目の前には、人間の大人よりも大きな体格の白猫が、月明かりに照らされながら立っていた。
「拙者は雪猫族のミャウゾーと申すもの。怪しいものではないゆえ、安心いたせ」
そう名乗ったふわふわの体毛を持つ白猫は、箱の中で震えて動けなくなっていたわたしを慌てたように抱えると、優しい表情でそう言った。最初は言葉を話す大きな猫に驚いたけど、久しぶりに感じる自分以外の体温と、柔らかい毛に包まれて安心したのかもしれない。
わたしの意識はそこで途切れてしまった。
次に目を覚ました時、わたしはミャウゾーと名乗った白猫の家のベッドに寝かされていて。体には何枚もの布団が掛けられてたから驚いた。
「…重い…」
意識が戻った時、まず感じたのはそれだった。だけど冷え切っていたはずの体が暖かくて、そのために掛けてくれたものなんだと気づく。
ベッドの脇には、意識を失う前に出会った大きな白猫が付き添ってくれていた。
夢じゃなかったんだ…と、少しだけ驚いたけど、ホっとしたのも事実。この白猫が誰であろうと、そばにいてくれたことが嬉しかった。
ミャウゾーはわたしが目を覚ましたのを見ると、すぐに暖かいスープを出してくれた。見た目が茶色く濁った、嗅いだことのない変わった匂いのするスープだ。
「飲め。体が温まる。ああ…心配することはないにゃ。人間が普段から口にするものしか入っておらぬゆえ」
変わった言葉遣いだけど、まるで人間みたいに話すミャウゾーを不思議に思いつつも、何故か怖いとは思わなくて。わたしは素直にスープの入った器を手に取った。
わたしが知ってるようなスープ皿ではなく、深さのある丸みを帯びた器だ。
「い、いただきます…」
長いこと飲まず食わずだったせいか、渡されたスプーンを持つ手が震える。溢さないよう、ゆっくりと運んでスープに口を付けた。
「…美味しい…」
「そうか。良かったでござる」
温かいスープが喉を通って、胸の辺りがほんのりと熱くなる感覚に涙が溢れた。塩気の多いしっかりとした味が物凄く美味しく感じて、わたしは夢中でそれを飲み干した。中には初めて口にした野菜のような物と、ぷるぷるしたプリンみたいな食材が入っていて、それが絶妙に美味しかった。
「こんなスープ初めて…」
「これは味噌汁という。具材はネギという野菜と、大豆から作る豆腐という食べ物で、消化に良いから胃にも優しい。ワノ国で拙者の主さまに教わったものでござる」
「みそ…しる…わの…国?それも初めて聞く名前…」
初めて耳にする名前の数々に首を傾げると、ミャウゾーは楽しげに笑うだけだった。
本音を言えばもっと飲みたかったけど、わたしがしばらく何も食べてなかったことに気づいてたようで、「いきなり食すると体がびっくりするゆえ、また明日にしよう」とミャウゾーに止められてしまった。
それからまた少し眠り、次の日の朝に目覚めた時は、ミャウゾーがお腹に優しい朝食を作ってくれて、それを食べて、また休むといったことを繰り返す。それも全て、わたしの弱った体を思ってのことだったようだ。
何故あんな箱に閉じ込められていたのかということも、ミャウゾーは一切、聞いてはこなかった。
そして、数日が過ぎた頃。だいぶ元気になってきたわたしに、ミャウゾーが自分のことを少しずつ語ってくれるようになった。
わたしが捨てられたこの島は、スワロー島と呼ばれる本島のすぐ裏手にある小島で、もともとは無人島だったらしい。そこへミャウゾーの祖父が移り住み、雪猫族の村を作ったという。
「拙者の祖父はモコモ公国の出身でミンク族だったにゃ。ゆえに拙者にもその血が入ってるでござる」
「…モコモ公国…のミンク族…?」
「うぬ。本来その中に雪猫族も入るのだが、放浪癖のあった祖父が国を飛び出し、ここへ辿り着いて自分の村を作ったのだにゃ。ゆえにここで生まれた拙者はこの島しか知らぬ」
「そうなんだ…。じゃあワノ国って?主さまがいるって話してたでしょ?」
わたしが素朴な疑問を口にすると、それまで雄弁だったミャウゾーの丸みを帯びた顔が、苦虫を潰したような表情になった。ちょっと怖い。
「この界隈には珍獣ハンターと呼ばれる人間がおる。拙者はコネコの時、不覚にもそやつらに掴まってしまったのでござる…。そして売られた先がワノ国だったということにゃ」
「え…ミャウゾーは他国へ売られたの?」
「そうだにゃ…。必死に逃げまわったが、最後は麻酔弾を打たれてにゃ…思い出しても忌々しい」
言葉通り、ミャウゾーは怒った様子で口元の鋭い牙を光らせ、そのモコモコした手からも長い爪をにょきっと伸ばしてみせた。
「あの時はコネコだったゆえ、後れを取ったが…今、あやつらを見つけたら、この爪の餌食にしてくれるにゃ」
よほど悔しかったに違いない。その怒りは子供のわたしでも理解できた。勝手に身柄を拘束されて、知らない国へ売られたなんて、きっと凄く怖かっただろう。捨てられたのと売られたの違いだけで、わたしも似たようなものだから、余計に共感してしまった。
でも、だからこそ不思議に思った。そんな怖くて悲しい体験をしたのなら、自分に酷いことをした人間を憎むのが当たり前だ。なのに――。
「じゃあ…どうしてわたしを助けてくれたの…?」
「ん?どうして、とは…?」
わたしの問いかけに、ミャウゾーは意図を測りかねたように小首を傾げた。
「だって…ミャウゾーに酷いことした人間なんて嫌いなはずでしょ…?わたしも…人間だもん」
なのにミャウゾーは箱の中で震えてたわたしを、迷うことなく抱き上げてくれた。憎むべき人間の子供なんて、放置したっておかしくないはずだ。
ミャウゾーは黙ってわたしを見ていたけど、不意に豪快な笑い声をあげた。
「にゃんにゃんにゃ!おかしなことを言うでござるな。憎むべきは拙者を捕獲した人間ども。おぬしに罪はないにゃ!」
「え…でも…」
「それに拙者が売られた先の主はクソみたいな人間だったが、そこから逃げ出した拙者を拾って育ててくれた主さまは、立派なお人だったにゃ。忍者という職についていたでござる」
「…え、にんじゃ…って?」
「忍者とは大名や領主に召し抱えられ、諜報活動や破壊活動、暗殺などを行っていた者の総称だにゃ。不思議な術を使う。主さまは女性ゆえ、くのいちとも呼ばれておった。拙者を随分と可愛がってくれて、もう二度と捕まらないよう、戦い方も教えてくれたお人でござる。だいぶ前に戦で亡くなってしまったが、拙者は今も主さまには感謝してるでござる」
「そうなんだ…」
難しくてよく分からない話もあったけど、ミャウゾーが変わった言葉を話すのは、ワノ国の人の言葉が色々混ざって移ってしまったかららしい。
「ゆえに人間とひとくくりにして憎むことはないにゃ。それに種族問わず、可愛い女子は好きでござる。まあ…可愛げのないオスはいけ好かんが」
「……」
にやりと悪い笑みを浮かべるミャウゾーに呆気にとられた。どこまでが冗談なのかも分からない。でも、そのふざけた答えを聞いて、わたしも釣られて笑ってしまった。
「やっと笑ってくれたにゃ。思った通り、おぬしには笑顔がよう似合う」
そう言われてハッとした。笑ったのは確かに久しぶりだ。もう、こんな風に笑うこともないと思っていた。
「それで…おぬしの名は?」
「え…?あ…」
そこで初めて、自分が名前さえ言ってなかったのを思い出す。
「…わたしの名前は…」
「…そうか。良い名だにゃ」
ミャウゾーは、優しい声でそう言ってくれた。でも、この名前を付けてくれた母には、もう二度と呼んではもらえない。わたしは捨てられたんだから――。
一瞬、現実を思い出して泣きそうになる。
でもその時、ミャウゾーがわたしの頭へ、そっと大きな手を乗せた。
「さて、…そろそろ話してくれるか?おぬしが何故、あんなものに閉じ込められ、この島へやって来たのかを」
優しい眼差しが、わたしに向けられる。きっとミャウゾーはわたしが回復するのを待っててくれたんだろう。
真実を知られるのは怖いけど、わたしは恩人である彼に、全てを話さないといけない。例え、わたしの病気を知ったミャウゾーに、どう思われようとも。
暖かさを滲ませる大きな目を見て、そう心に決めた。
*-*-*-*-
全てを話し終えた後、わたしはすぐに後悔することになった。
「!おぬしの親とやらはどこにおる!拙者がそやつらを斬り捨ててくれるわ!」
わたしの境遇を知ったミャウゾーは怒り狂い、大きな刀を持ち出して、それをぶんぶんと振り回し始めた。当事者のわたしでも呆気にとられるほど、ミャウゾーの怒りは大きかったようだ。
「あ、あの…ミャウゾーが怒ることないよ…わたしもいけなかったの…。病気のこと、ずっと隠し続けてたから…」
「そんなことはありゃせん!病気になったのは何もおぬしのせいではにゃいでござる!それを親のくせに見捨てるとは、断じて許せん!打ち首獄門の刑でも足りぬわ!」
「…う、うちくび…?」
怖いことを言いながらも、ミャウゾーは怒りを鎮める為か、大きく深呼吸をした後、不意にわたしの前にどっかり座って、大きな手で頭を撫でてくれた。
「よく…耐えたにゃ、…。こんな衰弱した体で…よくぞ生きててくれた…」
「…ミャウゾー…?」
彼の大きな猫目に、これまた大粒の涙が浮かんだのを見て、わたしまで涙が溢れてきた。父も母も、わたしが死んでも構わないと思ったからこそ、あんな木箱へ入れて無人島と思っていた場所に捨てたはず。
言ってみれば、わたしは親に殺されそうになったのだ。なのに、何の関係もないミャウゾーが、わたしの為に泣いてくれている。その事実が嬉しくて、胸の奥に空いた穴が、暖かいもので満たされていく。
「さえ良ければ、ここに好きなだけおれば良い。なに、病気のことは気にするにゃ。拙者が優秀な医者を探してやるゆえ。村のみんなも同じ気持ちだからにゃーにゃんにゃんにゃ!」
ミャウゾーの明るい笑い声で、また自然と笑みが零れた。ひとりじゃない時間がこんなにも幸せだなんて、今まで知らなかったから。
それ以来――わたしはミャウゾーと一緒に暮らし始めた。
「ほれ。いい魚が取れたで、ちゃんに食わせてやれにゃ」
「こっちは熊の肉じゃ。栄養つくでにゃ~」
「私は変わったフルーツ拾ったから持ってきたにゃ」
ミャウゾー以外の雪猫たちも、みんなが凄く優しい。弱ったわたしを元気づけようと、毎日のように色んな食材を分けてくれる。
この村には五十匹ほどの雪猫族が住んでいるけど、世間的には無人島扱いになってるようだ。小島といっても、かなり広く、山々に囲まれた雪深い場所だから、人間もほとんど近づかないみたいだった。
「ほら、。今夜は熊鍋にゃ。これを食べれば栄養失調なんかすぐに治るでござる。デザートはこの変なフルーツにゃ」
「うん…ありがとう」
ミャウゾーが食事の管理をしてくれたおかげで、体重は少しずつ戻っていった。でも、病に侵された体は確実に弱っていて。二カ月ほど経つと、わたしはベッドにいることの方が多くなっていた。時々全身に痛みが出ることも増えてきたからだ。
母に監禁されていた間、まともな食事を摂っていなかったせいで、栄養失調になっていたのも珀鉛病の進行を速める原因だった。
(どうしよう…こんなに広がってきてる…)
ある日、鏡に映る自分の体を見てショックを受けた。胸元までだった白い肌が、今は鎖骨の上あたりまで侵食していたからだ。
この村の雪猫族は珀鉛病の恐ろしさを知らない。だから必ず治ると信じてくれている。
だから――言えなかった。この病にかかった者は、確実に死ぬんだってことを。
(ミャウゾーは人間の病気は雪猫族に移らないだろうから気にするなって言ってくれたけど…そんな確証はどこにもない…)
自分の肌が、どんどんと白く変色していくさまに、わたしは怖くなった。医者でさえ、さじを投げた病。もし、みんなに移ってしまったら、わたしは絶対に耐えられない。
どこの誰とも分からないわたしを助けて、あんなにも優しくしてくれたミャウゾーに、村のみんなに、この恐ろしい病気を移してしまったら、わたしはわたしを許せないだろう。
父と母に「珀鉛病は他人に移る」と言われ続けてきたわたしは、この病気が伝染病だと信じて疑わなかった。
「やっぱり…わたしなんかが誰かと一緒にいるなんてダメだよね…」
近い将来、わたしは死ぬ。それが変わらない運命なら、ひとりで死ななきゃダメだ。
命の恩人を、少しの危険にもさらしたくないから――。
ミャウゾーと暮らし始めて半年も経った頃、わたしはミャウゾーに手紙を書いた。
助けてくれたお礼と、珀鉛病の本当の恐ろしさを伝える為に。
そしてミャウゾーが眠りについた深夜。わたしは雪猫族の村を抜け出した。
(この島から出ないと…少しでも遠くに…!)
走れる体力なんて殆どなかった。だけど、恩人たちに少しでも移る可能性があるなら、遠く離れた場所に行く。そんな強い思いだけで、どうにか足を動かして、この島を出る方法を考えた。
遠くには、本島と呼ばれるスワロー島の明かりがかすかに見えて、意味もなくあそこへ行こうと決めた。
人が多ければ、隠れる場所もあるかもしれない。なるべく人目を避けられる山でいい。そこでひっそり死んでいく。
「ごめんね…ミャウゾー…」
雪がちらつき始めた夜空を見上げると、白い息がふわりと舞う。寒さはもう気にならなかった。あの箱に、ひとりで閉じ込められてた時とは違う。僅かな時間でも、ミャウゾーや、村のみんなの暖かさに触れた記憶さえあれば、ひとりで死ぬことも怖くはなかった。
それから一晩かけて、島の反対側まで移動した。でも、再び夜になる頃、わたしの体力が限界に達した。
「あ…っ」
降り積もった雪に足を取られ、その場に倒れ込む。起き上がろうにも柔らかい雪に埋まるだけで、立つことも出来ない。
「ここで死んじゃダメ…きっとミャウゾーは探しに来てくれるから…」
冷たい雪をかき分け、どうにか上体を起こす。その時、遠くに見える本島に、ポツポツと小さな明かりが灯っていくのが見えた。
(あそこまで行かなきゃ…。でも…どうやって海を渡れば…)
距離としてはそれほど遠くはない。でも泳いでいけるほど近くもなかった。そもそも、この寒さの中、海を泳いでいけるほど、わたしは泳ぎが得意じゃない。
(そうだ…いっそ海に身を投げれば…)
ふと、そんな思いが胸を過ぎる。それなら病気でじわじわ死んでいくよりも現実的な気がした。
でも、その考えはすぐに打ち消した。この辺の海は雪猫族たちの釣り場なのを思い出したからだ。万が一、自分の遺体を彼らが見つけることになったら、きっと傷つけてしまう。
(やっぱり本島に行こう…)
そう思い直した時だった。誰もいないはずの場所に、人が歩いているのに気づいた。
「え…人間…?」
少し離れたところを、誰かが歩いている。でも大人じゃない。わたしと同じくらいの男の子に見えた。背中に大きな動物を背負いながら、雪道のようなところを歩いて行く。
(あの子に聞けば本島への行き方を教えてもらえるかも…)
その人物が誰かということはどうでも良かった。この小島から離れる手段を教えてもらえるなら。
「待って…」
男の子はわたしに気づかず、どんどんと先を歩いて行ってしまう。雪の中に座り込んでいたわたしは、呼び止めようと声を出した。でも一日近く、食事もしてなかったせいか、思ったよりも声が出なかった。
(モタモタしてたら行っちゃう…)
気持ちばかり焦るのに、体は思ったように動いてくれず、立ち上がろうとした時、再び転んでしまった。もう動く体力すら、残ってなかった。
「待って…行かない…で…」
もう一度、出来る限り声を出してみたけど、男の子に届いたのかすら分からない。雪に埋もれながら、必死に手を伸ばすことしか出来なかった。
もうダメか…。そう諦めた時だった。
「おい!誰かいるか?!」
人の声がすぐ近くで聞こえて、わたしは朦朧としてきた意識の中、最後の力を振り絞って「あの…」と声を出した。
ここです。そう言ったつもりだったけど、声になってたかは分からない。わたしは眠るように、目を閉じた。
「――いっ!おい…!しっかりしろ!」
「……っ」
何かの刺激を感じて、ふと意識が戻った時、目の前には見知らぬ男の子の顏。最初は夢かと思ったけど、頬を叩かれる痛みで、はっきり意識を取り戻した。
「あ…君…さっきの…」
「あ?」
そこで気づいた。わたしを抱えるようにしながら顔を覗き込んでる人物が、さっき見かけた男の子だということを。
白い毛皮の帽子をかぶった、少し目つきの悪い男の子――。
それが、わたしとローの出逢いだった。