暖かい…そう感じた時、ゆっくりと覚醒していく感覚の中、わたしはハッと目を開けた。
最初に視界が捉えたのは、見慣れた船内の天井。そこで自分の部屋だと気づいた。
「いけない…寝ちゃったんだ…」
上体を起こし、隣に眠るローを見た時、苦笑が漏れた。輸血をしてもらったまでは記憶にあるが、きっとその間に寝てしまったんだろう。わたしの腕には小さなテープが貼られ、輸血セットは見当たらないから、ローが片付けてくれたに違いない。その後にローも寝落ちしたってところか。
「ローも最近、寝不足だったもんね…」
静かな寝息を立てるローを見下ろしながら、そっと被ったままの帽子を脱がす。少し開いた口元が子供みたいで、ちょっとだけ笑えた。
「寝てる時は昔と変わらないんだよなー。ローってば」
普段は口うるさいし、ひとたび戦闘になれば、冷酷無比なところもあるけど、ローの本質は昔から変わらない。船長という立場になってから、常にひとりで難しいことを考えるようになった今も、こうして一緒にいる時は、出会った頃のまま。わたしの優しい兄貴分だ。
「…ごめんね。いつも我がまま言って」
ローの前髪をそっと指で梳きながら、面と向かって言えない言葉を呟く。
「ほんとは…いつも感謝してるんだよ、これでも」
わたしが何かをやらかすたび、ローが何だかんだと助けてくれるから、つい甘えてしまうのは昔からだ。
どうしようもない孤独を抱えてたわたしを、我がままで泣き虫なわたしを、ローが見捨てずにいてくれるから。
あの雪の夜の出逢いは、わたしにとっての奇跡だった。
今でもハッキリ思い出せる。
病に蝕まれた体を、ローは躊躇うことなく、強く抱きしめてくれたこと――。
あの呪いのような病を生み出したのは、当時の国王だった父と、それを黙認していた世界政府だった。
わたしの故郷だったフレバンスは、かつて"白い町"と呼ばれ、とても裕福な国だった。地層から採取される珀鉛という鉛の影響で、国全体が真っ白だったあの場所は、人々の憧れだったと聞いている。
その国の王だった父は、珀鉛を一大産業としていた。だけど、珀鉛に含まれる毒は人体に多大な悪影響を及ぼすことは、百年も前に分かっていたという。父と世界政府はその事実を知りながら、国民にそれを隠していた。珀鉛産業は莫大な富が手に入るからだ。
だけど、それは国を亡ぼす最低の行為だった。
やがて珀鉛の影響で、国民たちが次々に病を発症。肌や髪が徐々に白くなる病気を、人々は"珀鉛病"と呼び、心の底から恐れた。噂が噂を呼び、それが伝染病だと勘違いした近隣諸国から、フレバンスは隔離され、それに抗う民は手に手に武器を取り、戦争を起こしたようだ。それがキッカケとなり、大義名分のもと、わたしの国は他国から攻撃され、遂には滅亡した――らしい。
これは後々、同じフレバンス出身のローから聞かされた情報だ。
わたしは何も知らなかった。自分の親の、愚かで身勝手な行為を、何一つ。
当時五歳だったわたしは、両親と共に隔離された国から連れ出され、世界政府の保護下で安全な国へと運ばれた。幼いながら、何故国を出るのか不思議に思ったことは覚えてる。
王である父が、国民を見捨てて逃げ出したなんて、あの頃のわたしは何も知らなかった。
――あの国にいたら珀鉛病になってしまうのよ。肌が白くなる恐ろしい病気なの。かかったら最後、死を待つだけ。も病気になるのは嫌でしょう?私は嫌よ。愛しい娘が病気になるなんて…。
どうして国をでるの?と訊いたわたしに、母は険しい顔でそう言った。その病気の話をする時、嫌悪感を露わにする母は、子供心にとても怖かったのを覚えてる。
だから、言えなかった。
国を出て一年半後、自分の肌が少しずつ、変色してきたことを。
たった五年しか住んでいなかったけど、わたしが生まれた頃には国を汚染する珀鉛が大量に蔓延してたようだ。幼い体は知らないうちに毒されていたらしい。
"病気になったと言ったら…お母さまに嫌われる…"
珀鉛病にかかった人へ向ける、母の侮蔑的な視線が、自分に向けられると思うだけで、体が震えた。
だから誰にも言わずに、ひたすら白くなっていく肌を隠して、わたしは成長した。
幸い、顏に症状は現れず、胸元から下を隠すだけで良かった。それでも家族に移してしまうかもしれない恐怖で、何度も話そうと思った。でも、言えなかった。
優しい父と母から、嫌われたくない一心で。
でも捻じ曲げられた運命は隠し通せない。
八歳になった頃、遂にわたしの秘密は家族の知るところとなった。白い肌が、胸より上まで侵食してきたからだ。
――ひぃぃ!そ、その色……あなた、珀鉛病なの?!
お母さまは卒倒するかと思うほどに狼狽し、わたしから逃げ出した。お父さまは声を荒げ、わたしを罵倒してたけど、何を言われたのかは所々覚えていない。
優しかった両親の豹変ぶりにショックを受け、思考を遮断してしまったからだ。
そこからは地獄だった。地下室の部屋に監禁され、食事は一日に一度。それも運んで来るのは母ではなく、家に仕えていた執事のみ。その執事からも汚らしい物を見るような目で見られ、心から蔑まれた。
――は本当に天使のように可愛い子ね。
――お前は私の自慢の娘だよ。
そう言いながら優しく抱きしめてもらった記憶が、粉々に砕けていく。それまでの裕福な生活から一変した瞬間だった。
太陽の光も届かない殺風景な空間で、長い時間をひとりで過ごす。それでもわたしは、いつか両親が迎えに来るのを待っていた。
きっと優秀な医者を探してくれてるはず――。
そう信じて疑わなかった。
でもそれが愚かな望みだったことを、わたしは思い知らされた。
監禁生活が始まって、一カ月は過ぎた頃だったと思う。
ある日、いつものように目覚めた時、わたしは暗く狭い場所にいた。
「…お母…さま…?」
ぼんやりとした重たい頭で、ここはどこだと考える。頭に浮かんだのは恋しい母の顔。だけど、目に映るのはひたすらに闇ばかり。自分がどこにいるかも分からなくて、じわりと涙が浮かんだ。
「ゴホッ…ゴホッ…さ、寒い…」
少し頭がスッキリしてきた頃、今いる場所が酷く冷えることに気づいた。長いこと一日一食、それも少しのパンとスープのみという環境だったわたしの体はやせ細り、寒さから守れるほどの脂肪なんてすでになかった。着ている服も薄手のワンピース一枚。底冷えのする場所にひとりなんだと思うと、急に怖くなった。
ゆっくりと見渡してみれば、壁だと思っていたものは木板のようなもの。
八歳のわたしが立ってギリギリの大きさというのも違和感があった。今までいた地下室の部屋でもなく、もっと狭い物置などに入れられたのだと思った。
だけど目が慣れてきた時に、ここは物置でも何でもなく、ただの木箱の中なんだと理解した。
「…お母さまは…わたしを…捨てたんだ…」
その事実を知って涙がぼろぼろと零れ落ちた。蘇るのは、最後に会った母の記憶。
――まあ…!そんなに広がって…何て汚らわしいんでしょう!
――こんなになるまで隠してたとは、なんて娘だ!家族に移ったらどうする!
あんなに優しかった父と母が、汚いものを見るような目で、わたしを見た。病気の娘を心配することもなく、自分たちに移らないかだけを心配して狼狽する姿は、少なからずわたしを傷つけ、心のどこかに穴をあけた。
――、あなたを隔離するわ。
ハンカチで口を覆いながら、侮蔑的な視線を向ける女は、わたしの知る優しい母じゃなかった。それでも、父と母を信じて、迎えに来るのを待っていたのに、その小さな願いも踏みにじられた。
父と母は、治らぬ病気となったわたしを持て余したんだろう。それか、地下室であろうと、珀鉛病の娘をそばに置いておくのは嫌だったのかもしれない。
だから――強行手段に出た。
これはわたしの想像だけど、あの夜の食事に睡眠薬を入れられた気がする。食事を終えた後、急激に睡魔に襲われたのは、薄っすら記憶にあった。きっと眠ったわたしを木箱に入れて、人の住まない無人島へと置き去りにしたのだ。必要のなくなったペットを、捨てるかのように。
わたしの命はその時に失ったのも同然だった。
――お母さま!ここから出して!
壁を叩き、哀願しても、誰も応えてくれない。どこに捨てられたのかも分からない。でもわたしは何時間でも母を呼び続けた。
ここがすでに家ではないと気づいていても、叫ばずにはいられなかったから。
「何で…応えてくれないの…?」
声も枯れ、力尽きても、涙だけは溢れてくる。八歳の子供には、あまりにツラい現実がそこにあった。寒さで手はかじかみ、芯まで冷えた体は徐々に衰弱していく。もともと病気で弱っているのだから当然だ。
誰にも見つけてもらえなければ、わたしの短い人生は、あの狭い箱の中で終わるはずだった。
――誰か…いるのか?
膝を抱えて泣いていたわたしの耳に、確かに聞こえた声。それは壁の向こうから聞こえた。
思わず息を呑んで顔を上げると、目の前にあった板の壁が、メキメキと音を立てて剥がされていく。
真っ暗だった空間を、少しずつ青白い月明かりが照らしていき、壁の剥がれた先に、誰かが立っているのが見えた。それは――。
「にゃに…?人間の…子供?!」
「……っ?」
真っ白のふわふわな体毛に覆われた、大きな――人語を話す猫だった。