36度2分の純情-01



彼から首筋にキスをされた時、一番驚いたのはドキドキしてしまった自分に対してだったかもしれない――。


1.

あれは13歳の初夏だった。隣に住む幼馴染で不良のケンヤが、最近知り合った先輩の車でドライヴに行くからオマエも連れてってやるよと誘いに来た。先輩に「野郎ばっかじゃつまんねえ」と言われたらしいが他の女友達たちは用があると断られたようだ。ケンヤの家と同様に複雑な家庭で、同じく不良に片足を突っ込んでいた暇人の私はその誘いにすぐ飛びついた。車持ちの先輩と知り合えるというだけでワクワクする、そんな年頃だったのかもしれない。

その日の夜、ケンヤの先輩のジンさんが車で私達を迎えに来てくれた時、彼はひとりじゃなかった。助手席にはジンさんが以前からつるんでいるという男の子が乗っていた。長い金髪を三つ編みにしたやたらと綺麗な顔立ちの男。ケンヤが挨拶してたから後でこっそり誰?と尋ねたら、彼の名前は灰谷蘭と言うらしい。顔立ちだけじゃなく名前まで綺麗なその男は、私やケンヤと同い年だった。気だるそうな瞳が印象的で、愛想がいい方ではなかったけれど、初めて彼と目が合った時、私を見て不意に見せた微笑みが、あまりに綺麗だったから強く印象に残った。

初めての顔ぶれで行ったドライヴはそれなりに緊張はしたけれど、ジンさんは気さくな人で男三人の中に私だけ女の子だったせいか色々と気遣ってくれたりもした。ドライヴじたいはどこへ行くでもなく、ただ適当に街を流しては知り合いを見つけて止める。終始そんな感じだったけれど、灰谷蘭が眠いと言い出し朝方には解散になった。そして一週間は経った頃、またしてもケンヤからドライヴに行こうぜと誘われたのをキッカケに、私は灰谷蘭と再会することになる。




2.

学校をサボって家で寝ていたらケータイが鳴った。相手はケンヤで『何ひとりだけサボってんだよ』と文句を言いつつも『オマエ、今夜暇だろ?またドライヴ行かねえ?』と誘って来た。

「ドライヴって…ジンさんと?」
『おー。今夜は予定もなくて暇なんだと。んでオマエを連れて来いって言われてさ』
「え、ジンさんに?」
『アホか。ジンさんは19だぞ。中学生相手にするかっての。オマエ呼べって言ってんのは蘭くんの方』
「蘭…」

その名前を聞いてやけに胸がざわめいた。あの夜、一度だけ言葉を交わしただけの男の顔が脳裏を過ぎる。

"オマエってケンヤの彼女?"

ドライヴの途中で寄ったコンビニで飲み物を選んでいると、気づけば彼が隣に立っていて、いきなりそんなことを問いかけられた。驚いたのと同時に変な誤解をされるのも嫌でハッキリと「まさか。ただの幼馴染だよ」と応えると、彼はふーんと特に興味もなさげに頷いて、飲み物を手に取るとそのままレジへと歩いて行った。あの夜、彼と交わした会話はたったそれだけで、ドライヴ中も助手席にいる彼と、後部座席にいる私との直接的な会話など皆無だった。男同士で盛り上がっている中、私だけがふたりと初対面ということを差し引いても、女が私だけというのも男3人の会話に入りづらい空気だったのだ。だから何となく気乗りはしなかった。

「何で…?あの人とほとんど話もしなかったけど…」
『知らねーよ。蘭くんから直電来てあのって女も呼べって言われただけだし』
「…何それ。何かヤバい感じ?目つけられたとか…」

と言っても特に怒らせたわけでもないし名指しで呼び出される理由も思い当たらない。少し不安に思っていると、ケンヤが思い切り吹き出した。

『目つけられたんだとしてもオマエが思ってるようなことじゃねぇだろ』
「どういう意味…?」

意味深な言い方が気になって尋ねると、ケンヤは苦笑気味に『あの人、女に手ぇ早いって話だし』と呟いた。それを聞かされた時、背中に冷やりとしたものが走った。この時の私はまだ男の子と付き合ったこともなく、まだまだ男女のそういうことにも疎かった方で、興味はあるけどいまいちピンときていなかったのかもしれない。なのに同い年の彼はそんな噂が流れるほど女の子に手を出してるのかと少しだけ驚く。あと、どことなくケンヤが彼に気を遣ってるような話し方をするのも気になった。

「い、いい…。私はやめとく」
『は?何でだよ?』

急に怖くなった私はドライヴの誘いを断ってしまった。あんな怖そうな男に違う意味で目をつけられたというだけで、すっかり怖気づいてしまったのだ。
私の言葉にケンヤが酷く焦り出した。

『それは困るって、マジで。頼むから来いよ』
「な…何で?別に用事があったらしいとか言って誤魔化せばいいじゃない」
『いや、無理!蘭くんの命令は絶対だから、オマエが来てくんねえとオレがボコられるかも…』
「はあ?何よそれ。そんなことくらいで…っていうか、ケンヤ。この間から気になってたんだけど、あの灰谷って男と私達同い年よね。何でそんなに気を遣ってるわけ?」

この前のドライヴの時からそんな印象を受けて気になっていたことを尋ねると、ケンヤは真剣な声で『蘭くんはマジでヤバい人だから』と言い切った。聞けば車を出したジンさんも実は灰谷蘭の下についているという。6歳も上の人が若干13歳の中学生に従うわけがないと思ったけど、ケンヤはどこまでも真剣だった。

『蘭くんには弟がひとりいてさ。ふたりはマジでめちゃくちゃケンカ強ぇんだわ。六本木界隈じゃ灰谷兄弟って超有名なくらいヤバい兄弟なんだ』

ケンヤの話を聞いて唖然としてしまった。その話が本当なら絶対にもう二度と会いたくない。13歳で年上まで従えてしまえるほどの男に目をつけられたなんて本気で怖すぎる。

「そんなの聞いたらますます行きたくない。ねぇ、ケンヤ…上手く断ってよ。誰か他の女の子を連れてけば?ケンヤだっていっぱい女友達いるじゃない」

ケンヤは人懐っこい性格で、私と同じくクラスで浮いた不良ではあるけど、他の学校の女の子とも友達になったり、知り合いは多い方だ。もしこの前みたいに男同士のドライヴが嫌で私を誘ったんだとしたら、他の女の子でもいいんじゃないかと思った。けれどケンヤは『オマエを呼べって言われたのに他の女連れてった時点でオレは殺される』と大げさなことを言いだした。でも本人は至って大真面目らしい。それほど怖い人だと聞かされれば聞かされるほど、行きたくなくなるというのに。

『なあ、マジで一生のお願い!別にオマエをどうこうしようとか、そういうんじゃないかもしんねぇし、だいたいオレやジンさんもいるんだから大丈夫だろ?』
「それは…そうだけど…」
『オマエと蘭くんをふたりきりにしないようにするからさ!マジで頼むって』

最後は哀願するような声を出すケンヤに、私は悩んだあげく結局はドライヴに行くことを承諾してしまった。まだ何かされると決まったわけでもないし、もし本当に私が行かなかったせいでケンヤがあの人にボコられでもしたら後味が悪すぎる。そう思って行くことにしたけれど、本当はやっぱり少しだけ、怖かった。




3.

この前と同じように家の前で待っていると、ジンさんの車が時間通りに迎えに来てくれた。ジンさんは窓を開けて「乗りなー」と笑顔を見せてくれたけど、私の顔は少しだけ引きつっていたかもしれない。その理由は、助手席にいると思っていた相手が、何故か後部座席にいたからだ。

「…ケ…ケンヤ…」

私が助けを求めるように隣を見ると、ケンヤは状況を把握したのか「隣に座るくらい大丈夫だろ?」と小声で言ってサッサと空いている助手席へと乗ってしまった。心の中で裏切者ー!と叫んでみたところで、こうして顔を合わせてしまった手前、帰るわけにもいかず。私は仕方ないと決心して後部座席のドアを開けた。

「こ…こんばんは」

乗り込んでから隣に座っている彼を見ないまま挨拶をすると、彼はちらりと私を見て「こんばんは…だって。かっわいいのな」と一言呟いて笑いを噛み殺している。その態度を見てバカにされたような気持ちになった。いつもならムっとした顔をしてしまったかもしれない。けれどケンヤから散々彼が危ない男だという話を聞かされた後で、そんな顔をするわけにもいかず、聞こえないふりをしてしまった。

「んでーどこ行く?蘭」

ジンさんは早速車を街中方面へと走らせながら、私の隣に座っている彼に声をかけた。彼は黙ったままケータイをいじっていた手を止めて、ふと私を見ると「は?どっか行きたいとこある?」と訊いて来る。その不意打ちに焦った私は「え、私?」と聞き返してしまった。何で私に聞くの?と戸惑っていると、彼は「行きたいとこねえのかよ」ともう一度訪ねて来る。何となく威圧的に感じるのはさっき聞かされた話のせいだろうか。

「え、えっと…」

ドライヴに行くのもこの前が初めてで、どこと訊かれてもすぐには思いつかなかった。この前は街中をただ流してただけだったけど、今夜もてっきりそんな感じだと思っていたのだ。

「この前、どこに行くんでもなかったし、オマエ退屈だったろ?だから今夜はが行きたい場所あるならそこ行こうって話してたんだよねー」

彼はそう言ってケータイから顔を上げると「で、どこ行きてえの?」とにっこり微笑む彼の顔はやっぱり綺麗だなと見惚れてしまいそうになる。けどこの空気はあくまで私の答え待ちといった様子だ。こういう時、明確な答えがないと脳内では行きたい場所を探す作業に入っているようでいて入っていない。要は気持ちが焦るばかりで普段ならパっと浮かぶことさえ出てこなかった。そんな私を見かねたのか、ケンヤが後ろを振り向いて「、海に行きたいって言ってたじゃん」と助け船を出してくれた。

「あ…そ、そう…だね」

ケンヤの話に合わせてすぐに頷く。彼は「海だって」とジンさんに声をかけ、ジンさんは「りょーかい」と笑いながら頷いてくれたのでホっとした。隣で小さく笑う声が聞こえて視線を向けると、笑いを噛み殺している彼と目が合う。鼓動が僅かながら跳ねたけど、彼の視線はまたすぐケータイへと戻された。もしかしたらケンヤの話に合わせただけだと気づいたのかもしれない。そんな顔をしてた。

ジンさんの運転は免許のない私が見ても上手いと思うくらい、スピードを出していても体に殆ど負担もないほど滑らかだった。ケンヤがジンさんは暴走族の頭だった人、と話してたけど、不良の人達は若い頃から無免許でバイクや車を乗ってるせいか、その辺のテクニックが凄いなと感心してしまう。いや無免許はダメなんだけども。

幸いジンさんは免許の取れる年齢になってすぐ取りに行ったと話していた。それくらい車が好きなのかと思って、この前のドライヴの時に尋ねたら「いや、蘭がドライヴに行きたいって言うから」と何ともおかしな答えが返って来たことをふと思い出した。あの時は優しい人だなと思っただけで特に深く考えなかったけど、実はそれも彼の命令ってことなんだろうか。怖い、怖すぎるぞ、灰谷蘭。

ちらりと隣に視線を向ければ、彼は相変わらずケータイをいじってる。でも時々窓の外の景色を眺めている横顔は年相応に見える気がした。今は膝の上に置かれているケータイを持つ手は、ケンヤが話してたようなケンカが強い手にはあまり見えない。男の子にしては線が細くて指も長いから素直に綺麗な手だなと思った。

「何だよ」
「…えっ」

視線を感じたのか、不意に彼が顔をこっちへ向けた。こっそり手を見ていたのを気づかれたかもしれない、と少しだけドキドキする。何か言い訳に使えるものはないかと探した結果、彼の持っているケータイを指さした。

「その機種…最新のやつだなぁと思って…」
「ああ、これ?昨日変えたばっかでさー。まだ操作慣れねぇから手になじむまで無駄にいじってんの」
「そう、なんだ」

だからずっとケータイをいじってたんだと理由が分かり、納得した。私も機種が変わると同じようなことをするからだ。

「それ使いやすい?」

怖いけど、隣にいるのに無言もツラいと思って当たり障りない話を振ると、彼は意外にも話に乗って来てくれた。

「まあなー。前のよりは色々出来ることも多いし覚えりゃ便利かもな。は何使ってんの?」
「私は…灰谷くんが今使ってるやつの前の機種なの」

偶然にも使ってるケータイは同じメーカーの同じ機種だったことで、また一つ話題が出来たとホっとしていると、彼が不意に苦笑いを浮かべた。

「同い年だろ?蘭でいいって」
「え…で、でも…」
「女から苗字で呼ばれること殆どねえから気持ちわりぃし」
「そ…そうなんだ…」

ということは名前呼びする女の子が周りにわんさかいるということか。ケンヤが話してた通り、女に手が早いというのは本当みたいだ。

「じゃ、じゃあ…蘭…くんって呼んでいい?」
「おー。ってか何の話だっけ」
「ケータイの機種が同じって話」
「あーそうだった」

思い出したように彼が笑った。良かった。普通に会話できてる。新しい機種の機能を教えてもらうという他愛もない会話だけど、こうして話してるとそんなに怖い人には見えない。

「海、見えて来たな」

ふと窓の外に視線を向けた蘭くんが、ポツリと呟いた。窓を開けるとかすかに潮の香りがして、懐かしい感覚に包まれた。最後に海へ来たのは小学校6年の時だ。あの時、私は浜辺に刺さっている大木で遊んでいて、足を滑らし少し深い辺りに落ちてしまった。おかげで溺れて父に助けてもらったものの、帰りの車内では腕を上げることすら出来ないほどの疲労感に襲われたのだ。水の中で相当もがいたせいだろう。水の中では想像以上の体力を消費するんだと身を以て知った。あれは溺れてみないと分からない。それ以来、海には来ていない。

「ついたぞ」

ジンさんは誰もいない駐車場に車を止めて大きく腕を伸ばした。ケンヤは早速車を飛び出していき、私も後に続いて降りた。ジンさんと蘭くんは「飲みもの買って来る」と言って自販機の方へ歩いて行く。それを見送りながら私は砂浜で煙草を吸いだしたケンヤの隣へ座った。

「どうだった?」
「え?」
「蘭くん。普通に話してたじゃん。口説かれた?」
「ま…まさか。ケータイの機種が同じだねって話しかしてないし」
「そうなん?あんなにビビってたわりに何か楽しそうに会話してるし、てっきりいい感じなのかと思ったわ」
「…そんなわけないでしょ」

他人事だと思って、と思いながら楽しげに煙草の煙を燻らせているケンヤをジロリと睨む。でも言われてみると最初ほど怖いとは感じなかったのは確かだ。

「まあ、でも蘭くん超短気だから、あんま生意気なこと言ったりすんなよ?」
「ちょっと…脅かさないでよ…」

やっと怖さも取れて来たと言うのに、ケンヤの余計な一言で再び怖くなってくる。でも今のところ彼に対して生意気なことは言ってない。というか私の生意気はケンヤ限定みたいなところがあるから他の人に出すはずもない。ケンヤは保育園くらいの時から姉弟みたいに育ってるから何でも言いやすいのだ。ケンヤは「兄妹・・の間違いだろ」といつも文句を言ってくるけど、ケンヤの方が断然ガキっぽいのでそこは譲れない。

「ほい」
「ひゃっ」

突然冷たいものが頬につけられ、飛び上がる。慌てて後ろを仰ぎ見れば、蘭くんがジュースのペットボトルを持って笑っていた。どうやら後ろから近づいてそれを私の頬にあてたらしい。しかもそのペットボトルを私の方へ差し出した。

「え?」
「これ。この前買ってただろ。好きなんじゃねーの」
「あ…」

手に押し付けられたペットボトルは確かにこの前ドライヴ途中に寄ったコンビニで買ったものと同じ商品だった。覚えててくれたんだ、と少し驚きつつも「あ、お金」と言うと、蘭くんは「いらねー」と言いながら、自分はコーラを飲んでいる。お礼を言おうと思ったのに、彼はそのまま海辺の方へ歩いて行ってしまった。それを見送っていると、ジンさんが「ここ誰もいねーし花火したくねえ?」とケンヤに言い出した。

「いいっすねー。来る途中コンビニありましたよ?」
「おお、あったよな。近いし買ってくっかなー」
「オレも行きますよ」

そんな会話を聞いていると、ケンヤが私の方に振り向いた。

「つーことでオレとジンさんで花火買って来っから、オマエ、蘭くんにそう言っておいて」
「…え、ちょっと…!待ってよ、ケンヤ!」
「さっきも普通に話してたし大丈夫だろ?ちょっとくらい。すぐ戻るって」
「ちょ、それとこれとは…」

の好きなアイス買って来てやっから、とケンヤは呑気に手を振りながらジンさんと歩いて行ってしまった。ふたりきりにしないって言ったくせに、と叫びたかったが、怒鳴るわけにもいかず言葉をグっと飲み込む。ふたりは徒歩で向かったようで、エンジン音はしなかった。

「近いって言っても歩いて行けば時間かかるじゃない…」

ブツブツ言いながら海辺の方へ視線を向けると、蘭くんが波打ち際を裸足で歩いているのが見えた。身長が高く、手足も長いせいか、月明かりの下を歩く彼は悔しいくらい絵になる。凄く綺麗だと思った。蘭くんの金髪が月光を浴びて、闇夜をキラキラ照らしている。

「は…何見惚れてんのよ…」

ふと我に返り、軽く頭を振ると、彼に貰ったジュースを一口飲む。蘭くんはふたりが買い物に行ったことに気づいていないのか、気持ち良さそうに打ち寄せる波に足を浸らせながら遠くを眺めている。ふたりが花火を買いに行ったことを伝えようと、私もミュールサンダルを脱いで蘭くんのところまで歩いて行った。

「海水まだ冷てぇーわ」

私に気づいた蘭くんがそう言って笑った。確かに足元まで打ち寄せて来る海水は初夏ということもあってか、ピリっとするくらいには冷たかった。でもそれが逆に気持ちいい。

「あのね、ジンさんとケンヤがコンビニに花火を買いに行くって言って行っちゃったの」
「マジ?あー誰もいねーし花火もいいかもなー」

後ろを振り返り、暗い砂浜を見渡している蘭くんは、意外にも優しい笑みを浮かべていた。

「あ、あの…これ…ありがとう」

手に持っていた先ほど奢ってもらったジュースを軽く持ち上げて見せると、蘭くんはキョトンとした顔で私を見下ろした。それから軽く吹き出している。

「別にそんなことくらいでお礼とかいらねーって」
「でも…ケンヤ以外の男の子に奢ってもらったの初めてだし驚いたけど…嬉しかったから」
「……ふーん。そーなんだ」
「な…何?」

突然、蘭くんが意味深な笑みを浮かべて上半身を屈めた。いきなり綺麗な顔が私の視界に飛び込んで来て、そのあまりの迫力に小さく息を吸い込む。ひゅっと喉の奥が鳴った気がした。

ってさぁ。今まで彼氏とかいなかったわけ?」
「…い…」

いたよ、それくらい。そう言おうと思った。けれど、吸い込まれそうなほどに綺麗なバイオレットの虹彩を見ていると、そんな小さな嘘は見透かされてしまいそうで。結局「いないけど…」という弱々しい言葉しか言えなかった。

「な…何で笑うの…?」
「別にぃ。ただ…オレと同い年のわりの奥手だなーと思っただけー」

ククク…と笑いを噛み殺している蘭くんに奥手と言われて恥ずかしくなった。確かにクラスの友達に彼氏できたとか聞かされる側でしかない私は、蘭くんにしたら遅れてる方なんだろうとは思う。でも好きな人すら出来ないんだから仕方ないじゃんとも思う。

「そういう蘭くんは彼女いっぱいいそうだもんね」
「は?」

まずい――!と慌てて口を手で抑えた。ケンヤにあれほど生意気な口を利くなと忠告されていたのに、ちょっとバカにされたような気持ちになって、つい口が滑ってしまったのだ。蘭くんは訝しげに眉根を寄せている。どうしよう。凄く怖い。

"蘭くん短気だから"

ケンヤに言われた言葉がぐるぐると頭を回り出し、心臓がバクバク鳴りだした。蘭くんは無言のまま私を見下ろしていて、その顔はどっちなのか全く分からない。怒っているのかいないのか。私はあの綺麗な手で殴られてしまうんだろうか。短い間にそんな大量の後悔が押し寄せて来る。なのに、蘭くんは一向に殴ってくる気配はなく、不思議そうな顔で私を見ると「オレ、彼女いるとか言ったっけ」と一言、口にした。

「え…っと…い…言ってない…かな…?」

とりあえず怒ってるわけじゃないと分かってホっと胸を撫でおろした。でも彼の次の質問に、再び固まることになった。

「オレって女いっぱいいそうに見えんの?」
「……へ?」

どこか不満そうに目を細める蘭くんを見て、私の思考が一時停止した。この場合どう応えれば正解なのかサッパリ分からない。見た目は文句なしのイケメンで、どう見たってモテる男の枠に入ってるはずだ。ただ彼のことをよく分からないから、それ以上の分析なんて出来ない。男と女のアレコレは素人の私には苦手な数学よりも難解なのだ。

「い…」
「い?」

いないと言えば逆に失礼になる?それともいそうって言っても失礼なの?チャラ男って言いてえのかよって怒鳴られたら怖すぎるし、これはどう応えればいいんだと私は頭を抱えた。

「い…イケメンだからモテるんじゃないかなーと思ってっ」

咄嗟に立て直したわりに良い答えだったのではと自分で自分を誉めたくなった。これならそれほど失礼にはならないだろう。ああ、疲れた。
蘭くんは私の言葉を聞いて「あー」と空を見上げると、不意にニヤリと笑みを浮かべた。

「モテるは否定しねえわ」
「や…やっぱり」

自分で認めちゃったよと内心思いながら引きつりつつも笑顔を見せておく。でもそうか。蘭くんはやっぱりモテるんだ。そりゃそうだよね。顔面偏差値高すぎるし、不良とはいっても同じ世界の女の子なら放っておくはずない気がする。蘭くんに釣りあうような綺麗な子だって沢山いるだろう。ひとり納得していると、蘭くんはふと苦笑を漏らした。

「でもハッキリ誰かと付き合ったことはねぇな、特に」
「え?」
「彼女はいねえっつったの」

その言葉を聞いて真っ先に嘘だ!という言葉が頭に浮かんだ。でも待てよ、と思った。蘭くんは"ハッキリ"と言った。ということはボンヤリと付き合ったことがあるという意味じゃないの?という疑問は沸いた。でもそこを突っ込む気には到底なれず「へえー彼女いないんだ。意外」と棒読みの返ししか出来なかった。そもそも蘭くんの女事情とか興味はない。何だかとんでもないことをしてそうで聞くのも怖い。うん、ここはサラっと流して別の話題を――。

「オレの初めての彼女になるー?」
「…うん。そうそう………」

思わず脳内に浮かんだ言葉が口から洩れたのとほぼ同時に。蘭くんが何か言ったことに気づいた。耳には入って来たけど脳に届く前に、ケンヤとジンさんが戻って来るのが見えた。

「おーい、買って来たぞー」
「花火やろーぜー!」

ふたりが袋を手に走って来たのを見た蘭くんは「あとでのケータイ番号、教えて」と言って来た。その突然の言葉に驚いて「えっ」と思わず聞いてしまったけど、蘭くんはすでにふたりの方へ歩いて行ってしまった後だった。

「え…何でいきなりケータイ番号…?ていうか…さっき彼女がどうとかって……」

そこでさっき彼に言われた言葉が蘇る。

「初めての…彼女って言った…?」

とても信じられない告白をされたらしい。混乱した脳を整理する為、私はしばらくの間その場から動くことが出来なかった。


終始ヒロイン視点。