年少から退院して丸二年。今はすっかり元の生活を謳歌していた。そんな中でオレが最近もっともヒヤっとした時の話をしよう。
保育園の時の初恋を実らせ、幸せ真っただ中にいるオレの兄貴の話だ。
傷害致死で捕まって年少送りになった時は破局の危機があったものの、再会して互いの想いを確かめ合ったふたりは結局元サヤに納まってめでたくハッピーエンド。そこからは前以上に仲の良いところを見せつけられ、弟のオレとしてはちょっとウザいと思わないでもないが、まあ幸せそうな兄貴の顔を見るのは悪くないって感じだった。どんなにいい女に言い寄られてもなびかなかったあの兄貴が、同じ歳で普通の女の子の代表をいくにデレる姿も、ある意味どんなコメディ映画よりも面白い。
ぶっちゃけ半年ないし、持って一年じゃね?くらい思っていたオレも、二年経った今でも仲のいいふたりを見ていると、これはひょっとしてひょっとするのか?くらいは思い始めていた。兄貴がに対して本気なのは見てても分かるし、今じゃ殆どこのマンションに半同棲みたいな感じだし、どこに行くにも兄貴はを連れて行く。そのは言わずもがな。兄貴の前じゃいっつも頬を染めて少女漫画のヒロインかってくらい瞳に星を輝かせている。そんな仲のいいふたりが、今夜――ケンカをした、らしい。
ふたりがケンカをしたのはオレの記憶が正しければ多分、年少を出てすぐの時。イロイロ溜まっていた兄貴が適当にナンパした女とヤろうとした時以来だと思う。
この日の夜、オレは兄貴と別行動だった。起きた時はすでに兄貴は出かけた後。確かが学校の友達とご飯に行くから今夜はいないっつーことでジンと飲みに行くと夕べ話してた。オレはオレで出かける気分でもなく、適当にデリバリーを頼んで珍しく家飲みしながらリビングで録画しておいた某名探偵少年が主人公の映画を観ていた。名台詞「真実はいつもひとーつ!」から始まり、謎解きが終わって最後のド派手はアクションシーンが流れる頃にはオレも手に汗を握って画面に見入っていた。まさにそんな時。久しぶりに不機嫌の塊みたいな顔で兄貴が帰宅した。しかも誰かとケンカしたのか、すっかり元通りに伸びて三つ編みにしてた髪を乱し、着ていたサンローランのシャツ――が欲しいと言ってデザイン違いのを一緒に買ったやつだ――がちょっとだけほつれてるからビビった。
「どしたん、兄貴」
「あー…帰って来る途中でぶつかってきた生意気そうなヤツがいたからボコってきた」
「…は?つか…兄貴、今夜はジンと飲みに行くつってなかったっけ。まだ夜の9時だけど」
「………」
何か悪いこと言ったっけ、と心配になるくらい、兄貴のオレを見る目が怖ぇ。ってか、そもそも何でこんなに機嫌が悪いんだ?最近はずっとのおかげで、兄貴の機嫌が七福神の顏並みに穏やかだったのに。
「…行ったことは…行った」
「そ、そーなん?にしては早いじゃん」
「………」
兄貴はまたジロっとオレを睨んだまま、ソファに座って項垂れた。何か怖いんですけど。
「…がいた」
「え?」
ふと兄貴が呟いた。でも声が小さくて聞き取れず、オレが訊き返すと、兄貴は項垂れていた頭をガバっと上げて、
「飲みに行った店に…がいた」
「……へ?あ、ああ…何、友達と?」
ジンと飲みに行った店にが友達と来てた。そういう意味だと思った。でも兄貴は怖い顔でオレを見ると、「…働いてたんだよ」と舌打ち付きで言い放った。
「え、働いてた?って…そーいやアイツ、バイトしたいって言ってたな。じゃあ居酒屋か何か?」
「…バー」
「え?」
「ガールズバー!」
「………っ?!」
ガンっとテーブルを蹴りながら――怖すぎる!――兄貴はソファの背もたれに頭を乗せて「そこで大喧嘩してきた」と呟いたもんだから、オレは一瞬、体も脳みそもフリーズした。
「え…マジで…、そんな店で働いてたの?」
「…今日入ったばっかの子がいるって聞いて、ジンが新人がいいっつって指名したんだよ。そしたら――」
兄貴の話はこうだった。久しぶりに抜きで飲みに出かけた兄貴は、ジンに最近人気のガールズバーに行こうと誘われたらしい。そういう店に行くのをは極端に嫌がるから、いつもは避けてる兄貴も、「今日はちゃんいないんだし、ちょっとくらいならいいじゃん」とジンにしつこく誘われ、仕方なく「一時間だけな」と行くのを承諾したようだ。そこで店のヤツから体験入店してる子がいると聞いたジンが、慣れてない子の方が口説きやすいと言いだし、顏も知らないその新人を指名。そこに来たのが、派手なメイクをして露出の高い制服を着ただったらしい。一瞬でその場は修羅場と化したそうだ。
兄貴は兄貴で「こんな店で何やってんだよ!」と怒り、はで「何で蘭ちゃんこんな店に来てんの?!」と怒り出したらしい。
「え…それで…どうなったんだよ…」
「辞めさせたに決まってんだろ。つーか、店でケンカになったから店長みたいのがすっ飛んで来て連れて帰ってくれって言われたし」
「マジ…で…は?」
「外に出て、連れて帰ろうとしたら"蘭ちゃんの浮気者ー!"って叫んでどっか行った」
「は…?で…?」
「追いかけようとしたらダサいリーマンにぶつかられてボコってたら見失って…でもワンチャンがウチに帰ってんじゃないかと思って一回戻って来た。今ここね」
「あ…そう…ってか…は帰って来てねえけど――」
「………」
そこで兄貴は時計を確認した。夜の10時になろうとしてる。きっとこんな時間にが六本木の街をウロついてるんじゃないかって心配してる顔だ。案の定、兄貴はソファから立ち上がると「ちょっと探してくる」と言い出した。オレに事の経緯を話してる内に熱くなってた頭が冷えて来たんだろう。今じゃちょっと顔色が悪くなってる。
「オレも一緒に探すよ」
「あーうん…頼むわ」
うわ、兄貴が素直すぎて怖ぇ。つかのヤツ、マジで何やってんだよと溜息が出る。アイツがバイトしたいって言いだしたのは、最近まで通ってた高校を中退してからだ。の母親の再婚が決まって家を出ることにしたが、本格的にここで兄貴と暮らすことになった。そこで急に働きたいとオレに相談してきたのだ。兄貴はバイトなんかしなくていいって言ってたみたいだけど、としては高校も辞めてプラプラするのも良くないと思ったんだろう。
「何かいい仕事ないかなぁ」
なんて言うから、「近所のマックでいいじゃん」って言ったら、「もっと給料いいのがいい」と言い出し、オレとしては冗談で「ならお水とかじゃね」って笑って……とそこまで考えてオレの体に稲妻が落ちたような衝撃が来た。
(ってことはアレか?がガールズバーで働こうとしたのは、オレの適当な助言のせい…?)
そこに気づいてしまったオレは一気に血の気が引いた。こんなことがバレたらオレは兄貴に殺される。
「竜胆、行くぞ!」
「……お、おう」
この様子だとが何でそんな店で働こうとしてたのか、兄貴は知らないみたいだ。まあ知ってたらその時点で一発くらいは殴られてるはず。これは何としてでもに口止めしないと――!
そう思いながら兄貴より先にを見つけようと思った、その時。玄関のドアが静かに開いた。
「…?!」
「あ…蘭ちゃん…帰ってたの…?」
そこには今、まさに探しに行こうと思っていたが立っていた。泣きはらしたような目を丸くして、「何でふたりして玄関にいるの」と驚いている。
「オマエ探しに行こうとしてたんだよ…でも良かった、無事で」
「ら、蘭ちゃん…?」
兄貴は心底ホっとしたような顔で、いきなりを抱きしめている。さっきまでの怒りも消えたのか、今はいつものように甘い空気になってきた。もだいぶ落ち着いたのか、「ごめんね、蘭ちゃん」と素直に謝ったことで、兄貴までが「オレもごめん」と言い出した。え、あの兄貴が普通に謝ったんですけど。ってか地球、大丈夫か?今まさに頭上から隕石が降り注いできても、オレは驚かないぞ。
「でも何であの店?そんなにバイトしたいなら昼間の仕事でいーだろ」
「…だ、だって…お給料いいから…いいかなって…」
「オレ以外の男に愛想ふる仕事なんて許すはずねえじゃん」
「…う…ごめん。蘭ちゃんの負担になりたくなくて…」
「負担なんて思うわけねえだろ?オマエは働かなくていいって言ってんのに」
やべえ、空気が激甘になってきてる。つーかふたりともオレの存在、忘れてねえ?
「でも蘭ちゃんこそ、何で来たの…?女の子のいる店に行くのイヤだって、わたし言ってるのに…」
「だから言っただろ。ジンがあまりにしつこいら一時間だけっつー約束で…」
「それでもやだ…」
「…」
あ、兄貴ぜってぇー今、"可愛いヤツ"とか思ってるだろ。あのデレた感じはそうに決まってる。だいたい兄貴はにヤキモチ妬いて欲しくて、ジンが一緒の時だけわざと女の子のいる店に飲みに行ったりしてたことがある。その理由はが照れ屋であまり兄貴に対して自分の気持ちを伝えないせいだ。だから敢えてヤキモチ妬かせて、そういうことでの自分への気持ちを量ってたようにオレは見えた。でもが本気で嫌がるようになってからは、兄貴もぱったり行かなくなったし、誘われても断るようになった。あ、だからか。もそういうの知ってるからガールズバーで働いても兄貴にバレないと思ったのかも。
「もう絶対行かねえよ」
うわ、兄貴ってを見つめる時、あんな優しい目をすんだな。いや今日までに何度となく見て来たけど、こんな近くで見るのは初めてだし普通にビビるわ。っていうか玄関の温度が何気に上昇してんじゃねーのかってくらい、暑い。
「じゃあ…仲直り」
「ん、仲直りな」
まずい…この空気はきっとアレなやつだ。ってか今じゃマジでオレの存在はないものとして扱われてる気がする。現にこっそりリビングに戻ろうとしたら、背後からちゅっというリップ音が聞こえて、こっちが恥ずかしくなる。玄関でちゅーするとか新婚かよって感じだ。どうせこの様子じゃ速攻でベッドに直行だろう。まあ、それで明日以降の六本木はまた平和になるだろうから、オレとしては万々歳だ。
――ってことで、オレは映画の続きでも観るとしよう。