の自宅は新宿区の内藤町にあった。大都会のど真ん中でありながら閑静で、高層からは新宿御苑の借景にあずかれるこのエリアは高級住宅地としても知られている。あの賑やかな新宿のイメージとは程遠い、閑静な場所にある自宅にが帰宅したのは、深夜の0時を少し過ぎた頃だった。

「お帰りなさい!お嬢さん!」
「「「お帰りなさい!」」」

「た…ただいま…」

家では帰りが遅くなっても"バレないようコッソリ家に入る"という技は使えない。正門の横にある小さな脇戸でさえ、入るには組の若い衆の目にとまってしまう。ただ彼らが見張りについててくれるから自分も父も安心して生活してられるのだということも分かっている。梵天に自らの縄張りを譲り、引退したとはいえ、の父は今も影響力があり,その存在を邪魔に思う輩も多い。組の下っ端は梵天に吸収されたが、古くからいる父の子供――実の子ではないが――達は、こうして家に残ってくれていた。

「遅かったな」

若い衆に出迎えられ、そそくさと離れに帰ろうとした矢先、庭先で声をかけられた。ビクリと肩を跳ねさせ、声のした方を見れば、父が縁側のところに立っている。こんな夜中に庭で飼っている高級魚に餌をあげていたらしい。

「あ、お、お父さん…ただいま」
「どこへ行ってたんだ?」
「え…?!あ、えっと…し、仕事でちょっと…」
「…仕事?何だ、デートじゃないのか」

父が酷くがっかりした様子で言うのを聞いて、の心臓が飛び出したのかと思うような音を鳴らした。デートではないが、男と二人きりでホテルにいたことを知られれば、また大げさに騒がれてしまうのは目に見えている。ここは仕事ということにしておこうと、は「当たり前でしょ」と返しておいた。

「もう寝るね…お父さんも早く寝て」

これ以上話してたらボロが出そうだと思ったは、足早に庭の奥にある離れへ歩いて行く。それくらいには動揺していた。庭に立っている外灯と玄関口の明かりを頼りにバッグから鍵を出すと、すぐに解錠して中へ入る。しっかり内鍵を閉めて靴を脱ぐと、は寝室ではなく真っすぐバスルームへと向かった。着ている服を脱ぎ、下着に至るまで全て洗濯機に入れていく。今は気づかないものの、きっと蘭の香水の香りが移っているはずだ。さすがにこんな時間に洗濯するわけにもいかない。洗濯は後まわしにしたは、風呂で軽くシャワーを浴びた。先ほどの行為の痕跡を全て洗い流すよう、シャワーボールを泡立て念入りに体を洗う。でもそこで胸元に何か所か赤い痕を見つけてドキリとした。胸の先端近くだから服を着てしまえば見えない場所だ。でもだからこそ余計に秘密を共有しているような気分になり、は頬を赤らめた。

(蘭さんってば…何でこんなもの…)

淫行の証拠のようなキスマークを見ていると、先ほどの行為が頭に過ぎり、勝手に体温が上がっていく。

(…あんなに怖かったのに……抱かれてみたら蘭さんとのエッチ…引くほど気持ち良かった…)

ボーっとシャワーを浴びながら無意識にふとそんな感想めいた思いが過ぎり、ハッと我に返った。

「ち、違う違う!…何考えてんの、わたし…っ」

耳まで熱くなり、シャワーの温度をつい下げてしまうくらい、全身が今も火照っている。初体験をしてから数年ぶりのセックスの余韻は、なかなか消えてくれそうにない。油断をすれば蘭に触れられた時の感触さえ、ハッキリ思い出してしまう。にとってセカンドヴァージンとなった行為だけに、最初は圧迫感が強かったものの、蘭が丁寧に進めてくれたからなのか、それとも単に濡れすぎていただけなのか、初めての時同様、痛みは殆どないに等しかった。あまりの狭さに初めは驚いていた蘭も「のナカ、最高」と喜んでくれていたようだ。ハッキリ言っても余裕がなく、その辺のことはうろ覚えではあったものの。最初の行為が終わった後も「もう一回いい…?」と甘い声で誘われ、結果一回だけという約束だったにも関わらず、2回も連続で抱かれることになった。2度目は1度目よりも更に濃厚に、時間をかけてたっぷりと感じさせられた気がする。ただその後、さすがに疲れたのか、蘭が寝入ったのを見て、はどうにか気怠い体を動かし、逃げるように帰って来てしまった。あのまま一緒に寝ていれば、絶対に朝を迎えていたはずだ。上司とあんなことをした後で、朝から顔を合わせる勇気はにもなかった。

(目が覚めてわたしがいないからって…別にどうってことないよね、きっと)

恋人ではないし、蘭からすればつまみ食い程度のことだろう。の前の秘書にも同じように手を出してたようだし、何も自分だけが特別なわけじゃない。あんなに何度も誘って来たのは、最初に拒んだことで男の狩猟本能を刺激してしまったせいだろう。一度抱けば征服欲が満たされて、すぐに興味は失うはずだ。愛のないセックスなんてそんなものだとも分かっている。

(そうだよ…明日からは何もかも元通り…上司と部下に戻れる)

明日、顏を合わせるのは恥ずかしいが普通にしていよう。そう心に決めて、はきゅっとシャワーのコルクを捻った。








「あれ、寝不足かよ」

事務所でパソコンに向かいながら欠伸を連発していると、通りすがりの九井に声をかけられ、は慌てたように背筋を伸ばした。

「ご、ごめんなさい…夕べあまり眠れなかったの…」
「何だよ。夜遊びか?珍しい」
「え、えっと…あの…まあ…」

九井に笑われ、は曖昧に応えつつも笑顔を引きつらせた。昼時、他の事務員たちは皆がランチに出かけて行き、だけが残って仕事をしていた。何となく食欲がないのと寝不足もあり、今日は早めに仕事を終わらせようと思っていた。実際に振られる仕事は多く、秘書が不在の他の幹部のスケジュールまで調整しないといけない。反社のわりに。いや、反社だからこそ、緩めの幹部の為にしっかり周りが管理しなければいけないこともある。

「あーそういや蘭さんって今日、顔出した?」
「い、いえ…まだ…です」

その名を出されてドキリとしたものの、なるべく普通を装う。九井には蘭の下に着くことになった時「念の為、気をつけて」と警告までされている。なのに一か月足らずで手をつけられてしまった形になったのだから、何となく九井にバレたくないという頭が働いてしまう。

「そっか。今夜、7時からフロント企業の方で取り引きあんの覚えてっかなー」
「あ…それは伝えておいたので大丈夫かと」
「マジ?あ、じゃあそれ関連の過去の資料取って来てくれる?資料室のE-7の棚に入ってっから。あとオレ、今からちょっと出なきゃいけねえし後のこと任せてい?」
「あ、はい。分かりました――」

と言ってる矢先、廊下の方で「お疲れ様です、蘭さん!竜胆さん!」という部下達の声が聞こえてきた。その名前を聞いた瞬間、の心臓がピンポン玉の如く跳ねた気がした。

「あー蘭さん、竜胆くん、お疲れ様っス」
「おーココ~。今日あっつくね~?日中出るもんじゃねえよ、マジで」
「確かに。ああ、でも午後から豪風雨って予報だったけど」
「マジでー?通りで風が強かったわ…熱風だったけど」

まず最初に竜胆が入って来て九井と言葉を交わしている。そしてに気づくと「おつー」と笑顔で手を振って来た。それに対し笑顔で会釈をしていると、その後ろから長身の男が入ってくる。その見慣れたシルエットが視界に入った瞬間、慌てて顔を背けた。体中の血液が顔に集中して一気に火照ってくるのが分かる。

「あ、蘭さん、今夜の資料、にとって来て貰うんでそれに目を通しておいて下さいね。オレ、今から自分の会社に行かなきゃならないんで」
「おー。りょーかい」
「あ、待てよ、ココ。オマエの会社って青山だろ?オレも青山付近で人と待ち合わせてんだよ。途中まで乗っけってって」
「あーいいですよ。――じゃあ、頼むな」
「…は、はい」

九井がに声をかけ、竜胆と二人で事務所を出て行く。必然的に蘭と二人きりになり、は一気に緊張してくるのが分かった。ゆっくり席を立ち、蘭のいる方へ振り返ると、不意にジトっとした瞳と目が合う。その不満そうな表情にドキっとしたものの「お…お疲れ様です…」と一応の挨拶をした。しかし蘭はちょうどランチから戻ってきた経理担当の女の子を見つけると「あゆみちゃん、元気~?」と優しい笑顔を向けてそっちの方へ歩いて行く。少なからず無視される形となり、は呆気にとられた顔で蘭の背中を見つめた。

「やだ~蘭さんたら口が上手いんだから~!」
「いや、マジでマジで。あゆみちゃん、ダントツスタイルいいって」

女の子の甲高い声と、蘭の甘い声が事務所内に響き、はぎゅっと拳を握り締めると早々に資料室へと向かった。
一度でも体を許せば蘭のような男はすぐに飽きる――。
分かってはいたものの、あからさまに態度を変えられたことがショックだった。あの女の子は最近雇ったばかりの子で、元々はフロント企業の受付をしていたのを、三途が本社・・で働かないかと引っ張ってきたようだ。アイドルのような可愛らしい顔に、巨乳という武器がある男好きのするタイプの女の子で、来てすぐの頃は幹部を含めた男連中がやたらと構っていたことを思い出す。

(何よ…蘭さんてば無視しなくてもいいじゃない…。別にわたしは蘭さんの彼女でも何でもないしどうでもいいけど!)

蘭の態度を思い出し、だんだんと怒りが湧いて来たは、内心文句を言いながら廊下を歩いてエレベーターホールへ向かう。

(少し前の蘭さんでも、挨拶をしたら"おう"くらいは返してくれたのに…っ)

エレベーターの上のボタンをカチャカチャと連打しながら、は沸々と湧いて来る怒りを感じていた。蘭の塩対応には慣れているはずなのに、今はやたらとショックを受けてしまっている自分にもイラついた。たかだか一度抱かれただけなのに、こんなにも心を乱されるなんて思いもしてなかったのだ。

(確かに一度抱かれたら気が済むかなとは思ったけど……あんな態度しなくたって…)

まるでオマエにはもう一ミたりとも興味がないと言われたように感じて、の中にあった女のプライドが少しだけ傷ついた気がした。

(夕べはあんなに情熱的だったクセに……)

ふと蘭に抱かれた時のことが過ぎり、怒りとは別の感情で頬が熱くなった。

――イった時のの顏がすげー可愛い…。

抱かれている時、そんな卑猥な言葉を甘い声で囁かれた。吐息を乱した蘭の掠れた声はとても扇情的で、あの時の蘭は本気で欲情していたはずだ。なのに一夜明けたら他の子に目を向けてデレデレ――少なくともにはそう見えた――してるんだから、男なんて最低だ、と再び怒りが再燃してきた。

(やっぱり男なんて信じられない…たった一回しただけですぐ飽きて、次の女の子を口説こうとするんだから…)

上の階に着くと、は大股でズンズン歩いて資料室の前に立つ。とにかくどんなに腹を立てたところで、蘭には仕事用の資料を届けなければならない。仕事はきちんとしなければ。
前の自分を取り戻すべく、は軽く深呼吸をすると、手のひらをドアの横にある掌紋センサーへ翳した。この資料室は大事な情報を保管している場所で、入れるのは幹部、そして幹部直属の秘書ではしか入れない場所だ。そういう面では父親と梵天の関係があるからこそ、は信用されていた。
ピピっという電子ロックの外れる音を確認してドアを開ける。中へ入りドアが閉まればすぐにオートロック機能で鍵が閉められた。

「えっと…E-7の棚だっけ…」

薄暗いので電気をつけ、広い室内にびっしりと置かれている棚のナンバーを確認しながら、奥にある目的の場所へ歩いて行く。そこには過去のデータが収められた紙の資料があった。これは乗っ取った会社の資料で、役に立つからと保管してあるらしい。近々これもデータ化すると九井が話していたものの、彼も忙しい為、放置されたままだった。

「あ…あった。これだ」

番号を確かめ、そこにある箱を取り出すと、中から今日の取り引きに関連した資料を取り出す。いくつか過去のケースのデータが記載されており、これを参考にしたりもするらしい。あくまで参考なので、蘭に目だけ通して欲しいと九井が話していた。

「こんな文字ばっかりの資料、蘭さんめんどくせえって言いそう…」

ざっと資料に目を通しながら、容易く想像出来る蘭の態度に苦笑が洩れた。その時、ガタガタっと窓の揺れる音でビクリと肩が跳ねた。今日はやたらと風が強い。予報では午後から天気が大荒れになると予報士が話していたのを思い出す。

「…帰り、大丈夫かなぁ…」

窓の方へ近づいて外を覗いてみると、すでに曇天が広がっている。街路樹が強風に煽られ、しなっているのを見ながら、帰りは家の者に迎えに来て貰おうかと考えていた。
その時、ピピっとドアの解錠する音が聞こえてハッとした。振り向いてみたものの、の立っている場所からは棚が邪魔をしてドアの方は見えない。幹部の誰かが資料でも取りに来たんだろうか、と思いながら、はドアの方へ歩いて行った。九井や竜胆は出かけて行き、望月、鶴蝶、三途といった他の幹部は不在だが、誰か戻って来たのかもしれない。と言っても、この資料室を利用する幹部と言えば九井くらいのもので、他の幹部は滅多なことでここへ来ることはない。

(…足音。やっぱり誰か来たんだ。武臣さんかな…)

参謀だけに知識はかなり豊富で口が上手い武臣も、たまに資料室は利用することもあると話していた。

(あれ…でも武臣さんって今日は横浜で仕事だったっけ…)

一応、幹部全員のスケジュール――分かるものだけ――は全部把握しているは、いよいよ入って来たのが誰なのか分からなくなった。でも角を曲がった瞬間、目の前に立っている人物を見て、は小さく息を飲んだ。

「ら…蘭さん…」

まさか来るはずがないと思っていた相手がいて驚いてしまった。

(な…ななな何で蘭さんが資料室なんかに…?てっきりあゆみちゃんって子を口説いてるとばかり思ってたのに…)

しかし蘭はあまり機嫌が良さそうな顔ではなく。どちらかと言えばが苦手とする不機嫌そうな空気を纏っていた。綺麗なバイオレットの虹彩がかすかに細められている。蘭はそのまま一歩、一歩とに近づいて来た。それを見たは逆に後ろへ後退してしまう。

「あ、あの…どう…したんですか?資料なら今――」
「オマエさぁ」
「……っ」

思い切り機嫌の悪い低音がの鼓膜を揺らし、ビクリと首を窄めた。

「何で先に帰るわけ?」
「……え?」

少しずつ後退してたの背中が壁にぶち当たり、遂に逃げ場を失った。真っすぐ近づいて来た蘭はの顔の横に手をつくと、その整った顔でじっとりと見下ろしてくる。は無意識に喉を鳴らした。

「オレを二回も置き去りにした女は……オマエが初めてだわ」
「……え、あ…だ、だって…」

一度抱いた女が起きた時いなかろうと、蘭ならそこまで気にしないと思っていた。そう言い訳をしようと顔を上げた瞬間、もう片方の壁にも手をつかれ、ダブル壁ドン?と少し前に流行ったシチュエーションながら、心臓が素直に反応してしまう。ドラマや漫画で見るよりも、リアルに壁ドンをされたら物凄くドキドキするものなんだと実感した。

「オマエ、オレのこと舐めてんの」
「…へ…?」
「あー…それとも気を引くのにわざとそーいうことしてんのかよ」
「ち、違…う…。だってもう用は済んだのかと…」
「あ?」

思わず口から出た言葉で、蘭は更に不機嫌そうに眉間を寄せた。綺麗な顔で睥睨されると普通に怖い。

「用って何だよ」
「え、だって…蘭さん、一回抱けばもう気は済んだのかと…思って……」

だんだん言葉が尻すぼみになったのは、蘭の顏がどんどん険しくなっていったからだ。そもそも最初からそう言う約束だったわけで、には何故蘭がここまで不機嫌になっているのかが分からない。

「気が済んだ…?」
「……その手の雑誌にそう書いてました。男は遊びの女なら一回二回すれば飽きるって…」

そう、と蘭は恋愛関係があるわけでもなく。ワンナイトという約束の元でセックスをした。だから終わった後で勝手に帰ろうが怒られる筋合いのものでもない。そもそもこれまでの蘭の女関係を多少知っているにしてみれば、そう思うのは当然だった。蘭もそこに気づいたのか、不意に黙り込んでしまった。どことなく複雑そうな顔でを見下ろしている。

「そ、それよりコレ…」
「…何だよ」

資料を胸に突きつけると、蘭は顔をしかめつつ受けとった。

「今夜の取り引きで参考にする資料です。九井さんが蘭さんに渡せと」
「あー…何か言ってたな、そーいえば…」

面倒そうに溜息を吐いた蘭は、壁に置いていた手を外して資料をパラパラとめくっている。それを見たはホっと息を吐いて「では失礼します」と蘭の横を通り過ぎようとした。もう夕べの話は済んだと思ったのだ。このまま前の関係に戻って仕事をする。そう思っていた。なのにいきなり腕をグイっと掴まれた。

「待てよ。まだ話、終わってねーじゃん」
「…え、話って…」

キョトンとした様子で見上げてくるに、蘭は口元を引きつらせた。

「あ?オマエ…マジで夕べのあれで終わらす気かよ」
「……え?」

どういう意味だと今度はの眉間が寄っていく。

「勝手に終わらせんなよ」
「ちょ…」

腕を引き寄せ、腰を抱いて来る蘭にはギョっとしたように身を竦めた。

「だ、だってそういう約束――」
「オレは全然、満足なんかしてねえんだけど」
「……っ?」

蘭の理不尽な言い分に、も言葉を失った。その時、またしてもガタガタっと窓が激しく風に煽られる音がしたと思った瞬間、資料室の電気がパっと消えた。

「ひゃ」
「あ?停電…?」

驚くをよそに、蘭は冷静に天井を見上げ、ついでにから腕を放すと窓の外を覗いている。そして「げ…」と小さく声を上げた。

「…目の前の信号、消えてるっつーことは…この一帯が停電ってことだよな……?」
「え…っ?」

顔を引きつらせた蘭が振り向き、驚いたも窓の外を覗いてみた。すると車が数台、戸惑ったように停車していて、交差点が大変なことになっている。もしかしたら、この強風に煽られ、この一帯のどこかでトラブルが起きたのかもしれない。でも今は昼間なので、ビル内も薄暗いことは薄暗いが全く見えないわけじゃない。ただパソコンなども全て消えたとなるとビル内の予備電源を入れなければ仕事が出来ないなとは考えていた。ただは失念していた。ビル内全てが停電したとなると――。

「あ…確か地下に予備電源ありましたよね。わたし、ちょっと行ってきます」

そう言って歩きかけたの腕を、蘭がまたしても掴んだ。

「いや待て」
「え?」
「そりゃ無理だって」
「無理…って?」

不思議そうに見上げてくるに、蘭は呆れたように溜息を吐いた。

「オマエ、ここへの入り方、忘れたのかよ」
「…入り方…」

指摘されて一瞬首を傾げただったが、すぐに蘭の言っていることを理解して「あっ」と声を上げた。このビル内でこの部屋と幹部の部屋のみが電子ロックとなっているのだが、それはすなわち。停電したら全てのドアがロック状態のままになることを示していた。

「最新の設備だったら停電した瞬間、ロックが外されるタイプもあるかもしんねーけど…このビルの設備は古いままだ」

蘭は恐ろしいことを言いながら歩いて行くと、閉じられたままびくともしないドアを見つめて溜息を吐いた。

「ダメだ…やっぱ閉まったまま。当然掌紋も読み取れねえから開かねえ」
「……そ、そんな…っ」

まさかの停電トラブルで、蘭とは資料室へ閉じ込められてしまったようだ。

「じゃ、じゃあ…誰かが気づいて地下の予備電源を入れてくれない限り、このドアは開かない…ってこと?」
「まあ…そうなるな」

苦笑交じりで肩を竦める蘭を見上げながら、は唖然とする羽目になった。