秋の長雨も終わり、久しぶりの秋晴れとなった今日。は数カ月ぶりに梵天の仕事に復帰を果たした。
「本当にご迷惑をおかけしました」
事務所に行ってすぐ、まずは九井に謝罪をした。事情は蘭から聞いていたらしい。苦笑いを浮かべながら「まさかが蘭さんとはね」とからかうように言われ、の頬が赤く染まる。元々は九井が蘭の秘書に、とをつけた。それまでは秘書の子とすぐデキてはこじれ、相手が辞めてしまうまでがデフォルトだった蘭に、全く好みじゃないタイプのをつけたのは九井の判断だ。なのに蓋を開けてみれば自分の知らないところで手を出していたのだから九井も最初は驚いた。でもこれまでと違うのは、蘭の方がに本気になったことだ。
「しかも蘭さんを本気にさせるとか…どんな手を使ったらそーなんだよ」
「ど…どんな手って…」
苦笑気味に言われて、ますますの顏が火照っていく。自分は何をしたつもりもない。ただハプニングで体を覗き見られ、向こうが勝手に欲情しただけのことだ。でもまさか、その些細なハプニングから、あそこまで蘭が本気になるなど自身も思わなかった。
「昨日まで監禁されてたんだって?竜胆くんが言ってたけど」
「はあ…監禁って言うか…蘭さんが不在の時は外に出ちゃダメだって言われて…」
「へえ。こりゃまた蘭さんも大胆なことするな。まあ、一度逃げられてるんだから心配になるのは当然なんだろうけど」
「……」
それを言われるとも肩身が狭い。
――連れ帰ったら部屋に閉じ込めて二度と出してやんねえ。
迎えに来てくれたあの雨の日。蘭はそう言いながらを抱いた。も蘭の言う通りにする、と応えたのは自分でも薄っすら記憶にある。けれども、まさかそれを実行するとはも思わなかった。あの次の日、蘭はを東京へ連れ帰り、本当に彼女の実家の離れに軟禁した。父親とはすでに話がついていたらしい。父までが蘭に協力し、我が娘が軟禁されてるのを部下に見張らせていたのだから、も困ってしまった。
(もう逃げる気はないって言ったのに…)
ただ、あれから一カ月は経ち、蘭にもの想いは伝わったようで、晴れて軟禁生活は終わりを告げた。それに伴い、もう一度梵天で自分の秘書をして欲しいと頼まれたのだ。もちろんを自分の傍に置いておきたいというのが一番の目的らしいが、他にも理由はあるようで…
「オマエが梵天からいなくなって仕事がめちゃくちゃ大変になったから、九井が急遽、あゆみの妹をオレの秘書に召喚したんだけどさぁー。これが見事にポンコツで無理!見た目だけ綺麗に着飾って中身ポンコツ」
自分の代わりを雇ったと言うのは仕方ない。ただあゆみの妹は秘書の仕事が一切、出来なかったらしい。蘭に言われたことは忘れる。先方からの連絡事項も報告をしない。書類作成など夢のまた夢状態で、いない時より仕事が大変になったようだ。
九井もその状況を見かねて「を見つけたなら戻して下さいよ」と蘭に進言してくれたらしく、はそれについてもお礼を言った。九井の言葉がなければ梵天に復帰できなかったかもしれない。
「いやお礼なんていいよ。マジで困ってたの。その子が使えないせいでオレが蘭さんのスケジュールまで管理するはめになったし」
「す…すみません…」
元はと言えば自分が蘭から逃げ出したせいだとばかりに頭を下げるを見て、九井も「もう謝るなって」と苦笑を零した。
「その代わり、今日からまたしっかり蘭さんや竜胆さんの管理頼むわ」
「はあ…」
「おーい。オレはのペットじゃねえぞ」
「――げっ」
冷んやりとした声が聞こえて、九井は慌てて椅子から立ち上がった。部屋のドアを開けっぱなしにしていたことで、いつの間にか蘭が壁に凭れて立っている。正面にがいるので全く気づかなかった。
「蘭さん…」
も驚いたように振り向くと、蘭が彼女の方へ歩いて来た。
「ココ~オマエさぁ。何で竜胆の分もコイツが秘書やんなきゃダメなわけ?オレだけでいいだろ」
「……い、いや…」
言い忘れたが、の仕事は一つ増えた。それは蘭だけじゃなく、弟の竜胆の秘書としても動かなきゃいけなくなったのだ。以前から竜胆のこともが何度かフォローをしていたものの、一応竜胆にも担当の秘書がいる。しかしその秘書が最近になって辞めてしまったのだ。
「をオレ専用にして、竜胆にはカリナつければいーだろが」
カリナ、とは例のあゆみの妹だ。しかし九井はそれを聞いて徐に顔をしかめた。
「ダメっスよ…カリナはの下に付けて教育してもらわないと使えないし…そもそも竜胆くんの秘書が辞めたのは、竜胆くんがその子に手を付けてこじれたからっスよ」
「……あ?そーなの…?」
それまで不機嫌一色だった蘭の口元が僅かに引きつる。
「ったく…。竜胆くんはこれまでそういうことなかったから安心してたのに…ちょっと好みの子が入って来たら早速手を付けるんだから困るよ、ほんと」
「………」
耳が痛かったのか、蘭は気まずそうに視線を反らして溜息を吐いている。が来るまでは自分が散々同じようなことをしていたので何も言えない。
「とにかく。次の子が入るまでには竜胆さんのことも担当してもらうんで。まあカリナの指導しながら二人の秘書はキツいと思うけど」
「い、いえ。頑張ります」
「あ?そんな仕事してたらオレとのデートの時間ねえじゃん…」
「え」
九井の発言にはさすがに蘭も不満を口にする。だがジトっとした目つきで見られ、すぐに視線を反らした。九井がいつになく強気なだけに、蘭はを連れて早々に部屋を後にした。
「…ココのヤツ、機嫌わりーなぁ、ったく…」
「すみません…わたしがいない間、九井さんに相当負担があったようで…」
「まあ…それはオレのせいでもあるから耳が痛てーわ」
と蘭もそこは認めているのか、苦笑交じりで頭を掻いている。でもそこでふとを見ると「そーいや…」と思い出したように口を開いた。
「竜胆のヤツ、あの年下秘書とデキてたんだな。オレはてっきりのこと気に入ってると思ってたわ」
「え、どうしてですか?」
「いや、だって仲良かったろ。オマエら。一緒にランチ行ったりしてたし」
「あ、あれは別にそういうんじゃなくて…相談されてたんです」
「相談?」
「はい。年下の女の子が好きそうな食べ物とか、流行ってるものとか。ほら、わたし、竜胆さんの秘書だった子と同じ歳だから」
「あー…そういうことね…。って、アイツ、そんなチマチマしたことしてたのかよ」
変われば変わるもんだな、と蘭は笑ったが、はどこか複雑そうな顔で蘭を見ている。その視線に気づいた蘭が「何だよ」と身を屈めての顔を覗き込んだ。しかし、ここは事務所内の廊下であり、いつ誰が通るかも分からない。は慌てて身を引くと「いえ…」と言葉を濁して俯いた。
「何?言えよ。つーか、オマエまた良からぬこと考えてんじゃ――」
「ち、違う…そうじゃなくて…」
「じゃあ何?」
「え、えっと…だから…女からしたら…そういうチマチマした努力とかも嬉しいのになあって…思って…」
「…あ?」
「あ、で、でも別に蘭さんに同じことして欲しいとかじゃなくて――!」
蘭が僅かに怪訝そうな顔をしたのを見て、は慌てて首を振った。ただ、自分に聞いてまで相手の喜ぶことを考えていた竜胆を見ているだけに、羨ましいと思ったのは事実だ。でもそれを蘭に強要したいわけじゃない。あの雨の日、迎えに来てくれただけで十分すぎるほど嬉しかったし、その後に軟禁されはしたが、何故かはそれすらも嬉しいと感じていた。もう二度と目の届かない所へ行かせたくないという蘭の想いが伝わったからだ。
「…ひゃ」
その時、ぐいっと腕を引かれてビックリした。蘭はを連れて近くの応接室へ入ると、掴んでいた手を引き寄せ、ぎゅぅっと力の限り抱きしめる。蘭の突然の行動に驚いたは、背中へ回した手で蘭を叩きながら、胸元へ押し付けられた顔をどうにか上げると、ぷはっと息を吐き出した。本気で息が出来なくて、ちょっとだけ死ぬと思ったらしい。
「こ、殺す気ですか…」
「はは…それもいーかもなァ」
「……っ?」
未だを抱きしめながら蘭が笑うのを聞いて、は今度こそギョっとしてしまった。
「を殺せばオレだけのもんになるし?もう逃げられる心配をすることも、誰かに盗られることもねえじゃん」
「…そ…それは…」
そうですね、と認めるのも違う気がして言葉を詰まらせると、蘭は「バーカ。冗談だよ」と小さく吹き出した。そして少しだけ腕の力を緩めると、の額に自分のを合わせる。視線だけ上げれば、意外なほど優しい眼差しが降って来た。
「オマエ殺しちまったら…こうして触れられなくなるだろ」
「蘭さん…」
「がいなくなったらオレが悲しいじゃん」
蘭の言葉に胸の奥が苦しくなった。自分のダメなところも、コンプレックスなところも、全て受け入れてそう言ってもらえるのはにとって死ぬほど嬉しい。
「あ、そーだ」
「え?」
ふと思い出したように言うと、蘭は僅かに目を細めながら「竜胆の担当すんのは仕方ねえけどさー」とスネた口調で言った。
「浮気はすんなよ?」
「…し、しませんっ」
本気とも冗談ともつかないことを言い出した蘭に、は慌てて首を振る。そもそも浮気を心配してるのはの方だ。
「ら…蘭さんこそ…しないでね…」
「ん?」
「浮気…」
「………」
一瞬、黙り込んだ蘭に、不安を覚えたがパっと顔を上げる。その瞬間、蘭が不意に破顔した。普段の計算されつくした笑みとは違う。つい零れ落ちたような、そんな笑顔。は初めて見た蘭の自然な笑みにドキッとしてしまった。
「ら、蘭さん…?」
「いや、待って。今のヤキモチ?」
「え…?」
「やべー…想像以上に嬉しいんだけど」
「…っ?」
蘭は言葉通り、嬉しくて仕方ないといった様子で再びを抱きしめて来た。だがはこんなことくらいで蘭がここまで喜ぶことに驚いてしまう。いつも余裕の態度でを振り回す蘭に、こういう一面があったなんて知らなかった。
「しねえよ、浮気なんて」
一頻り喜んだあと、蘭がポツリと言った。耳のすぐ傍で聞こえる心地のいい低音が、の鼓膜をくすぐる。
「つーか浮気できるくらいならさー。が姿消した時点で他の女にいってるっつーの」
「…蘭さん…」
確かに、蘭はが消えてからの二カ月余り、女を抱いていないと言っていた。その言葉通り、再会した夜は朝までを放さず、あのボロアパートの安いベッドの上で何度もを抱いた。それを思い出したの頬が、じわりと熱くなっていく。
「オレをこんなに溺れさせたんだから…が責任取れよ」
「…せ、責任…」
ギョっとして顔を上げた瞬間、ちゅっと唇を啄まれ、一瞬離れた唇で、またすぐに塞がれた。舌の熱を分け合いながら絡め合い、たっぷり味わうように口付けられた後、蘭は蠱惑的な笑みを浮かべて、を強く抱きしめた。
「オマエはずっと…こうしてオレの腕の中に閉じ込めておく」
「……蘭さん…」
「あ、これ一応、プロポーズだから」
と、最後に付け足せば、の瞳から涙があふれ出す。
その数分後、来客が来る準備をしにきた他の幹部の秘書が応接室へ入ると、そこには泣きじゃくる秘書を必死で宥める蘭の姿があった。
END....
