昔も今も
思えば万次郎がを女の子と意識したのは、彼女が佐野家に来て一年ほど経った頃。
だいぶ賑やかな生活にも慣れてきたはこの日、佐野家の長男、真一郎に長い髪を編んでもらっていた。それを面白くないとばかりにジト目で眺めていた万次郎は、彼女から笑顔を向けられている真一郎が羨ましくて仕方がなかった。
普段はあまり笑ってくれないからこそ、の笑顔は貴重なんだと、この頃にはすでに気づいていたのかもしれない。
「ほら、出来た!」
「うわ、真ちゃん凄い!綺麗に三つ編みになってる」
「まあ、エマのリボン借りて教えてもらいながら練習したからな」
「ありがとう、真ちゃん」
この時のは本当に嬉しそうな笑顔で真一郎にお礼を言っていた。
あんなのオレでも出来そうだけど、と万次郎は思ったが、実際問題そこまでの器用さはなく。
オレが結んでやる、と、なかなか言い出せなかったのは苦い思い出だ。
しかし万次郎の不幸はそれだけじゃなかった。
その後、万次郎と一緒に何かのテレビドラマを見ていた時、画面に映る花嫁を見ながら「わたし、真ちゃんのお嫁さんになりたいな」とが呟いたのを、万次郎は信じられない思いで聞いていた。あとから思えば、小学生女子のささやかで可愛らしい憧れを口にしただけ。
だが万次郎にとっては、が自分の兄のお嫁さんになるというリアルな現実に思えてしまった。
「は?何でシンイチロー?」
「だって真ちゃん、髪を結ぶの上手だし、わたしに優しいし、可愛がってくれるもん」
「んなの……オレだってそーじゃん」
「万次郎も優しいけど、たまに意地悪だもん。わたしの三つ編みすぐ引っ張るし」
「……ぐ」
本当のことなので何も言い返せない。ただ三つ編みをつい引っ張ってしまうのは真一郎が結んだと思うからで、もっと言えば自覚のない嫉妬のようなものだった。
エマと一緒にやってきた少し寂しげな女の子。万次郎にとってエマは妹だが、は最初から女の子という存在で特別に思っていた。
佐野家に来た当時、こっそり泣いてる姿を見かけて以来、この子はオレが守ってやらなきゃと強く思ったのもある。それは子供心に、彼女を迎えに来る親はいないことを分かっていたからかもしれない。
その特別な女の子が自分を選ばず、兄のお嫁さんになりたいと言い出した時、万次郎は大いに焦った。
「もう三つ編みは引っ張らない」
「……ほんと?」
「うん。だからシンイチローじゃなくてオレのお嫁さんになれよ」
「……万次郎のお嫁さん?」
「優しくするし、可愛がってやるから」
小学五年の万次郎、一世一代のプロポーズ。その思いが伝わったのか、はしばし考える素振りをしてから「分かった。わたし、万次郎のお嫁さんになる」と頷いてくれた。
この時の嬉しさといったら、世界中の幸せを手に掴んだような気分だった。
だがしかし。女心と秋の空、というように、小学生女子の気持ちが移ろい易いという現実を、万次郎は知らなかった。
小学校六年にもなると、エマと二人でアイドルに夢中になり、「わたし、翼くんのお嫁さんになりたい」と言い出す始末。その一カ月後には人気俳優、その半年後には人気ロックバンドのボーカル、といった具合に、のお嫁さん願望は留まることを知らない。
そのたび万次郎は相手の男への殺意でいっぱいになる。
ついでに「それ浮気だから」とへ詰め寄り、エマに「マイキー重っ」とドン引きされた。
「マンジロー。重たい男は嫌われんぞー」
あげく真一郎からもからかわれた。
「あ?万年フラれ男に言われたくねえ」
「ぐ……っ人の傷口に塩塗りやがって……だけだよ、オレの恋人は」
「ああ!オレのを抱っこすんじゃねえよっ」
真一郎が隣にいたをひょいと抱き上げ、自分の膝へ座らせると、万次郎は怒って真一郎に掴みかかる。だがだけは冷静に――。
「リーゼントの男はいや。男はサラサラヘアーじゃないと」(※小6)
と言い放ち、勝手に膝から下りると、茶の間から出て行ってしまった。
一年前まで「真ちゃんのお嫁さんになりたい」と言っていた彼女はもういない。
この夜、真一郎は一人、枕を濡らしたらしい。
とりあえず元祖とも言えるライバルが減り、万次郎だけは満足だった。
そして中学に上がった頃、もう一度へプロポーズをした万次郎は、今度こそ真剣に受け止めてくれた彼女と正式に付き合うことになった。
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夜の渋谷、それも駅近の高架下はいつも以上に騒がしかった。黒い特攻服の男達が集まり、その男達には中高生と見られる女の子達が群がっている。
「あーまた捕まってるー。最近あんなのばっか」
自分の兄や、副総長であるドラケンが女の子に囲まれているのを見た佐野エマは、深い深い溜息を吐く。
ちょっと遅れただけでこれなんだから――。
早く行かないと悪い虫がついては困るとばかりに、チームのメンバーがいる方へと歩き出す。そんなエマを見かけた女子高生らしき女二人が「ねえねえ」と声をかけてきた。見た感じ優等生には見えない。
「アンタ、あそこの特服着てる人達と知り合い?」
「……そうですけど」
「あれって何てチーム?」
「東京卍會です」
とりあえず教えてやると、女子高生たちは色めきだった様子で「え、あれがそうなんだ」と顔に喜色を浮かべている。
こういう類の人間は最近よく見かける。エマは内心またか、と思いつつ「何ですか」と素っ気なく尋ねた。
「ほら、渋谷の東卍って言えば"無敵のマイキー"って呼ばれてる総長がいるでしょ。知ってるかなぁ」
「……知ってます。私の兄なんで」
「え、嘘!マイキーの妹さん?」
どうせすぐバレると思って素直に応えると、二人の女子高生はきゃいきゃいと黄色い声を上げながら盛り上がり始めた。
「えっとぉ。出来たらでいいんだけどぉ」
急に猫なで声を出し始めた女子高生に、エマはすぐに半目になった。どうせ兄を紹介して欲しいというお願いだろう。
東卍を結成して一年弱。その間に沈めたチームは数知れず。
ケンカ無敗を誇る"無敵のマイキー"こと佐野万次郎は、我が兄ながら最強だけに、その界隈で有名人になってしまった。
そうなると寄ってくるのは彼女たちのような、ミーハー系の女達だ。
一口に暴走族と言っても、一部の"悪い男大好き系女子"には人気があり、どこぞのチームの〇〇くんがカッコいい、だの、強いだのともてはやし、まるでアイドルの追っかけの如くつきまとってくる輩がいる。大方このお姉さん達もその手合いだろうとエマは思った。
だから先手を打っておく。
「マイキーはダメですよ。にベタ惚れなんで」
「……?」
「あ、ほら。ちょうど来たみたい。あそこ――」
とエマが指を指すと、女子高生たちも釣られて視線を向ける。そこには綺麗な白髪をなびかせたユニバースドールのように可愛らしい女の子が、一人てけてけと走っていたのだが――。
「――で、コケてる子。……って、ナンパされてんじゃん!」
「「は?」」
慌てたように駆け出すエマを、女子高生二人は呆気にとられた様子で見送っていた。
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「大丈夫?ちゃん」
急いだばかりに人とぶつかり、コケたところへ手を差し伸べてくれる人がいた。見上げると、そこには少し年上らしい男の子。全く見覚えがないものの、助けてくれたのだからいい人に違いない。
そう思ったは「ありがとう」と笑顔でその手を掴んだ。
見た目は怖いが、笑顔は優しい男の子だった。
「ここ人が多いから気を付けて」
「はい」
「ああ、あとマイキーに今度オレらともツーリング行こうぜって伝えてくれる?」
「分かりました。えっと……お名前は……」
「ああ、先週マイキーにボコられた反りこみ野郎って言えば分かると思うから」
「反りこみ野郎……」
言われてみれば、確かにその男の子の額には立派な「M」の反りこみがある。は納得して「分かりました。伝えておきますね」と微笑んだ。
「じゃあ、もうコケないようにねー」
反りこみ野郎は笑顔で手を振りながら去っていく。そこへすれ違うようにエマが走ってきた。
「、大丈夫?!」
「あ、エマ!」
「今の誰?」
「コケたら助けてくれたの。でも知らない人」
「え、知らない人?ナンパ?」
「うーん……何か万次郎にボコられた人みたい」
「は?じゃあお礼参りとか……」
この世界じゃよくあることで、万次郎が倒した数だけ敵はいる。子供の頃からしょっちゅう家にその手の輩が来てたのを思い出す。
今は仁義なんてものはないに等しく、平気で彼女を襲って来る下衆もいるのはエマも知っていた。だからこそ心配で尋ねたのだが、そんなエマを見ては小首を傾げた。
「そういう感じじゃなくて、今度オレともツーリング行こうって伝えてって言われた」
「……何それ」
「ね。でもいい人だった」
「お、ちゃん。元気ー?」
「うん、元気だよ」
そこで通りすがりの男にも声をかけられ、は笑顔で手を振っている。それを見たエマは「今のは?」と呆れ顔で尋ねた。
「知らない。最近よく知らない人から声かけられたり、挨拶されたりする。何でだろ」
「……あーそういうことか」
その理由に気づいたエマは苦笑するしかなかった。多分その原因はエマの兄だろう。
"無敵のマイキー"の嫁さん、ともなれば、自然と注目され、本人の知らないところで名前や顔が知れ渡っていく。
東卍に憧れ、入りたいと思う不良も多く。そういった男達はにやたらと親切だ。それは"無敵のマイキー"が彼女にベタ惚れで、誰より溺愛してるせいかもしれない。
でも中にはの見た目で寄ってくる何も知らない不良もいる。
ちょうど、こんな風に――。
「ねえ、ねえ。君たちかわいーねー。オレらと遊ばない?」
「え……」
見るからに渋谷でナンパしまくってるようなチャラ男が二人、声をかけてきた。
「その制服……中学生かなぁ。二人とも大人っぽいから見えないねー」
「何よ、アンタ達。怪我したくなきゃあっち行って」
「ハア?」
「怪我ぁ?」
怖がるの前に立ったエマが男達をあしらうと、そのチャラ男二人はゲラゲラ笑いだした。
「面白い断り方じゃん」
「え、君がオレらをボコしてくれるわけ?なら、その大きなおっぱいで挟んで欲しいなぁ」
「じゃあオレはこっちの子にお口でシテもらおーかなー」
「ちょっと!に触らないでよ!アンタ達、マジで殺されちゃうから」
へ手を伸ばそうとしてきた男の手をエマが叩き落とすと、さすがにチャラ男達もイラっとしたらしい。急に態度を急変させた。
「さっきから舐めたクチききやがって……マジでヤっちまうぞ、コラ」
「とりあえず、そこのラブホに連行しとくー?」
と、再びチャラ男の一人がの腕を掴もうとした、まさにその時だった。ドゴォッ!という鈍い音と共に、チャラ男がエマとの視界から一瞬で消えた。
「みっけ」
「あ、万次郎!」
飛び蹴りと共に現れたのは、"無敵のマイキー"こと東京卍會総長、佐野万次郎その人。その後ろからは金色の辮髪をなびかせた長身の男も歩いて来る。ドラケンこと副総長の龍宮寺堅だ。
「エマ、おせぇ。待ちくたびれたじゃん」
「ごめん、ドラケン。駅で待ってた。あの子、今日居残り組だったから」
と言いながら、すでに万次郎から熱烈なハグを受けてるへ視線を向ける。
しかしドラケンだけは、目の前で青ざめているもう一人のチャラ男へ、その鋭い視線を向けた。
「で、コイツなに?」
「ひっ」
「あー無謀にもウチとをナンパしてきたチャラ男くんB。一応、警告はしたんだけどね」
「あ?ナンパだ?」
「す……すみませんでしたーっ!」
ドラケンが殺気満々で睥睨した瞬間、チャラ男Bは万次郎に蹴り飛ばされ、今では反対側の柵に激突して伸びてる友達チャラ男Aを置いたまま、一目散で逃げて行ってしまった。
「チッ。何だ、あれ」
「薄情な男だなぁ。友達置いてくなんて。っていうかマイキーやりすぎ――って、聞いちゃいないか」
振り向けば、すでにナンパ男への興味はなくなったのか、万次郎はにベッタリくっついて甘えている。その光景にエマもドラケンも苦笑するしかない。
「が来るの遅いから心配したじゃん。変な奴に声かけられてっし……ってかエマもいるならもっと早く来いよ」
「とは今、会ったんだもん。マイキーこそ、さっき変な女に囲まれてたクセに」
「は?囲まれてねーしっ」
万次郎は妹のツッコミに激しく動揺した。婚約者である彼女に変な誤解はされたくないからだ。
その婚約者、はジっと万次郎を見つめてくるので、かすかに頬が赤くなる。
可愛い。オレの嫁、めちゃ可愛い。キスしたい。
そんな思いが万次郎の脳内を駆け巡る。ただ次の質問を受け、心臓がぎゅっと変な音を立てた。
「万次郎。女の子に囲まれてたの?」
「か……囲まれてない。でもケンチンは囲まれてた」
「あ?オレかよ」
シレっとドラケンになすりつける万次郎に、ドラケンの口元が引きつる。そもそも勝手に寄ってきた女子高生に勝手に話しかけられてるだけだ。万次郎も、そしてドラケンも全く興味はなかった。
「だいたいオマエら待ってたから囲まれたんだろが」
「あ、そっか……ごめんね、万次郎。わたし、今日授業中に居眠りしちゃって先生に呼び出されてたの」
「、居眠りしちゃったの?かわい」
自分を見上げてくるにきゅんきゅんしながら、万次郎の頬も全開で緩んでいる。
そんな兄を見ながら、エマはひたすら呆れていた。
「マイキーってばデレすぎー」
「別にいいだろ。好きな子にいくらデレても」
「はいはい……ほーんと昔からバカな兄貴なんだから―――」
|||
「――マイキーデレすぎじゃね?」
「……」
頭で響いていた懐かしい妹の声の上から唐突に低音が重なり、オレはふと我に返った。
「……灰谷?」
いつの間に来たのか、ソファの脇には幹部の灰谷蘭が苦笑交じりで立っている。その後ろから春千夜が歩いてきた。
「勝手にズカズカ入ってくんじゃねえ、灰谷っ」
そのいつもの顔ぶれを眺めながら、万次郎はこれが現実なんだと理解した。
自分にくっついて眠るを見てたら、何となくボーっとして昔のことを思い出してたらしい。
「すみません、マイキー。コイツが勝手に――」
「いいじゃん、別に。マイキーに報告しに来たんだから。ってことで、マイキー抱っこしてデレてるとこ悪ぃけど、仕事の話いい?」
「分かった。寝かせてくるから待ってろ」
「りょーかい」
起こさないよう体を起こすと、そっとを抱きあげ、そのまま寝室へと運ぶ。
なるべくに仕事の話は聞かせたくない。
「ん……まんじろ……」
ベッドへ寝かせてタオルケットをかけると、が目を擦りながら僅かに目を開けた。でもまだ眠いのか、すぐに瞼がくっついていく。
「ごめん。仕事の話してくるからは寝てて」
「……ん。はやく……戻ってきてね……」
「………(可愛い……)」
甘えるように呟く彼女の可愛さに心臓がぎゅぅんと変な音を立てた。何年、いや何十年経とうと、がオレの心を乱すのは今も変わらない。
相変わらずオレはコイツが大好きで、大切で、傍にいて欲しい唯一の女の子だ。
「すぐ戻る」
すでに夢の中へ堕ちていった彼女の唇にちゅっと口づけて、そっと柔らかい髪を撫でると、がかすかに微笑んだ気がした。

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