目の前の豪邸を見上げてポカンと口が開いてしまった。いや確かに富裕層の住む街だろうなと近所の大きな家々を見ながら思ってはいたけれども。蘭くんの家はその中でも一際デカい家だった。
「飲みもん持ってくっから適当に座ってろよ」
おずおずと彼の部屋の中へ入った私に、蘭くんはそう声をかけて出て行った。ひとりになった途端、盛大に息を吐く。玄関からしてすでに息を止めていたかもしれない。かなり息苦しくてむせそうになった。
「…まさかのお坊ちゃん?」
ケンヤや他の不良達が憧れているという灰谷蘭の正体が富裕層の一員だと分かって少しだけ驚いた。この場合は彼の親だろうけど。
家に足を踏み入れた時、中に人気はなく親などはいないようだった。少しホっとしたけれど、すぐに「コッチ」と彼に促され、三階まで続く階段を上がっているだけで緊張はマックス。蘭くんの部屋に入った時にエアコンは付けっぱなしで出かけたのか、かなり涼しい空気に交じって彼の付けている香水の匂い。それが鼻腔を刺激してきて、更に緊張を助長していく。
「…ど…どうしよう。いきなり家に連れて来られても…」
室内を見渡しながらぽつりと呟く。今では心臓が生き物みたいに体の中で跳ねていた。
"オマエに会いたかっただけだけどー?"
あれはどういう意味で言ったんだろうと考えてるうちに結局ずるずると家までついて来てしまった。普通に好きで付き合った彼氏にそう言われたら嬉しいんだろうけど、私は彼の真意が分からないから怖い。次の一手が読めないから緊張するし不安になってしまう。そして不安になる一番の理由。それは、きっと私が自分に全く自信がないからだ。
特別美人でもない私が、蘭くんのような男の子に本気で好かれるわけがないと思ってしまう。なんてネガティブ思考なんだと自分で呆れるけど、これは幼い頃からケンヤに「ぶす~」とよくからかわれてたのが原因だ。そうか、私はブスなんだと幼心に刷り込まれてしまった。不思議なもので人からブスと言われ続けると、そうなのかな?と思い込んでしまうのだから恐ろしい。いま思えばガキんちょだったケンヤの数少ない悪口レパートリーの一つだったんだと分かるけど、一度根付いてしまったネガティブ思考はなかなか直ってくれない。
「何か…大人っぽい部屋」
彼の部屋は黒と紫を基調にした大人っぽい装飾が施されていて、ベッドカバーは黒い生地に大きなドクロがどんと描かれている。カッコいいけど今の私からすればそれすら脅迫されているような気分になった。ベッドの他には三人掛けのソファとガラステーブル、その前には大きなテレビ。近くにはパソコンやオーディオ類が置いてある。男の子の部屋には不釣り合いな鏡台の上にはずらりとアクセサリー類や香水の瓶が並んでいた。
(い、いきなり襲われたりは…しない、よね?)
考えないようにしていても、ついつい視線はベッドの方へと向いてしまう。さっきの会話の流れから家に連れて来られたんだから当たり前だ。
"女だってエロいことには興味あんだろ"
蘭くんに言われた言葉を思い出した途端、顏の熱がぐんと上がった気がした。そりゃ全くないと言えば嘘になるけど、今すぐ全てを知りたいとかは思ってない。出来ればちゃんと恋愛して好きな人とそういうことをしたい。こんな風に知り合ったばかりの相手とよく分からない理由で付き合うことになって、そのままなし崩しにどうこうされるのはやっぱり、いやだ。
(怖い…さっきので変な誤解されたのかな…すぐヤれる女だって…)
緊張よりも今度は恐怖がじわりと足元から這い上がって来る。
"オマエ、危機感なさすぎ"
"そんな露出のある服装で来りゃ襲われても文句言えねえぞって話"
次々に彼から言われた言葉が浮かんで来て、私の恐怖心を煽って来る。そこでハッと我に返り自分の服装を見下ろした。言われた通り露出の少ない服装と考えた結果、身体のラインが出る服はやめて、普通にTシャツとハーフパンツにしておいた。いつも上下黒のブランド物を着ている蘭くんに会うのに少し子供っぽいかなとも思ったけど、本当にちょっと会うだけだと思ったからいいやと適当に選んでしまった。靴も火傷が擦れないよう、上が大きく開いているフラットシューズにしたから、いざという時はすぐに履いて逃げられる。脳内で色々シミュレーションしていると少しは安心できた。何と言っても夕べは首筋にキスまでされている。何があるかは分からない。
(そうだよ…勝手にあんなことして…)
眠くてふわふわしてたけどシッカリ覚えている。思わず首の左側に口づけられた時の感触を思い出し、手でそこへ触れた。初めて異性に触れられた恥ずかしさは忘れていない。最後、彼の三つ編みが頬をかすっていったことさえも。
あの後は睡魔が吹っ飛んで体が緊張で強張って、ずっと寝たふりをしたまま帰路についたのだ。帰り際、蘭くんは何事もなかったように「お休みー」と言ってジンさんと帰って行った。あまりに変わらない彼の態度に寝れるわけないでしょ!と思ったけど、やっぱり疲れてたのか、ベッドに入ったら秒で爆睡かましてしまった自分の図太さに笑ったけど。
「なに突っ立ってんだよ」
不意に彼の声がした。ビクっとしながら振り向くと、蘭くんは部屋の真ん中に立ったままの私を見て苦笑いを浮かべている。彼の手…右手にはグラスとお洒落なケーキがいくつか乗ったトレー(似合わない)と左手には大きな袋――中には飲み物やスナック菓子の類が入っている――を持っていた。
「何かテキトーにあるもん持って来たけど食う?」
「う…うん…」
蘭くんはトレーを高級感あふれるガラステーブルの上に置いて、袋は足元に置くと、立ったままの私をソファに座らせ、自分は隣に腰を下ろした。三人掛けのソファはそれなりに幅があって密着したわけじゃない。けれど車の中で隣にいた時よりも緊張で体が固まってしまった。
「はどれ飲むー?」
「…え?」
ガチガチに緊張している私とは裏腹に、蘭くんは持って来た袋の中から2リットルのペットボトルを二本取り出した。ひとつはコーラで、もうひとつはオレンジユース、あとは缶ジュース――ドクターペッパーなんて渋いチョイスだ――が数本あった。
「まあ、入ってんの竜胆の好みで買ったヤツだけど、好きなの選べよ」
「……りん…どう?」
聞きなれない言葉にふと隣の彼を見る。
「ああ、オレの弟。向かいの部屋でまだ寝てっから、あんまデカい声は出すなよ?」
「…こっここ声って…」
いきなり身を屈めて顔を覗き込んで来る蘭くんに驚いて、思い切り背もたれまで体を引いてしまった。蘭くんは一瞬驚いたように目を丸くした後、私の顔を見ながら「ぶはっ」と盛大に吹き出している。
「あ~もしかして勘違いした?」
「…は?」
蘭くんは何故かニヤニヤしながらもジリジリと距離を詰めて来る。その分、私も動くからアっと言う間に左端へと追いやられて行く。
「オレはいいけど」
「ななな何が…っ?」
「がして欲しいなら声出すようなこと、しても」
「……な…っ」
顔を近づけ、私の耳元で唇を動かす蘭くんの吐息が、耳たぶにかかる。ぞわっと首元が粟立った気がして上半身だけを左へ傾け距離を取った。何で同い年だというのに彼はこんなに色気があるんだと驚いてしまう。女の私よりも色っぽい表情で甘い声を出すこの男が、女の敵であることは間違いない。ケンヤが「女に手が早いらしい」と言ってたのを思い出す。
「し…しないでいいですっ!」
あまりに近い距離まで詰め寄られ、私は半分腰を浮かせながら叫んでしまった。すると彼の長い腕が伸びて私の身体をいとも簡単に引き戻していく。
「ちょ…」
「そんな風に逃げられると逆に意地悪したくなんだよなァ。ほら、オレっていじめっ子気質だから」
「……ッ?」
肩を抱き寄せられ、目の前で私を射抜く紫色の双眸と、僅かに弧を描く唇。狂暴なまでに綺麗な顔を見つめながら、このまま押し倒されたら、と思うと恐怖で体が固まった。
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ドクターペッパー好みがハッキリ分かれる飲み物だけど私は好きです笑
👏拍手のお返事をMEMOにてさせて頂きました♡