36度2分の純情-05



1.

ソファの上で密着したまま"イジメたくなる"と言われた恐怖で、私のノミの心臓はすっかりと怯えてしまった。

「つーことで襲われたくなかったらジっとしてろよ?」
「え?ひゃっ」

急に身体を持ち上げられて変な声が出た。けれど次の瞬間にはすとんとソファに下ろされる。さっきと大きく違うのは、私が座っている場所が蘭くんの足の間ということだ。

「なな何…っ?」
「んー?せっかく彼女・・が家に来たから一緒に映画でも観よーかと思ってさぁ。何かそーゆーのカップルぽくね?」
「……え…映画…?」

楽しげな笑みを見せる蘭くんに少し呆気にとられた。そりゃそうだ。私は完全にビビってたんだから。でも唖然としている私に気づいたのか、彼がひょいっと顔を覗き込んできた。

「それともは別のことしてぇの?」

蘭くんはニヤリと意地悪な笑みを浮かべるから、慌てて首を振る。彼は「あっそ」と笑いながら、ガラステーブルの下に設置してある棚から数枚のDVDを取り出した。

「これダチに借りたばっかでオレもまだ観てねぇんだけど、オマエ、観たいのある?」

ほんとに映画を観るんだ、と少し驚きながらも、パッケージに目を向ける。その中に気になってた作品がいくつかあった。もしかしたら…私と映画の好みが似てるかもしれない、とふと思う。

「あ…これ観たかったやつ…」
「んー?どれぇ?」
「ちょ…」

しまった、と思った。一瞬でも足の間に座るだけなら平気かと思った私が甘かった。蘭くんは後ろから私を抱え込むようにして座っている。そのせいで私の肩に顎を乗せてDVDのパッケージを眺めている。顔が近すぎるせいで私の左の頬と耳がじんわり熱を持つのが分かった。男の子にこれほど密着されたことはない。ケンヤがたまにふざけて羽交い絞めにしてくることはあるけど、ああいう密着とコレは全然違う。背中全てに蘭くんの体温と重みを感じるせいで、じわじわ体の熱が上がって行く。いくらエアコンが効いてるからって蘭くんは暑くないのかな、なんて、どうでもいいことが心配になった。

「これ?」
「う…うん…」

と、あまり考えなしで頷いたものの、蘭くんの持っているパッケージを見てハッとした。

「あ…やっぱりコレ!こっちが観たい…かも…」

慌てて彼の手からそのパッケージを奪うと、もう一つの映画を手にした。

「コッチ?でも、これ観たいつってたじゃん」
「そ、そうなんだけど…コッチの方がもっと観たかったの」

そう言いながら適当に選んだのはサスペンス映画だった。でも実際これも気になっていたからちょうどいい。と言うかさっきの映画はダメだ。ジャンルはスプラッターホラーだけどエッチなシーンも多いという前評判だったはず。この状況でそんなシーンを冷静に観られる気がしない。というか蘭くんと観るのは恥ずかしすぎる。

「そ?んじゃーコッチにすっか」

蘭くんは特に気にもせず、私が選んだパッケージを手にした。一度、私を解放して立ち上がると、DVDプレイヤーにそれをセットしている。その間に深く息を吐き出して緊張を和らげていると、蘭くんがテーブルの上にあるケーキを指さした。

「ケーキ食っていいよ。甘いもん好きなんだろ?ケンヤが言ってた」
「あ…うん…」

そうだ、甘い物。甘い物を食べれば少しは気分も落ち着くかもしれない。そう思ってお皿に手を伸ばそうとした時、彼がまたさっきと同じように私を足の間に入れた。そして長い腕でケーキの皿を取ると、それを私の手に持たせてくれる。一連の動作があまりに自然で素早い。蘭くんの両手に容易く私の身体が包まれてしまうほど、手足の長さからして違いすぎるのも、何か悔しい。

「い、頂きます」
「おー」

蘭くんはリモコンをいじりながら再生を押したようだ。目の前にある大きなテレビ画面に何かの予告編が映し出される。それをすっ飛ばして本編に入った。でもそれより私は口の中で広がる初めての甘味に一瞬、緊張を忘れるくらいに頬が緩んだ。

「ん、このケーキ美味しい…」
「だろ。生クリームが絶妙なんだよなー」
「うん」

蘭くんの言うように甘すぎず、サッパリとしているのに濃厚でふんわりした美味しさが口内に広がる。きっと高級店のケーキに違いない。

「蘭くんは食べないの?」
「オレ?オレはさっきモンブランだけ食ったし満足。それはが全部食えよ」
「えっ全部はさすがに…太っちゃう」

モンブランが好きなんだ。意外過ぎる…と失礼なことを思いつつ、目の前に並んだケーキを眺める。どれも小さくて食べようと思えば食べられるけど、カロリーのことを考えると悩んでしまう。その時、いきなりお腹の辺りをむにゅっとつままれ「ひゃっ」という間抜けた声が出た。

「な…何する…」
「ぜーんぜん肉ねえじゃん。、飯食ってんの?」
「たた食べてる…っていうかつままないでよ…」

デリケートな下腹をつままれたことで一気に恥ずかしくなった。映画は冒頭シーンが流れているというのに少しも頭に入って来ない。

「女って変なとこ気にすんのなー。食いたいなら素直に食えよ」

蘭くんは苦笑しながらコーラを飲むと、テレビの音量を少しだけ上げている。
そりゃ蘭くんは細身だからいいかもしれないけど。触れた感じ筋肉質っぽいし、絶対に太りにくい体質だと思う。羨ましい。

「時間は平気だろ?」

蘭くんはそう言ってふと時計を見た。

「あ…うん…まあ」

時刻は午後6時半過ぎ。蘭くんと会ってから一時間は経っていた。何か変な気分だった。先週までは全く知らない赤の他人だった蘭くんと、今こうして密着しながら映画を観ている。初めて会った時はまさかこんな風になるなんて考えもしなかった。私なんかが近づけないような世界の人だって、思ったから。



2.

「なあ、あの主人公の恋人が怪しくねぇ?」
「え?あ…うん。私も何となくそう思った」

しばらく映画に集中していると、不意に話を振られて素直に頷く。意外にも彼は真面目に映画を観ているようで、さっきまであんなにビビってた私は何だったんだと苦笑が洩れる。変なことをしようと思えば、とっくにされてるだろうし、ここは信用してもいいのかな、なんて思えてきた。強引に手渡された二つ目のケーキも食べ終えてお皿をテーブルに置くと、蘭くんは「気にしねぇでもう一個食えばー?」と笑いながら言って来る。本音を言えばこのケーキ凄く美味しいから余裕で食べたいし食べられる。でも…。

「食べたいけど夕飯前だからなぁ…」
「あーそういや腹減ってきたな…」

蘭くんがまたしても私の肩に顎を乗せてそんなことを呟いている。何気にお腹に回された腕にドキっとさせられた。

「オマエ、何か飯作れる?」
「……え?」

耳元で聞こえた彼の声に思わず振り向いてしまった。至近距離で目が合い心臓が跳ねる。蘭くんも少し驚いた顔をしたけど、次の瞬間、彼の口元が私の口元へ近づいて来るのがスローモーションのように見えた。

(キスされる――!)

咄嗟のことで固まった私は逃げるよりも前に強く目を瞑ってしまった。すると唇のすぐ横にぬるりとした感触がして肩が僅かに跳ねる。

「な…」
「クリーム、ついてた」

目を開けて彼を見上げると、蘭くんはペロリと自分の唇を舐めている。口元には笑みを浮かべていて、その確信犯的な顔を見た瞬間、顔全体が熱くなった。舐められたのだ。唇に近い場所を。
前言撤回――!やっぱり蘭くんは危険だ。容易く私に触れて来る。私の心を撫でるように、密やかに飼いならして入り込もうとする。

「なんだよ」
「は、放してよ…」

恥ずかしさと、次に何をされるか分からない恐怖で勝手に身体が立ち上がろうと動いてしまった。でもお腹に回された腕にまた引き戻される。

「あんなことでビビんなって」
「や…放してってば」

ぎゅっと後ろから抱きしめられ、顏の熱が上がる一方だ。やっぱりこんな関係は変だ。好きじゃないクセに私を彼女にしようとする蘭くんも変だと思う。怖いけど、ここで何も言えなきゃ一方的に玩具にされてしまいそうだ。とにかく彼の腕から逃げ出そうと決心した。

「はあ…オマエ、けっこー強情だな。つーかあんま股の間でモゾモゾ動くな。勃っちまうから」
「な…っ」

ピタリと動くのを止めた私を見て、彼は「そんなにいやー?」とまたしても笑いを噛み殺してる。からかわれてるんだ、と思った。ビクビクした獲物を更に追い込んで慌てる姿を見て楽しんでる。

「わ…私…やっぱり蘭くんとは――」

付き合えない。そう言おうと思った。なのにその言葉を言う前に、蘭くんは私の髪に顔を埋めて「冗談だって…そんな怒んなよ」と掠れた声で呟いた。らしくないほど弱々しいその声に、不覚にもドキっとさせられる。

「別にビビらそうとか…嫌がることしてやろうとか思ってねえから」
「う…嘘…」
「嘘じゃねえよ…オマエが勝手にビビったり焦ったりしてんだろ?オレは至って普通に接してるつもりなんだけどー?」

溜息交じりで言う蘭くんは少し困ってるように見えた。まさか、そんなはずないと思ってしまう。強引で、すぐ怖いことを言ったりやったりしてくる彼が、私の機嫌を損ねたからって困るはずがない。

「だって…からかってるでしょ…」
「んー」

相変わらず私の背中に彼の体重を感じる。密着している場所が今は彼の体温でさっき以上に熱を持っていた。エアコンの風が直に当たるというのに、暑くなる一方だ。

「からかおうと思ってるわけじゃねぇけど…って素直に反応すっから面白ぇなー…とは思ってる」
「…な…にそれ…」

面白いなんて、やっぱりバカにしてる。嫌がることしようとは思ってないって言ったけど、そんなの言葉通りに信じられない。いやだ。このまま蘭くんの玩具みたいに扱われるなんて――。

「だから、ついからかってるみたいにはなってっかも……わりぃ」

最後の言葉は耳のすぐそばで聞こえた。ちょっと、驚いた。絶対人に謝れるようなタイプじゃないと思ってたからだ。でも今の言葉は本心から零れ落ちた言葉だったような気がした。蘭くんみたいな人に急に素直になられると、私の方がガキっぽいことでゴネてるみたいに思えて来る。

「私だって…過剰反応してるのは分かってるよ…。でも…こういうことされるのも慣れてないから…」

怖い。ドキドキする。昨日までの自分じゃないみたいに胸の奥がざわざわして落ち着かなくなる。蘭くんの傍にいると――おかしくなる。
そんな自分が一番怖いんだ。そのことに今、気づいた。
蘭くんがふと顔を上げた気配がした。今まで温もりのあった背中や項が、エアコンの涼しい風を受けて冷えていく。

「あー…そっか…」

後ろから苦笑交じりの声がした。

「つーか、それ…オレもかも…」
「……え?」

オレも、とはどういう意味だ?と首を傾げた。どう考えても、彼は私よりこういうことに慣れてるはずだ。

「オレもみたいな反応する女は初めてだから、どう扱っていーのかわかんねえんだわ、マジで」

苦笑気味に呟く声に思わず振り向くと、見たこともないような表情の蘭くんと目が合った。

男というのは追われるよりも追う方が断然燃えるみたいですが、オスの本能なんでしょーか笑。