これは遠い日の面影を忘れた罰-03



1.


(何でこんなことになってんの…?)

目の前の食材をぼんやり眺めながら、思わず溜息をついた。
蘭ちゃんが学校に迎えに来て連れ去られてから一時間後、私は手に包丁とジャガイモを持ってモデルルームかと思うような豪華なシステムキッチンに立っていた。六畳はありそうな広々としたキッチンで、まずコンロがガスじゃない。蘭ちゃんいわく最新型のIHクッキングヒーターだそうでガスと同じくらいの加減で加熱してくれるらしい。そして大きなオーブンや食器洗浄機の構造などを見れば、後から取り付けたのではなく元々キッチン設備に組み込まれてた感じだ。ウチの後からリフォームされたシステムキッチンとはえらい違いだ。灰谷家のキッチンは私にとって未知なる空間だった。

「ほら、肉はこれ使って」

これまた大きな両開きの冷蔵庫から、蘭ちゃんがお肉の入ったパックを私に差し出す。見れば値段が〇万円はしそうな高級牛肉。少々呆気にとられた。

「…何で私が…」
「あ?」

お腹が空いたと言い出した蘭ちゃんは「飯食いに行こうぜ」と誘ってくれたはずだ。なのに私は今、再び灰谷家にお邪魔している。この謎展開に思わず本音が口から零れ落ちた。

「オマエがもう飯は食ったって言ったからだろーが」
「…そうだけど!だからって何で私が蘭ちゃんちでカレーを作らないといけないの?」

そう、そうなのだ。蘭ちゃんは確かに素敵な洋食屋さんに連れてってくれた。でもそこで私は思い出した。から揚げ弁当をしっかり食べて来たことを。ついそれを口にしたら、店に入ろうとしていた蘭ちゃんが「ハァ?」と呆れたように振り返り…結局そのまま灰谷家に連れて来られたのだ。

「残念だったなー?あの店めちゃくちゃ美味いのに」
「う…」

蘭ちゃんが皮肉たっぷりの笑みを浮かべながら見下ろしてくる。蘭ちゃんちから数分ほどの住宅街にあったその店は確かに美味しそうな匂いがしてた。何でもこの近辺のセレブな主婦御用達らしく、蘭ちゃんも母親に連れて行かれてからは自分でも通いだし、13歳という若さですでに常連らしい。あまりに住む世界が違い過ぎてムカついて来る。

「だからってカレー作れって…」
「いいじゃん。オレ、夢だったんだよなー。彼女に飯作ってもらうの」
「………」

蘭ちゃんの言葉にじんわりとした熱が顔に広がっていく。蘭ちゃんの"彼女"になった実感が急に湧いて来た。案外、私はちょろい女なのかもしれない。でも次の瞬間、そんな甘い思いが一気に萎む。

「え、まさか…カレー作れねえとか?」

黙ったままの私に勘違いしたのか、蘭ちゃんが身を屈めて顔を覗き込んで来る。その口元は緩んでいた。

「…む、カレーくらい作れるよ」
「ふーん?」
「な…何よ」
「別にー。あ、ルーはこれ使って」

蘭ちゃんはどこか楽しそうだ。フロアコンテナの中から箱を一つ取り出してワークトップの上に置いた。見れば市販されてるのは見たこともないカレールーで、どこかのお店らしき名前が書かれている。絶対に高級店からのお取り寄せだろうと突っ込みたくなった。この手に握っているジャガイモだってきっと普通のイモよりは高いはずだ。

「あ…じゃあ作るから蘭ちゃんはあっちで待ってて」
「え、何でだよ」
「…え?」

隣にピッタリ寄り添うように立っている蘭ちゃんを見上げると、彼もまた私を見下ろした。予想以上に近くて心臓が変な音を立てる。

が料理するとこ見たいし」
「ちょ…見たいって…」
「いーじゃん。邪魔しねぇから」

笑顔を見せながら、蘭ちゃんは私の頭を軽く撫でてくる。その手があまりに優しいから、また顔の熱が復活した。照れ臭いのと見られてるという緊張のコラボレーションで耳まで熱い。

「あー待て、
「…え?」

恥ずかしいのを振り切るようにまずはジャガイモを洗おうとした時、蘭ちゃんが壁に引っ掛けてあったエプロンを取り、それを私に被せた。

「制服、汚れんだろ」
「あ…うん…ありがとう」

エプロンに腕を通しながらお礼を言うと、蘭ちゃんは腰紐を後ろへ回して縛ってくれている。意外だけど蘭ちゃんって結構マメだと思う。ああ、でも保育園の頃も面倒見は良かったっけ。

「これ…蘭ちゃんのお母さんの?」
「いや、前にいた家政婦が置いてったやつ。お袋は料理なんかしねーし」
「そ…そうなんだ…。あ、お仕事してるんだもんね」

蘭ちゃんは何も応えなかった。お母さんと仲が悪いんだろうか。保育園で一緒だった頃、蘭ちゃんのお母さんとは何度か顔を合わせている。何となく覚えてるのは優しそうで綺麗なお母さんだったなという漠然としたものだ。あの頃から忙しそうだったしバリバリのキャリアウーマンってやつかもしれない。

「あ…そう言えば…竜胆くんは?」

もうひとりの幼馴染である弟の姿はない。時間は午後を過ぎてるけどいる気配がしない。まだ寝てるのかと思っていると、蘭ちゃんが苦笑交じりで「多分まだ学校だよ」と言った。

「あ、そ、そうだよね」

普通、私達の年齢ではまだ学校へ行っている時間帯だ。蘭ちゃんに付き合っているとその辺が時々分からなくなってくるのが怖い。

「今朝、無理やり学校付き合わせたんだけど、さっきも言ったようにオレはつまんねーから帰って来たし」
「え…じゃあ…置いて来たの?」
「置いて来たっつーか、別にずっと一緒にいるわけじゃねえし。アイツもダルくなったら帰ってくんじゃねーの」
「……」

無理やり付き合わせたのに結局は自分だけサボって帰って来たのかと内心苦笑しながらジャガイモを洗っていると、蘭ちゃんが意味深な笑みを浮かべて隣へ立った。

「つーことで…今この家にはオレとのふたりきり」
「え…?」

ふと顔を上げると、蘭ちゃんはシンクの淵に両手を置いて顔を覗き込んで来る。さっき以上に顔が近いから心臓が跳ねてしまった。

「何でも出来るけど?」
「…ッな…なな何が…?」

ゆっくりと近づいて来る蘭ちゃんの綺麗な顔が意地悪く笑っている。私の身体が自然と後ろへのけ反って、やっと少しだけ距離が出来た。

「何って…キス、とか」
「…き…すっ?」

驚いた拍子に手からジャガイモが落ちてシンクを転がった。再びジリジリと距離を詰められる。ゆっくりと後退していく私の身体が冷蔵庫に阻まれ、足が止まってしまった。

「前はオマエも気づいてねえから遠慮してたけど…もう正式につき合ってんだから遠慮とか必要ねえし…いいよな?」
「い…いい、よな…って…」

背中をぴたりと冷蔵庫に押し付けながら、蘭ちゃんの意地悪な顔を見上げる。いつの間にか顔の左右に置かれた蘭ちゃんの腕に挟まれていて逃げ場はない。まさかの壁ドン体勢に顔が一瞬で熱くなった。

のエプロン姿が可愛いし何かムラムラしてきたわ」
「ム、ムラムラってっ……ちょ…ち、近い…ってば」

屈みながら顔を近づけて来る蘭ちゃんにギョっとして思わずしゃがみそうになる。その時、ふと先ほどケンヤに言われたことが頭に浮かんだ。

"どーせオマエのことだから怖がって拒否ってんじゃねーの?そんなお堅いままじゃ蘭くんにそのうち捨てられんぞ"

まさに今がそんな状況かもしれない。ただあの時はケンヤに先を越されたというのもあり、「そのうちするもん」と強がったものの、まだ心の準備が出来ていなかった。それにやっぱりキスをするのは早い気もする。正式につき合いだしたとは言っても昨日の今日、それもこんな形で唇を許していいの?と思った。そんな心の葛藤で、つい顔を思い切り背けてしまった。蘭ちゃんの動きが不意に止まる。

「…何だよ」
「だ…だって近い…」

蘭ちゃんの不機嫌そうな声に顔を背けたまま応える。しばしの沈黙が流れた。その時、右側に置かれていた手が動いて、蘭ちゃんの指が私の頬にかかった髪を避けてそのまま耳にかけられた。瞬間、露わになった首筋に柔らかいものが押しつけられてビクリと肩が跳ねる。

「ちょ…」

慌てて顔を戻すと、不敵な笑みを浮かべた蘭ちゃんの顏が目の前にある。一瞬ドキっとしたけど、彼は笑いながら身体を離した。

「マジでビビってやんの」
「だ、だって…また首にキ、キス…」
「オマエが顔を背けるからだろ」
「だ…だからってそんなとこにしなくても…」

思わずキスされた首元を手で隠す。そこからジワジワとくすぐったいような甘い刺激の広がっていく感じが恥ずかしくなった。なのに蘭ちゃんは悪びれた様子もない。

「オレ、の首筋好きなの。綺麗だから」
「……っ」
「ぷ…、真っ赤じゃん」

蘭ちゃんは相変わらず余裕の態度で笑ってる。それが少しだけ悔しい。私ばかりドキドキさせられてる気がするからだ。

「ど、どいてよ…カレー作るから」
「んー。どうしよっかな」
「ら、蘭ちゃん…?」

軽く腕を引っ張られ、身体が前に傾く。そのまま蘭ちゃんの胸元に顔ごと押し付けられた。背中に回った腕に力が入ったのが分かる。いきなり抱きしめられて心臓のドキドキが復活してしまった。

「ほっせーな、オマエ…力入れたら壊しそう」
「そ、そんなわけ…」

ない、と言いかけた言葉は途中で途切れた。蘭ちゃんの腕に包まれているとドキドキが加速して息苦しくなる。でも蘭ちゃんの胸からも同じような音が聞こえた。

(蘭ちゃんも…ドキドキ、してる…?)

そう思っただけで頬が熱くなった。かすかな香水の匂いが余計に蘭ちゃんの存在を知らしめてくる。ふと、僅かに腕の力が緩んだ気がしてゆっくりと顔をあげれば、意外にも真剣な顔の蘭ちゃんと目が合った。

「マジで…イヤ?キスすんの」
「……っ」

ドキっとして視線を反らしてしまった。でもこの瞬間、感じたのはイヤじゃないという自分の本心だった。小さく首を振ると「え?」と驚いた蘭ちゃんの声が聞こえた。

「いいのかよ…しても」
「そ…そういうこと…聞かないでよ…」

緊張で身体が固まる。次は逃げられないだろうなと思った。でも逃げる気はもう、私の選択肢の中にはない。蘭ちゃんが再びゆっくりと身を屈めるのが分かった。その気配を感じてぎゅっと目を瞑る。くちびるに、蘭ちゃんのかすかな吐息を感じた。

「――うお!」

「「……ッ」」

何の前触れもなく、唐突に背後から声がした。同時に私と蘭ちゃんの間は一気に距離が出来る。声のした方へ視線を向けると、そこには真っ赤な顔で立ち尽くしている竜胆くんがいた。