置手紙


1.


平均睡眠時間は12時間。叶うなら24時間は眠っていたい人間だった蘭も、結婚してからは平均時間は8時間と減り、24時間寝るということも殆どなくなってしまった。この日の朝も蘭は自然と目が覚めた。夕べは遅くまで起きていたのだから本音を言えばもっと寝ていたい。しかし一度覚醒した蘭はすぐに違和感を覚えた。いつもピッタリとくっついてる存在がいない。腕を少し動かしただけで隣が空だということが目を瞑っていても蘭には分かった。

「え…?」

ガバっと体を起こし、カーテンの閉め切った薄暗い室内をぐるりと見渡す。それでも愛しい奥さんであるの姿はなかった。時計を見れば午前10時5分。普通の人間ならばとっくに起きている時間だ。しかしこの灰谷家ではまだまだ早朝といった時間帯。夜更かしした次の日に起きる時間ではなかった。ただも最近は勉強の為に早起きをすることもあったので、蘭はが先に起きてリビングで勉強しているんだと思った。寝起きの頭でそこまで考えた蘭はすぐにホっとして再びベッドに寝転がった。冬の朝は寒く、まだまだ布団から出たくはない。しかし今日は昼から出かける用がある。蘭は今起きるか、もう少し寝るか迷っていた。そんなことを考えながら――やはり何か気になって目を開けた蘭は再び体を起こしてベッドから足を下ろした。

(静かすぎるよな…)

が先に起きてリビングにいるのなら多少は物音があったりしてもいいはずだ。なのにさっきからシーンと静まり返っているのが小さな違和感となって蘭の中にモヤモヤしたものを残している。勉強をしているのなら静かでも当たり前なのだろうが、は大抵物音を立てている。ペンケースをガチャガチャと引っ掻き回しながら蛍光ペンや付箋を出したり、パソコンで調べものをする時のキーを叩く音など、リビングから聞こえるのは大抵ほんの些細な物音だが、それでも朝の静かな時間はかすかにそういったものが聞こえてくる。なのに今日は一度も、小さな音でさえ聞こえてこない。集中して黙々と勉強してるのかもしれないが、蘭は何となく気になってリビングを覗いてみることにした。

(ああ…もしかしてコタツでまたうたた寝してるかも…)

の誕生日に強請られ、コタツを買ってからはそういったことが増えたのだ。それならまだいいが、あんなとこで寝てしまったらまた風邪を引いてしまう。蘭の心配はそこだった。すぐに部屋を出てリビングまで歩いて行く。

「あれ…」

てっきりコタツで寝てるか勉強してるかどちらかだろうと思ったのに、そこには誰もいなかった。念のため、コタツ布団をまくって中を覗いてみたものの――以前が中まで入りこんでて気づかなかったことがある――やっぱりいない。

「え、嘘だろ?」

人は信じられない出来事に直面すると、一瞬だけ頭が回らなくなる。部屋にもリビングにもいないとなると、後はバスルームかトイレ、竜胆の部屋しか思い当たらない。だがそこにはいないだろうと蘭は思った。そもそも人のいる気配がしないのだ。コタツテーブルの上にも勉強道具といったものは見当たらない。テレビのリモコンやチラシのような紙、が使っているペンケースだけが置かれている。蘭はまず竜胆の部屋を覗いてみた。しかし蘭の部屋同様カーテンが閉じられ、薄暗い部屋の中には竜胆が寝ているだけだった。寒いのか布団に潜って丸くなっているのが何となく見えた。そのまま静かにドアを閉めると、一応バスルームやトイレも覗いたが、案の定はいなかった。となるとこの家にはいないという結論に達してしまう。蘭は今年一番と言っていいほど焦って来た。はまずひとりでこの家から出たことがない。出かける時はたいがい蘭と一緒であり、この辺の地理を覚えさせている途中だった。そんながひとりで家を出ていくはずがない。蘭はそう思っていたが、ふと夕べの会話を思い出した。

「まさか…」

と蘭が呟いた時、テーブルの上にメモ用紙が置いてあるのに気づいた。さっきは視界には入ってたものの、チラシか何かかとスルーしていたものだ。だがよく見るとが漢字の読み書きを練習をしているノートを破いたものだった。蘭は大股で歩いて行くと、すぐにその紙を手に取った。

「……は?」

今度こそ、蘭の顏から血の気が引いた。





2.


竜胆は蘭に部屋のドアを開けられた時、実は目を覚ましていた。夕べは珍しく飲みにもいかず、部屋に籠って新しく買ったコミック本を読み漁っていたらいつの間にか寝落ちしてしまったようで、先ほど一度トイレに行きたくて目が覚めた。それが朝10時になる少し前。用を足し、再び寝ようとベッドに戻ってウトウトし始めた頃、ドアの開く気配に気づいた。またか?と思ったが、ドアを開けた人物は声をかけてくるでもなく何かを確認しているような感じがした。そこで竜胆はドアを開けたのが蘭だと気づく。

(兄貴がオレの部屋を覗くなんて珍しいな…何かあったのか?)

そう考えていた矢先、今度は思い切りドアが開け放たれた。バンっという派手な音にギョっとしたのと同時に「竜胆!」と蘭が中に飛び込んで来た気配がして、竜胆が顔を出す間もなく布団を剥がされた。

「な…何だよ…っ?」

さすがに驚いた竜胆は枕元にあった眼鏡をかけてベッド脇に立っている蘭を見上げる。いくら兄でも寝ている弟の布団を剥ぐなんて酷いんじゃね?と思ったし言おうと思った。しかし蘭の顏がこれまで見たこともないほど青ざめているのに気づいた。

「ど…どうしたんだよ、兄貴…何か――」

と言いかけた時、蘭が一枚の紙を竜胆に差し出した。しかも何気に手が震えている。

「こ、これ…どういう意味だと思う?」
「……は?」

蘭は珍しく動揺しているようだった。竜胆は意味が分からず、まずは差し出された紙を手に取り、ひっくり返した。

「…え?」

そこには一言――。"探さないで下さい"と書いてあった。




3.


「おう、年齢より若く見えるけど17歳だから。ああ。じゃあ宜しく頼むわ。見つけたらオレか兄貴のケータイ鳴らして」

そこで電話を切ると、竜胆はふうっと息を吐いて時計を確認した。午前11時過ぎ。こんな時間に起きてる仲間はそんなにいないが、何とかすぐ動けそうな人間には連絡することが出来た。後はが早く見つかるのを祈るしかない。

「ったく…アイツ、何やってんだよ…」

テーブルの上にある紙を見て、竜胆は溜息をついた。まさか朝からこんなことになるとは思わない。

"探さないで下さい"

その一言を残して、兄嫁が消えたことは灰谷家にとっては大事件だ。蘭はこれまで見たこともないほど動揺していた。すっかりが家出をしたと思い込み、大嫌いな警察にまで連絡して捜索願いを出そうとしたのをどうにかやめさせ、竜胆はが出ていく心当たりがないかを蘭に尋ねた。最初は「んなもんあるわけねぇだろ!」とキレていたのだが、竜胆がビビりながらも根気よく同じ質問を繰り返すと、一つだけ心当たりがあるという。原因があるとしたらそれくらいしか思い当たらないと言うので、竜胆は何があったのかを詳しく訊いてみた。
蘭の話はこうだった。

「実は夕べちょっとケンカっつーか…寝る前にがスネちまって…」
「…珍しいじゃん。原因は何だよ」
「いや…が珍しく明日はお出かけしていいかって訊いて来たから、明後日ならいいよって言ったら、それじゃダメだって言いだしてさ」
「…え、何で出かけたいって?」
「それは言わねえんだよ。ただオレは今日の昼に管理会社の人間と会う約束があるから一緒に行けねえし、だから明日じゃダメかって聞いたんだけど…」

テナントを貸してる人間が家賃のことでゴネだし管理会社の人間とモメたことで、オーナーである蘭に相談してきたようだ。その用事で出かけるからとに説明したが、ひとりで出かけるから大丈夫だと言ってきたことで「それは心配だからダメ」と言い聞かせてから寝たらしい。

「でもまさか起きたらいねえと思わねえし、そんな置手紙みたいなことするとも思わねーじゃん…」
「そりゃ…まあオレもビックリしたけど…あのだからなァ…」
「あ?どういう意味だよ」
「だってアイツ、こっちが予想もしねえことやったりすんじゃん…」
「……だな」

竜胆の言葉にさすがの蘭も素直に頷いた。だが心配なのか、蘭は深い溜息をついている。頼みの綱だったケータイもかけてみたら蘭の部屋で着信音が鳴り、は持たずに出かけたようだった。完全に探す手立てを失い、蘭の顏は青くなるばかりで、竜胆も途方に暮れた。

「…やっぱ捜索願い――」
「い、いや、まだ家出と決まったわけじゃねえだろ」

意を決したようにケータイを握り締める蘭を見て、竜胆は慌てて止めた。そもそも事件なら動いてくれるだろうが、単に置手紙をして家を出ただけでは家出とみなされ、"民事不介入"と追い返されるのがオチだ。それでなくても二人は前科が二回もついている。警察がそんな人間相手に親身になってくれるとも思えなかった。

「と、とにかくオレがすぐ動けるヤツを探して探させるから、兄貴は管理会社の人間と会って来いよ」
「あ?こんな時に行けるわきゃねえだろ。が心配でゴネてる客まで殴っちまいそうだわ」
「…そ、それはやめろ。一般人殴ったら死ぬかもしれねえし、また捕まりたくねえだろ?が泣くぞ」
「………そうだな。じゃあ…顔で脅すだけにしとくか」
「それもどうかと思うけど……まあ殴るよりはマシか」

竜胆がどうにか説得し、蘭が出かけて行ったのは今から10分前のことだった。蘭を見送ったあと、竜胆はすぐに仲間へ電話をかけまくり、蘭の嫁がいなくなったので探してくれと頼んで回った。そして自らも着替えてマンションを出ると、がひとりでも行けそうなところ、行きそうなところを片っ端から探していく。近所のブラッセリ―や、コンビニ、ヒルズの周辺と、連れて行ったことがある場所を必死に探した。

「…はあ~どこ行ったんだよ、のヤツ…!」

竜胆がこんなに必死に走り回ったことなど、これまで一度もない。それも兄の奥さんを探し回るハメになるとは思ってもいなかった。

「マジで家出じゃねえよな…だいたいどこ行くっつーんだよ」

が帰れる場所など今はどこにもない。義兄の京介とも養子縁組を切ったし、その恭介も六本木から撤退し、今は行方知れずだ。そもそもに酷いことをしていた男を頼るとも思えない。

「…まさかマジで兄貴に愛想を尽かしたわけじゃねえよな…」

ふと足を止め、独り言ちる。恐ろしい想像をしてしまったことで竜胆の顏も一気に青ざめた。もし本当にそうなってしまった場合、蘭がどういう行動に出るのか、全くといっていいほど想像がつかない。あれほど溺愛しているが本気で蘭のことが嫌になって別れるつもりで出て行ったのなら、蘭にどれほどのダメージを与えることになるか分からないからだ。今までそんな経験はないから余計に怖い。

「……六本木が荒れそう…」

目が合ったという理由だけで、蘭が次々と相手をボコしていった頃のことを思い出し、竜胆はゾっとした。
狂極とモメた時の蘭に戻ってしまえば、この街の平穏は終わる――!
竜胆は再び走り出すと、今度はヒルズ内を探すべく、人で溢れている六本木の象徴へ飛び込んで行った。




3.


『…見つかったか?』

午後4時。蘭から電話でそう訊かれた時、竜胆はグッタリとした様子でマンションに戻って来たところだった。

「いや…つーか見つかったらソッコーで兄貴に連絡入れるって」
『…だよな』

それは蘭にも分かっているだろうが、かけずにはいられなかったのだろう。深い溜息と共に『こっちは終わったし今から戻る』と言った。

「ああ…そんでゴネてたヤツはどうなった?」
『これまで通りの家賃でいいって納得させた』
「……あ、そう」

あっさり言い切る蘭に竜胆は苦笑が洩れた。ゴネてたヤツは不運だったな、と思う。何も蘭の機嫌が史上最悪な時に揉め事を起こさなくてもいいのに、と同情する。蘭との電話を切った竜胆はとにかく喉が渇いたと重たい足を引きずり、キッチンへ向かった。冷蔵庫からコーラを取り出し、一気に飲んで喉を潤す。

「はぁ~疲れた…何年ぶりだよ、こんなに走り回ったの」

いや、人を探して走り回ったことは初めてだ。だけど全力疾走したのは小学校の運動会以来かもしれない。

「…マジでどこ行ったんだよ、…」

淡い期待をしつつマンションへ戻って来たが、シーンと静まり返った室内を見て竜胆も本気で心配になってきた。

「探さないで下さいって…行くとこないクセに…」

キッチンの壁に凭れ掛かり、その場にずるずると座り込む。いつの間にか傍にいるのが当たり前になってたんだな、と今更ながら誰もいない部屋を見て思った。こんなに寂しい空間だったっけと苦笑が洩れる。

"竜ちゃん"

ふとの笑顔が頭に浮かび、竜胆は胸が苦しくなるほど痛むのを感じた。気づかないうちに、こんなにも大事な存在になっていたんだなと素直に思う。

(オレでさえこんなにキツいんだから兄貴は相当だよな…)

今この瞬間もきっと蘭はのことを心配して気が気じゃないはずだ。何度かケータイが鳴り、仲間からの報告はあったが、誰もを見つけられなかった。この辺の地理などは分からないのに一体どこへ消えてしまったんだと竜胆は項垂れた。

「もっかい探しに行くか…」

残りのコーラを飲みほし、竜胆は重たい腰をどうにか立たせた。だが空き缶をシンクに置こうとした時、ふとそこに汚れた耐熱皿があることに気づく。

「は?何だ、これ…」

朝から大騒ぎだったせいでキッチンの、それもシンクまではチェックしていなかった。そこでハッとしたようにキッチン周りにあるものを確認してみる。

「…オーブンレンジが開いたまま…?これ…チョコレートか?」

キッチン台の上には中途半端に開けられた大きな板チョコと、中途半端に開いたオーブンレンジ。そしてシンクに置かれた耐熱皿には黒いものがこびり付いたままだった。

「まさかこれ…がやったのか?」

竜胆はオーブンレンジの中を覗いてみた。特に汚れた様子はないが、かすかに甘い匂いが漂ってくる。そこで目の前にあるものを繋げて考えてみた。

「え…のヤツ、オーブンレンジでチョコ溶かそうと…してた?」

夕べ最後にキッチンに入ったのは竜胆で、その時はこんな状態じゃなかった。ということは今朝、がこれをやったということになる。この惨状はもしかしたら上手く時間を調節できずにチョコを焦げ付かせてしまったのかもしれない。

「家出するヤツがこんなことしねえよな…つーか何しようとしてたんだ?コレ」

とりあえず耐熱皿に焦げ付いてるチョコレートの残骸らしきものへ洗剤をかけて、竜胆は蘭へ電話しようとした。が、ふと手が止まる。

「まさか…コレ失敗したから落ち込んで家出とか…」

以前にもフレンチトーストを作ろうとして焦がした時もかなり落ち込んでいた。まさか今日も?とは思ったものの、失敗したからと言ってを叱ったことはない。家出する理由にしては少し小さい気がした。

「と、とにかく兄貴に電話だ…」

そう思った時、玄関の方からドアの開閉音がして、竜胆はすぐに走って行った。蘭が帰って来たのかと思ったのだ。

「兄貴…!実はキッチンに――」

と言いながら玄関へ続くドアを開ける。だが、そこにいたのは蘭ではなかった。

「は?何でオマエ…」

竜胆はその人物を見て、ポカンとした顔で立ち尽くしてしまった。





4.


「クソ…どこ行ったんだよ…っ」

仕事も終わり、蘭は家に向かう途中ものことを探し回っていた。すでに午後の5時。竜胆から連絡がないのはまだ見つからないってことだろう。蘭はと一緒に行った場所を全て探した。

(探さないでって…何で…夕べだってちゃんと話したら分かってくれたはずなのに)

が蘭のところへ来て一年が過ぎ、だいぶ外にも慣れて来た。だから一人でも出かけたくなる気持ちは分からなくもない。でもまだ蘭にしてみればを一人で外出させるのは心配だった。高校に受かれば一人で登校することになるのだから、そろそろ、とは思っていた矢先のことだった。

「一度帰るか…」

この辺は仲間も散々探し回ってくれたはずだ。蘭は諦めて一度マンションへと戻って来た。

「はあ…疲れた…」

寝起きから今の今までずっと不安が付きまとい、精神的にも疲れていた。管理会社の人間からはトラブルを解決したことで感謝をされたものの、蘭からすれば、ただ苛立ちをゴネてる相手にぶつけただけのことだ。そもそもあの男がゴネさえしなければの出かけたいという頼みを断らずに済んだのだ。

「アイツ、やっぱぶん殴っておけば良かった」

散々ビビらせたのだが、蘭の怒りは収まらない。ボヤきながらエレベーターを降りると、重たい足を引きずるようにして部屋まで歩いて行く。もし今夜中に見つからなければ明日はプロを雇って探させようかと考えながらドアを開ける。
その瞬間――。

「お帰り、蘭ちゃん」
「……っ?」

その声に驚いて顔を上げると、目の前には今の今まで探し回っていた愛しい奥さんが笑顔で立っていた。

「……!オマエ…」
「お、兄貴!やーっと帰って来たー」
「り、竜胆…」

の後ろからひょいっと顔を出した竜胆は、今朝のような青い顔ではなく、明るい笑顔を浮かべていた。しばし呆気に取られつつ、蘭は状況が理解できないでいた。だがまずは目の前にいるを思い切り抱きしめて、夢じゃないことを確認する。

「本物だ…」
「ら、蘭ちゃん…ごめんね…心配した?」

力いっぱい抱きしめると、が困ったような顔で蘭を見上げた。安心した分、余計に当たり前だと怒鳴りたくなったが、そこはグっと堪えて深い溜息を吐くにとどめておく。何があったにせよ、こうして戻って来てくれたことは素直に嬉しい。

「心配すんに決まってンだろ?…っつーか、どこに行ってたんだよ、は」
「え、えっと…」
「私の家だよー」
「…な…アヤ?!」

そこへ幼馴染のアヤまでが顔を出し、蘭は更に唖然とした顔で目の前の3人を交互に眺めた。竜胆は事情を聞いたのか、どこか気まずそうな顔をしている。

「何でオマエが…?!ってかオマエか?をそそのかしたの!」

に怒れない分の怒りをアヤにぶつけるように怒鳴れば、アヤは「はあ?そんなわけないでしょ!」と呆れたように言い返してきた。

「私は頼まれただけだよ」
「は?何を」
「あ、あの蘭ちゃん…こっち来て」

二人がモメては困ると思ったのか、が蘭の腕を引っ張りリビングに連れて行く。そこではテーブルの上にある紙袋の中から可愛いラッピングを施した箱を取り出し、蘭の方へ差し出した。

「ハッピーバレンタイン、蘭ちゃん」
「…………え?」

目の前に差し出されたのは黒い包装用紙に包まれた箱で紫色のリボンがかけられている。そこに付いているカードには【Happy Valentine】の文字。それを見た蘭は今日がバレンタインデーだったことに気づいた。

「まさか…これ…」
「あのね、アヤちゃんに教えてもらいながら私が作ったの。蘭ちゃんの好きなビターチョコだよ」
「オレも貰った」

竜胆も黒い箱に青いリボンのついたものを手に苦笑している。蘭は全てのことを理解して、その場にしゃがみこんだ。ホっとしたのと同時に、色んなことを一気に理解したことで頭の中と感情がグチャグチャだった。

「ら、蘭ちゃんっ?」
「…ったく…マジか…」
「あ、あの…ごめんね…?心配かけたよね…」
「はあ…もう…何でオマエはこう…」

朝からの疲れが一気に出たのか、蘭はフラフラと立ち上がり、ソファに倒れ込んでいる。それを見たが慌てて蘭の前にしゃがんだ。

「ごめんなさい…」
「じゃあ…今日出かけたいって言ったのは…」
「アヤちゃんとこ…でも蘭ちゃんお仕事だって言うし、だったら内緒でチョコを用意しようと思って朝起きた時にアヤちゃんにメールしたの…」
「じゃあ何で朝から出てったんだよ。アヤは学校だったろ」
「チョコの材料を買いに行ったの。それで一回戻って来たんだけど誰もいないから、そのままアヤちゃんとこ行った」
「……マジ」

の説明に蘭は今度こそ疲れ果てたようにソファへ突っ伏した。聞けば、は竜胆が仲間達と散々探し回ってた間に一度マンションに戻り、まずは自分でチョコを作ってみようと挑戦したらしい。でも案の定失敗したのでアヤに連絡し、迎えに来てもらったようだ。

「いや、チョコ作るならここで作ってろよ…」
「それじゃーサプライズにならないでしょ?だからウチに連れてったの」
「ったく…オレら走り損の探し損だったわ…」

竜胆も苦笑交じりでソファに座り込んだ。先ほど竜胆が出迎えたのはアヤとチョコを持っただったのだ。その時は竜胆も蘭と同じような反応になってしまったので兄の気持ちがよく分かった。

「いや、でもちょっと待て」

と言いながら蘭がガバっと起き上がる。そしてテーブルの上に置いたままの紙を手に取ると、それをとアヤに突きつけた。

「じゃあこれは何だったんだよ。"探さないで下さい"ってどう考えても家出する気満々に見えるけど?」
「う…」

そこで初めての顏が引きつった。だいたいこの置手紙のようなものがあったからこそ、あんなにも慌てて探し回ったのだ。
は助けを止めるようにアヤを見上げていて、アヤはアヤで苦笑いを浮かべつつ「あーそれね」と肩を竦めた。

が一人で買い物に行くって言うから、なら二人が心配しないように置手紙だけ残していけばって私が言ったの。でもまさかそんな文を残してるとは思わなかったけど」
「は?」
「あ、あのね、蘭ちゃん、それは…私の勘違いで」
ってばドラマで見た置手紙の文をそのまま書いたみたいなの」
「…ド、ドラマ?」
「だ、だって…チョコの材料買いに行きますって書いてもバレるし、置手紙って何を書けばいいのかなって考えてたら、この前見たドラマの中であの言葉を書いてるシーンがあったからあれでいいのかなって思って…」

二人に物凄く心配をかけてしまったことを理解したのか、の声も次第に尻すぼみになっていく。蘭の為にサプライズを仕掛ける為の行動が、まさかこんなに大ごとになっているとは思ってもいなかったようだ。今では泣きそうな顔で蘭を見つめていた。

「…はあ…オマエはほんっと…」
「ごめんなさい…蘭ちゃん。怒らないで…」
「…怒ってねえよ」

遂には瞳に涙をいっぱいためているを見て、蘭もやっと笑顔を見せた。そのままを抱きかかえて膝の上に座らせると思い切り抱きしめる。それだけで自分の腕の中に戻って来た安心感で満たされて行く。

「…良かった…家出じゃなくて」
「い、家出なんかしないよ…蘭ちゃんと離れたくないもん…」
「…

がポツリと呟く。蘭にとって、その言葉が何より安心感を与えてくれた。身を屈めての唇にちゅっとキスを落とすと「チョコ、サンキューな」と言ってもう一度抱きしめる。正直に言われるまで、今日がバレンタイデ―だということをすっかり忘れていた。

「まあ…イチャイチャすんのもいーけどさー。まずは仲間にも報告しないといけねーんじゃね?」
「ああ、そっか…」

竜胆に言われて蘭もそのことを思い出した。

の為に皆、必死に探し回ってくれたんだからな」
「え、そうなの…?」

竜胆に額を小突かれ、は申し訳なさそうに「ごめんね」と謝った。蘭を喜ばせたいという思いで始めたことだが、とんだサプライズになったな、と竜胆も苦笑する。

「まあ、アイツらにはオレから連絡しとくよ。兄貴は自分が連絡したヤツに見つかったって報告しといて」
「あーそっか…。そうだな…」

どうやら蘭も誰かにの捜索を頼んでいたらしい。コートのポケットからケータイを取り出し「アイツにちゃんと言わねえとまだ探してそー」と苦笑いを浮かべている。それを見た竜胆は「そう言えば…誰に頼んだんだよ」と尋ねた。

「そりゃー自称のボディガードと家庭教師の二人だよ」
「……げ。絶対アイツらまだのこと探してンだろ」

竜胆も顔を引きつらせながら笑っていたが、当の本人だけはキョトンとした顔だ。

…オマエの周りはいい男ばっかで良かったなー」

ぐりぐりと頭を撫でつつ竜胆が笑う。

「まあ、それはオレを筆頭にってことだろ?」
「…はいはい」

早速を抱きしめながら頬にキスをしまくっている兄貴を見て、竜胆は呆れたように肩を竦めた。今夜は飲みに行こうかと思っていたが、すっかりそんな元気はなくなってしまった。

「せっかくのバレンタインなのに…」
「い~だろ、別に。からもらえれば」
「…それ兄貴だけだろ」

仲良く部屋に戻っていく二人を見送りつつ、竜胆は「やっぱ今年は彼女作ろ…」と呟いて、からもらったチョコを口の中ヘ放り込んだ。




5.


「あ~疲れた…もう無理。動けねえ」

アヤにお礼を言って見送った後、部屋に戻った瞬間、ベッドの上にバッタリ倒れ込んだ蘭を見て、は心配そうに駆け寄った。蘭は言葉通り本当に疲れているのか、コートも脱がないままグッタリしている。

「蘭ちゃん…ほんとにごめんね…」
「分かったから、もういいって」

ベッドの横に歩いて来たを見上げ、蘭は寝返りを打った。こうしてが傍にいてくれると、さっきまでの不安が全て綺麗に消え去っていく。

「まあ…でも二度と置手紙はなしな?」
「…う…」

がしゅんとしたように項垂れたのを見て、蘭は両手を伸ばした。この疲れは疲れさせた本人でなければ癒せない。

「こっち来て癒して」
「う、うん」

言われた通りベッドの上に上がり、蘭の腕の中へ体を収める。蘭は寝転んだままをぎゅっと抱きしめた。

「蘭ちゃん…」
「ん?」
「大好き」
「オレも」

答えながら、蘭は体を起こすとそのままの勢いでの上に覆いかぶさった。蘭の三つ編みが顔に触れて、が驚いたように目を瞬かせる。艶のある頬へ口付けるとチョコの甘い香りがした。

「今日のはチョコの匂いだな」
「え…ほんと?ずっとチョコに触ってたからかな」
「美味しそうな匂い」
「ん…っ」

チョコの匂いに導かれるようにの唇を塞いで舌を滑り込ませると、口内をあますことなく味わう。今日がバレンタインというなら、チョコよりとのキスの方が十分すぎるほどに、甘い。

「ら…蘭ちゃん…?」
「オレへのチョコは…でいいかな」
「えっ」
「今夜は心配させた分、たーっぷり食べさせてもらうから、覚悟しろよ」

驚くの唇をペロリと舐めて笑みを浮かべれば、白い頬が一気に赤みをさして、大きな瞳を恥ずかしそうに揺らす。それを満足そうに見つめながら、蘭はチョコよりも美味しそうなの唇をたっぷりと味わった。




―オマケ―


蘭がをたっぷり味わっている頃――。

「おい、そこのヤツ、ちょっとコッチ来い。この可愛らしい子を見かけなかった――」
「ひぃっ!ボ、ボクお金は持ってないんですーっ!」
「はぁ?あっおい!ちょっと待て、この野郎!」

夜の六本木を、オッドアイのガラの悪い男がウロつき、話しかける相手にことごとく逃げられていたそうな。