最悪の始まり―01

Ambivalent


これは――悪い夢だ。
目の前に差し出された書類の内容を理解した時、はふと思った。まるで蜘蛛の巣に絡めとられていくような悪夢だと。
幼い頃からの夢が叶い、最高のスタートになるはずだったこの日、地獄への入り口が、予想もしない形で開かれたのだから。

「分かったんならここにサインしてくんねえ?」

端正な顔立ちの男がペンを彼女へ放り投げる。それがテーブルへ落ちるカシャンという音にビクリと肩が跳ねた。僅かながら視線を上げれば、男にしてはやけに艶のいい唇が弧を描くのが見えた。
細身で高身長。唇と同様、艶のある白い肌。金と黒に分けられた長い髪を何故か三つ編みにしている。男の雰囲気とはアンバランスな気がして、は内心おかしくなった。
悪魔を人の形にしたらこんな感じなんだろうか。
意識が遠くなりそうな中、どうでもいいことを考えながら、は震える手でテーブルに転がったペンを手に取った。


◆◇◆


真っ白い壁と天井。それほど広くもない室内にはほんのりと消毒液の匂いが漂っている。病院特有のこの匂いが好きじゃないと言う人間もいるが、蘭は意外と気に入っていた。それは十代の頃からケンカに明け暮れ、しょっちゅう病院で治療を受けていたせいかもしれない。当時からこの空間にいると何故か気分が落ち着いた。学生時代でも滅多に登校しなかった蘭が、唯一入り浸っていたのも保健室だったことを思い出す。
どんなところよりも清潔でなければならない場所。そういう意味でも綺麗好きな蘭としては居心地がいいのだ。

(相変わらず手際がいいな…)

蘭の目が自分の腕に包帯を巻く細い指先に止まった。そこから視線を上げていくと、長い黒髪を一つ縛りにした伏し目がちな女の顔が視界に入る。あまり表情はなく、メイクも薄めで、初めて会った時にも思ったが全体的に地味な印象だ。確か年齢は24歳。蘭よりも二つ下の彼女はその若さでこの病院の医者兼、院長でもある。今は、まだ。

「はい、終わり」
「…いてっ」

腕を離されたと同時に、傷口の辺りをペチンとはたかれ、蘭は僅かに顔をしかめた。大した傷ではないが、何針か塗ったばかりの場所への刺激にしては少々強い。

「いってぇなぁ…。フツー医者が患者を殴るとかねーから」

たった今、巻かれたばかりの包帯の上から腕を擦りつつ、蘭が苦笑いを浮かべると、彼女――の眉間がかすかに寄せられた。少し…いや、かなり不機嫌らしい。

「患者は普通こんな時間に来ないでしょ…。今、何時だと思ってるの?」

言いながら壁時計に指をさす。蘭がその時計に視線を向けると、時刻は午前2時になるところ。世間的には深夜と称される時間だった。

「時間なんて関係ねえだろ。契約には緊急時には対処するってのも含まれてんだし、オマエは医者だ。どんな状況でも対応しろ」
「…あのね。前から言ってるけど、そもそもウチは人間相手の病院じゃないし、わたしは獣医だから――!」

鼻で笑う蘭の態度に、はムッとしながら言い返す。だが蘭は気にする様子もなく「逆らう気か?」と嫌味な笑みを端正な顔に浮かべた。

「つーか、前にも言ったがオマエの病院はすでにオレらの組織の管理下にある。言ってみればオマエはオレの部下。文句を言える立場じゃねえだろ」

蘭が再び鼻で笑うと、は僅かに言葉を詰まらせた。蘭の言っていることは事実であり、何も言い返せない。蘭もそれを分かっていたからこそ、敢えて口にしたのだ。しかしはそれで素直に黙るような性格でもない。小さな抵抗と言わんばかりに蘭を睨みつけると、手にしていた包帯を彼の方へ投げつけた。細身で華奢なわりに、意外と力が強い。

「用が済んだならサッサとお引き取り下さい。灰谷さん・・・・

「…はいはい。分かったよ」

顔の辺りに飛んできた包帯を見事にキャッチした蘭は、それをテーブルへ置くと、苦笑交じりに立ち上がった。治療を受けに来たものの、本来なら病院へ来るほどの怪我でもない。何針か縫うような傷でも彼にとっては軽傷のうちだ。

「今日は朝から暴れ回ってて疲れてるしお望み通り退散するわ」

言いながら蘭はの頭へ手を乗せると「お休み~。ちゃん」と髪を軽く撫でていく。その手を即座に振り払われたものの、彼女のそういった態度には慣れている。かすかに目を細めただけで、蘭は早々に診察室を後にした。

「ハァ…マジで可愛げのねえ女…」

明かりもない暗い廊下をノンビリ歩きながら、蘭は首をコキッと鳴らした。彼女にも言ったように、今日も一つ歯向かってきた組織を潰してきたばかり。大乱闘したせいか全身が地味に痛い。その際、刃物で切り付けられたことで腕を負傷し、様子見もかねてこの病院へ来たのだ。

(神奈川の興津組もああなればオレらの下につくしかなくなる。残りは…関東最大と言われてる舟木一家を潰せば、東卍が実質、日本の裏社会を牛耳ることになる…もう少しだ)

それには現在いる地域、すなわち舟木の縄張りをもっと潰していかなければならない。の病院も含めたこの一帯をその足がかりにする予定だった。

(ま…借金を理由に脅せば土地を譲ってくれる奴ばっかだったし余裕なんだけど)

今、破竹の勢いで勢力を増している東卍に逆らえる人間は皆無。ただし、一人の女を除いては。

ちゃんはまあ…手に入れたようなもんだからいっか…」

顔を合わせるたび、蘭のことをゴキブリでも見るような目つきで睨んでくるを思い出しながら溜息交じりで呟くと、蘭は弟の待つ本部へと向かった。
一方――蘭の出て行った後、はイライラしたように目の前の椅子を蹴り飛ばした。さっきまで蘭が座っていたものだ。苛立つ感情のまま蹴ったことで、キャスター付きの椅子が勢いよく壁にぶつかり、ガンっと大きな音を立てる。

「相変わらずムカつく奴…」

忌々しげに呟きながら、消毒液や包帯を元の場所へ片付けていく。さっきまで気持ち良く寝ていたはずが、迷惑な患者のせいで台なしだ。

「ふぁぁあ…眠…」

欠伸をしながら最後に診察室を見渡すと、室内の電気を消して廊下に出た。そのまま居住スペースのある4階へ戻る為、エレベーターホールへと向かう。

「…はぁ…今度からスマホの電源切っておこうかな…」

ブツブツ言いながらエレベーターに乗り込むと、深い溜息を吐いた。
しかし実際それは不可能であり、連絡が入れば何時だろうと応対しなくてはならない。それが彼女と彼ら・・・との契約なのだから。

「忌々しい…これも全部お父さんのせいだ…」

彼女がそう毒づきたくなるのも無理はなかった。
元々、この動物病院はの父が経営していた。祖父の代から続く個人病院で、昔から地域密着型の庶民的な病院として知られていた。経営もなかなかに上手くいっていたし、動物好きだったも子供の頃から祖父や父のような獣医を目指して勉強を頑張ってきたのだ。だが父親が院長となり少し経った頃、駅前に大きな動物病院が建ち、徐々に患者数が減って行った。その新しい病院はペットブームに乗り、若い世代をターゲットにした今時のお洒落な造りで、一見モダンなカフェのようにも見える。案の定、その外観が目を引いたのか、マスコミが取り上げたことで一躍人気の動物病院になった。
それに焦った父親は本来、大事にしていた動物への丁寧な治療よりも病院の設備に力を入れ始め、ビル全体のリフォームを始めた。それが元で多額の借金を作ってしまったらしい。ただでさえ患者の数が減っているのに、高価な医療機器なども購入したりと、だいぶ無理をしたようだ。当然、すぐに限界はやってきた。銀行への返済が滞るようになり、ついには闇金に手を出したのだ。その相手が悪かった。
父親が借金をしたのは、ここ数年で急激に力をつけ始めた東京卍會という組織の息がかかった金融会社。最初の数百万がみるみるうちに数千万になり、ついには返すことが出来なくなった。まるで絵に描いたような転落劇だ。
家族には心配かけたくなかったんだろう。突然、家に強面の男達が来るまで、は父親が闇金に手を出したことを一切知らなかった。彼女がその悪夢のような現実を知ったのは、奇しくも獣医としてスタートを切った日なのだから、まさに悪夢としか言いようがない。
更に最悪だったのは、事情を聞こうと電話をしたに、父は「すまない」とだけ言い残し、どこかへ姿をくらましてしまったことだ。幼い頃に母を亡くし、唯一頼りにしていた父に見捨てられた彼女は、理不尽な返済を迫る男達の言うことを聞くしかなかった。
あれから半年、状況は何も変わっていない。

「ハァ…こんなこといつまでやらないといけないの…?」

先ほどまで眠っていたベッドへダイヴしながら、そんな言葉が零れ落ちる。だが現状、父親が作った借金を返せるアテはなく、どんなに理不尽な命令も黙って聞くしかないのだ。じゃなければ祖父の代から続いたこの病院を奪われることになる。

――アンタ、ここの娘か?

父親が失踪したあの日、の前に現れたのが、先ほどの迷惑な患者、灰谷蘭だった。
蘭は組織の幹部という立場で、全額返済できないならこの土地ごと病院をもらうと言った。父親が土地を担保にしていたせいだ。だが絶対にそれは嫌だった。は他の方法で必ず返済する、と蘭に食い下がった。
それが相手の狙いの一つだったとも知らずに。

――だったらオマエは東卍トーマンの為に働け。
――え…?
――どうせこの土地だけじゃ足りねえんだよ。その足りない分はオマエがこの病院で医者として働いて返せ。

それがどういう意味なのかも考えず、は頷いてしまった。自分の病院で獣医を続けられるなら何とかなる、と思ったからだ。返済のことは後で誰かに相談でもすればいい、そう思った。
だが――その考えが甘かったことをはすぐに理解する羽目になった。

――獣医つっても医者には変わりねえし、組織の誰かが怪我をしたらオマエは黙って治療しろ。もちろん、どんな怪我だろうと・・・・・・・・・警察に通報はなしだ。オレの言ってる意味、分かるだろ?

蘭の言葉を聞いては言葉を失った。蘭は医師免許を持っている人間を必要としていたのだ。組織にとって都合のいい医者を。
病院の隣にある大きなビルを東京卍會が買い取り、本部にしたということを後で知った時には遅かった。彼らは全て組織のものにするべく、初めからこの辺りの土地を狙っていたのだ。たまたまそこに病院があったのも彼らには都合が良かったのだろう。父は幹部の一人に甘い言葉をかけられ、ハメられたのだとは気づいた。

(それでも…わたしはやるしかない…)

逃げた父親に変わって、この病院を守る。そう決めたのだ。亡き母の為にも。

――が将来、この病院を守っていってね。

母の言葉を思い出しながら、は頭まで布団を被り、強く強く目を瞑った。


◆◇◆


「お、やっと戻ってきた」

蘭が本部事務所へ顔を出すと、ソファに座っていた蘭の弟――竜胆がニヤケ顔で振り向いた。向かい側には昔なじみの鶴蝶も見える。二人を視界に入れながら蘭は「まだいたんか、オマエら」と肩を竦めて竜胆の隣に腰を下ろした。

「オマエら、さっきまで眠いっつってなかった~?」
「そうだけど…あんだけ暴れた後じゃ気分が昂って眠れねえし、鶴蝶と酒飲んでたんだよ」

竜胆の言う通り、テーブルの上にはビールの空き缶が数本転がっている。

「まあ言えてんな。オレも飲もーっと」

蘭は身を乗り出し、缶ビールを一つ手にすると、それをグラスへ注いだ。それを見ていた竜胆は、包帯の巻かれた蘭の腕に目を向けた。

「で?どーだった?彼女の様子は」
「あ?」
「どうせ叩き起こしたんだろ」
「あー…まあ」
「やっぱなー。彼女怒ってたろ」

竜胆はどこか楽しげに肩を揺らして笑っている。蘭も苦笑しつつ「まーな」と応えながら、先ほど不機嫌の塊みたいな顔をしていた女を思い出した。東卍の幹部相手にあそこまで分かりやすく怒ってくる相手は珍しい。

「さすがの兄貴もあの子は無理じゃね?手なづけんの」
「あ?まだ分かんねーだろ」

咄嗟に言い返しながら竜胆の額を指で小突く。ただ内心では蘭も無理かもしれないとは思っていた。そもそも相手からすれば、蘭は彼女の全てを奪おうとしている敵だ。そんな相手に気を許す女には見えない。

「ま、一筋縄じゃいかねえのは確かだな…」
「じゃー賭けはオレの勝ちっつーことで」

竜胆は言いながら催促するように手のひらを蘭へ向けた。その手をパチンと叩き落とした蘭は「まだ分かんねえっつったろ」と笑った。竜胆は手を擦りながら「懲りねえなー」と口を尖らせている。

「ったく…債務者で遊んでんじゃねえよ」

その時、黙って二人のやり取りを聞いていた鶴蝶が呆れたように口を挟んだ。

「あの獣医さん、ちゃんと仕事はしてんだろ?だったら余計なちょっかいかけんな」
「ハァ~鶴蝶は相変わらず頭かてーなぁ。同じ回収するにも楽しんだ方がいーじゃん。兄貴になびかねえ女は初めてだしさー。面白いだろ。なあ?兄貴」
「うっせーな。あの女はどう見ても男見る目なさそうだろ」

蘭は僅かに目を細めながらビールを煽った。

「確かにちゃん、男の免疫もなさそうだな。顔立ちは悪くねえと思うんだけど地味だし、勉強勉強で青春を潰してそ~」
「まあ、オレらと真逆の人生歩んできたのは間違いねえな、ありゃ」

竜胆の言葉に笑いながら相槌を打ち、蘭は軽く肩を竦めた。同時にその真逆な人生を歩んできた女を手なづけるという竜胆との賭けを考えると頭が痛い。
そもそも何故そんな話になったのかと言えば、の堅物っぷりが原因だった。
子供の頃から女の子に間違われるくらい端正な顔立ちをしている蘭は、これまで女にあんな態度を取られたことがない。昔から有名な不良で、どれほど素行が悪かろうとも、蘭が目を合わせて微笑むだけで相手の女は簡単に落ちる。それは債務者相手でも同じだった。自分から金を搾り取る相手だというのに、最終的には蘭の言いなりになってしまうのだ。返済が滞った女の債務者を風俗へ沈めることは蘭にとって簡単な仕事だった。
今回の案件もそういう意味では楽だと思っていた。
元々の債務者である父親が行方をくらまし、娘に丸投げしたのを知った時、楽に病院も女医も手に入れることが出来ると思った。なのに――。

――この病院だけは渡せません!

頑なにそう言い張るは、蘭の言うことなど聞く様子もなく、どんなに優しい言葉で諭そうと、病院の権利だけは譲らなかった。そこで蘭が彼女を手のうちに置いておく手段として半分だけ彼女の意向を飲んだ形になったのだ。

「脅してもダメ、優しくしてもダメ。面倒な女だよ、ったく…」
「そこが面白いってのもあるけどね、オレ的には」
「…あ?何が面白いんだよ」
「兄貴に落ちない女ってだけで十分面白いだろ」
「…フン。見る目がねえだけじゃん、あのブス」

何となくイライラしてビールを煽っていると、不意に鶴蝶が「おい、蘭」と身を乗り出した。

「…何だよ」
「女の容姿のことをけなすのは男としてカッコ悪いからやめろ」
「……はいはい…(げんなり)」

真顔で説教してくる鶴蝶に萎えながら立ち上がると、蘭は早々に部屋を後にした。鶴蝶はケンカ屋と言われるほどケンカも強く、今の組織でもナンバー3を張っている割に、変なところが真面目で時々疲れることがある。

「ったく…アイツは昔から頭がかてーんだよ…」

ブツブツ言いながら事務所を出ると、目の前のビルを見上げた。隣にはの動物病院が入ったビルが建っている。本来なら院長である父親をハメて、この土地ごと奪う予定だった。それは東京卍會というチームが"日本最大の組織"になる第一歩でもある。それはもうあと少しのところまで来ていた。

「ま…闇医者は必要だからいーけど。どうせ返せねーんだから同じことか…」

今では真っ暗になった病院を見上げ、蘭が呟く。
力づくで病院の権利を奪おうと考えたこともあったが、今はそれで落ち着いている。実質、東卍のトップである黒川イザナから「闇医者にすりゃいいんじゃね」と言われたのも大きい。と言っても獣医なのだが、その辺はイザナの知ったことじゃないらしく「医者は医者だろ」と真顔で言われてしまった。
ただ、蘭は少しだけ心配だった。

(あの手の女は何をしでかすか分からねえし…オレの手ごまにしときてーんだけどな…)

反社の人間相手にビビってくれる人間なら扱いやすいが、のように意思も頭も硬い人間は後々厄介になってくるものだ。
竜胆との賭けはお遊びだが、蘭としては割と本気でを落としておきたかった。

(そろそろ理由つけて遠回しに近づくんじゃなく、デートにでも誘ってみるか…?)

と言って、自分に気のない女をどう誘えばいいのかが分からない。経験豊富な蘭でも、彼女のような女は初めてだった。

「ったく…何でオレがあんな女に悩まされなきゃなんねーんだよ…」

これが好みの女であれば、蘭もこの仕事を多少楽しめたのだが――
の地味な容姿を思い出し、蘭は深い溜息を吐いた。

リハビリで書き始めたちょっとしたお話です。蘭夢で書き始めたんですが、イザナとの絡みも加えて三角関係風味になるかも…笑?

※軸は特に決めてなくて適当に模造した流れとなっております。