資料室から出た後、蘭とはすぐさまシャワー室へ駆け込み、汗を流したものの。においては着替えがないことに気づいた。たっぷりと汗を吸った服をまた身につける気になれず途方に暮れていると、コンコンとノックの音がした。
「おい、」
「は…はいっ」
ドキっとして条件反射のごとく返事をすると、
「着替え。ここに置いとくぞ」
「……へ?」
それは蘭の声だった。着替え?と驚いたは少し待ってから裸にバスタオルのまま、そっとドアを開けた。するとドアノブに紙袋がぶら下がっている。驚いて手に取ると、中には下着とワンピースが一式。あまりの手際の良さに唖然としてしまった。
「嘘…何で…?」
入っていたのは事務所のすぐそばにあるファッションビルの服屋のものだ。
「まさか…買ってきてくれた…とか?」
それしか考えられない。蘭は自分の個室に着替えを数着用意してあるのは知っている。だから買わなくても大丈夫だったのだろうが、まさか自分の服にまで気を回してくれるとは思わなかった。
「うわ…サイズもピッタリ…」
下着、服。共に寸分違わずピッタリで、さすが蘭さん、と妙に感心してしまう。きっと触っただけでスリーサイズはバレバレだったんだろう。
「何か…恥ずかしい」
じわじわと頬が熱くなって、鏡に映る自分を見つめた。さっき、明かりが点かなければ、あんな場所で蘭に抱かれていたかもしれないと思うと羞恥心でいっぱいになる。流されちゃいけないと思うのに、蘭に触れられると気持ち良すぎて理性が吹っ飛んでしまうのが問題だ。
(でも意外…。一度抱いたらすぐ飽きると思ったのに…)
さっきは素っ気ない態度をされて落ち込んだものの、あれはがホテルから先に帰ったことを拗ねていたようだ。そんなことは気にしない人だと思っていただけに驚いてしまった。
(思ってたより…蘭さんって優しいのかも…)
閉じ込められた時も安心させてくれたし、今だって着替えまで用意してくれた。の中にあった蘭のイメージが悉く塗り替えられていく。その時ケータイが鳴り響き、ビクっと肩が跳ねた。
「あ…蘭さん」
表示名を見て思わず画面をスライドさせた。
『サイズどうだ?』
開口一番、サイズを聞かれてはドキッとした。
「あ…ピ、ピッタリ…だった。あの…わざわざ買って来てくれた…の?」
『オレじゃねえよ。部下に電話して行かせた』
「え…」
ということは、その部下にまで自分のサイズが知られてしまったのでは、と余計に恥ずかしさがこみ上げた。しかし助かったのは事実で、そこは素直に嬉しいと思う。
「あの…ありがとう…助かりました」
『…そ?なら…良かった』
「………」
甘く、優しい声。一瞬さっきの行為を思い出し頬に熱を持った。最初に顔を合わせた時よりは、蘭の機嫌も直ったようだとホっと息を吐く。
『ああ、そんでさぁ。今夜の取り引き、オマエも秘書としてついて来い』
「……え?」
ホっとしたのもつかの間、いきなりの命令には戸惑った。今夜の仕事はがついて行かずとも簡単に済む内容だったこともあり、スケジュールには入れていない。
「わたしが…ですか」
『あー…さっきの資料、ざっと目は通したけど面倒くせえし、オマエが相手側の契約書、内容確認して』
「……えっと…」
『何だよ。嫌なのかよ』
「い、いえっ。行きます…」
『そ?じゃあ、そういうことで宜しくー。オレはそれまで店回って、18時半には迎えに来るから』
蘭はそれだけ言って電話を切ったようだ。はスマホをバッグへ戻すと軽く息を吐いた。早めに帰ろうと思っていたが、これでは普段とあまり変わらないかもしれない。でも上司のフォローも秘書の仕事だ。反社とはいえ、高額なお給料をもらってる以上、きちんと要望に応えなくてはいけない。極道の娘だけに、義理人情をしっかり叩き込まれて育てられた分、意外とその辺は一般人よりも真面目で義理堅い性格だった。着替えを用意してもらった以上、少しでも蘭の助けにならなければ、という気持ちが湧いて、はすぐに自分のデスクへと戻る。
「あ…これか」
きちんと整頓されたデスクの上には先ほど蘭に渡した資料がちゃっかり置いてあった。椅子に座り、その資料へも目を通しておく。マニュアルみたいなものなので全てを鵜呑みにすることはない。あくまで参考程度のものだ。なのに気づけば外の雨が小降りになるくらいまでしっかり読んでしまっていた。強風は相変わらずで、ガタガタと窓が鳴る。そこではふと顔を上げた。
「いけない…もうこんな時間」
壁時計を見ればすでに18時を回っている。そろそろ蘭が迎えに来るはずだ。は資料から目を離すと、すぐにパウダールームへと向かった。取り引き相手と会うので嗜み程度のメイクは直しておかないといけない。
「あ、さん。お疲れ様ですー」
「…あゆみさん」
パウダールームには経理のあゆみがいた。仕事終わり、バッチリメイクを施していたのか、普段よりもメイクの濃い顔で微笑んでいる。きっとこれから春千夜とデートなんだろう。蘭に聞いた二人の関係を思い出し、は「お疲れ様です」と応えながら、隣に立った。かすかにシャネルのキツい香水の香りが漂って来る。
「さっきの停電ビックリしちゃいますよねー。さん大丈夫でした?」
「…う、うん、まあ」
その話をされ、ドキっとしたものの、適当に相槌を打ちながらファンデーションを直していく。あゆみはメイクを終えているようなのに出て行こうとはせず、の顔を覗き込んで来た。
「私、コンビニに買い物に行ってたんですけど、雨風酷くて戻れなくなっちゃって悲惨でしたよ~」
「そう…」
それで蘭が電話しても出なかったのか、と納得しつつ、今度は淡い色の口紅を塗っていく。それを見ていたあゆみは小首を傾げながら「もしかしてデートですか?」と訊いて来た。
「え?違うけど…これから蘭さんの取り引きについて行くの」
「え、蘭さんと?いいなぁ」
「……いいな?」
その反応に驚いてあゆみを見れば、彼女は無邪気な笑顔で「だって蘭さんカッコいいし」と言っている。それには少しだけ驚いた。
「私、蘭さんタイプなんですよねー。セクシーだし」
「……え…」
蘭の話ではあゆみは梵天のNo2である春千夜と付き合っているということだった。なのに蘭がタイプとはどういうことだと疑問が湧く。
「あゆみさん…恋人いるんじゃないの?」
名前を出すのは憚られ、さり気なく言ってみれば、あゆみはあっけらかんとした顔で「それはそれですよー」と笑っている。どうやら彼女は誠実なタイプとは程遠いらしい。まあ恋人だという春千夜も誠実か?と問われれば、も首をかしげたくはなるが。
九井からの前情報ではあゆみも元々は小さな組の一人娘らしい。その組が梵天の傘下に入り、彼女はフロント企業で受付嬢として雇われていたようだ。蘭は頭が悪いと言ってはいたが、経理は得意科目らしく、春千夜が九井のサポートとしてこの事務所に呼んだということになっている。
「カッコいい人ばかりだし、梵天に来て良かったなーと思って。さんもそう思うでしょ?」
「……べ、別にわたしは…」
「えー蘭さんと一緒に仕事してるのに何も感じないの?さんって男嫌い?」
「そういうわけじゃ…それに蘭さんは上司だし…」
「関係ないでしょ。一般の会社じゃあるまいし。現にその上司から口説かれたもん、私」
「……」
それは春千夜さん?と聞きたくなったのをグっと堪える。すでに仕事が終わったことでプライベート気分なのか、あゆみは饒舌だった。
「さんは?蘭さんから口説かれたりしない?」
「………そっんなわけないでしょ?」
あゆみの思わぬツッコミに思い切り動揺が出てうろたえてしまった。口説かれるどころか、すでに関係を持ってしまったことを彼女に知られたらマズいという頭が働く。幸いその辺の微妙な空気には鈍感なのか、あゆみは「あー…」と納得したように頷いて突然笑い出した。
「さんは蘭さんのタイプじゃないか」
「……(何気に失礼だな、この子)」
上から下までジロジロと舐めるように見られ、あゆみの不躾な態度はもさすがにムっとした。しかしあゆみの言葉に間違いはなく。自分は蘭の好みからかけ離れているからこそ、秘書につけられたのだと自覚している。この前も、いや今日だって、蘭が抱こうとしてきたのは単なる欲求不満か気まぐれ。そうとしか思えない。
「じゃあ…さんは蘭さんのこと何とも思ってないってことでいいですかー?」
「…え?」
口紅をポーチにしまいながら、そろそろ行こうかと思っていると、あゆみが意味深な笑みを浮かべている。どういう意味だと眉を顰めると、あゆみは「実はさっきデートに誘われちゃって…」と言い出した。デート、と聞いて何故かの心臓が嫌な音を立てる。
「今度ディナーでもどうって言われたの!それって私のこと口説こうとしてるのかなと思って」
可愛らしい笑みを浮かべながら喜んでいるあゆみに、の胸がざわざわと音を立てる。こんな風になるのは初めてで、少なからず動揺した。
「…そ、そう。で、でも蘭さん、意外と誰にもそんなこと言ってるから――」
と、ついそこまで言いかけてすぐ口を閉じる。実際に蘭は外でも気軽に知り合った女性を誘ったりしているのは知っている。だから思わず口から出た言葉だったものの。これでは自分があゆみに嫉妬しているみたいに思えたのだ。しかしの言葉を聞いたあゆみは少し不満げな顔で「えーやっぱりそうなのかなぁ」と口を尖らせた。
「でも蘭さん、私のこと会うたび可愛い可愛いって誉めてくれるし遊びって感じもしないんだけど――」
「あ…ご、ごめんなさい。そろそろ時間だから」
「え?あ、ほんとだ。いっけない。私も行かなくちゃ。彼氏待ってるし。じゃあお先に~」
聞くに堪えなくて会話を強引に切った瞬間、今度はあゆみが言いたいことだけ言ってパウダールームを飛び出していく。一人残されたはホっと息を吐くと、最後に髪型をチェックしてからデスクへ戻った。
――会うたび可愛い可愛いって誉めてくれるし。
「…何よ、やっぱり口説いてるじゃない」
脳内であゆみの言葉が勝手にループされて何故かイラっとしてしまう。先ほど蘭は「ああいうキャピっとしたのは苦手」と言っていたことを思い出すと余計に嘘つき、という思いもこみ上げてくる。
(苦手どころか、ちゃっかりディナーに誘って口説こうとしてるんじゃない。人の女に興味ないとか言ってほんと蘭さんってば――)
と頭の中で文句を言っていると、デスクの上に置きっぱなしだったケータイが鳴りだした。
「やば…蘭さんだ…」
表示名を確認した瞬間、文句を聞かれたわけでもないのにドキっとしてしまう。がすぐに電話に出ると『あと10分で着くからエントランスに下りてろよ』と言われた。分かりました、とだけ応えて電話を切ると、自分の荷物を持ってすぐにエレベーターホールへ向かう。これからフロント企業に関係する取り引きを行うのに赤坂まで行かなくてはならない。なのに――の気持ちはモヤモヤしたままだ。
――やっぱはいい反応するよな…マジ可愛い。
行為の最中、蘭に何度となく「可愛い」と言われたことを思い出し、余計にイライラしてきた。あんな言葉、気軽に誰にでも言ってるんだと思うと何故か気分が沈む。
(蘭さんがそういう男だって分かってたけど…)
そう、分かっていたはずなのに、実際にあゆみから聞かされると思ってた以上に嫌な気分だった。
*
「あ~疲れた…」
無事、取り引きも終わり、会食を済ませた後で、蘭とは帰りの車に乗っていた。車が走り出した途端、蘭は無造作にネクタイを緩めると、隣で黙って座っているへ「おかげで助かったよ」と声をかける。しかし返って来たのは素っ気ない「いえ」という一言のみで、蘭は小さく息を吐いた。事務所にを迎えに行ってから、かれこれ3時間はこの調子だ。
「オマエさあ…何か機嫌悪くね?」
「………別に悪くはないです」
「嘘つけ。全然オレの方すら見ねえじゃん」
窓の外に顔を向けたままのを見て、さすがの蘭もムッと目を細めた。ネクタイから外した手をの方へ伸ばし、少し強引に顎を掴んで自分の方へと向けさせる。予期していなかったことで、の目が驚きで見開かれていた。
「機嫌が悪くねえのに何でそんな態度?」
「な…何の…こと…?」
「商談中もオレにだけ不愛想だったろ。相手のオッサンにはわざとらしいくらい愛想よくしやがって」
「そんなこと…」
してません、と言おうとしたがそこで言葉を切ったように蘭には見えた。それは蘭の指摘が図星だったからとも取れる。それでも尚、自分から顔を背けているを見て、蘭は何とも言えない苛立ちを覚えた。今思えば最初からそうだった。は蘭を苛立たせるほどに扇情的で、半ば強引に抱くことを許可させたようなものだ。一度だけ。そんな約束の元、を抱いた蘭だったが、自分が思ってたよりも彼女とのセックスに夢中になってしまったらしい。こうしてそばにいると触れたくなってしまう。触れて感じさせて、その反応を見たくなる。なのに目の前の女はいつも蘭の腕からすり抜けていく。手に入れたと思ったはずなのに、それが全くの見当違いだったと今朝も思い知らされた。今もそうだ。隣にいるはずなのに、どこか遠い存在のようにも感じる。それはの瞳が自分を映さないからだ。
「…クソムカつく…」
「…な…」
いきなり辛辣な言葉をぶつけられ、はギョっとしたように蘭を見上げた。薄暗い車内に、淡いバイオレットの虹彩が苛立ちを滲ませながら揺れている。には何故蘭がイライラしているのかが分からない。普段から蘭にはそれほど愛想を良くした覚えもなく、言ってみれば普段よりほんの少し塩対応になってしまったかもしれないという程度。前の蘭なら気にも留めなかったはずだ。なのに目の前の蘭は明らかに機嫌が悪い。でも機嫌が悪いのはも同じだった。先ほどあゆみと話してから、何故か蘭の顔を見るとイライラする。タイプじゃないと言っていたあゆみに甘い台詞を吐いていたからといって、自分には何も関係ないのに。そう思うのに苛立ちを隠せないでいた。ただそんな身勝手な理由を蘭に言うわけにもいかず、はどうしたものかと目を伏せた。
「あの…」
ここは形だけでも謝った方がいいんだろうかと思いつつ、再び顔を上げようとした瞬間だった。蘭の手に胸倉を掴まれ、ぐいっと引き寄せられた。
殴られる――!
いきなりの行動に驚き、慌てて目を瞑る。なのに一向に痛みや衝撃がこないことで、は恐る恐る目を開けた。
「身体だけで…良かったはずなんだけどなァ…」
「……へ?」
それはどういう意味だと思考を巡らせようとしたその時、胸倉をつかんでいた手が離れ、顎を持ち上げられた。一瞬、蘭の瞳と目が合う。でもが口を開きかけた時、唇を塞がれ声は飲み込まれてしまった。
「ン…んぅ…」
最初から舌を絡ませ合うキスに、の喉から苦しげな声が洩れる。もう片方の手で腰を抱き寄せられ、互いの体が密着すれば唇も深く重なり合う。いきなり何の前触れもなくキスを仕掛けられ、は困惑したように蘭の胸を押し戻そうと藻掻いた。でも彼女の細腕では何の抵抗にもならない。
「…ん…っふ…」
舌先で口蓋を舐められ、ゾクゾクとしたものが首元に走り、は軽く身をくねらせた。それでも蘭は再び逃げ惑うの舌を絡めとる。静かな車内にくちゅりと卑猥で湿った音が響き、それが二人の鼓膜を刺激していく。
「…んンっ」
無意識に息を止めていたらしい。は苦しいと言うように蘭の胸を軽く叩けば、やっと口内から舌が出ていくのを感じた。それでもキスの濃厚さを見せつけるように、互いの唇からは透明な糸が引いている。それを舐めとるかのごとく蘭は自分の唇をペロリと舐めて、ジっとを見下ろした。
「な…何でこんなこと…」
顔を真っ赤にして瞳を潤ませるを見ていると、蘭の中に何とも言えない満足感が芽生える。いつも目を反らし、自分の腕からあっさりと逃げていく女。これまで抱いてきた女と明らか違う。だから余計に捕まえたくなった。捕まえて、逃げられないようこの腕に閉じ込めて、自分だけを見つめさせたい。そんな男の欲を煽る女だと思った。容易く手に入るようで決して手に入らない。何故かそう感じてしまう。
「昨日の一回だけって約束。あれ破棄するわ」
「………は?」
突然そんなことを言われてもの思考が追いつかない。何を言ってるんだと言わんばかりに呆気にとられた顔で蘭を見ている。その表情に軽く吹き出した蘭は、魅惑的な笑みを彼女へ向けた。
「オレの女になれよ、」
「―――っ?」
蘭の突然の申し出に、今度こそは言葉を失った。
