!」


その声を聞いて、オレとルッスーリアはボスの部屋の中へ飛び込んだ。
最初に視界に入ったのはソファのところで泣き崩れているの姿。
そして、その向こうには――――二つの、影。


「ボス・・・・」
「遅かったわ・・・・」


血まみれで倒れているスクアーロの髪を掴んでいるボスを見て、ルッスーリアが呟いた。
オレ達が来た事も無視するようにボスはゆっくりしゃがむと、スクアーロの髪を引っ張り、顔を上に向けさせた。


「このカスが!"やめろ"だと?このオレに命令する気か?スクアーロ・・・・」


ボスの声にはハッキリと怒気が含まれている。
普通ならオレ達はその迫力で何も言えなくなる。
だが、スクアーロは苦しげに息を吐きながらも、真っ直ぐにボスを睨みつけた。


「・・・・っソイツは・・・・お前が遊びで抱いていい女じゃ・・・・ねぇ・・・・っ!」
「あぁん?何言ってやがんだぁ?」


ボスは目を吊り上げると、徐にスクアーロの顔を殴りつけた。


「この女は娼婦だろーがぁ!遊んで何が悪い?!この女は元々ベルフェゴールから借りた女だ!てめぇは関係ねぇ!」


床に転がったスクアーロの方へ歩いて行くと、ボスは再び奴の髪を掴んだ。
スクアーロの口元から血が流れている。
その姿を見てが「止めて下さい、ザンザスさま!」と叫んだ。


・・・・は黙ってろぉ・・・・!」
「――――ッ」


スクアーロの言葉にもビクっと肩を竦める。
それを見ていたボスは、訝しげな顔で二人を見た。


「てめぇら・・・・何なんだ?どういう関係だ・・・・。答えろ、カスザメ!!」
「な・・・・何でもねぇよ・・・・。ソイツとオレは・・・・ただの客と・・・・娼婦・・・・だ・・・・」
「だったら何でこの女に拘ってんだぁ?!今までも良くやってた事じゃねぇか・・・・。このオレに逆らってまで守る必要があんのか、カスがっ」


ドゴォっという鈍い音と共に、スクアーロが床に転がる。
思い切り腹を蹴られたのだ。スクアーロは激しく咽て血反吐を吐いた。
ボスはそれでもスクアーロの胸倉を掴み、思い切り顔を殴った。
オレもルッスーリアもその場から動けない。
その時、が泣きながら「やめて・・・・」と立ち上がった。


「もう・・・・もう止めて下さい!彼に乱暴しないで・・・・!」


泣きながらボスの腕にしがみ付く。哀願するように必死のその姿に、スクアーロが立ち上がろうとした。
が、その前にボスの腕が彼女を思い切り突き飛ばす。
が床に転がる姿に、スクアーロは、ボスの腕にしがみ付いた。


「う゛お゛ぉいっやめ・・・・ろっ!ザンザス・・・・っ彼女には手ぇ出すなぁっ」
「このカスがっ!!オレに命令すんじゃねぇっ!!」


再びボスの蹴りがスクアーロの体を弾き飛ばした。
「いやぁっ!止めて・・・・!」とが再びボスの方に走って行こうとする。
それを見て初めて体が動いた。


「――――やめろ、!」


オレは慌てて彼女の腕を掴んだ。
は泣き顔のままオレを見上げると、「ザンザス様を止めて!」と必死に頼んでくる。
突き飛ばされて、ぶつけたのか、彼女の額や唇が切れて血が滲んでいる。
小さな体で、必死にスクアーロを救おうとしている。
その姿に胸が痛んだ。


「お願い・・・・。私なら平気だから・・・・何でもするから・・・・スクアーロさんを助けて・・・・」


泣き崩れるようにオレにしがみつくに言葉を失う。
スクアーロはボスに殴られ、蹴られても手を出さず、ただ「アイツの事は見逃してやれ・・・・」と必死に頼んでいる。


「アイツは・・・・もう・・・・娼婦じゃねぇ・・・・んだ・・・・」
「あぁ?何言ってやがるっ!」


再びボスの拳がスクアーロの顔を殴り飛ばし、が両手で顔を覆った。
あんなに必死にボスを止めようとしている奴の姿に、胸が軋むような音を立てる。

(オレには出来なかった事を、アイツは何の迷いも見せずに・・・・)

ぎゅっと拳を握り締めた。
を助ける為、ボスに逆らったスクアーロ。そんなアイツを助けて、と泣いている・・・・。
この二人はやっぱり――――。


「おい、カス・・・・」
「・・・・・ッ」


ボスがゆっくりと振り向いた。 その視線はオレに向いている。
を庇うように抱きしめながら、オレはボスを見つめた。


「何なんだぁ?その女・・・・。てめぇのもんじゃねぇのかよ」
「・・・・・・」
「・・・・チッ、しらけた」


何も答えないオレに、ボスはそう言うと、こっちへ歩いて来た。
一瞬、緊張したが、ボスはそのまま部屋を出て行く。
それを見て、オレはに自分のジャケットを着せると、「待ってて」と言い残し急いでボスを追いかけた。


「ボス!」
「あ?」
「・・・・どこ、行くのさ」


ボスがゆっくりと振り返る。
その顔には先ほどまでの怒りはなく、かすかに笑みが浮かんでいた。


「・・・・ドアの修理、頼んどけ」


それだけ言うと、エレベーターの方に歩いていく。が、ふと立ち止まると、


「・・・・カスザメもあの女に惚れてること、てめぇは知ってたのか?」
「・・・・・・ッ」
「知ってて・・・・自分のもんにしたのか」
「・・・・そう、かもね」


それだけ答えると、ボスは軽く苦笑を漏らした。


「てめぇもバカだな、ベルフェゴール」
「・・・・ッ?」
「あの女もカスザメに惚れてる・・・・。分かってんだろ?」
「・・・・うん」
「そんな女、手元に置いておくなんて本当にバカだぜ、お前は」


ボスはそう言って笑うと、一人エレベーターに乗り込んだ。
やっぱり何もかも見透かされてたみたいだ。


「ドア、オレが戻る前に直しておけ。あれじゃ落ち着かねぇ」
「・・・・自分で壊したクセに」


そう呟いた時には、すでに扉は閉まっていた。
その瞬間、一気に全身の力が抜けて、その場にへたり込む。
心が打ちのめされていた。ボスにじゃない。
あのボスに逆らい、殴られても彼女を守ろうとしたスクアーロの姿に、だ。

――――敵わない。

チラっとドアの壊された部屋を見れば、嵐が過ぎ去ったかのように静まり返っていた。









「スクアーロさん・・・・っ!!」


あちこち痛む体を起こし、壁に凭れかかると、が泣きながら走ってきた。
オレの前に跪き、切れている口元に震える指を伸ばす。
その手を振り切るように顔を反らした。


「これ・・・・くらい何ともねえ・・・・っ触るなぁっ!」
「で、でも手当てしないと・・・・っ」
「う゛お゛ぉい、触るなって言って・・・・」


彼女の手を振り払おうとした時、額と、その小さな唇が血で滲んでいるのが見えて息を呑んだ。
さっきザンザスに突き飛ばされた時に切ったのか・・・・。


「オレの事はいい・・・・。お前こそ・・・・手当てしてもらえ・・・・」
「わ、私は大丈夫です・・・・。それよりスクアーロさんの手当てをしなきゃ・・・・っ今、救急車を――――」
「もう連絡したわ」
「・・・・ルッスーリア・・・・」


その声に顔を上げると、ルッスーリアが呆れたような顔で歩いて来た。


「ったく・・・・。派手にやられたわねぇ」
「うるせぇ・・・・っ・・・・つっ」
「あらら、動いちゃダメよ。今、医療班、呼んだからすぐに来てくれるわ。うちの医療班はその辺の医者より優秀よ♪」


ルッスーリアはオレにしがみついて泣いているの前にしゃがみ、そっと頭を撫でている。


「大丈夫?アンタも怖かったでしょ」
「い、いえ・・・・私は・・・・」
「はあ・・・・。アンタも大変ねぇ・・・・。うちの男どもに気に入られちゃって」
「う゛お゛ぉい、余計なこと言ってねぇで、コイツをベルんとこに連れて行ってやれぇ」


そう言っての腕をそっと外すと、彼女は驚いたように顔を上げた。


「お前は・・・・アイツのもんだ・・・・。オレにかまうなぁ・・・・」
「で、でも私の為にこんな怪我を――――」
「う゛お゛ぉい、勘違いすんじゃねぇっ。別にオレはそんなつもりじゃ・・・・つっ」
「スクアーロさんっ」


少し動いただけで体が激しく痛み、オレは深く息をついた。
どうやら肋骨が何本か折れてるようだ。相変わらずザンザスの奴は手加減なしだ。


「・・・・素直じゃないわね、スクちゃんてば。"そんなつもり"じゃなきゃ何でボスを怒らせるの分かってて、ここに来たのよ」
「・・・・うるせぇ!」


叫ぶだけで傷に響き、オレは顔を顰めた。
は心配そうにオレに寄り添っている。
そこへ、ベルフェゴールが歩いて来た。いつものにやけた顔ではなく、今は無表情でオレを見ている。
その目に心の中を見透かされてる気がして、オレは視線を反らした。


「ベル・・・・の・・・・傷の手当てしてやれ・・・・」
「・・・・分かってるよ。――――行こう、・・・・」
「で、でもスクアーロさんが――――」
「私がついてるから大丈夫よ。だからちゃんも怪我の手当てしてもらって」


ルッスーリアがそう言うと、は一瞬オレを見たが、その後小さく頷いた。
ベルに支えられ、フラフラと立ち上がったは、それでも心配そうに振り返っている。
その表情を見ていると、忘れようとしている心がざわついた。


「サッサと行けぇ・・・・。ウゼぇぞぉ・・・・」


彼女に気づかれたくなくて、わざと冷たく突き放す。
それでも彼女は涙顔で微笑むと、


「ありがとう・・・・。スクアーロさん・・・・」
「・・・・・」


小さく呟くと、はベルと一緒に部屋を出て行った。


「・・・・チッ。礼なんかいらねぇよ・・・・」


と、ボヤいて軽く息を吐くと、ルッスーリアが苦笑いを零した。


「いいの?ベルちゃんと行かせて」
「・・・・あぁ?」
「スクちゃんもあの子のこと好きなんでしょ」
「う゛お゛ぉい、てめぇには関係――――」
「あるわよ。あれだけ派手にボスとモメちゃって・・・・しかも仲間同士で同じ女を好きだなんて、これから気を遣って大変だわぁ」
「あぁ?」
「何よ。本当の事じゃない」


ルッスーリアは苦笑交じりでオレの隣に腰をかけた。


「・・・・まさかベルちゃんとアンタが同じ子を好きになるなんてねぇ。まさに青天の霹靂だわ」
「・・・・う゛お゛ぉい、オレがいつのこと――――」
「私にまで嘘つかないでよ。全部分かっちゃったんだし・・・・。それに本気じゃなければボスを怒らせてまで守ったりしないもの」
「・・・・チッ」
「いいの?本当にベルちゃんのところに行かせて」


もう一度、そう訊くと、ルッスーリアは真面目な顔でオレを見つめた。
オカマは男心も分かるのよ、なんて言うもんだから笑うしかない。


「いいも何も・・・・アイツはもうベルのもんだ・・・・。お前の事だ、全部知ってんだろぉ?」
「ベルちゃんが・・・・あの子の借金を全額、返してあげた事?」
「ああ・・・・だからアイツはもう娼婦じゃねぇ。けど・・・・ベルのもんだ」


どんなに想っても、手が届かない。
に二度と触れられないオレに出来るのは、こんな事くらいだ。


「スクちゃんてばバカね。でも・・・・いい男だわ」
「・・・・あぁ?バカは余計だ、てめぇ」


そう言って笑うと、ルッスーリアも苦笑いを浮かべながらふとオレを見つめた。


「でも・・・・あの子の気持ちはベルちゃんにはないわ」
「――――ッ?」
「あら、気づかなかったの?あの子の気持ちに」


驚いているオレにルッスーリアはアッサリとそう言った。
一瞬、言葉を失う。――――がベルを好きじゃない?そう言ったのか?
思わず失笑が漏れる。


「何・・・・言ってやがる・・・・。は好きでもねぇ男に金を出させるような女じゃ――――」
「そうかしら。ま、その辺のところは分からないけど・・・・。でもあの子を見てれば分かるわ。あんたを殴るボスを止めようとまでしたのよ?」
「アイツは・・・・優しい女なんだ・・・・。別にオレじゃなくても同じ事をしたはずだぁ」
「でもベルちゃんもそうは思ってないみたいよ?」
「あ?」
「ベルちゃんは彼女の本心に気づいてる・・・・。じゃなければ、あんなに動揺しないもの」
「・・・・何の事だぁ?」


言っている意味が分からず、訝しげに眉を寄せれば、ルッスーリアは黙って肩を竦めた。


「さっきスクアーロもあの子に惚れてるの?って聞いた時・・・・ベルちゃんが珍しく動揺したの。もし彼女の気持ちに自信があるならあんな顔はしない」
「・・・・あんな・・・・顔?」
「"はオレのもんだ"って強がってたけど、でも・・・・スクちゃんがボスを止めに行ったのを知って、ひどく動揺してた」


きっと自分に出来ない事をスクちゃんがアッサリしたから、敵わないって思ったのかもね、とルッスーリアは言った。
でもオレは信じられなくて、何も言う事が出来ない。


「あんた達の中で何があったのか知らないけど・・・・でも一度、ちゃんと話してみたら?」
「今更、何を話すってんだぁ?アイツがベルのもんだって事に、変わりはねぇ」
「そうかもしれないけど・・・・でもね・・・・」


女は自分を想ってくれる男といるよりも、好きな男の傍にいた方が絶対に幸せなのよ――――


笑いながらそう言ったルッスーリアの言葉が、やけに胸に突き刺さった気がした――――












「・・・・痛む?」


切れて赤くなっているの唇に、そっと触れる。
彼女は無言のまま、首を振った。
部屋に戻ってからも彼女は心ここにあらずといった様子で、それがオレの胸を痛くさせる。
きっと今のの頭の中は、スクアーロの事でいっぱいなんだろう。
ボスに殴られ、蹴られても、自分の事を守ろうとした、アイツの事で・・・・。
オレには出来なかった事だ。逆にオレはボスにを抱かせようとした・・・・。この胸の痛みも自業自得だ。


「――――ッ」


不意にの瞳から涙が零れ落ちた。
声も出さず、ただ肩を震わせ静かに泣いている。


「泣くなよ・・・・」


そっと彼女を抱き寄せ、髪に口づける。
この涙は、誰の為に流してるのか、痛いくらいに分かってしまう。


「ごめんな・・・・。守ってやれなくて」
「・・・・ッ?」


オレの一言にハッとしたように、は顔を上げた。その瞳からはまだ涙が溢れてきている。
彼女は何度も首を振ってくれたけど、オレはもう一度、「ごめん・・・・」と呟いた。
好きだとか、愛してるなんて言っておきながら、彼女を傷つけてしまった。
その罪悪感で体が震える。彼女はもう娼婦じゃないのに、ボスの相手をさせようとしたオレに、を好きだという資格なんかない。


「ベル・・・・?」


黙ったまま俯いているオレの手を、は優しく掴んだ。
その温かさに、一瞬ビクっとなる。
ひどい事をしたのに、まだこんなオレを心配してくれるの優しさに、ガラにもなく泣きそうになった。
手放したくはない。だけど・・・・オレはこの優しい手を、もう引き寄せちゃいけないんだ。
最初から間違ってた。他の男を想う彼女を、手に入れようなんて――――。


「ベル・・・・?私は――――?」


開きかけた彼女の唇に人差し指を当てる。
はきっとオレを恨んじゃいない。これからも責める事はしないだろう。
それが分かるからこそ、そんな彼女の優しさが辛くなる。


は・・・・ここにいない方がいい」
「・・・・え?」


思い切って紡ぎだしたオレの言葉に、は目を見開いた。
本当は、まだ迷っている。だけど、ますますスクアーロに心が向いてしまった彼女を、これから先、傍に置いておく自信はない。
このままじゃ、オレはいつか彼女を責めてしまう。オレの傍にいながら、アイツを想う彼女の事を・・・・。
そんな事をしてしまうくらいなら、今この場で傷ついた方がマシだ。惚れてる女をこれ以上、傷つける前にオレが傷ついた方が・・・・。


「――――出てけよ」


から目を反らし、一言、呟く。彼女の瞳が大きく開かれた。


「ベ・・・・ル・・・・?もしかして怒ってるんですか・・・・?ザンザス様を怒らせてしまった事――――」
「そんなんじゃない。けど・・・・この屋敷にいたら嫌でもボスと顔を合わせることになる」
「私は気にしない・・・・っ」
「オレが気にすんの!!」
「・・・・・・ッ」


思わず大きな声を上げると、はビクっとしたようにオレから離れた。
彼女を怖がらせたくはない。でも心を鬼にしなきゃ、彼女が自由になれないんだ。


「もう一度・・・・ボスがお前の事、抱かせろって言ってきたら・・・・オレはまたきっと同じ事をする」
「ベル・・・・」
「スクアーロの奴みたいに後先考えず、ボスからお前を・・・・守る事なんか出来ない」
「・・・・・ッ」


ガラにもなく声が震えた。は涙いっぱいの瞳で、オレを見つめてる。
呆れてくれればいい。お前を好きだと言っておいて、守ってやる事も出来ないオレの事を、嫌いになってくれればいい。
いや・・・・の事だ。例えそうなったとしても、恩を感じてオレから離れようとはしないだろう。
だったらオレから突き放すしかない・・・・。


「・・・・似合わない事、するもんじゃねーよな」
「・・・・え?」
「オレ・・・・お前のこと幸せにしたい、なんて、らしくねぇこと思っちゃったけどさ。やっぱ出来そうもないわ」
「ベル・・・・?」
「オレより・・・・スクアーロの方がよっぽど出来んじゃね?」
「な・・・・何でそんなこと言うの・・・・?彼は――――」
「お前も、もう気づいてんだろ?アイツがお前に惚れてること・・・・」
「――――ッ」
「じゃなきゃアイツがボスに逆らうようなマネ、するはずないんだよね・・・・。――――2人は同じ夢を見てるから・・・・」
「同じ・・・・夢・・・・」
「スクアーロはオレ達の誰よりもボスに忠誠を誓ってる・・・・。だから・・・・これまで逆らった事なんかない」


その一言には驚いたようにオレを見ていた。スクアーロの奴から何か聞いていたのか。
その話に何か心当たりがあるような顔をしている。


「これで分かったろ?だから――――アイツのとこ、行っていーよ」
「・・・・・・ッ?」
「契約のこと気にしてるならそれはもういいから。あのババァのとこに戻る必要もない」
「・・・・っ?それってどういう・・・・」


オレの言葉に、は訝しげな顔をした。
娼婦は契約を切られた場合、また自分がいた宿へと戻る事になっている。
でも彼女は・・・・オレが自由にした。


「オレ、お前に嘘ついてたんだ・・・」
「嘘・・・・?」
「そ。ホントは・・・・専属契約したんじゃない・・・・。勝手にお前の借金、全額返しちゃったの」
「――――ッ?」


さすがに驚いたのか、の口から「嘘・・・・」と小さな呟きが漏れた。


「お前はそれだけは絶対に"うん"って言ってくれなかったろ?だから勝手に払った・・・・。の気持ち、尊重してやれなかった」
「そんな・・・・どうして・・・・」


の声は震えていた。自分は何も知らないままオレだけのものになっていたんだから、それも当たり前だろう。
専属契約と引き受けじゃ、まるで意味が違ってくる。オレのした行為はの一生を縛る行為だ。
彼女はそんなこと望んではいなかったのに・・・・。
でもは予想に反して、真剣な顔でオレを見ていた。


「・・・・ううん、だったら尚更、何故私に出て行けなんて・・・・言うんですか・・・・?」
・・・・」
「借金は・・・・相当な金額でした・・・・。それを払ってくれたのにどうして――――」
「・・・・金なんかどうでもいいんだ。でも・・・・、最初に言ってただろ?自分には好きな奴がいるって・・・・」
「あ、あれは――――」
「それが誰かも・・・・オレ、知ってた」
「・・・・・っ」
「アイツもお前に惚れてる事、気づいてた・・・・。何もかも分かってて・・・・アイツからお前を呼ぶ権利さえ奪ったんだ」


肝心な時に守ってやれないクセにさ、と自嘲気味に笑うオレを、は悲しそうな顔で見ていた。


「ごめん・・・・オレ、自信なくなったんだ・・・・。いや・・・・つーか、アイツを好きなお前を幸せにしてやれる自信がなくなった」
「ベル・・・・」
「これ以上・・・・オレ、自信を失いたくなねえし?だから・・・・はスクアーロんとこ行けよ」
「でも・・・・!」
「頼むからさ!そうして・・・・」


彼女に背中を向けて叫ぶ。はハッと息を呑んだ。


「だってバカみたいじゃん?お前とスクアーロは互いに好き同志なのに・・・・オレがお前を飼ってるなんてさ。これ以上オレを惨めにさせないでくれる?」
「・・・・ッ」
「オレってほら王子だし?周りから同情の目で見られるのなんかゴメンなんだよね。ヴァリアーの奴らにバカにされるのなんか・・・・冗談じゃねぇし」


は黙っていた。
ただ、黙って泣いているようだった。
彼女に言った事は半分は本当だ。こんな惨めな気持ちを一生、引きずっていけるほど、オレは自分を捨ててない。
彼女よりもオレはプライドの方を取ったんだ。こんなオレに彼女を想う資格はないに等しい。
と出会って変わったつもりになっていても、オレは結局、最後の最後で最低なままだった・・・・。


「ご・・・・ごめんなさ・・・・い・・・・」
「・・・・は?何でが謝るわけ?」
「・・・・私のせいで・・・・ベルに嫌な思いをさせて・・・・」


は声を詰まらせながら、そんな事を言う。
本当に・・・・彼女には敵わない。


「ったく・・・・何でお前は・・・・」


子供のように泣き出したに、オレは溜息をついて振り向いた。
その場に蹲り、嗚咽を漏らして泣いているが、やっぱり愛しくてたまらない。
だけど・・・今ここで彼女を抱き寄せたら、オレは彼女を手放せなくなる――――


「悪いのはオレだろ?カッコいいこと散々言っておいて…お前の面倒、最後まで見られなかったんだからさ」
「そ・・・・そんなこと――――」
「はぁ・・・・。泣くなって・・・・・。前にも言ったろ。オレ、女に泣かれるの嫌い」
「・・・・う・・・・だ、だって・・・・ひ・・・・っく・・・・」
「あーもう、ウゼーからサッサとスクアーロに引き取ってもらお」
「べ、ベ・・・・ル――――」


いきなり立ち上がったオレをは驚いたような顔で見上げた。
そんな彼女の頭をそっと撫でる。


「お前はもう自由の身だから・・・・いつでも、どこへでも、好きなところに行く権利がある」
「ベル・・・・」


オレを見上げている彼女に、涙を堪えて微笑む。
本当は・・・・今も、彼女の綺麗な髪を、大きな瞳を、小さな唇を、全て愛している。



「――――オレにまだを好きにする権利が残ってるなら・・・・最後にお前を手放す権利もあるだろ」



それはオレから彼女への、最後のプレゼントだった――――














何気にルッス姉さんが出張っております(笑)