福音をくれ


1.


2006年12月。蘭と竜胆ふたりが戻って来て数か月後にはまた寒い冬がやって来た。来年になればすぐに受験シーズン到来で、は受験勉強の追い込み時期に入っている。九井が来ない日も自ら予習復習をかかさず、きっちり勉強していた。

「…蘭ちゃん…」

勉強の邪魔にならないよう終わるまでリビングでテレビを見ていた蘭の元へ、がやって来た。

「お、勉強終わった?」

今か今かと愛しい奥さんが来るのを待ちわびていた蘭は、笑顔で傍に来たの手を引くと自分の足の間に座らせた。一緒にリビングでテレビを見ていた竜胆、そしてこの日、遊びに来ていた鶴蝶は一瞬でデレだした蘭にジトっとした視線を送っている。またふたりがイチャつくのを見せられるのか…とでも言いたげな顔だ。しかし蘭のデレはの一言で即終わりを告げることになる。

「あのね…頭痛いの…」
「……は?」

いつもなら勉強後は蘭に甘え倒すだったが、今は心なしか元気がない。後ろにいる蘭を仰ぎ見る瞳は潤んでいて、よく見れば頬も赤い。蘭はすぐさま額に手を当てると、の顏は予想以上に火照っていた。

「あっつ…オマエ、熱あんじゃねえ?」
「…熱?」

ボーっとした感じで応えるを見て、蘭は慌てたように「竜胆、体温計!」と叫ぶ。すっかりふたりがイチャつきだすと思っていた竜胆も、これには焦った様子で「分かった」と応えて、すぐに自分の部屋へ飛び込んでいく。鶴蝶は鶴蝶で「きゅ、救急車呼ぶかっ?」とケータイをポケットから取り出した。

「バカ、まだ救急車はいいっつーの!まずは熱を測ってからな?」
「お、おう。そうだな…つーか大丈夫かよ?の顏、めちゃくちゃ赤いけど…」

今では蘭の腕の中でぐったりし始めたの頬は更に赤みを帯び、そんな姿を見ている鶴蝶の顔は逆に真っ青になっていく。体を鍛えることは得意でも、弱っている女の子を前にして何をしたらいいのかが分からない。気持ちばかりが焦り、その焦りのせいなのか、熊の如くその場でウロウロし始めた。

「おい、ジっとしてろよ、暑苦しい」
「…む」
「いかつい顔の男が目の前をウロウロしてちゃの体調が悪化するかもしんねえだろが」

そんなはずはないのだが、蘭も具合の悪そうなを見て動揺しているらしい。鶴蝶に八つ当たりをしはじめた。しかし鶴蝶も単純なので「そ、そうだな」と素直に頷き、ソファではなく、何故かカーペットの上に正座をしての様子を伺っている。そこへ竜胆が体温計を手に戻って来た。

「ほら、兄貴」
「おう」

体温計を受けとった蘭はすぐに熱を測ろうと、の着ているモコモコウエアのジッパーを下げていく。しかし中に着ているキャミソールを見た瞬間、はたっと手を止め、目の前で覗き込んでいる竜胆と鶴蝶を睨んだ。

「…てめぇら見んじゃねぇよ」

主に体温計は脇の下に入れて測るのが一番いいとされている。しかしそれをするには中のキャミソールの肩紐を下げてはだけさせなければならず、当然のことながら竜胆と鶴蝶の目の前でやるわけにはいかない。蘭は顔でふたりを威嚇しながら後退させると、体温計をの脇へと差し込んだ。追い払われたふたりもこの時ばかりは文句も言わず、大人しく見えない距離まで下がって見守ることにした。

「兄貴、こえぇ…」
「蘭のヤツ、相当慌ててるな…」

竜胆と鶴蝶がコソコソと話している間も、蘭はの頬に触れたりしながら声をかけている。蘭のああいう姿は前にが腹痛を起こして以来だな、と竜胆は思った。

(こりゃまた大騒ぎするぞ…)

そう思いつつ竜胆もやはり心配で「まだかよ…」と時間を見ている。するとピピっという音がした。蘭が体温計を抜き取り、すぐに確認すると38度6分と表示されている。

「げ…結構あんじゃん…」
「うわ、マジで熱あるし」
「か、風邪か?」

竜胆と鶴蝶も体温計を確認して慌て出す。そんなふたりを尻目に蘭はすぐにを抱きかかえると部屋に戻ってベッドへと寝かせた。

「蘭ちゃ…寒い…」
「ちょっと待ってろ」

多分、熱はこれから更に上がってくるはずだ。蘭はの服の中からなるべく厚手の物を出してくると、一度上の服を脱がせて中にそれを着せた。そして上からモコモコのウエアを着せると、アンダーウエアも同じようにモコモコのに履き替えさせる。

「具合はどう?」
「頭痛くて…寒気がする…」
「分かった。とりあえずは寝てろ。今、冷やすもん買ってくっから」
「……え、ここにいて、蘭ちゃん…」

歩いて行こうとした蘭の服をが掴む。ツンっと後ろへ引っ張られた蘭は苦笑しながら再びしゃがんだ。

「でもオマエの顔熱いし冷やさないと…確かそういうもん切らしてっから…」

と言いかけていいことを思いつく。そうだ。我が家には今、パシリ・・・がふたりもいるではないか!と。蘭はに「傍にいるからちょっと待ってて」と言ってから、すぐにリビングに戻った。

の具合は?」
「頭痛と寒気があるって…多分風邪だろうな。つーことで…竜胆、薬局で冷やすもん買ってきて。あと薬とスポーツドリンクも」
「あ、そーか。分かった」

いつもなら不満げな声を出す竜胆もこの時ばかりは素直に頷く。鶴蝶も「オレは?」と出かける気満々でコートを着ていた。やはりジっとしてると落ち着かないらしい。話が早くて助かると蘭は苦笑いを浮かべた。

「鶴蝶は何か食うもん買ってきて。フルーツとか」
「…フルーツ?」
「ビタミンいっぱいのだったら何でもいい。はフルーツの好き嫌いはねえから。あーあと野菜も足りないから頼むわ。、具合悪いとスープ系しか食えなくなるし」
「や、野菜…分かった」

鶴蝶は頷きつつも少しだけ不安だった。これまで買い物をしにスーパーへ行ったことがないからだ。しかしそんな情けないことを言ってる場合ではない。可愛いが熱を出しているのだから少しでも役に立たねば。鶴蝶は自分を奮い立たせながら、フルーツと野菜を買う、と頭に叩き込んだ。

「んじゃ頼むな。オレはについてるから」

蘭はふたりに一通り買い物を頼むと部屋へ戻って行った。竜胆もすぐに出かける服装に着替えると、鶴蝶と一緒にマンションを出る。今日まで過ごして来たがが熱を出したのは初めてのことなので、竜胆も地味に心配だった。

「行くぞ、鶴蝶」
「お、おう…つーかフルーツとか野菜ってどこで買うんだ?」

六本木にあまり詳しくない鶴蝶は困り顔で竜胆に尋ねる。それもそうか、と竜胆は鶴蝶でも分かりやすい場所「ヒルズゲートタワーにスーパーがある」と教えた。

「あんな場所にスーパーなんてあんのか」
「あるよ。何でも揃ってっから便利だし。フルーツや野菜は2F 」
「わ、分かった…。じゃあ行って来る」

竜胆の説明に頷いた鶴蝶は、まるで"初めてのおつかい"に行く子供のようにドキドキしながら、言われた方向へと走って行く。その後ろ姿を見送りながら「大丈夫か?アイツ…」と少々心配しつつ、竜胆も薬局へと向かった。






2.


その頃、蘭はに完全防備をさせてからベッドへ寝かせると、加湿器を最大にして暖房を暑くない程度の温度に調整していた。ついでに換気や空気を巡回させるのに、窓をほんの少しだけ開けておく。

、寒くねぇ?」
「…大丈夫」

蘭が沢山着せてくれたおかげで、寒気のあった身体がじわじわと温まってくる。なのに首元がゾクゾクするのは熱が上がっているせいだろう。

「やっぱ夕べ風呂上りに髪も乾かさないでアイス食わせたのが良くなかったんかな」

ベッド脇へ腰を下ろし、の額に手を置くと先ほどよりも熱が上がっている気がした。夕べは今日より気温も高く、室内は暖房をつけていると暑いと思うくらいだった。も風呂から上がると暑いと言い出し、体が火照ったまま髪を乾かすのを嫌がった。ついでに暑いから「アイスが食べたい」と言うので先にアイスを食べさせたのだが、そのせいで湯冷めしたのかもしれないと蘭は思った。竜胆からは「兄貴、を甘やかしすぎだから」と耳にタコが出来るくらい毎日のように言われているが、確かにそうだったかもな、と思わず失笑が漏れた。

、苦しいか?」
「…少し…」
「頭痛は?」
「…少し」

元気のないを見ていると、蘭は更に心配になってきた。ただの風邪なら菌を死滅させるほど熱が上がれば後は楽になるだろうが、免疫が低下していると治るのに時間がかかる。免疫を上げて体力をつけるのに食事はきちんと摂らせないといけない。

「鶴蝶が戻って来たらの好きなスープ作ってやっから、その後に薬飲もうな」

頭を撫でながら声をかけると、は薄っすら目を開けて小さく頷いた。ここのところは遅くまで受験勉強をしていたので、朝も蘭より早く起きて予習復習をしていたせいか寝不足気味だったのも原因のひとつかもしれない。

は夢中になると時間を忘れて没頭するクセがあるようだし、今度から気をつけてやらないとな…)

勉強の何が楽しいのか蘭には理解できないが、は何かを覚えるのが楽しくて仕方ないようだ。これまで出来なかったものは全て新鮮に感じるんだろうなと蘭は苦笑交じりでの頬に軽く口付けた。唇からの熱が伝わって来る。

「さっきより熱い…これからもっと上がりそうだな…」

の小さな手を握りながら、額の汗をタオルで拭いてあげると、が再び目を開けた。

「蘭ちゃ…ん」
「ん?」
「風邪…移っちゃう…」

そばにいてとは言ったものの、自分の近くにいれば移してしまうと気づいたのか、が泣きそうな顔で蘭を見上げる。蘭はふと笑みを浮かべながら、の火照った額にもキスを落とした。

「いいよ、そんなの。オレに移せばがその分早く元気になんだから」
「…やだ…」

は僅かに首を振り、繋いでいた蘭の手を離す。それには蘭も笑ってしまった。風邪を移すまいと必死に甘えるのを我慢をしているようだ。

「ひとりで…大人しく寝てるから大丈夫…」
「んーでもオレが寂しいじゃん。寝相が悪くて寝言のうるさい竜胆と同じベッドで寝るの嫌なんだけど」

夏ならまだしも今は冬。さすがにリビングのソファで寝るわけにもいかない。となると必然的に今夜は弟の部屋で寝ると言う結論に達してしまう。竜胆は幼い頃から寝相も悪い上に何故か変な寝言をいうクセがある。はそこに気づいたのか、少しだけ笑ったようだった。

「竜ちゃんの寝言…面白いよね…」
「おー。この前のは笑ったなー。もずっと思い出し笑いしてたじゃん」

言いながら蘭もそれを思い出して笑っている。
――先日、九井と鶴蝶が久しぶりに揃った為、男4人とを入れて外へ飲みに出かけた。外で飲むのも久しぶりだった竜胆が普段よりも泥酔。ふらつく弟を鶴蝶と蘭が支えて帰って来たはいいが、今度はリビングのソファで眠ってしまった。仕方ないのでに寝る準備をさせ、蘭が竜胆を担いで部屋まで運ぼうとした時、突然「兄貴…!そこは穴だって!」と叫んだのだ。一瞬、動きが止まった蘭と、歯を磨き終えてリビングに顔を出したの目が合い、その時はお互い同時に吹き出したのだ。

「穴って何だよって感じだったよな。マジウケんだけど、竜胆の寝言」
「この前はね…蘭ちゃんがお風呂入った後に竜ちゃんソファで寝ちゃったんだけど、その時…"だからバナナじゃねえんだって!"って言ってたよ…」
「ぶははっ!どんな夢だよそれ」

熱で苦しそうなだが、またも思い出して笑っている姿に、蘭も釣られて笑ってしまった。

「我が弟ながら恥ずかしいヤツ。あれガキの頃からなんだよなー」
「そうなんだ…でも…そういうのを知っていくのって何か嬉しいな」

蘭の手に頭を撫でられているのが気持ちいいのか、は少しウトウトしてきたようだ。大きな瞳がゆっくりと下がっていく。

「嬉しい?」
「ぅん…竜ちゃんのことを話しながら笑ったり…こういうのって…ほんとの家族になれたような気がする…」
…」

熱で浮かされながらも、本当に嬉しそうな笑みをこぼすを見て、蘭も自然と笑顔になった。そしての鼻をむぎゅっと摘む。

「ら…蘭ひゃん…?」
「バーカ。もうとっくには本当の家族だろが」
「……う…うん…」
はもうひとりじゃねえから。オレも、竜胆もいるだろ?」

顔の横に手をついて上から見下ろせば、潤んでいたの瞳が更に潤みを帯びていく。零れ落ちた涙は蘭の唇で掬われ、そのままの唇へと落ちた。優しく啄むような蘭の口付けに、熱が余計に上がって行く気がする。最後にちゅっと可愛い音を立てて離れた唇は、の鼻先へも触れていく。

「ら…蘭ちゃん…ほんとに移っちゃう…」
「だからいいんだって。の風邪なら大歓迎。――その代わり…」
「かわり…?」

がくっつきそうな瞼を頑張って押し上げると、蘭は額と額を合わせながら微笑んだ。

「オレが風邪で倒れたら…今度はが看病しろよ?」

そのままもう一度ふたりの唇が重なり、の返事は蘭の口内へと消えていく。その時――玄関の開く音と共に、竜胆と鶴蝶の声が聞こえて来た。

「残念…もう帰って来たみたいだな…」

まだまだ足りなかったと言いたげに蘭が名残惜しげに唇を離した。その艶のある笑みに、の頬が熱以外のもので赤くなる。しかし、そこで甘い空気をぶち壊すように竜胆の大きな声が玄関の方から響いて来た。

「だからバナナじゃねえんだって!ビタミンたっぷりのフルーツだって言っただろ?」
「あぁ?!バナナだってビタミンあんだろ!」
「ってか何でバナナしか買ってねえんだよ!フルーツはバナナしかないとか思ってんじゃねえの?!」
「んなわけねえだろ!トレーニング中にはバナナが一番なんだよっ」
は熱出してんの!トレーニングなんかしてねえから!」

「「………」」

まるで予知をしたように寝言を再現した竜胆と、鶴蝶とのボケたやり取りを聞いていた蘭とは、互いに顔を見合わせ再び笑いだす。

「何か笑ったら熱も下がりそうな気がして来た…」
「そ?たまには竜胆のふざけた寝言と鶴蝶のトレーニングバカが役に立つこともあんだな」

未だに玄関で騒いでいるふたりのケンカを聞きながら、蘭がもう一度の唇を塞ぐ。今宵も賑やかな音に包まれた、平和で幸せな夜だった。





「ぼくの明日をあげてもいいよ」その後の灰谷家のちょっとした日常をば笑
時系列はバラバラですが、たまに増えていくと思います。
アンケートへのコメント、ありがとう御座いました🥰