魚心あれば水心
「もっと仕事らしい仕事を下さい」
バンっとテーブルに手をつくと、そこに足を乗せて雑誌を見ていた蘭さんが驚いたように顔を上げ、隣にいる竜胆さんもギョっとしたようにわたしを見上げる。
「仕事って…ちゃんとには仕事やってるだろ」
「だから今の仕事の他にって意味です」
「例えば?」
「そ、それはだから――」
「却下」
まだ何も言ってないのに却下され、思わずむっとしてしまった。
「何で却下なんですかっ。わたし、ちゃんと言われた仕事はしてるし、そりゃー雑用しかしてないけど――」
「いや別にが真面目にやってるのは分かってるって」
「だいたい、ちゃんとした仕事だろ。風俗嬢の管理だって」
そこで竜胆さんも参戦してきた。確かにそうなんだけど、あまりに楽な仕事過ぎて、もはや仕事と思えない。
「う…で、でも…そんなの彼女達の悩みを聞いたり、体の管理したりするだけの仕事じゃないですか。わたしじゃなくても――」
「いや、女のオマエにしか出来ねーだろ。なあ?竜胆」
「そうそう。それに彼女達、に感謝してたぞー?いっつも差し入れしてくれて相談も嫌な顔一つしないで聞いてくれるから気持ちが楽になるって」
「そ……うですか?なら良かったですけど…」
蘭さんの言う通り、女だからこそ分かることがあるし、デリケートなお仕事をしてくれてる彼女達のストレスをなるべく減らしたいと思ってる。
だいたいフェミニストな灰谷兄弟はいいとして、もう一人、経営に関わっている春ちゃんがストレス与えてるんだから、そのフォローをしてるような形だ。ただ不満なのは――。
「でもわたしも一応幹部って立場なのに、仕事がそれだけってのも何となく気が引けるといいますか…」
風俗嬢の話を聞いたりするのは嫌いじゃない。そりゃ中にはどんよりするような悩みを聞かされることもあるけど、大抵は女同士のお喋りに花が咲く。
だから時々こんな楽な仕事でいいのかなと思うことも、あったりなかったり。
「でも仕事増やしたらデートする暇なくなるじゃん」
「そうだぞ、。それでもいいのかよ」
「……デート…したい」
そう言われれば、ここ最近は全然デートをしていない。そんな思いが素直に口から出てしまった。
途端に蘭さんが「は?」と目を細めて、竜胆さんは頬を引きつかせながら「はい、却下」と言ってきた。何なんだ、いったい。横暴上司すぎる。
「何が却下なんですか。この前も言いましたけど、わたしは彼氏が欲しいんです」
「だからそれは却下だって」
「却下を却下します」
またしても不毛な言い合いになりそうだ。そもそも風俗嬢の彼女達と話してて、「ちゃんは彼氏いないの?」と訊かれたから、「最近モテなくて」なんて話になって、それでだんだん、そう言えば最後に恋をしたのはいつだっけ?から始まり、次に、疲れた時どっぷり甘えられる彼氏が欲しいなあ、なんて思いながら事務所に帰って来たのだ。まあ却下されたけどプライベートのことまで二人に口を出されたくはない。しばし睨み合いが続く。
「だいたい、さっきはデートする暇なくなるからって仕事量を増やすな的なこと言いましたよね」
「ああ、だからデートはオレとな」
「はい?」
「兄貴ズルくね?オレもとデートするわ」
「あ?オレが先にデートに誘ったろ、今」
「いや、先とか後とか関係なくね」
「あの、どっちともデートはしませんから」
また始まったと項垂れつつ、きっぱりお断りする。この二人とデートなんてした日には速攻でベッドに連れ込まれそうだ。そして一回やられてポイ捨てされるのがオチ。
そもそも反社と言えど、ここは職場なんだし、ポイ捨てされた相手とこの先も仕事するとか考えたくない。無理。
「まーた照れなくていいって」
「ほーんと、は素直じゃねえよな、いつも」
「凄く素直ですけど…だいたい蘭さも竜胆さんもデート相手に困ってないですよね」
いつだったか、梵天所有のバーラウンジで灰谷兄弟が女の子をはべらかしてたのを見たことがある。想像通り、色気むんむんのお姉さまたちばかりだったし、二人の好みがあれでよーく分かった。わたしとはまるで正反対。なのに、気づけばいちいちこうしてからかってくるようになったのはいつ頃からだったっけ。
いや、その前に本題から激しく話題がズレている。今はわたしの仕事のことについて抗議しに来たんだった。
「とにかくデートの話は置いといて、ちゃんとした仕事下さい」
「あーじゃあオレらの秘書は?」
「いいねえ」
「イヤです」
「即答かよ」
「だって振り回される気しかしないし、もっとこう…梵天らしい裏の仕事を下さい」
思い切って言ってみると、蘭さんも竜胆さんも複雑そうな顔でわたしを見つめた。入った当初は敵対組織にスパイみたいなことをさせてきたりしたのに、ある日を境に平和な仕事しか任されなくなった。もしかして、まだあの時の失敗を根に持ってるのかな。
「それは…却下」
「どうしてですか。もしかして――」
「そりゃあ…オマエを危ない目に合わせたくないからだよ」
らしくないくらい優しい眼差しをわたしに向けながら蘭さんが言った。そして竜胆さんまでもが「んなことも分かんねーの」と笑ってる。こういう時、急に甘い顔をしてくるには裏があるんじゃないかと疑ってしまう。
「でもじゃあ…わたし、幹部に必要ないんじゃ」
タダ飯くらいとか給料泥棒なんて言葉が頭に浮かんだ。3千万、春ちゃんに返さないといけないのに。
「は必要だろ」
ふと蘭さんがわたしを見て微笑んだ。その笑みが悪魔の微笑みに見える。何を企んでいるんだ、灰谷蘭。
「オマエはオレ達の癒しだから」
「いるだけでいーんじゃねーの」
「………」
ちょっとだけ、二人の言葉が嬉しいなんて思ってしまった。ちょろすぎるぞ、!
でも―――これが本音だったら、少しはわたしの気持ちも動いたんだけど。

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