「――あれ?随分早いな、べポ」
一仕事を終えて軽く休んでると、の様子を見に行ったべポが、何やら安堵の表情で戻ってきた。
その手には、情報を書き込んだ島内のマップ。おれがに渡すよう、べポに頼んだものだ。
「それ渡してないのか?」
「まだの機嫌直ってなかったのかよ」
おれの隣でコーヒーを嗜んでいたシャチも、困ったように笑う。でもべポは黙って首を振った。
「機嫌は…直ってたと思うよ」
「じゃあ、何で渡してねェんだよ」
不思議に思って尋ねてみると、べポは「キャプテンが部屋にいたから」と、事情を説明し始めた。
何でも、部屋へ行くと、中からの明るい声が聞こえて、一緒にローさんの話し声も聞こえたという。
「何だ、キャプテンの方が早かったか。でも別にキャプテンがいたからって遠慮することねェだろ。その情報は早くに教えておいた方がいいんだし」
だいたい遠慮するような関係でもない。でもべポは「ああ、いや、いつものアレを頼んでたっぽいからさぁ」と苦笑した。
"いつものアレ"――。
それを訊いて、おれもシャチも「なるほど」と、すぐに納得した。きっとローさんから輸血をしてもらってるんだろう。
それはが健康に過ごす為の命綱であり、時には寂しさを埋めるもの。おれ達はそう理解している。
「一時は良くなってたのになあ、貧血症状も」
「は好き嫌いも多いし、偏った食事をしがちだから、すぐぶり返すんだって、キャプテンが困ってたな、そう言えば」
「まあ…放っておくと甘いもんしか食ってねェしな」
おれ達三人は互いに顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。それに栄養が偏るのは、何もだけじゃない。こまめに島へ上陸できる時はいいが、長いこと航海してる最中は、主に魚などが主食になりがちだ。
"偉大なる航路"は常識など通じない海だから、それこそ、食料の調達にも苦労させられることが多々ある。
「昔もの食事を考えるのは大変だったよなぁ…。おれ達もガキだったし、できることは限られてた」
「ああ。が初めて貧血で倒れた時は苦労したもんな」
「薬はキャプテンが働いてた病院から手に入れることは出来たけど、それこそ食材を調達するのはおれ達の役目だったからなー」
べポは懐かしいといった様子で笑う。あの頃は、おれ達も必死に生きようともがいていた。
一年の半分以上が真っ白な雪景色に覆われた、活気のある町、"プレジャータウン"。その町の外れにある、ヴォルフというじいさんの家に、おれ達は長いこと世話になっていた。
おれとシャチの故郷、スワロー島。
のちに"ハートの海賊団"を結成した五人が、出会った場所だ。
*-*-*-*-
十三年前――スワロー島。
サク、サク、と歩くたびに、雪を踏みしめる音だけが響く。さっきから吹きつけてくる冷風は、徐々に強まっていて、もうすぐ吹雪になるのを肌で感じた。
(クソ…遠出しすぎたな…)
曇天からチラチラと舞い散る粉雪を見上げ、おれは内心舌打ちをしながら、背中に背負う鹿を抱え直した。
大人の鹿は疲れた体にこたえる重さだ。
"そろそろ肉が切れそうじゃ。ロー、お前、山で何か狩ってこい"
世話になっているヴォルフのじいさんに頼まれ、どうにか鹿を見つけて仕留めることは出来たものの。いつもの狩場じゃなく、スワロー島の外れにある人気のない小島へ来たのは、さすがに危険だったかもしれない。ここは無人島という話だったから、人がいないなら野生の動物が豊富にとれると思ったし、実際その通りではあったものの、獲物を運んで帰る手間を考えていなかった。
「は~疲れた…少し休むか…」
重たい獲物を背負っての移動は、寒さも相まっておれの体力を奪っていく。少し休憩しないと、この先もたない気がした。
背負ってた鹿を地面に下ろし、近くの大木に背を預けて座り込む。吐く息が白いもやとなって、どんよりした空に舞い上がった。
「チッ…町の明かりは見えんのに遠い…」
海を少し超えたところに見える本島では、徐々に家々の明かりが灯され、これから夜が来るのを現わすかのようだ。予定では夕方頃に帰るはずが、すっかり暗くなってしまったのは誤算としか言いようがない。
一瞬、鹿を放り出し、ひとりで戻ろうかとも考えたが、そうなれば明日からの食糧に困ってしまう。
(おれやべポに加えて、シャチとペンギンも置いてもらうことになったし…みんなの食いもんくらい、おれが調達しねェとな…)
先日、じいさんと交わした約束を思い出し、おれは溜息を吐いた。
"えーい、ガキども!しょうがないから、貴様ら四人まとめて、この家に置いてやる!だが勘違いするなよ!ワシはお前たちの保護者になる気はない!家族や友達なんてのもまっぴらごめんじゃ!あくまでワシらの関係はギブ&テイク!ワシの手伝いだけじゃなく、きちんと労働をしてもらう!それでいいな?!"
当然、それでいいと応えた手前、大事な食糧を置いて帰るなど論外だった。
仕方ない、とおれは疲れた体を動かし、再び鹿を背負った。
ヴォルフのじいさんには、大きな借りがある――。
数か月前、コラさんの死を背中に感じながら、おれはツラいのを堪えて必死でドフラミンゴたちから逃げ延びた。けど、よく知らない土地。だからコラさんと約束した"となり町"へ移動して、誰かに救いを求めようとした。でも珀鉛病のおれは、また迫害されるのを恐れて、ひとり海の近くの洞窟へ。あの時は心身ともに疲れ切っていた記憶しかない。
そこで初めて<オペオペの実>の能力を使い、自分の手術をして、忌々しい珀鉛病を治したものの、疲れがピークに達し、おれは意識を失った。
そんなおれを見つけて自分の家に連れ帰ってくれたのが、ヴォルフのじいさんだ。目を覚ました時は本当に驚いた。
あの時はそれまで受けていた迫害のせいで、野良猫以上に警戒心が強かった。今思えば、随分と失礼な言動をしたように思う。なのに、じいさんはおれに食事を与え、着替えと風呂まで世話してくれた。
じいさんは言葉も態度も厳しいが、久しぶりに人の温かみを思い出させてくれた人だ。
結局、そのまま居つくことになり、その後にシャチとペンギンからいじめられてたべポを助けて、行く当てのなかったあいつも、じいさんの家に身を寄せることになった。更にはそのシャチとペンギンを、今度はおれが救う羽目になり、ふたりも同様、今はじいさんの世話になっている。
「クソガキが増えやがった」と文句は言われたものの、きちんと労働すると言う約束で、全員が置いてもらえることになったのはありがたい。
憎たらしいとこも多々あるが、ヴォルフのじいさんは間違いなく、おれ達の恩人だ。
(だからこそ…これは持って帰んねェとな…)
少しずつ雪風が強まる中、おれは黙々と足を動かした。まだ十三のガキとはいえ、病が治った今は、体力に自信がある。一歩一歩、雪を踏みしめながら、山を下り、小舟を止めた場所に続く道へと向かう。
――その時だった。
吹きつける風に乗って、かすかに人の声らしきものが聞こえた気がした。
「何だ…?気のせいか?」
一瞬、足を止めて耳を澄ましてみたものの、風の音がうるさくて、よく聞こえない。数秒ほど立ち止まって辺りを見渡してみても、真っ白い景色が広がっているだけで、人の気配は全く感じられなかった。こんな場所に人がいるはずもないか。そもそも無人島だ。そう思い直して、おれは再び歩き出す。きっと風が木々の間を吹き抜ける音が、人の声に聞こえただけ。そう思った。
もう一度、今度はハッキリとした声を聞くまでは。
「ま…って…」
「…っ?」
すぐ近く、おれの右手にある森の方から聞こえた小さな声。聞き間違いじゃない。誰かいる――!。
その可能性に気づいた時、おれは担いでいた鹿を放り投げ、木々の生える森の中へと入って行った。道なき場所へ足を踏み入れるたび、膝まで雪に埋まるせいで、かなり歩きにくい。
「クソ…どこだ?」
今では吹雪と化した真っ白な景色の中、人の姿は見えない。
「おい!誰かいるか?!」
もしかしたら、おれと同じようにここへ狩りをしに来た人が遭難して、声を出す元気すらないのかもしれないと、今度はこっちから大声を出す。でも返事はなく、ヒューヒューと風の音が鳴るだけだった。
「まさか幻聴じゃねェよな…」
だんだんと自分の耳が信用できなくなってきた、まさにその時だった。すぐ近くで「…あ、の…」と言う小さな声を、おれの耳が拾った。すぐに視線を向ければ、前方に何かが見える。それは――。
「…人の…手…?」
雪の積もった場所から、細い手だけが覗いてるのを見つけたおれは、一瞬だけ呆気にとられた。でもすぐ我に返ると、足で雪を蹴るようにして、手が出てる方へ歩いて行く。よくよく見れば、そこには小柄な人物がうつ伏せで倒れているようだった。その体にも雪が降り積もり、それが原因で見えにくくなってたんだろう。
おれは身を屈めると、うつ伏せで倒れている人物を抱えるように起こしてから、ゆっくりと仰向けにした。
「おい!大丈夫か?しっかりしろ!」
髪や顔に積もった雪を手で払い、大きな声で呼びかける。倒れていたのは小柄な少女だった。
おれと同年代か、少し下。それくらいの年齢に見える。雪に埋まっていたせいか、陽が沈んだ薄暗い状況でも、ハッキリ分かるほどに顔が青白い。
こんな少女が、何故こんな雪深い無人島に?と不思議に思ったが、まずは脈を図って生きてることを確認した。
手は死人のように冷たいが、どうにか息はしてるようだ。
「おい、しっかりしろ!」
こんな吹雪の中、意識を飛ばされては凍死してしまう。軽く頬を叩いて、おれは声をかけ続けた。すると、少女の瞼がぴくりと動き、次第にゆっくりと開き始めた。
「おい、大丈夫か?」
「ん…だ…れ…?夢…?」
「夢じゃねえ。しっかりしろ」
寒さで意識が朦朧とするのか、少女は何度か瞼を閉じかけた。そのたび頬を叩いて声をかける。数回繰り返したら、やっと目の焦点が合ってきた。
「…あ…君…さっきの…」
「あ?」
少女はおれを見上げながら「こんな場所に人が歩いてたから夢かと思った…」と小さな声で言った。聞けば、おれを見かけて、町へ行く方法を聞こうと声をかけたらしい。だが体力も限界にきて倒れたと教えてくれた。
よくよく見れば、白のワンピースに薄いコートを羽織ってるだけの恰好。よく凍死しなかったもんだ、と驚いた。こんな格好で何故この島にいたのかは気になったが、今はとにかく雪から出ることが先決。早くしないとおれまで危ない。
「おい、立てるか?」
「ん…足に力はいんない…」
「…マジか」
上体を起こしてやったものの、立つことが出来ない少女を見て、深い溜息が漏れた。仕方ないとばかりに、少女へ背中を向ける。
「ほら、おぶってやるから掴まれ」
「え…で、でも…」
「早くしろ。死にてェのかよ」
グズグズしている暇はない。さっき以上に暴風雪となったこの場所は、すでに辺り一帯が白一色。俗にいう"白い闇"状態だ。このままじゃ方向すら分からなくなって遭難してしまう。
普段通い慣れてる山ならばまだしも、ここはおれも初めて足を踏み入れた。なるべく下へ続く道に出た方がいい。
なのに少女は未だ、おれに掴まるのを躊躇っているように見えた。
「おい、何してんだっ!早くしろって」
「ダ、ダメ…」
「あぁ?何がだよっ!町へ帰りてェんだろ?」
頑なに首を振る少女にイラつき、つい、いつもの調子で怒鳴りつける。彼女は怯えたように、ビクリと肩を揺らした。
それでも――少女は「触れない…」と、震える声で言った。
「移っちゃうから…」
「……は?」
驚いて思わず振り返ると、少女はワンピースの胸元のボタンを一つ一つ外し始めた。この吹雪の中、何をする気だと慌てたおれの視界に、少女のか細い肩が飛び込んでくる。
あまりに白く、滑らかな肌の艶やかさに言葉を失い、極寒だというのに、カッと頬が熱くなった。だが、それも一瞬だった。
「…お前、それ…」
鎖骨から胸元にかけて、少女の肌を蝕んでいたのは、思い出すのもおぞましいもの。
数か月前には、おれの肌にも刻まれていた"珀鉛病"の証だった。