1.
「はあ?高校には行かない?」
「うん」
「行かないで何すんだよ」
「働く」
「働くだあ?オマエが?」
ケンヤが呆れ顔で私を見て、軽く吹きだしている。でもそんなの気にしない。私の意志は固いのだ。
蘭ちゃんが少年院に入ってから丸二年が経とうとしていた。蘭ちゃんと会えなくなって、私は前の生活に戻ったようでいて、やっぱり前とは少し違っていた。
二年前、一晩あれこれ悩んで書き上げた蘭ちゃんへの手紙に対する返事が、まさかのお別れ的なものだった。全く意味が分からず、戸惑った私は、意味も分からないのにただ泣けて来て、毎日何で?って言葉が頭の中でぐるぐる回ってた。毎晩蘭ちゃんの夢を見て、起きた瞬間、泣けて来た。しばらくはご飯も食べられないくらいに落ち込んで、眠れない夜が続いた。やっぱり私のことも遊びだったのかな、とか、言ってくれた言葉全て嘘だったのかなと思うだけで涙が止まらなくなって、死にたくなったりもしたけど、そんな私をみかねたケンヤが私をジンさんのところへ連れて行ってくれた。蘭ちゃんと付き合いの長いジンさんなら、何故急に蘭ちゃんが"オレのことは忘れろ"なんて手紙を送って来たのか、何か分かるかもしれないと思ったようだ。
そしてジンさんは私の話を聞いた後でこう言ってくれた。
"蘭の気持ちは蘭にしか分かんねえけど、もしアイツがちゃんにそんな手紙を送ったんだとしたら…それはちゃんの為を思って、としか考えられねえな"
どういう意味なのか尋ねると、ジンさんは困ったような顔で「絶対、オレから聞いたって言うなよ」と念を押してから話してくれた。
「狂極の奴らを病院送りにした後で、副総長が意識不明の重体って話を聞いた蘭が言ってたんだ。もし、万が一アイツが死んだら…とは別れた方がいいよなって。オレが何でだよって聞いたら、アイツこう言ったんだ。人殺しの前科もんが彼氏なんてには似合わないって…。それ聞いて、よっぽどちゃんのことマジなんだなって思ったよ」
その話を聞いて、私は泣いてしまった。蘭ちゃんがそんなことを考えてくれてたなんて知らなかった。そしてふと思い出した。あの夜、私の家に来たあの時、蘭ちゃんが少し元気のなかったことを。
あの夜の蘭ちゃんの顔を思い出したら悲しくなって胸が痛くなって、一瞬でも遊ばれたのかもって思った自分に無性に腹が立った。改めて、蘭ちゃんが好きだって思い知らされて、死ぬほど蘭ちゃんが恋しくなった。
顔が見たい。声が聞きたい。蘭ちゃんに、触れたい――。
あんなにそばにいたのに、私はちっとも蘭ちゃんの気持ちを分かってあげられてなかった。
だから私は勝手に蘭ちゃんを待つって決めた。忘れろなんて言われて簡単に忘れられるほど、私の蘭ちゃんへの気持ちは軽くない。
気持ちが固まったら、後は簡単だった。高校には行かない。高校に行くより私はお金を稼ぎたかった。お金を溜めて家を出て蘭ちゃんの為に何かをしてあげたい。漠然としたものだけど、そう思った。
「蘭くんの為って…オマエ、まさか貢ぐ気か」
「違うよ!そういうんじゃなくて…」
「じゃあ何だよ」
「一緒に…住んだりとか?」
「はあ?そんなことオマエひとりで決めても蘭くんがどう応えるか分かんねえだろ」
「そ、それは…そうだけど…」
そんなのケンヤに言われなくても分かってる。あれから二年。私達の歳で二年は長い。蘭ちゃんは私のことなんか、とっくに忘れてる可能性だってある。でもまだ小さな可能性があるならそれを信じたいって思う。あの夜、蘭ちゃんが私に言ってくれた言葉は今も心の中に残ってる。私を抱きながら優しい声で好きだって言ってくれたこと、一度だって忘れたことはない。あの時の想いも、言葉も、まだ繋がってると信じたい。
2.
「え、お祭り?」
『うん。一緒に行かない?気分転換しようよ』
夏休みに入って一週間が経った頃、リコがそんな電話をしてきた。
「え、でもリコ、彼氏は?」
『それがさー急に行けなくなったって連絡が来て。何か大事な用が出来たんだってー』
リコはスネたようにボヤいている。その話を聞いて私は思わず笑ってしまった。
「なーんだ。だから仕方なく私を誘って来たんでしょ」
『あ、バレた?』
リコは悪びれた様子もなくケラケラ笑い出した。でも今夜は暇だし、たまには外に出るのもいいかと思う。どうせ一人でいたって蘭ちゃんのことばかり考えてしまうのだ。
「じゃあ付き合ってあげるよ。彼氏の代わりに」
『マジ?ありがとー!じゃあ一時間後に迎えに行くね』
「うん」
そこで電話を切ると、私は出かける準備をするのに軽くシャワーを浴びてから、この前買った新しい夏用のワンピースに着替えた。その後に簡単にメイクを施して持って行くものをバッグに詰める。その時、ふと鏡に映った自分の顔を見つめた。しっかりメイクをしている顔を見ていると、蘭ちゃんに言われたことを思い出した。
"オレ、ずっとはスッピンだと思ってたわ"
私がメイクをしても気づいてもいなかった。あれも今日みたいな暑い夏の日だった。初めて蘭ちゃんのバイクに乗せてもらって、初めて蘭ちゃんの家に行ったっけ。あの時はまだ私は蘭ちゃんが初恋の人だって気づいてもいなくて、ただただ蘭ちゃんにビビってたなと思うと、懐かしさがこみ上げて来た。懐かしすぎて泣けて来る。
「やだ…メイクはげちゃうよ…」
瞳に浮かんだ涙をティッシュでそっと拭いて、軽く深呼吸をした。あの日のことが随分と遠い日のように思えて、胸が痛くなる。このまま思い出になんてしたくないのに、今の私は無力だった。
(あれから二年…そろそろ蘭ちゃんと竜胆くんが少年院から出て来るはず…)
一つ誤算だったのは、二人が退院したとして、私にそれを知る術がないことだ。ジンさんなら知ってるかもしれないと定期的に連絡を入れてるけど、先週電話をかけた時はまだ出て来てないと言われた。さすがに家に尋ねていく勇気もない。
ふと鏡台の上にある香水の瓶を手に取った。蘭ちゃんが好んでつけてた大人の香り。あの香りが恋しくて、つい自分で買ってしまったものの、怖くてまだ使ったことはない。この匂いは私にとって蘭ちゃんそのものだ。嗅いだら絶対、あの頃の想いが押し寄せて胸が苦しくなる。それが分かっているから一度も付けられずにいる。前に蘭ちゃんちでゲームをした時に思ったことが現実になるのが怖いのだ。蘭ちゃんと初めてキスをしたことを、あのゲームが新作を出すたび思い出す。それは実際当たっていた。匂いだって同じだ。私の中に刻まれた蘭ちゃんの面影は、どうやったって消せない。
「忘れろなんて…無理だよ…蘭ちゃん」
泣きそうになって、私はそっと香水の瓶を鏡台に戻した。
3.
「うわー凄い人だねー」
六本木近くの大きな神社。毎年夏になると派手なお祭りが開催される。私も前は良く来てたけど、ここ二年は来ていない。蘭ちゃんのことがあってから、あまり騒がしい場所に行く気もしなくなった。だからこういう場所はかなり久しぶりだった。
「何か食べる?」
「そうだね」
二人で夕飯を抜いて来たので、まずは何か食べることにした。出店のある通りは大勢の人で賑わっている。家族連れだったり、カップルだったり、友達同士だったり。それぞれ大事な人と一緒に来ているんだろう。そう思うと少し羨ましくなった。
「、何にする?」
「うーん。私はたこ焼きにしようかなぁ」
「じゃあ私はお好み焼き!」
ソースの香りに誘われてリコはお好み焼き、私は"大阪たこ焼き"と書かれた暖簾の店に近寄って行く。そこには可愛らしい二人の女の子を連れた綺麗な顔の男の子がいた。私と入れ違いで買ったたこ焼きを妹らしき二人にあげていた。
「ほら、マナ。ソースついてるぞ」
「え~とって、お兄ちゃん」
「仕方ねえなー」
そんな会話が聞こえて来て、思わず笑みが零れる。あんな優しいお兄ちゃんが私も欲しかったな、なんて思う。そしてお兄ちゃんというワードで、やっぱり蘭ちゃんを思い出してしまった。この何でも蘭ちゃんにリンクしてしまう脳を何とかしたい。
「オジサン、たこ焼き一つ下さい」
「はいよー」
テキヤのオジサンが慣れた手つきでたこ焼きをひっくり返すのを感心しながら見ていると、かすかにお腹が鳴った。ソースの香りって何でこんなにも食欲をそそるんだろうと不思議に思っていた、その時――。不意に懐かしい香りが漂って来た。その香りがふわりと私の鼻腔を刺激して心臓がドクンと大きな音を立てる。
(この…匂い…蘭ちゃんの…?)
その香水を嗅いだ時、ほら、やっぱり…と思ってしまった。こんな風に同じ香水をつけた人とすれ違うことがあれば、絶対に蘭ちゃんのことを思い出してしまう。私に刻まれた蘭ちゃんの匂いは何年経ったとしても、こんな風に私を切なくさせるんだろうなと思うだけで、泣きそうになった。
「!」
その時、リコの声が聞こえて、私は振り向いた。同時に、ちょうど後ろを通り過ぎた人が私の方へ振り向いたのが分かった。
「……え?」
「……」
夢かと思った。夢なら、覚めないで欲しいと。
私の目の前に――蘭ちゃんが、いた。