――じゃあホテル行く?

上司の蘭から半ば強引に約束させられたは、仕事終わりに言われた通りの場所までやってきた。東京六本木。首都東京を代表するグローバルな街であり、灰谷兄弟が長年にわたって仕切っている、言ってみれば彼らの街でもある。蘭は自分のテリトリーであるこの街にを呼びつけた。

(こ、ここ?)

はタクシーを降りて目の前の大きな建物を見上げた。無数の窓から洩れる淡い光がキラキラしていて、目の前には数人のドアマンが忙しなく到着する客達を出迎えている。ある外資系のホテルであり、世界に冠たるラグジュアリーなホテルのエントランスへ視線を戻したはゴクリと喉を鳴らした。

(確かにホテル行く?とは言ってたけど…ほんとにここなのかな…)

確認の為、はエントランスから少し距離を取ると――ドアマンが声をかけてこないよう――バッグの中からケータイを取りだし、蘭から届いたメッセージを開く。しかし何度見ても住所もホテル名もここで間違いない。てっきりその辺のラブホにでも行くのかと思っていたは、そのセレブ御用達と言わんばかりの豪奢なエントランスへ視線を戻した。

(な、何考えてるの?蘭さんてば…)

ハッキリ言ってこのホテルは本命コースだ。どう考えても一回だけの関係を持とうという相手を呼びつける場所ではない。すでに及び腰になっていたは一瞬、このまま帰ってしまおうかと思った。けれども今、もし本当に帰ったとして、約束をすっぽかした部下にあの蘭がどんな制裁を加えて来るか分からない。最悪「約束も守れねえ部下を抱くのはここで十分だな」と事務所で襲われかねない。

(そ、それは困る…かも)

先ほど事務所でも気にせずに手を出そうとしてきた蘭を思い出し、はぶるりと身を震わせた。こうなれば行くしかない、と気持ちを固め、は重たい足取りでエントランスへと歩いて行く。するとドアマンに「いらっしゃいませ」と丁寧な言葉をかけられ、ビクリと肩が跳ねた。「ご案内いたします」と言われたものの、待ち合わせをしているから大丈夫だと断り、は深呼吸をしながらホテルのロビーへ足を踏み入れた。さすがに天井が高く、そのど真ん中にはキラキラと煌く大きなシャンデリア。煌々と光を降り注いでくる場所を歩きながら、はキョロキョロとロビー内を見渡した。ここへ来いとはあるものの、部屋番号の類は記されていなかった。ということはロビーで待ち合わせという意味だと受け取り、蘭の姿を探す。その時、ケータイにメッセージが届いたピコンという軽快な音がして、は手の中にあるスマホへ視線を落とした。

(蘭さんからだ…)

ドキっとしつつメッセージを開くと、そこには『ついた?』と端的なメッセージ。すぐに"つきました。ロビーにいます"と送り返せば、またすぐにメッセージが届く。そこには部屋がある階のみが記されていて、はすぐにエレベーターへと歩いて行く。エレベーターは階数事に違うようで、はメッセージにある階数を確認してそのエレベーターへと乗り込んだ。少し嫌な予感がする。

(蘭さんってば何でこんな…)

豪華なエレベーター内ですら高級感に溢れていて、は溜息を吐いた。別に高級ホテルが嫌いなわけじゃない。もしこれが恋人とのデートで来たのなら素直に喜んでいただろう。しかし今夜は上司と一度きりの、言ってみればワンナイトと同じことをしようとしているだけなのだ。そんな相手に使っていいようなホテルではない。

(普通のラブホの方がまだ緊張しないよ…)

エレベーター内をウロウロ歩き回りつつ、鏡に映る自分の顔を見る。そこにはどこか自信なさげな女の顔が映っていた。過去の恋愛で傷つき、もう二度と恋なんかできないと思っていたし、まして抱かれることは恐怖でしかなかった。

(なのに…蘭さんに触れられた時、恐怖というよりは凄くドキドキした…)

口ではやめてと言ったものの、気持ち良すぎてどうにかなってしまいそうで、怖いというならそんな自分が怖かったのかもしれない。
その時、目的の階に到着し、エレベーターのドアが静かに開く。そこで顔を上げたは小さく息を飲んだ。

「ちゃんと来て偉いじゃん」
「…ら、蘭さん…」

廊下の壁にスーツ姿で蘭が寄り掛かって立っているのを見て、は抱いていたバッグをぎゅっと抱きしめた。その腕に蘭の手が伸びてグイっと引っ張られる。廊下を歩いて突き当りの大きな扉の前に立つと、手にしていたカードキーを差し込み、ピピっという音と共に解錠した。部屋に入らずとも分かる。そこはが懸念した通り、スイートルームだった。蘭の手に引かれて室内へ足を踏み入れたは、一面ガラス張りの大きな窓から見える世界中の宝石をぶちまけたような六本木の夜景を見て「綺麗…」と呟いた。

「気に入った?」
「…え?あ…」

思わずウットリとしながら目前に広がる夜景を眺めていると、蘭が身を屈めての顔を覗き込んだ。人目を惹く端正な顔立ちに浮かべた優しい微笑みは、普段の怖い印象とはだいぶかけ離れている。

「あ、あの…何で…ここなんですか?」
「…何で?」
「え、っと…もっと普通のホテルでも良かったんじゃ…」

おずおずと言ったを、蘭はキョトンとした顔で見下ろした。

「オレがその辺のホテルでオマエを抱くと思ったのかよ」
「え…だ、だって…わたしにスイートルームなんてもったいないというか…」
「……もったいない?」
「蘭さんは…恋人でもない女の為にいつもこんなホテルを選ぶんですか…?」

蘭が色んな女と関係を持っているのはも知っている。ただ、どういうデートをしているのかまでは知らない。デートのたびにこんな豪華なホテルを使っているのかと驚いただけだ。しかし蘭は「ぶはっ」と吹き出すと、さもおかしいといった様子で笑いだした。

「まさか。いつもはこんなスイート使うわけねえだろ。もっとランクは下の部屋だよ。その日に会った女だったら近くにあるラブホとかなー」
「…え…じゃ、じゃあ…そこでも良かったんじゃ…」
「…………」

が思い切って言うと、蘭はかすかに目を細めて呆れたように口を開けている。何か間違えたかなと不安に思っていると、蘭はぼそりと「変な女…」と呟いた。

「変な女だとは思ってたけど、やっぱ変だわ、オマエ」
「え、変…」
「普通の女の子なら、"わぁ!スイートルーム!嬉しい、蘭さん♡"って喜ぶとこなー?」

の頭を片手でつかみ、ゆさゆさと揺さぶりながら、蘭は「ルームサービス頼むし、その間にシャワー入って来いよ」と苦笑いを浮かべた。これまた驚く単語を言われ、は「え」と声を上げてしまったものの、蘭に「何だよ」と言い返され、慌てて首を振る。男経験が少なすぎて、こんな時なにが正解なのかが分からないものの。何となく蘭の好きなようにさせた方が好手だというのは、少なからず一ヶ月もの間、蘭のそばで彼をフォローしてきたにも分かる。

「じゃあ…お風呂借ります…」
「おー。ちゃーんと隅々まで洗えよ」
「えっ!」

ニヤリと笑う蘭の言葉に、は過剰に反応し、顏が熱くなった。それを見た蘭はギョっとした顔で「何エロいこと想像してんだよ、バーカ」と笑っている。

「冗談だよ。さくっとシャワー浴びて早く出て来い。ああ、オマエ、酒は飲めんだろ?最初はビールか?やっぱ」
「は…はあ」

何だ、冗談か…とホっとしつつ、お酒を飲ませてくれるのは有難い。素直に頷いてからは逃げるようにバスルームへ飛び込んだ。

「うわ、広…」

部屋同様、バスルームもかなりの広さで、大きなバスタブが奥に設置されている。こんなに広々としているのはどことなく落ち着かない。家の風呂も広いのだが、和風な造りなので雰囲気が違う。

「と、とにかく急がなくちゃ…」

蘭に言われた通り、は手早く服を脱ぐと、きちんと畳み、アメニティグッズの置かれている棚の隣に置いてある袋を手にした。そこには綺麗に畳まれたふわふわのバスローブが入っていた。

「や、やっぱり…シャワー後はこれ着た方がいいんだよね…」

念の為、替えの下着などは買って来たものの、風呂上りに服を着るのもおかしい。どうせやることは決まっているのだ。

「ハァ…緊張してきた…」

これまでは急に襲われ、流されてしまった形だったが、今は違う。ちゃんと何をされるか分かっている為、さっきから心臓が痛いほどに早鐘を打っている。それに初体験を済ませてから随分と経っているのもあり、色々と不安ではあった。百戦錬磨であろう蘭に太刀打ちできる気がしない。

(と、とにかく…する前にきちんと蘭さんにはその辺を言わないと…あまり変に期待されても困る…!わたし、技とか持ってないし…)(!)

あまりに感じやすい体質で、ヴァージンを捧げた元カレには「男をいっぱい知ってそうだな」などと勝手に決めつけられ、尻の軽い女と勘違いされた。蘭にも同じように誤解されてる可能性は十分にある。遊んでそうだし凄い技を持っていると思われてたらどうしよう、と変なことを心配しながら、は軽くシャワーを浴び、髪や身体を簡単に洗ってバスローブへ着替えた。

「メイク…した方がいいのかな…」

アメニティグッズの化粧水や美容液などで肌を整えながら首を傾げる。こういう時どっちが正解なんだろうと思ったものの、普段からメイクは薄目だし、別にスッピンでもいいかと、そのままバスルームを出た。その途端、食欲を刺激するようないい香りが漂ってきた。

「ああ、出たー?ルームサービス取ったし、適当に食って飲んでて。オレもシャワー浴びるから」
「…は…はい」

蘭は上着を脱いでネクタイを外した状態だった。いつもは仕事でしか接したことがないので、蘭がこんな寛いだ格好を見るのは初めてだ。どことなく新鮮で変にドキドキしてしまう。

「うわ、何これ」

蘭を見送りつつ、リビングに行けば、テーブルの上に美味しそうなオードブルが並んでいる。アイスペールには高級シャンパンが冷やしてあり、これだけ見ると本当にデートみたいなシチュエーションだ。

「蘭さんってマメだと思ってたけど、ほんとにマメなんだな…」

恋人でもないただの秘書を、ここまでもてなしてくれるとは思ってもいなかった。座り心地のいいソファに腰を下ろすと、まずは軽くチーズをつまんでみる。

「美味しい…」

一口食べると急にお腹が空いて来て、ついでに美味しそうなローストビーフにも手を伸ばす。蘭が食べて飲んでろと言っていたので、そこは遠慮せずに頂いた。それでもシャンパンを飲むのは気が引けたので、設置された冷蔵庫の中からビールを取り出して一口飲む。

「はぁ…幸せ」

お腹も満たされ、喉も潤い、さっきまでの緊張がほぐれていく。でもバスルームのドアが開いた瞬間、それは再び襲って来た。

「お、お先に頂いてます」
「おー。ってか、オマエ…ビール飲んでんの?」

蘭もと同じようにバスローブを着て出てくると、テーブルの上に残されているシャンパンを見て不思議そうにしている。

「あ…シャンパンは蘭さんが出て来てからの方がいいかなと…」
「フーン。変な女」

蘭はまたもその言葉を口にして、濡れた髪を拭きながら笑っている。

「大抵の女はガブガブ飲んで、何ならオレが風呂から出る頃には二本目ってヤツも少なくねえのに」
「…え…でもそれは蘭さんの恋人だからですよね。わたしは部下なので…」
「…別に恋人じゃねえけど…つーか、まだ部下気分でここにいんのかよ」

の答えに蘭は心底おかしいと言った様子で笑うと、の隣に腰を下ろす。急に距離が近くなったことではドキっとしつつ、残りのビールを飲もうとした。しかし蘭の手がの手から缶ビールを奪っていく。

「ほら、こっち飲め」
「あ…はい」

蘭はシャンパンをグラスに注ぐと、片方をに持たせ、カチンと自分のグラスを当てた。

「かんぱ~い」
「か、かん…ぱい」

蘭が美味しそうにシャンパンを飲む姿を見つつ、自分も一口飲んでみる。このシャンパン特有の強い炭酸が喉を刺激して、お腹の中がカッを熱くなった。でも再び襲って来た緊張はなかなか解れてはくれない。昨日まで上司と部下という関係だったはずが、今こうして互いにバスローブ姿のまま、並んで座っている光景がどうも信じられない。

「まだ緊張してんのかよ」
「す、すみません…」

隣で身体を硬くさせているを見て、蘭が苦笑する。

「よくそんなんでオレの誘い受けたな。断ったらスクラップにでもされると思ったー?」

身を乗り出し、小首をかしげながら自分を見つめて来る蘭に、が慌てて首を振る。じわりと頬が熱くなったのは、殊の外蘭の眼差しが優しいせいだ。初めて会った時からどちらかと言えば蘭は素っ気ない態度だった。これまで気に入った秘書の子は全員手を付けて来たという話は九井から簡単に聞かされていたし、「念の為、気を付けて」とは言われたものの、そんな心配など皆無なほど、蘭は自分に対して興味がないのだと肌で感じていた。なのに何故、急に抱きたがるんだろうという素朴な疑問は今も消えていない。

「ら、蘭さんこそ…どうして…わたしなんかに?」
「あ?」
「…わたしは…興味の対象外でしたよね…蘭さんの」
「……あー…まあ、そうだな。だってオマエ、オレのタイプからかけ離れてたし」
「だったら…」
「でもまあ…仕事は出来るし、何でも安心して任せられるし、素直だし…いい子だとは思ってた」
「……え…?」

いい子、と称され、仕事ぶりを誉めてくれた蘭に、も少し驚いた。そんな風に思ってくれてたことが意外だった。

「でもさーあの夜オマエに触れて意外な一面を見てから…興味が湧いた」
「……っそ、それは…あの…」

やっぱり誤解されてるかもしれない。そう思ったは思い切って顔を上げると、蘭を真っすぐ見つめた。恥ずかしいが自分の体のことを話してしまいたいと思う。

「蘭さんに…聞いて欲しいことがあります」
「聞いて欲しいこと?」
「わたしの…その…体のことについて…」

と、そこまで言うと、蘭は怪訝そうに眉間を寄せた。

「体って?」
「えっと…」

そこでは思い切って自分の体質のことを簡単に蘭へ説明した。そのせいで過去に酷い誤解をされたことや、それが原因で男と親密になることを避けて生きて来たことも全て。話している間、蘭は黙って聞いてくれていた。

「――だから…そういうことなので、経験は殆どないんです、恥ずかしながら。だから蘭さんのご期待に添えるかどうか――」

と、そこまで言いかけた時、隣で黙って話を聞いていた蘭が小さく吹き出した。そしての頭に手を乗せると、苦笑交じりで顔を覗き込んで来る。

「な、何がおかしいの…?」
「あーいや、だってさ。オマエが経験少ないなんて最初の時に気づいたわ」
「…え?」
「いくら身体が反応しようと、オマエが遊んでるだの尻が軽いだのなんて思わねえよ。バカじゃねえの、その元カレ」
「…蘭さん…」

蘭は心底面白いといった感じで笑っている。これまで悩んでいたのがバカらしくなるくらいだった。

も気にしすぎじゃね?感度いい方が絶対いいに決まってんじゃん。むしろオレはそこを気に入ってる」
「………そ…れはどうも」

褒められてるのかすら分からないし、恥ずかしい。どう応えていいのかも分からず、は顔を引きつらせた。でも不意に蘭の指が軽くの頬を撫でていく。それは羽で触れられたのかと思うほど弱い刺激なのに、肩がぴくっと跳ねてしまう。

「そーいうとこ、可愛い」
「……っ」
「ははっ真っ赤になってるし」
「か、からかわないで下さい…」

が言った瞬間、腕を引かれ、至近距離で蘭と目が合う。突然のことに鼓動が跳ねて、は言葉を失った。

「からかってねえよ。真剣にを可愛いと思うし抱きたいと思ってる」
「だ、だから…わたし、凄い技とか持ってないし…」
「…ぷ…っふはははっ。技って!そんなもんオマエに期待してねーよ」

突然吹き出す蘭を見て、の顏が耳まで赤くなる。人がせっかく悩んでたというのに笑うなんてひどい、と少しだけむくれた。ただ、意外なほど蘭の言葉が嬉しいと感じている自分に驚く。

はオレに黙って可愛がられてりゃいーんだよ。ベッドの上で」
「……っ」

目の前で男の欲を孕む瞳に見つめられ、ドキっとした瞬間、ゆっくりと唇が近づき、互いの唇が重なった。