「あ…あっつい…」
事故ることも警察に追われることもなく、無事に蘭くんの家に到着した時にはすでにグッタリしていた。フルフェイスのヘルメットを被るのがこんなに暑いってことも初めて知った。顔だけサウナに入ってるかのような暑さに耐え切れず、バイクが停車してすぐにヘルメットを取る。髪が汗で額に張り付いて気持ち悪かった。
「ほら、手ぇ貸せ」
「う…うん…」
バイクを広いガレージに入れて降りた蘭くんは、私の方へ両手を伸ばした。大型バイクだけに私は足すらつかないので、そこは素直に下ろしてもらう。
「あーあ、暑かった?汗かいてんじゃん」
蘭くんは私の顔を見るなり苦笑いを浮かべると、額に張りついた髪を指でよけて整えてくれている。その指先がこめかみを撫でるように動いて、乱れた髪を耳にかけてくれた。たったそれだけなのに心臓が勝手に速くなっていく。
男の子にこんな風に触れられたのは初めてだから、急に恥ずかしくなった。
「あ…あんまり見ないで…。メイクはげてると思うし…」
何となく優しい眼差しで見下ろされている。その視線に気づいた時、咄嗟に顔を反らしてしまった。今朝、学校へ行く前に軽く施したメイクが汗で全部はげ落ちた気がしたからだ。なのに蘭くんは「え、オマエ、メイクしてたことあったっけ?」と地味に失礼なことを言いだした。
「し、してるよ…。会った時からずっと」
「マジ?オレ、ずっとはスッピンだと思ってたわ」
「…む。どうせしてもしなくても変わりませんよ…」
別に自分が好きでしてるのだから気づいてもらえなくたって構わないけど、全くのノーメイクと思われてたのが何となく悔しい。でも蘭くんは「そういう意味じゃねえけど」と笑っている。
「…そういう…って?」
「あーオレの周りにいる女ってだいたい色んなもん塗ったくってるような顔してっからさー。素顔分かんねえくらいに。でもは会った時から素顔だと思ってたし自然でいいなァと思ってた」
「………」
「お、赤くなった。何?照れてんの?かーわいいなァ、ちゃん」
「か…からかわないでよ…っ」
腰をかがめて顔を覗き込んできた蘭くんは笑いを噛み殺しながら頭を撫でて来た。
おかげで余計に顔の熱が上がって行く。さらりと女の子が喜ぶような台詞を吐ける蘭くんは、やっぱり手慣れてる気がした。うちのクラスの男子なんか女の子をこんなに自然に褒められないだろうなと思う。
「そ、それより…今日は…どうしたの…?」
「ん?」
「ずっと連絡してこなかったのに、いきなり家の前で待ってるから…驚いた」
話を逸らすのに気になっていたことを尋ねると、蘭くんは一瞬キョトンとした顔をして、すぐにニヤリと含みのある笑みを浮かべた。
「あ~オレから連絡なくて寂しかったとか」
「ちっ違います…!この前あんな感じで別れたし…もう終わってるものだとばっかり思ってたから…」
「ハァ?オレ、終わりなんて一言も言ってねえだろ」
機嫌の良さそうな顔から一転、急に気分を害したようだ。思い切り目を細めた蘭くんは、不機嫌そうな低い声で威嚇して来る。その迫力にはやっぱり少し怯んでしまう。
「それにだって連絡してこなかったじゃん」
「そ、それは…」
「だから、まだ怒ってんのかと思ってオレからはしづらかっただけ。まあ、後はちょっとしたいざこざあって、そっちが忙しかったつーのもあるけど」
「お…怒ってたわけじゃ…っ…いざこざって?」
「ああ、ここら辺仕切ってるとかいうチームとちょっとな」
蘭くんはふと真剣な顔でそう呟いて視線を反らした。あまり聞かない方が良さそうだと、それ以上"いざこざ"のことは口にしないでおく。
それにしても、勝手に終わったと思っていた私の想像に反して、まさか蘭くんがそんなことを考えてたとは思ってもいなかった。ということは…今日、家に来たのは普通に会いに来たってことだろうか。さっきの質問の答えはまだ貰ってない。
「えっと…今日は…何で…?」
「ん?あーそのことなんだけど――」
と蘭くんが本題に入ろうとした時、いきなり横のドアが開いた。
「ガレージで何くっちゃべってんの…」
蘭くんと同じ金髪を頭の上でお団子にして、少し目つきの悪い眼鏡をかけた男の子が顔を出し、私は一瞬固まった。まさか家族がいたとは思わない。
「あーそうだった。とりあえずあっちーから中に入ろうぜ」
私の手を引きながら蘭くんは眼鏡の男の子の前を通って家の中へと入る。ガレージ内のドアから家の玄関へと繋がってるようだ。私はビクビクしつつ「お、お邪魔します」とその眼鏡の子に声をかけた。もしかして彼が――。
「ああ、コイツが竜胆。オレの弟ー」
「あ…初め…まして…(や…やっぱり!)」
ケンヤの言ってた"ヤバい兄弟"が揃ってしまった。怖い、怖すぎる。しかも弟の顏が傷だらけというのも恐怖を煽る。目の周りや口元は腫れあがって絆創膏が何枚か貼られているし、どう見ても殴り合いで出来た傷にみえるからだ。
そこでケンヤの話を思い出した。夕べ、弟が"彼女の存在"を聞いてなかったとか、そんな些細な理由で兄弟ゲンカを始めたと言っていた。でも、なら何で蘭くんの顏は綺麗なままなんだろう。もしかしてケンカと言うよりは一方的な暴力とか…。
「どーも」
彼は愛想もない口調で挨拶をした。竜胆くんは確か蘭くんよりも一つ下とケンヤが言ってた。ということは私の一つ下でもある。なのに蘭くんと同じく身長が高くて細身なのにガッシリとしてる体型はとても年下には見えない。
蘭くんに手を引かれるまま、今日は一階にあるリビングに連れて来られた。何だここはって驚くほどに広い。重厚な家具や最新の家電、見たことあるような絵画にオブジェ。全てが高級品なのは間違いない。
「、何か飲む?」
蘭くんはリビングの中央で存在感を放つ大きな革張りのソファに私を座らせると、ひとりキッチンの方へ歩いて行く。この前と同様、一気に緊張してきた私は頷くだけで精一杯だ。後からリビングに入って来た竜胆くんが向かい側のソファに座ったことで、余計に体が強張って来る。そもそも今日は何のつもりで私をここへ連れて来たのかも分からない。
「~!」
「……え?」
不意にキッチンの方から呼ばれてハッと我に返った。
「コーラ、アイスティー、オレンジ100%ジュース、ミルクティー、ドクターペッパー。どれがいい?」
「え…っと」
「兄ちゃん、それオレの!!」
突然、向かいに座ってた竜胆くんが叫んだことで私の肩がビクリと跳ねた。
"それオレの――?"
どの飲み物のことを言ってるんだろうと額に変な汗が出て来る。何か機嫌悪そうだし、もし間違えて彼のものを選んでしまったら殴られるかもしれない。怖い。いや、思い出せ。この前来た時、蘭くんは弟の好みで買ったという飲み物やスナック菓子の入った袋を持って来た。あの中に入ってた飲み物は――コーラとオレンジジュース、そしてドクターペッパーだ!
「あ…じゃ…アイスティー…を…」
「りょーかい」
蘭くんの軽やかな返事を聞きつつ、向かいの竜胆くんの反応を伺う。アイスティと言っても特に何も言わなかったところを見ると、きっと彼の物じゃないということだろう。
(飲み物ひとつ選ぶだけでこんなに神経使ったの初めてかも……)
ホっと息を吐き出しながら膝の上でぎゅっと手を握り締める。その時、竜胆くんと目が合ってしまった。条件反射で肩が僅かに跳ねてしまったかもしれない。
その瞬間、彼は「ぷ…っ」と小さく吹き出した。
「アンタ、マジで兄貴の彼女?それとも、そう言えって脅されてんの?」
「え?えっと…その…」
この場合どう応えていいのか分からない。もし夕べのケンカの原因が"大好きなお兄ちゃん"に変な女がくっついたと思ってキレたのなら、私はここで「NO」と応えるべきなのでは――?一瞬の間に色んなことが脳内を駆け巡る。その間も竜胆くんは何故か私に無遠慮な視線を送っていた。それもどこか訝しげな顔で。お兄さんに彼女が出来たことがそんなに珍しいんだろうか。それとも私の顔が彼にはお気に召さないとか――。
「だーからオレの彼女だって、は。オマエが会わせろって騒いだから連れて来てやったんだろーが」
「……え?」
そこへ飲み物を手に蘭くんが戻って来た。彼は「ほら」と私の手に氷がたっぷり入ったお洒落なグラスを持たせた。その琥珀色の飲み物は私が頼んだアイスティーらしい。
「あ…ありが…とう」
と受け取りながらも彼が今言った言葉を考える。竜胆くんが夕べ初めて彼女の件を聞いて、蘭くんに会わせろと言ったから今日、私を迎えに来たってこと?
ということは…さっき言ってたように私はまだ蘭くんの彼女的な立場のままってことだ。
蘭くんは自分の飲み物を手に、私の隣にどっかり座った。すっかり飽きられたと思っていたせいで、私はまだこの展開についていけてない。これから竜胆くんに品定めでもされるんだろうか。
「え、てかマジで兄貴、この子と付き合うわけ?」
「そう言ってんだろ?」
蘭くんはソファの上に片足を乗せ、立てた膝の上に右腕を置くと、左手で私の肩を抱き寄せて来た。右側に傾いた私の頭は蘭くんの肩に寄せられ、それを目の前の竜胆くん――少し驚いている――に見られていると思うと一気に顔が火照って来る。
「ちょ、蘭くん…」
「ああ、こういうのがダメなんだっけ?でも少しはスキンシップ慣れてもらわねえと困るんだけど」
「な、何が…困るの…?」
「え、何って…オレの口から言わせてェの?」
「…は?」
ニヤリと口角を上げる蘭くんは確かにいじめっ子特有の顔をしてる気がする。
というか目の前に弟がいてもお構いなしってところからしてヤバい。
その時、竜胆くんが驚いたような顔で「兄貴…マジか…」といきなり呟いた。
「あ?何だよ。まーだ文句あんのか?ちゃんと経緯も話したし、こうしてにも会わせただろ」
「別に文句はねぇけどさ…。特定の女はいらねえってあんなに言ってたから、まだ信じらんねーだけ」
「あー言ってたなァ。でも気が変わった」
「何で?その変わった理由は聞いてねぇけど」
何だろう。当事者のはずの私を無視した会話を目の前で繰り広げられているこの気まずさ。竜胆くんはやっぱりお兄さんに彼女という存在が出来るのは嫌なのかもしれない。そんな空気を感じる。でも蘭くんは「理由~?」と僅かに首を傾げながら、ふと私を見た。
「特に理由なんてねぇよ。と会った時にコイツと付き合いたいって思っただけで」
「「は?」」
何故か私と竜胆くんの「は」のタイミングが見事に合ってしまった。思わず互いに顔を見合わせる。こうして見るとさすが蘭くんの弟だけあって、彼も綺麗な顔立ちをしていた。ただ少し目つきが怖い。
「何だよ。もう気が合ってんなァ?オマエら」
蘭くんは私と竜胆くんを交互に見ながら笑っている。というか今の言葉の説明をして欲しい。何で会っただけで付き合いたいって思うのか謎すぎる。あの日、蘭くんと初めて会った時、私は特別なことなんて何もしていない。なのに――。
「ふざけんなって、兄貴。つーか何でこの子?もっと兄貴にお似合いの女なんて沢山いんだろ。菜弓とか亜子とか」
「それはオマエの好みだろ?オレ、ああいうガツガツの肉食系ムリ。可愛いとか思えねえ」
「いや、可愛いだろ」
「見た目だけだろ?別に顔なんてぶっちゃけ整形とかすりゃーだいたいは可愛くなるし、メイクでどうとでもなるしなー」
「………」
というか、私がいるのを忘れてない?と思うような兄弟の会話に、気まずいってもんじゃないくらい気まずい。仮にも当人の目の前で「何でこの子?」とか「もっとお似合いの女がいる」とか言う?もし私が蘭くんのことを凄く好きな女の子だったら絶対ショックだと思う。そもそも何でそんなにお兄さんの彼女事情が気になるんだ、この弟は。絶対ブラコンだと思う。そう言えば昔、通ってた保育園にもいたなぁ、超絶ブラコンの子。いっつもお兄ちゃんの後をくっついて来て、私と遊んでるとすっごい目で睨んできたっけ。そう、ちょうど竜胆くんみたいに目つきの悪い男の子だった。
(ってか誰よ、菜弓と亜子って!)
だんだん腹が立って来た。その子達がどんだけ可愛いのか知らないけど、私の気持ちを無視して話を進めるこの兄弟はいったい何様だ。こうなったら怖いけど一言、文句を言ってやらなきゃ気が済まない。もし殴られたら訴えてやればいいんだ。そうだ、そうしよう。それですっぱりと縁を切ってやる――!
怒りって凄い。ビビりの私の恐怖心を吹き飛ばしてくれる。沸々と湧いて来る怒りというエネルギーを武器にして、思っていることをぶちまけてやろうと思った。
その時――。ふと、竜胆くんが私を見た。
「つーかさー。さっきから気になってんだけど…オレとどっかで会ったことねえ?」
「…へ…?」
竜胆くんの質問に驚いて変な声が出た。でも彼はお構いなしで私の顔をマジマジと見て来る。鋭い目つきでガン見されて、たった今、怒りで奮い立った私の心を折るのに十分すぎるほど、怖い。
「な…ないと思いますけど…」
そもそも彼のような綺麗な男の子と一度でも会えば絶対に記憶には残るはずだ。なのに竜胆くんは納得いかないといったようにビビっている私を見つめている。その時、蘭くんが「人の女、ジロジロ見てんじゃねぇよ」と不機嫌そうに目を細めた。そんな風に言われ慣れていないせいか、ちょっとだけ照れ臭い。
「いや、なーんか見覚えあんだよなぁ…。どこで会ったんだっけ…」
竜胆くんは首をひねりながらか何かを思い出そうとしている。でも私の記憶の中に竜胆くんのような男の子はいない、はず。そう思っていると、蘭くんが不意に立ち上がった。
「オレの部屋行くぞ」
「え…?」
「この前の映画の続き、観ようぜ。オレもあのまま観てねえし」
蘭くんはそう言いながら私の手を強引に引いて行く。その姿が少しだけ慌てているように見えた。その時――後ろから「あっ!!」という竜胆くんの大きな声が響き、反射的に足を止める。
「…兄貴…もしかして…ってあの子じゃねえの?」
「あの…子?」
竜胆くんは何かを思い出したかのようにこっちへ歩いて来る。すると蘭くんは苦笑交じりで振り向いて――。
「やっぱバレたか…」
「…え?」
兄妹の会話についていけない私は、驚きながら私を見ている竜胆くんと、全てを分かっているような笑みを浮かべている蘭くんを交互に見ながら、まるで蜘蛛の巣に捕らえられた蝶の如く、身を震わせるしかなかった。
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刈り上げてる竜胆は怖い笑
三ツ谷が祭りで見かけた時の灰谷兄弟(15 、16歳辺り?)の髪型がすごい好きだし、もっと見たい。