クラブという場所はトイレの中まで音が影響してくるらしい。ズンズンとお腹に響くような低音を感じながら、ふう、と息を吐き出した。蘭ちゃんに連れて来られた大人空間は凄く刺激的で、どこを見てもキラキラしてる。派手なメイクをしたお姉さんたちに群がるパっと見イケメンそうなチャラ男たち。あちこちから煙草やアルコールの匂いが漂って来る中で、ビップルームにいる私達だけが異質だ。
「こんなとこ先生に見られたら停学だよね、きっと」
夜、ゲーセンで遊んでいて補導されるのとはワケが違う。考えると少し怖いけどスリルはある。ただ蘭ちゃんと一緒にいると怖いお兄さんたちがやたらと声をかけて来て、その後に決まって私の存在に驚くから困ってしまう。蘭ちゃんが嬉しそうに「オレの彼女ー♡」なんて説明するから恥ずかしくて仕方ない。それを聞いた人は「マジ?」と言いながら私のことをジロジロ見て来るから余計に恥ずかしいのだ。
「うわ、もう0時なんだ…」
バッグの中から出したケータイを開いた時、大きな文字で表示されている時間を見て少し驚いた。ここへ来てから数時間は経過している。大勢で騒いでると時間の感覚が鈍るようだ。
(お昼過ぎに蘭ちゃんが迎えに来て、そのままずーっと一緒にいるんだなぁ…)
軽くメイクを直しながら、ふと気づいて苦笑した。一日の大半を蘭ちゃんと過ごしたことになる。長い時間を共有すると、自然にそれが当たり前になっていく感覚があった。隣に蘭ちゃんがいる。それが今後も当たり前になっていけばいいな、と今は素直に思える。再会してまだそれほど日数は経っていないのに、心はこんなにも急速に動くものなんだと改めて驚かされる。
その時、洗面台に置いてたケータイが震動した。え、こんな時間に?と驚いて確認すると、メールが届いている。
「蘭ちゃん…?」
開いてみれば一言、"遅い!早く戻ってこい"という端的な文が表示された。まさか一緒に行動している最中、メールを送られるとは思わない。私は慌ててリップをポーチにしまって、それをバッグに突っ込んだ。
「遅いって数分席を立っただけなのに」
ワタワタとしつつ、最後に鏡で全体の最終チェックをしてからトイレを飛び出そうとした。でもドアを開けようと手を伸ばした時、先にドアが開いた。
「あ…」
入って来たのはジンさんが口説いていたサキという女の子だった。目が合った瞬間、少し怯んで後ずさってしまった私を見て、彼女は僅かに笑み浮かべた。
「ちゃん…だっけ」
「…は、はい」
「歳は?」
「……えっと…」
「ああ、蘭くんと同じ歳、だっけ」
「はい…」
「意外だったなぁ。蘭くんって年上好きかと思ってたのに」
含みのある言い方をされてどう応えていいのか分からず、言葉に詰まってしまった。やっぱりサキさんは蘭ちゃん狙いなんだろうか。私がいてもグイグイ来る感じだったし、この人は私の存在なんて鼻にもかけてないみたいだ。
「あ、ねえ。連絡先、交換しない?」
「…えっ?」
気まずい空気の中、どうやってこの場を去ろうか考えていると、サキさんが突然ケータイをバッグから出した。
「こんな時間に遊びに来てるってことはちゃんちも複雑なんでしょ?私もそーなの。暇な時は遊ぼうよ」
「…は、はい」
何でいきなり?と思ったものの、断る理由も思いつかない。むしろ断った後の気まずさにも耐えられそうにないと思った私は仕方なくバッグからケータイを出した。
「はい、送信っと。ありがとー」
「いえ…」
互いに連作先を送信し合うと、サキさんは優しい笑顔を向けて来た。さっきよりは空気も柔らかい。彼女の意図は分からないけど、連絡先を交換するだけなら特に問題もないはずだ。もし本当に誘われても嫌なら断ればいいんだし、と安易なことを考えた。
「私、そろそろ戻らないと…」
「ああ、そうだよねー。今も蘭くん、遅いって不機嫌になってたし。ラブラブなんだねー」
「え…そ、そういう感じでも…」
さっきとは違うニコニコした顔で照れるようなことを言われ、私は笑って誤魔化しながらトイレを後にした。だいたいちょっとトイレに立っただけで心配も何もないはずだ。そう思ったのに廊下を歩いて行くと、フロアと通路の間に蘭ちゃんがいた。壁に寄り掛かって仏頂面でケータイを眺めている。
「蘭ちゃん…?」
蘭ちゃんもトイレに行ってたのかと思って声をかけると、ケータイを見つめていた視線が不意に私に向けられた。
「遅ーい…オマエ、クソでもしてたのかよ」
「そっそんなわけないでしょ!メイク直したり…女の子は色々時間かかるのっ」
失礼な、と言わんばかりに言い返すと、蘭ちゃんは「はあ…」と大きな溜息をついて、私の方へ歩いて来た。一瞬、怖くなって足が勝手に後ろへ下がる。
「こーいう場所は危ない男も多いし、あんまひとりでウロウロすんなよ」
てっきり怒られるのかと思ったのに蘭ちゃんは困ったような顔で私の頭へ手を置いた。
「……う…うん。でもトイレだし…」
「それは分かったけど遅いから心配しちゃったじゃん」
「…え」
頭に置いた手でポンポンとしながら苦笑する蘭ちゃんを思わず見上げてしまった。どうやらほんとに心配してくれてたらしい。思わず「ごめん」と呟くと、蘭ちゃんは私の手を取って「そろそろお開きだし戻んぞ」と歩いて行く。かすかにぎゅっとされた手にドキっとさせられた。
その後、30分もしないうちに解散することになって、私は来る時と同様、蘭ちゃんと竜胆くんとでタクシーに乗り、途中の自宅前で降ろしてもらう。蘭ちゃんもわざわざ車を降りて門の中まで送ってくれた。
「真っ暗じゃん。もう寝てんの?の母ちゃん」
蘭ちゃんは家を見上げながら訊いて来た。深夜すぎだから普通の家庭だとそうだけど、ウチは違う。
「ううん。多分…お母さんも飲み歩いてていない。帰って来るのは朝かな。まあ…泊まって来なければ」
「マジか…つーか夜ひとりで大丈夫かよ」
「平気だよ。慣れてるもん」
本当は心細い夜もある。だけど仕方ない。私はもう幼い子供じゃないし、ここが私の家なんだから。
蘭ちゃんはふと私を見下ろして「強がりだな」と笑った。
「つ…強がりとかじゃないし…」
「ふーん?でも顔は寂しいって顔してっけど」
「ちょ…」
腰をぐいと抱き寄せられてドキっとした。門の向こうにはタクシーが止まってて、中では竜胆くんが蘭ちゃんを待ってる。向こうからは見えない位置だけど、外で抱き寄せられるのは凄く恥ずかしかった。
「暴れんなって。どーせ見えてねーから」
「そ、そうだけど…近所の人が…」
「こんな夜中に起きてるヤツいねーって。どこの家も真っ暗だし」
蘭ちゃんは辺りを見渡してから、離れようともがく私に「暴れんな」ともう一度言って、少しだけ身を屈めた。あ、と思った時には唇が塞がれていて、腰を更に抱き寄せられる。ふわりとそよぐ風で、蘭ちゃんからは甘い香水の匂いがした。また私の記憶に刻まれてしまう匂いだ。夏の夜の湿った空気、甘い香り、触れ合う唇の、熱――。
全てが私の脳に刻み込まれていく気がした。
「寂しいならこのまま一緒にオレんち、来る?」
僅かに唇を離して甘い誘惑をしてくる蘭ちゃんに、思わず首を振った。きっと私の顔は真っ赤になってる。
「何もしねーって。ただ一緒に寝るだけ」
「…え…?」
「そんな警戒されたらそう言うしかねえじゃん」
蘭ちゃんは苦笑しながらも、私のオデコにちゅっと口付けた。
「どーする?」
もう一度訊かれると、心が揺らいでしまう。だって、まだ一緒にいたいって思ってる。それにお母さんは今夜もどうせ帰って来ない。
「……ほんとに…何もしない?」
そっと視線を上げて尋ねると蘭ちゃんが笑った。
「んー。ちょっと触るかも」
「な…さ、触るって…っ」
「いーから行くぞ。オレ、眠たいし」
「ちょ…」
蘭ちゃんの中ではもう一緒に行くということになってたみたいだ。強引に手を引いて行かれ、再びタクシーに乗せられる。待ってた竜胆くんが少し驚いた顔で「は?」と言うから恥ずかしくなった。
「の母ちゃん帰ってねーし心配だからウチ連れてく」
「マジで?」
「どーせ、アイツらも帰って来ねーし、いいだろ、別に」
「そりゃいーけど…」
アイツらとはふたりの両親のことらしい。あの大きな家で兄弟ふたりきりっていうのもなかなかに寂しい気がした。
「んじゃー初のお泊り決定だな」
私の肩を抱き寄せて、蘭ちゃんはニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
(大丈夫か?私の操――!)
まだ一緒にいれるのは嬉しい反面、少しだけ、身の危険を感じていた。