03-淡く滲んで夜に溶けゆく 
「名前はえっと…そう、お嬢さんだ」
甲板を掃除していた手を休めると、エースは人懐っこそうな笑顔を見せた。それはケンカ腰だったが一瞬怯むほどの、あまりに無防備な笑顔。呆気にとられた後、かすかに熱くなった頬に妙な苛立ちを募らせ、はエースを睨みつけた。
「だ、だったら何?いいから私の質問に――」
「初めまして。おれはポートガス・D・エース。今後ともよろしく頼むよ」
「……は?」
ぺこりと一礼する男に、開いた口が塞がらない。
こっちは敵意むき出しで話しかけてるのに、こいつときたら呑気に自己紹介――?
内心呆気にとられつつ、今度はニコニコと微笑みながら、手を差し出してくるエースを見上げて、は徐に目を細めた。
「よろしくって何を――」
「いやあ、やーっと話しかけてくれた!」
「……っ?ちょ、」
なかなか握手に応じなかったからなのか、エースは勝手にの両手を握ると、安堵の表情を浮かべて言った。ごく自然の動作で文句を言う暇もない。同時に、知らない男に手を握られたことで、更にの顏が赤く染まった。物心がついた時から屈強な男達に囲まれて育ってはいるものの、身内でもない男に触れられたことは一度もない。人生初の衝撃だった。
軽くパニックになったが、慌てたように手を振り払うと、エースは特に気にした様子もなく「ああ、悪い」と笑いながら言葉を続けた。
「お嬢さんがおれのこと避けてるように見えたから、てっきり嫌われてるのかと――」
「あ…当たり前でしょ!毎晩あれだけ暴れられて、こっちはいい迷惑だったんだからっ」
勝手に手を握り、なおかつ呑気に笑っているエースの態度にカチンときて思わず怒鳴る。しかし怒鳴られた当の本人は怒るでもなく。逆にハッとした表情を見せた後、慌てたように頭を下げて「それは悪かった!!」と素直に謝罪してきた。
見事な90度体勢での謝罪。あまりに潔いエースの対応を見て、は更にギョっとした。こんな男は会ったことがない。
の知ってる男たち=海賊は簡単に…特に女には頭を下げたりしない。娘を猫可愛がりしている白ひげですら、に怒られても頭を下げたことは一度もなかった。
この男はいったい何のつもりだ。この風変わりな新入りの存在に、は大いに戸惑った。
一方、エースはそんなの心情など気づかず、勝手に反省し始めた。
「そうだよな…散々騒がしちまったし、自分のオヤジさんの命を狙ってたおれを嫌うのも分かるよ!でも、もう二度と――」
「勘違いしないで。私は別にあの人のことで怒ってるんじゃない。だいたい嫌いなのはあんただけじゃないもの」
「え…?」
「私は海賊そのものが嫌いなの。あの人のことも父親なんて思ってないから」
筋違いな謝罪を受けて、そこはきっぱりと否定する。今、言ったことは本心だ。そして、こう言えば相手は必ずお決まりの台詞を言ってくる。その時はいつものように言い返す――はずだった。
エースは一瞬、ポカンとした顔を見せたものの、の予想に反してすぐに「そっか」と言って笑みを浮かべた。
「なら仕方ねェな」
「…は…?!」
「まあでも…おれはもう二度とオヤジに挑む真似はしねェし…これからは"白ひげ海賊団"の一員としてやってくつもりだから、お嬢さんに迷惑はかけねェよ」
意外なほど優しい眼差しをに向けたエースは、人差し指で帽子のつばを上げながら、二カっと笑う。また何とも潔い決意表明を述べられ、は呆気にとられてしまった。同時に、今の言葉は先ほど自分が質問した答えでもあったんだと気づく。
確かにエースの真っすぐな瞳には、もう"敵意"はない。今のが彼の本心なのだと嫌でも分かる。
ただ、もう一つ小さな疑問がわいて、は目の前の男を見つめた。
「あんたがあの人のことを認めたっていうのは分かった。でも…私が何故あの人を嫌いなのか…聞かないの?」
「え?」
「あの人を嫌いって言うと、必ずみんなが同じことを言う…。"何で偉大な海賊の娘なのに海賊が嫌いなんだ"とか、"どうして父親のことをそんな風に言うんだ"って責めるような目つきでね…。特によく知りもしない傘下の人に言われると腹が立つ」
この海賊団の船員たちや、傘下の海賊たちは全員"白ひげ船長"のことを尊奉し、敬愛し、絶大な信頼を寄せている。だからこそ、娘のと船長の仲が悪いことを過剰に心配してくるのだ。
「マルコやサッチはそんなこと言わないけど、でも顔を合わせるたび、あの人の話をするし迷惑」
「ああ…1番隊の隊長と、4番隊の隊長さんか…」
エースは思い出したように笑うと、再び甲板の掃除を始めた。ここへ来る前は一海賊団の船長だったが、白ひげ海賊団としては新入りだから、と自ら下っ端の仕事を志願したらしい。
最初の頃は強気で、すぐに攻撃を仕掛けてくる野蛮な男に見えたのに、今は至って普通で――どちらかと言えば礼儀正しくすらある――何だか拍子抜けしてしまう。
「ま、あの人らの心配も分かるけど…。おれはお嬢さんの気持ちもすげェ分かるっつーか…」
「…分かる…?」
何となく、掃除をするエースの後をついて歩いていたは、ふと足を止めた。あんたに何が分かるんだと言うつもりだった。でも、言えなかった。
エースの表情がそれまでと一変し、明るい色を宿していた瞳はどこか寂しげで、深淵の如く暗い影を落としていたからだ。怒っているのとも少し違う気がして、喉まで出かかった言葉を飲み込むと、代わりにエースが静かに口を開いた。
「いや…おれも親父のこと親として認めてねェし…恩も感じてねェからさ」
「…え…?」
「ろくでもねえ血を受け継いでることじたい、おれには迷惑なんだよ」
誰に言うでもなく、まるで独り言のようにエースが呟く。その横顔がとても寂しげに見えて、はどう応えればいいのか分からない。
でもそれは一瞬のことだった。不意にエースが、の方へ笑顔を向ける。
「ま!お嬢さんにはお嬢さんなりの理由があって海賊が嫌いなんだろうし、それを他人がどうこう言う権利はねェよ」
そう言って笑いながら、エースは船縁に手をついて夜の海を眺めた。先ほどの暗い影はもう見られない。その瞳は強い意志を持って、真っすぐ前を見据えている。彼はこの先、その瞳に何を映していきたいんだろう。力強いその手に、何を掴み取りたいんだろう。
これまで興味のなかった世界。なのに少しだけ、そんなことが気になって、もエースの隣に立つと目の前の海を見つめた。
「ねえ――」
「あの――」
隣を見上げて声をかけた瞬間。エースも同時に口を開き、を見る。
そのタイミングに驚き、しばし互いに見つめ合う。
「な、何?」
「いや…お嬢さんから…」
「いーわよ、あんたから言って。っていうか、その"お嬢さん"ってのもやめてよ。歳は同じだって聞いたし、でいいから」
気になっていたことを口にしてからすぐに視線を反らす。何となく照れくさい上に、エースの瞳は真っすぐすぎて、少しだけ怖いと感じた。心の奥まで見透かされてしまいそうだと思う。
そんな心情を知ってか知らずか、エースは苦笑いを浮かべながら「言いなれない言葉だからおれも困ってたんだ」と肩をすくめるだけだった。
「んじゃあ…は…」
「え?」
早速名前で呼ばれたことに驚き、かつドキリと心臓が音を立てる。思わず見上げると、エースもを見下ろしていた。
「何で海賊が嫌いなんだ?」
「…何よ。やっぱり文句でもあるっての?」
「いや…これはおれの個人的な興味っつーか…。何で嫌いなのかなって素朴な疑問っつーか…」
「………」
「あ、いや…言いたくねえっつーんならいーんだけどよ」
エースは頭をかきつつ、困ったように笑う。これでも少しは人の気持ちを気遣える人間らしい。最初に見た時とは全く違う印象を、は抱いていた。
「別に…あんなこと言ったけど…そんなに大した理由じゃないから」
「…ん…?」
どういう意味だ?と言いたげに、エースが首を傾げた。何となく話さないといけない空気が流れて、は迷った。他人には、まして海賊の男に話したところで理解などされないと思ったからだ。それに同じ歳の男に今の心情を吐露したところで、子供っぽいと思われるのも癪な気がする。
でも――この人はきっと笑わない。
何となくだが、そんな気がした。
「私はただ…普通の暮らしに憧れてるだけ」
思い切って口を開くと、エースは一瞬だけキョトンとしたが、が感じたように笑うことはなかった。
「…普通って…?」
「ちゃんと…陸に足をつけて生きてみたい。自分の家が欲しいっていうのかな…」
「自分の家、か…」
「うん。でもみんなはこの船が自分の家だって言うし、仲間のことを家族だと思ってる。でも私は…物心ついた時にはすでに船の上で、ついでに戦いばかりを見せられてきた」
生まれてからずっと海賊の娘で、周りには屈強な男達ばかり。それが普通だと思ってたけど、そうじゃなかった。
「小さい頃ね…破損した船の修理をするのに、ある島の小さな町にしばらく滞在したことがあったの。そこには沢山の家や可愛いお店があって、みんな楽しそうに家族で暮らしてた…」
お世辞にも裕福とは言えない生活。でも家族みんな笑顔で幸せそうだった。その町にしばらく身を置いた時、初めて自分の環境がおかしいのだと気づいた。
を産む際、母親は亡くなり、男手だけで育てられたせいか、普通の女の子が出来るような些細なことも、は出来ない。
「お世話になってた家の子が、わたしと大して歳は変わらないのに家族の食事を作ったり、洗濯をしたり、お裁縫をしたりしてるのを見て驚いた。凄いねって言ったら、その子は"こんなの当たり前だよ"って言うの。私はあの子が簡単そうにしてたことを何ひとつ出来ないのに」
その後も色んな島へ立ち寄るたび、似たような光景を見ては自分との違いを見せつけられてきた。そして想像してしまった。もし、自分の家族が普通の人だったら、と。
「ない物ねだりだっていうのは分かってる。でも…もし父親が海賊じゃなくて、普通の人だったら…あんな風に平和に幸せに暮らせたのかなあって…。そう考えだしたら今の環境が凄く嫌になっちゃって…」
「………」
「私を生んですぐ死んじゃったお母さんのこともよく知らないけど…。あの人は色んな女性を傍においてたみたいだから、その中のひとりだったんだとしたら、きっとツラかったんじゃないかなって…。時々色んなことに腹が立ってくるの」
だから海賊も、船長である父親も、"嫌い"になった――。
少女の消え入りそうな愁嘆が、波の音に飲み込まれていく。今まで黙って話を聞いていたエースは静かにを見た。
その瞳は彼女を責めるのでも、呆れるのでもなく。ただ優しいものだった。
「…そっか」
エースは僅かに目を伏せて息を吐くと、再び真っ暗な海を見つめた。
「そればっかりは……どうしようもねェよなぁ…」
「……え?」
「誰も…親を選んで生まれてくることなんか出来ねェってことだ…」
「そりゃ…そうだけど…」
分かっていても文句の一つも言いたくなるのよ――。
そんなの呟きに、エースは苦笑いをこぼした。
「ま、現実、受け入れて生きてくしかないんじゃねェか?」
「………」
「この船は確かにの家だし、クルーは家族同然、だろ」
「…だからそれは――」
「それに……今だってこんなにもお前のこと心配してるんだぜ?」
「……え?」
驚いて顔を上げるに、エースはかすかに笑みを浮かべながら、自分の背後を親指で示した。
その方向へ顔を向けてみれば、甲板の柱、階段の陰、船室のドアの隙間、マストの上…ありとあらゆる場所に、船員達の姿が見え隠れしていて。みんなは隠れているつもりなのかもしれないが、どこかしらが隠れきれずに体の一部が見えてしまっている。全く気づいていなかったは呆気にとられた顔だ。
逆にエースはだいぶ前から気付いていたのか、小さく笑いを噛み殺した。
「…みーんな、お前が大事だから…新入り…それも船長を狙ってたおれと一緒にいるのが心配なんだろ」
「だ、だからって覗き見しなくても……」
「いーんじゃねェの。みんな、お前の家族だ。兄貴だと思って甘えりゃいーさ。ま、多少人数は多いけどな」
「…兄貴…?」
「あァ…おれもこれからはその一員だ。白ひげ船長をオヤジと決めた以上…とは兄妹も同然。だから全力で守るんでよろしくな」
エースは明るい笑顔を見せて、の頭をぐりぐりと撫でた。何となく子供扱いされた気がしたものの、理解を示してくれた相手に怒る気もせず。逆に胸の奥がじわりと熱くなる。
だが、その時だった――。今まで隠れていた船員達が一斉に姿を現す。
「お〜い!エースぅ!ちゃんに気軽に触んじゃねーよい!」
「…マルコ…っ」
突如、頭上から降ってきた声に驚き、が顔を上げる。するとマストの上から一人の男が飛び降りてきた。1番隊隊長のマルコだ。
「そうそう!ちゃんはおれ達クルーの可愛い可愛いお姫様なんだから気易く二人きりで話して欲しくないねえ」
「そーゆーことだ!」
「ビスタ…サッチまで…っ」
次々に現れる隊長達に唖然としながらも、の顔が赤く染まった。今までこの環境のことを愚痴っていたのに、みんなは何も言わずに笑顔を向けてくれている。
全員に頭を小突かれているエースも楽しそうに笑っていて、すっかりこの海賊団に打ち解けてるようだ。
「グラララ…まあ、いいじゃねえか。若いもん同士」
「……っ(出た!バカ親父!)」
「おう、オヤジもいたのか!」
「オヤジ〜!すでに酔ってんじゃねえかっ!」
あの巨体でどこに隠れていたのか。酒を飲みながらフラフラと歩いてきた白ひげは、娘の前に立つとニヤリと笑みを浮かべた。
「お前が嫌でも…おれ達は家族だ。陸に足なんかついてなくていいじゃねえか…。この甲板の上で家族団らんが出来りゃあな」
「……な…」
「その通りだぜ、オヤジィィ!つーか一人で飲んでねえで、おれ達にも酒くれよぃ!」
「今夜は宴会だァ!おら、エース!お前の歓迎会してやるよっ」
船長の登場でクルー全員が盛り上がる。気付けば甲板上は宴会の場になっていた。豪華な料理に大量の酒がふるまわれ、みんなは楽しそうに食べて、飲んで、歌っている。
がいつもの光景を呆れて眺めていると、エースがビールジョッキを片手に歩いてきた。
「ほらよ」
「…ありがと」
ジョッキを受け取り、階段へ座ると、エースも隣に座ってビールを美味しそうに飲みほしている。
「ぷはーっ!やっぱ仲間たちと飲む酒はうめェな」
豪快に酒を飲みながらも、エースはふとに視線を向け、帽子のつばを指で押し上げた。
「そう言えば…」
「え?」
「さっきもおれに何か言おうとしてただろ」
「え?ああ…」
言われてみればそうだ。先にエースの質問を聞いたことですっかり忘れていた。
「何だったのかなと思ってよ」
「別に大したことじゃ…」
「いーから言えよ。気になるだろ」
エースが言いながらの顔を覗きこんでくる。その真っすぐな瞳にドキリとして、慌てて目を反らす。同時に先ほど聞こうとしてた内容を思い出した。
「だ、だからアレよ…」
「アレ…?」
「あんたは何で……海賊になったのかなって…」
同じ歳なのに、自分の生まれた場所を捨て、海へと飛び出した。エースは何故、誰からも忌み嫌われる"海賊"なんて人生を選んだんだろう。
それは先ほど話してて、ふと疑問に思ったことだった。最初の印象よりも、随分と海賊らしくないと感じたからかもしれない。
エースはの問いに少しだけ目を細めたものの、すぐに星空を仰いで微笑んだ。
「おれはただ…自由が欲しかった」
「……自由…?」
「やっぱ男に生まれたからには、"くい"を残さず…思いのままに、誰よりも自由に生きてみてえ…。そう思ったから――」
エースはその場に寝転ぶと、空に向かって真っすぐ自分の手を伸ばす。
「だから――おれはここにいる。"高み"を目指すために」
誇らしげに笑うエースの眼差しは、誰よりも純粋で強い光を宿していた。彼の言う"自由"が本当にあるのなら、見てみたいと思う。
生まれた時から当たり前のようにあったこの時間も、今は少しだけ楽しめる気がして。
そう感じた自分も、やはり海賊の血が流れてるのかもしれない――。
ふと、そう思った。

