神様はどこにいる―4

Act.9



大雪にみまわれた離島で出会った少女。彼女の肌には、前のおれと同じ病の痕跡。悪夢のような記憶が、一瞬で蘇ってしまった。

「わたし…病気なの…聞いたことあるでしょ?珀鉛病って…。だから…近寄らないで欲しい…移したくない」

暴風雪で極寒の中、自ら肌を晒し、涙目で哀願する少女を見て、おれは言葉を失った。
この忌々しい病に苦しめられてる人間が、まだこの世にいたこと。未だに伝染病だと思い込んでいること。そして、おれに移したくないという理由で、絶対に知られたくないであろう自分の病気の名前を明かしたこと。
その全てに驚いた。まさか、ここに来て珀鉛病の人間と出会うなど思いもしなかったから。

「…き、君を呼び止めたのは…ただあの島に行く方法を…知りたくて…」

少女は震える指でスワロー島を指した。そして服のボタンを留めようと、真っ赤にかじかんだ手を胸元へ戻す。でも震えて上手く留められないんだろう。当たり前だ。大量に着込んでるおれでさえ、この寒さで手足の感覚がない。なのに彼女は薄いコートを一枚羽織ってるだけ。そんな恰好でこの雪の中を歩いてくるなんて自殺行為だ。

「あ…」

もう少しでボタンを留められそうだった指が、上手く動かなかったらしい。再び彼女の胸元が開いてしまった。それを見た時、おれは咄嗟にはめていた手袋を外し、彼女の手を取った。

「あっダメ…!」

おれが直に触れたことで移ることを心配したんだろう。少女は慌てたように手を引っ込めようとした。でも構わず、自分の体温で彼女の冷え切った小さな手を温める。擦り合わせたり、息をかけると、やっと人並みくらいの体温が戻ってきた。最後に外した手袋もはめてやると、少女は唖然としたまま、おれを見つめていた。

「あ、あの…っ」

おれが更に彼女の胸元へ手を伸ばすと、彼女はハッとした顔で再び距離を取ろうとする。それを阻止するように腕を引き戻した。

「ジっとしてろ。おれが留めてやる」

いつまでも肌を晒したままじゃ体が冷え切ってしまう。すでに手遅れかもしれないが、何もしないよりはマシだ。小さなボタンを一つ二つと留めていき、ついでにコートのボタンもしっかり留めると、おれは黙って彼女の細い体を抱きしめた。ガキのおれの腕にもすっぽりと納まってしまうほど彼女は痩せていて。それを直に感じた時、どうしようもなく目頭が熱くなったのは、彼女に昔の自分を重ねてしまったからだ。
いきなり抱きしめられたことで、彼女は動揺したようだった。華奢な肩がビクリと跳ねて、途端に腕の中で暴れ出す。でも構わず腕の力を強めた。少しでも、冷えた体を温めてやりたい一心で。

「ダ、ダメだってば…移っちゃ――」
「珀鉛病は他人に移らない」
「え…?」

暴れる彼女を抱きしめながら、耳元でハッキリ事実を告げる。誰にどう言われたのかは知らないが、この少女が珀鉛病を伝染病だと信じ切っているのなら、本当のことを伝えなければならない。

「なに…言ってるの…?」

彼女は戸惑った様子で呟いた。でも、それも当然だと思う。今日まで信じていたものを、会ったばかりのおれに否定されたくらいじゃ納得しないだろう。おれは医者の息子として、また今後も医者を続ける者として、きちんと彼女に伝えなければいけないと思った。

「事実を言ってる。珀鉛病は伝染病じゃない。ただの中毒だ。長い間、珀鉛を吸って、それが肝臓に少しずつ溜まっていく。その溜まった珀鉛で肝臓が限界になった時、発症する中毒症状なんだ。細菌でもウイルスでもない。だから他人に移ることは絶対にないんだ」

もう一度、今度は分かりやすく説明したつもりだった。でも彼女は「…にも…知らないくせに…」と呟き、おれのことを突き飛ばした。どこにそんな力が残ってたんだと思うほどに、強い力で。予期せぬ行動だった。おれの体が後ろへ傾き、雪の中に尻もちをつく。彼女とおれの間に出来た隙間を、強風で煽られた雪が駆け抜けていった。

「おい――」
「何も…知らないくせに簡単にそんなこと言わないで…っ!」

彼女は泣いていた。寒さで真っ白になった唇を噛みしめ、身を震わせている。今の情報を処理しきれず、少し混乱してるように見えた。

「事実を教えただけだ…」
「嘘!あんたの言ってることがもし…もし本当なら…じゃあ…何でっ…?」

彼女の瞳が大きく揺らいで、大粒の涙が血の気のない頬を伝っていく。

「…何で…っ…お母さまもお父さまも、わたしのこと捨てたの?!何でよ…!」

それは彼女の悲痛な叫び。その深い嘆きが、彼女に起きた悲劇を教えてくれた。何の知識もない親が、珀鉛病にかかった娘を捨てる。それくらいの想像をするのは容易い。親にこそ捨てられはしなかったおれも、他人からは同じような迫害を受け続けてきた。

――うわぁ、珀鉛病だと?!今すぐ出ていけ!緊急事態だ!警報を鳴らせ!
――ひぃぃ!移る!死ぬ~!

おれの恩人、コラさんと色々な病院を回っていた頃、何度そんな心ない言葉をぶつけられたかしれない。最後にはこう言われた。"フレバンスの生き残り?!何故、政府は全員駆除しなかったんだ!"と。
同じ人間のはずなのに、おれはあいつらからすれば"人"じゃなかったんだろう。その辺の害虫と同じ。見つければ駆除する対象でしかなかった。コラさんが傍にいてくれなければ、きっとおれは人を恨み、絶望の中で死んでいったはずだ。
だからこそ、彼女の痛みが苦しいほどに分かってしまう。共感できてしまう。
この子は――おれだ。
心にも体にも傷を作り、自分の死に場所を探していた頃のおれと、同じ目をしてる。
救わなければ――と、そう思った。

「…おれも…珀鉛病だった」
「…な…っ」

少女の怒りと悲しみを含んだ表情が、一瞬で驚きへと変わる。こうなれば、真実をきちんと話さないといけない。

「数か月前まで…おれも死にかけてたんだ。今のお前みたいに」
「う…嘘…!」
「嘘じゃねえ」
「嘘だ…!だって…君は…ピンピンしてる…この病気は絶対に治らないんだから…っ」

彼女の言ってることは本当だ。珀鉛病は一度かかったら、まず治せない。肝臓に溜まった珀鉛を取り除く技術は、今の医療じゃ不可能だ。だけど、一つだけ治す方法がある。そう伝えると、彼女の瞳が僅かに揺れ動いた。それは心のどこかで、まだ助かりたいという気持ちがある証拠だ。これなら今度こそ話を聞いてもらえるかもしれない。そう思った。

「…ひとつ…だけ…ある?」
「ああ。おれが、その力を持ってる」
「……嘘…でしょ?わたしのこと…からかって――」
「嘘じゃない。おれは<オペオペの実>という悪魔の実を食べた。その能力でしか珀鉛病は治せない」
「…悪魔の…実…?それって…」

彼女はかろうじて悪魔の実のことを知っていたようだ。噂で聞いたレベルでも、知識があるなら教えやすい。簡単に能力のことを説明し、見た方が早いと思ったおれは、その場で"ROOM"を発動させた。次に雪を掬い、ボール状に固めると、最後はそれを放り投げ、入れ替え対象に道へ置いたままの鹿を選ぶ。この能力じたい病気を治すものとは関係ないが、まずは人知を超えた力があることを彼女に示す必要があった。

「――"シャンブルズ"」
「…えっ」

能力発動と共に放り投げた雪玉が消え、そこへ鹿の死骸が現れる。すると彼女の表情が驚愕へと変化し、しばし呆気にとられた様子で鹿の死骸を見つめている。でも不意におれを見ると、初めて安堵の表情を浮かべてくれた。

「…魔法…?」

ついさっきまで、涙で溢れていた瞳を輝かせ、女の子らしいことを呟く姿に、おれもつい笑ってしまった。素直で可愛いところは、何となく妹を思い出させる。

「分かったか?おれはこの力を使って自分を手術したんだ。だから…お前の体も治してやれる」
「……治す…?わたしを…?」

信じられないといった顔で、彼女はおれを見つめた。その瞳に、さっきまで刻まれていた絶望は見えない。本人に生きる意志があるなら、必ず救ってみせる。

「…助かりてーんだろ?なら、おれに手術させてくれ」
「しゅ…手術って…?」
「大丈夫だ。絶対に痛いことはしないし、お前が寝てる間に一瞬で終わる」

怖がらせないよう、そう伝えると、彼女は心配そうに眉尻を下げた。やっと年相応の顔を見せてくれた気がする。

「……ほんとに…助けてくれるの…?」

再び彼女の瞳が揺らぎ、大粒の涙が溢れ出す。おれが「もちろんだ」と応えると、彼女は色んなことにホっとしたんだろう。まるで生まれたての赤ん坊のようにワンワンと泣き出した。ギョっとはしたものの、その姿がおれの妹と重なって、もう一度少女の体を抱きしめる。彼女はもう、暴れることはなかった。

「…落ち着いたか?」
「ん…ぐす…」

暴風雪の中、彼女が泣き止むのを待っていたが、そろそろ戻らないと危険だ。おれも体が冷え切って、泣いてもねえのに鼻水が垂れそうになる。ひとまず彼女の背中をポンポンと宥めるように叩き、ゆっくりと体を放した。くっついてたおかげで少しは互いの体温も戻った気がする。これなら小舟の場所まで歩いていけそうだ。

「まずはこの島から出なきゃいけねえ。歩けるか?」
「…う、うん…。でも…どこに…」
「お前を治療するにもここじゃ無理だから、おれが世話になってるやつの家にお前を連れていく」

そう説明すると、彼女は一瞬だけ怯えたような顔をした。きっと知らない人間に会うのが怖いんだろう。そこは大丈夫だと簡単に説明しておく。まあヴォルフのじいさんは「またガキを連れて来たのか!」と怒りそうだが、彼女の体のことを話せば文句も最小限で済むだろう。それにこの少女には家族がいる。病気が治れば家に帰れるかもしれない。まあ、自分を捨てた親の元へ帰りたがるかは――謎だけどな。

「チッ…また雪が酷くなってきたな…。立てるか?」
「う…うん…今は痛みもないから…多分」
「じゃあ、まずはこの雪から出ねえとな…」

今いるのは小道から奥へ入った道なき場所。雪が深く、かなり歩きにくい。とりあえず鹿を担ぎ直すと、空いた手で彼女の手を握った。おれの手袋は少し大きいのか、軽く引くだけで脱げそうになるから少しだけ強く握りしめる。

「行くぞ」
「う、うん…ありがとう」

少女は弱った足を動かし、おれの歩いた場所を踏みながらついてくる。体力は限界に近かったが、聞けば彼女は丸一日雪山を彷徨っていたらしい。おれよりも彼女の方が更に限界のはず。そう思えば疲れた体も何とか動かすことができた。
どうやらおれは、守るべき存在がいるといつも以上の力が湧くようだ。幼い頃から守ってきた妹の存在があったからかもしれない。同時に、死んでいった家族のことが頭に浮かんだ。白い街と呼ばれ、誰からも愛された国"フレバンス"。そこで起きた悲劇と惨劇。最後の夜を思い出すと、今でも胸が痛む。あの時、おれが妹をひとり残して外へ行かなければ。何度そう思ったかしれない。珀鉛病に端を発した戦争は、おれから家族も友達も奪っていった。世間では忘れ去られた事件でも、おれは一生忘れることはないし、金の為に国民の命を犠牲にした政府や王族たちを、一生許すことはないだろう。

そこで、ふと気になった。おれの知る限り、珀鉛病はフレバンスの国民にしか発症してないはずだと。この少女はどこで珀鉛病にかかったんだろう。こんなに悪化するほど、彼女はどこにいたんだ?
フレバンスはあの戦争で滅亡し、生き残ったのはおれくらいだと思っていた。実際、フレバンス出身の人間には会ったこともないし、その後の詳細が書かれた新聞にも、生き残りはいないと載っていたはずだ。国を捨てて逃げ出した、王族以外には――。

「なあ」
「…え?」

気になったことを尋ねるのに声をかけると、彼女はふとおれを見上げた。その白い頬はリンゴのように真っ赤になっている。それを見てると、つい吹き出してしまった。

「な…何で笑うの…?」
「いや…お前のホッペが真っ赤だし」
「…だ、だって寒いんだもん…そういう君も鼻が赤いよ」
「……寒いからな」

くすくすと笑われ、つい目が細くなる。でも笑うだけの元気が出たようでホっとした。

「そういや名前、まだ聞いてなかったな。おれはロー。トラファルガー・ローだ」
「ロー…カッコいい名前だね」
「そうか?お前の名前は?何ていうんだ?」
「あ、わたしは――」

彼女が口を開きかけた、その刹那――。背後から身震いするような覇気を感じた。咄嗟に振り向いたおれの視界に、宙を舞う大きな影が飛び込んでくる。

を放せ!!」
「…は…っ?!」

ホワイトアウトで視界の悪い状況、一瞬、見間違えたのかと思ったほどに驚いた。横殴りの雪の中から、大きな大きな何かが、これまたデカい刀を振り下ろしてきたからだ。
ドフラミンゴの元を離れて以来、久しく戦闘の類から遠ざかってはいたものの、あそこで徹底的に鍛えられた勘は鈍っていなかったらしい。鹿を放って少女を抱え、寸でのところで後方へ飛びのく。その瞬間、ドゴンという音と共に、今までおれ達のいた場所に大きな穴が開いていた。だが驚いたのはそこではなく。ゆらりと動く大きな影と、暗がりに光る二つの目。おれ達を見つめる、その存在――。

「…な…何だ、こいつ…」

これまで、おれが出会ったどの大人達よりも大きい体。それは真っ白な体毛に覆われた、巨大な猫のように見えた。