門が開かれ、いつものように人相の悪い若い衆たちが一斉に出迎えてくれるのを、は車内から戦々恐々とした様子で眺めていた。頭の中には"どうしよう"という言葉がぐるぐると回ったまま、一向に答えが出ない。
今、の隣には蘭が乗っている。一緒に仕事をした帰り道。今日一日、色々とあったことで互いにイライラした状況の中、何故か蘭が突拍子もないことを言いだした。
――オレの女になれよ。
突然、それも告白と言うよりは半ば命令とも言えるような言葉を吐かれ、は困惑した。
――冗談…ですよね。
――いや、マジ。
――何で…そうなるんですか。
そう問いかけたに蘭は少しの思案の後で、魅惑的な笑みを浮かべながらこう言った。
――ムカつくから。
その理由に驚愕したは当然のように「嫌です」と言った。当たり前だ。「オレの女になれ」という理由がムカつくから?あり得ないし意味が分からない。なのに蘭は引かなかった。
――オマエんち内藤町だよなぁ、確か。送ってく。
――……は?い、いいです!途中で降ろしてくれたらタクシーで帰るんで!
――自分の女をこんな時間に一人で帰すわきゃねーだろ。
――お、女になったつもりはないし、一人で帰れます!
――あ、おやっさん?ああ、お久しぶりです。今、と一緒なんでオレが家まで送って行きますよ。
――ちょ、ちょっと!誰に電話かけてるんですかっ
…こんなやり取りが続き、結局のところの父親に蘭が勝手に電話をしてしまったことで、送ってもらう羽目になってしまった。それも最悪なことに送るだけじゃ飽き足らず、蘭は「おやっさんが寄ってけだって」と楽しげに言って来た。父親が蘭のことを気に入っていて娘の恋人候補と考えてることを知ってるだけに、は顔面蒼白になった。ここで蘭を連れ帰ったら激しく誤解される恐れがある。いや、誤解なら解けばいいだけの話だが、蘭が余計なことを言った場合――。
(か、考えたくもない…)
という理由から、は車が正面玄関の前に横付けされてもなかなか車を降りることが出来なかった。しかし家の気が利く若い衆は「お帰りなさい、お嬢さん」と後部座席のドアを開けてしまった。こうなると降りるほかない。
「た、ただいま」
彼らに非はない。は笑顔を引きつらせつつ車から降りた。すると蘭も反対側のドアを自ら開けて降りて来た。それを見た若い衆が一斉にざわつき始める。
「あ、あれは…幹部の灰谷蘭さんだ…」
「…かっけえ…」
「何でお嬢さんと…?まさか…け、結婚のご挨拶とか…っ」
「バカ野郎…っ。声が大きいっ」
「………(いや、全部聞こえてるんだけどね)」
自分のところの若い衆が並んで家の中へ入っていく二人を見ながらアレコレと邪推するのを見て、は深い溜息を吐いた。自分の父親と梵天の幹部は何気に親しいので自分の都合で蘭を帰すわけにはいかない。
「はは、相変わらず活気があるな、この家は」
「…元気だけが取り柄な組なので」
が諦めきった顔で言えば、蘭は楽しそうに声を上げて笑った。元々が武闘派で名を馳せ、関東一帯を仕切っていた組なだけに、頭が引退してもその辺は変わらない。今でも親となった梵天の為ならいくらでも鉄砲玉に名乗りを上げる覚悟はあるだろう。しかし時代は流れ、今はそういった"個"を犠牲にせずとも、もっと別のやり方があるということをは梵天に入って学んだ。
(蘭さんを始めとした梵天の幹部達は"ウチの子"達の存在を軽んじたりはしない…。おかげで今もこうして父の傍に彼らを置いてくれている)
その辺は感謝をしている。でも、だからと言って女になるかどうかは別問題だ。
「おーよく来たな、蘭!」
「おやっさん、ご無沙汰してます」
「堅苦しいのはいいからここへ座れ。一杯やろう」
「いいですね」
蘭の顔を見た瞬間、父の強面の顏が緩んだのを見たは、ゲッソリしたように深い溜息を吐いた。
*
「へえ…いい部屋じゃん」
家の離れへ足を踏み入れた蘭は、感心したように室内を見渡し、縁側から見える広い中庭を眺めた。
「何か落ち着くし、おやっさんが言ってたように結婚したらここに住むのもあり――」
「蘭さん…!」
部屋に案内するまで一言も発しなかったが、もう限界とばかりに振り向き、肩を震わせた。離れのの部屋。父に言われて蘭を連れて来たはいいが、納得はしていないとばかりに蘭を睨む。
「どういうつもり…ですか。父にあんなこと言うなんて!」
「どうって…オマエにも言ったじゃん。それと同じ気持ちで言っただけだけど?やっぱオマエをオレの女にするならおやっさんにも断り入れるのが筋ってもんだろ」
「そ、そ、それはそうですけど、でもわたしはまだ蘭さんの女になるのを承諾した覚えは――」
「あ?嫌なのかよ?」
「…う」
笑顔から一転、蘭は不機嫌そうに目を細めながらの方へ歩いて来る。一歩ずつ後ずさりながら、は言葉を詰まらせた。でもここで間違っても「うん」と言ってしまえば、さっきの会話通り、蘭と結婚までもっていかれそうな気がする。
「な…何であんなこと…蘭さんはわたしと結婚なんてしたくないクセに…。あまり父を刺激しないで下さい」
先ほど、久しぶりに蘭と酒を飲むということで盛り上がった父親に、蘭が「と付き合いたいと思ってる」と言い出した。おかげで大喜びした父親が先走り、いつか結婚してオレの息子になってくれと訳の分からないことまで言い出した。いくらが「そんな気はない」と言っても後の祭り。
「蘭からの申し出を断るつもりならオレが許さねえぞ、」
と、父までが蘭側についてしまったのだ。
「まあ…オレも結婚とかまでは考えてなかったけど…がオレのもんになるならどっちでもいいかなーと」
「ど、どっちでもいいとか、そんな軽い気持ちでわたしの将来を勝手に決めないでっ」
蘭の言いぐさにムっとして言い返す。ここは自分の家ということもあり、もう上司とか部下とか立場は関係ない。言いたいことは言うという気概で蘭の前に立った。普段、が蘭に対してこれほど食って掛かってきたことはないだけに、蘭も少し驚いた様子で苦笑いを浮かべている。
「別に軽い気持ちで言ってねえよ、オレも…。今のは言葉の綾で――」
「じゃあ言わせてもらいますけど、蘭さんあゆみちゃんのことも口説いてますよね。好みじゃないとか人の女に興味ないとか言ってたけど、ちゃっかり夕飯誘ったり…それも全部言葉の綾ですか」
「…ハァ?あゆみ…?」
何でここでその名前が出るんだと言いたげに、蘭は眉をひそめた。の中では蘭が何を考えて「オレの女になれ」と言っているのか分からない。だから敢えて言う気もなかったことを持ち出してしまった。さっきまでのイライラも相まって「とぼけても無駄です。本人に聞いたんだから」と付け足してからそっぽを向く。ただ言った瞬間、これじゃわたしが嫉妬してるみたいじゃない、と少しばかり後悔していると、蘭が小さく吹き出すのが聞こえた。
「な…何がおかしいの…?」
「いや、だって…オレがアイツを口説いてるとか意味不明だし」
「な、何それ…嘘つかないで」
「ついてねーよ。あゆみが何を言ったのか…まあ想像はつくけど、オマエがそれを鵜呑みにするとはな」
蘭は呆れたように溜息を吐くと、ソファに座って背もたれに頭を乗せた。
「ど…どういう意味…ですか」
「どうもこうも、アイツに言った殆どはテキトーだし社交辞令っつー意味」
「…社交辞令…?」
「夕飯誘ったっていうのも、あゆみの方から今度ディナーご馳走して下さいって言ってきたから"今度なー?"って交わしただけだし」
「え…っ?で、でも会うたび、可愛いって言ってるんですよね」
「あ?それこそ社交辞令だろ。んなのあゆみだけじゃなく他の女にも言ってるわ。それこそ掃除のおばちゃんにも」
「………」
蘭の言い分を聞いての脳裏にある光景が浮かんだ。それは先週、事務所に顔を出した蘭が、ビル内の掃除をしてくれる清掃業者のオバチャンに「今日も可愛いねー」と声をかけていた光景だ。
「あ…」
「分かったー?人間、褒められたら気分よく仕事もできんだろ。だから挨拶代わりに言ってるだけ」
そう言われるとも何度かその現場を目撃している覚えがあるだけに納得はした。でも一つだけ腑に落ちないのは――。
「………わたしには言ってくれないくせに…」
「あ?何?」
「な、何でもないですっ」
つい心の声が駄々洩れになり、慌てて顔を背ける。言われてみれば蘭は確かにそういうところは前からある。ただ、あゆみがいかにも自分に気があるみたいな言い方をしたことで勘違いさせられたようだ。
「で…?誤解は解けた?」
「………ちょ、」
ぐいっと腕を引かれ、隣に座らされた瞬間、蘭が覆いかぶさるように身を乗り出し、至近距離で見下ろしてくる。腕の中に閉じ込めるように手を背もたれへ置かれ、逃げ場がない。
「の答えは…?」
「…こ、こた…え?」
「オレの女になるかどうか」
「…う…そ、それ…は…」
どうしよう、このままでは蘭の強引さに負けて首を縦に振ってしまいそうだ。そう思ったが、そもそも何で自分なんだという疑問は残る、モテるのだから何も地味で好みでもない秘書を女にする必要があるのかと。
「…何でわたしですか…?好きでもないのに女になれなんて…意味が分からない」
そう言いながら目の前の蘭を見つめると、蘭は蘭で首を傾げつつ、
「あー…オレも分かんねえ」
「…は?」
「分かんねえけど…に避けられるとムカつくし、オレを見ないことにもイライラする」
「な…何それ…」
「さーなー。つーか、そこまで理由って必要?」
「え…?」
「オレはオマエが欲しいと思ったから言った。それじゃダメなのかよ」
「……っ…」
そう言い切った蘭の目は意外にも真剣だった。思わず心臓が鳴るほどに。でも果たしてそれで受け入れていいのか。自分はどう思っているのかまでは分からない。ただやっぱり、付き合うなら、は相手を好きになってからじゃないとダメだと思う。
「ダ、ダメ…」
「…何でだよ」
「わたしは…蘭さんのこと上司以上に思ってない…です…」
思わず出た言葉だった。同時に言ったそばから違和感を覚えた。本当にそうなんだろうかと自問自答をしそうになる。しかし、そこでの思考は途切れた。視界が急に動いて、気づけば蘭に見下ろされていたからだ。
「…え…」
「じゃあ…オレのこと好きになれよ」
上から見下ろしてくる眼差しはやっぱり真剣で。とても嘘を言っているようには見えない。蘭に見つめられると、の頬がじわじわと熱を帯びていく。
「か…考えさせて下さい…」
「…あ?」
射抜いて来るような蘭の瞳から視線を反らし、そう言うだけで精一杯だった。酷い失恋をしてから恋愛からも異性からも逃げていたにとっては、まだ人を好きになることに抵抗がある。蘭もそのことに気づいたのか「もしかして…まだビビってんのかよ」と呆れたように笑った。
「言ったろ。元カレがバカなだけだって。オマエが傷つく必要ねえよ」
「……っ…」
その言葉に驚いて蘭を仰ぎ見れば、頬にそっと大きな手が添えられた。たったそれだけで目の奥がジンと熱くなる。まさか蘭がそんなことを言ってくれるとは思わなかった。
「オマエはオレが追いかけたくなるような女なんだから…もっと自信持てよ」
「…蘭…さん…」
堪えていた涙が頬に零れ落ちると、添えられていた蘭の手を濡らしていく。その手が濡れた頬を優しく拭ってくれた。
「はいい女だ。オレが言うんだから間違いねえ」
「……自信過剰」
思わずそう呟けば、蘭が軽く笑って「うるせーよ」と言い返し、ゆっくり身を屈めた。互いの唇が重なり、何度も角度を変えながら触れあうだけのキスを交わす。蘭には何度かキスをされたことがあるのに、この時は初めてキスをされたみたいにドキドキした。
