何も港区に住んでるからと言って全員が富裕層というわけじゃない。特にウチはその辺にあるような一般家庭で、家だってお爺ちゃんが大昔に――昔この一帯は何もなくて今ほど高くはなかったようだ――建てたものだからかなり古い。父親は単身赴任中で、手に職のある母親も働きに出てるから、おかげで私は好きに生活出来ているしケンヤやその友達と夜遊びだってしたりもするけど、それでも。六本木なんてキラキラした場所に殆ど足を踏み入れたことはない。ヒルズの映画館に時々行くくらいだ。良くも悪くも大人の街といったイメージしかないし中学生の私が行く所なんてたかが知れている。なのに――。
「何で…」
六本木ヒルズのクロスポイントエリアにあるマックカフェ。店前に設置された外のテーブル席で盛大に溜息を吐いた私は、コーラを一口飲むとケータイを睨みつけた。
昨日はサボってしまった学校に今日はちゃんと朝から行った。最初から最後まで授業を受けたものの、夕べの夜遊びのせいか、学校が終わる頃には結構な睡魔が襲ってきた。家に帰り、軽くシャワーを浴びて夕飯の下準備をしてから少しだけ仮眠しようとベッドに入ったちょうどその時、ケータイの着信音が鳴り響いたのだ。相手は――。
『今から六本木に来いよ』
――蘭くんからだった。
時刻は午後5時になろうとしている。さすがに夕べの疲れがあったので出かけたくないとは思ったけれど、断ったら何をされるか分からないという恐怖が私を素直な女に変えてしまった。
「分かった…」
と渋々ながら頷けば、待ち合わせ場所を言われた。でも六本木に詳しくない私はその場所が分からず、蘭くんの「じゃあどこなら分かんだよ」という問いに、この世界一有名なハンバーガーショップを指定した。蘭くんは意外にもすんなり了承してくれたので内心ホっとはしたものの。今日はケンヤもジンさんもいない。完全に彼とふたりきりの状態で会うのだから緊張と憂鬱が同時に襲って来る。さっき一応ケンヤに電話――今日はコイツがサボり――したものの『ハァ?オマエが誘われたのにオレまで行けるかよ』というビビりな答えが返って来た――。
「昨日は私が付き合ってあげたのに…」
『だからそれも蘭くんがオマエ指名したからで…つーか、蘭くんから直に電話くるとか、マジでオマエ、蘭くんと付き合いだしたんだ。やべぇな』
「つ、付き合いだしたっていうか断り切れずにそんな流れにされただけで私はそんなつもり…っていうかヤバいよね、ほんと」
夕べ再会した会うのは二回目の男に、オレの彼女になるかと突然言われ。成り行きで彼氏彼女という関係になったなんて未だにピンと来ない。実感も湧かない。ただ断れなかったのが致命的だったことは分かる。でもケンヤは『そういう意味のやべぇじゃねぇよ』と笑った。
「じゃあどういう意味よ」
『蘭くんはオレも含めてこの辺の不良がみんな憧れてる存在なんだよ。そんな男の彼女がオレの幼馴染ってヤバくね?って意味』
「はぁ?バカなの、ケンヤ…。それに彼女って言ってもケンヤが思ってるような感じじゃない――」
『つーか今度からオマエと少し距離おかねえとなんねえからさー。あんま気軽に電話してくんなよ』
「は…?何それ…」
『だからーオマエもその辺察して蘭くんを怒らせるようなマネすんなよ?オレまでとばっちり食うからさ。じゃーな』
「ちょ…ケンヤ?」
――言いたいことだけ言って、サッサと電話を切ったケンヤを思い出すと、今も怒りが沸々と湧いて来る。ケンカ強い相手にビビってばかりのおたんこ茄子野郎め!※
「今度会ったらアイツの隠してあるエロ本、燃やしてやろう…」
ふふっと黒い笑みを浮かべつつ、いいことを思いついた。ケンヤがこっそりエロ本を買い集めているのは知っている。もちろん隠してある場所も。アレを失えばケンヤは本気で怒るだろうけど、蘭くんにビビってるようだし報復すら出来ないだろうな。なんてそんなことを考えていると、不意に頭の上に何かが触れた。
「エロ本って…?」
「…ら…蘭…くん…っ?」
慌てて仰ぎ見た先には金髪の三つ編みが揺れていて、更に上を見上げれば蘭くんが不機嫌そうに目を細めながら私を見下ろしていた。彼は私の頭に乗せた手でクシャリとひと撫ですると、やっぱり機嫌の悪そうな顔で向かいの椅子にどっかり腰を下ろし、その長い脚を組む。あまりの威圧感で一気に緊張が増して来た。
「言えよ。誰の?」
「え…あ…べ、別に誰のってわけじゃ…」
顔を引きつらせながらも誤魔化すと、彼は不意にニヤリと口端を上げた。その表情に本能的なものなのか、ざわりとしたものが背中に走る。彼のことが分からない。何を考えて夕べあんなことを言ったのかさえ。自分を避けている相手を普通なら気に入るはずもないのに、彼はそれが面白いと言っていた。ちっとも面白くなんかない。私の中の常識が通用しない相手はやっぱり、怖い。
「へぇ…じゃあのエロ本ってことかよ。や~らしー」
「ち、違…そんなはずないでしょっ?」
私のだと勘違いされたせいでカッと頬が熱くなる。独り言の一部を切り取られてただ誤解をされただけなのに、やたらと羞恥心が煽られてつい大きな声を出してしまった。しまったと手で口を押えたけど、もう遅い。でも蘭くんは怒った様子もなく「ムキになっちゃって」と笑うだけだった。
「別に恥ずかしがることなくねぇ?女だってエロいことには興味あんだろ」
「だ、だから私のじゃないって…ちょ、ちょっとっ」
まだ話してる途中なのに、彼は急に立ち上がると私の手を掴んで歩き出す。ギョっとして引かれている腕に力を入れてしまったけど、蘭くんはそんな私の微力を物ともしない様子で歩いて行く。
「ね、ねえ、どこ行くの?」
人混みを上手くすり抜けながら、彼はどんどん先を歩いて行く。目的地がハッキリしているかのような歩き方だ。少し不安になった。もう一度どこへ行くのか尋ねようと思ったその時、彼が笑みを浮かべながら振り向いた。
「オレんちー」
「……は?」
家、と言われてドキリと鼓動が跳ねた。今の話の流れで家に行くと言われれば、いくら私でも身の危険を感じざるを得ない。見上げれば蘭くんも私を見下ろしていて綺麗な形の唇が弧を描いている。彼の何か含みのある笑みを見た瞬間、冷やりとしたものが背中に走った。
「なな何で家?って言うか用事は何なの?」
「用事ー?」
「私を呼び出したじゃない…何か用があるんでしょ…?」
「オレ、用事あるって言ったっけ」
蘭くんは小首をかしげるように顔を傾けながら考える素振りをした。別に用事があるとは言われてないのだから、彼の反応は当然だ。でも用がないなら何で呼び出したんだと思う。それにいきなり家に行くと言われればさすがに私も警戒せざるを得ない。よく分からないうちに付き合うことになってしまってるけど、私は彼のことを全く知らないし好きという感情さえあるか分からないのだ。ただ怖いだけで。
「い、言ってないけど…そうなのかなって」
「別に用なんかねぇよ。オマエに会いたかっただけだけどー?」
不意打ちのように見せた優しい眼差しと、言われた言葉は予想外の破壊力を持っていた。
-
※遊郭で使われてた下ネタらしい笑